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2009年8月 3日 (月)

生還

青空は見えないがたかぐもりで雨は降りそうにはない。只霧は相変わらず深い。
昨夜は蒸し暑くて、1時間づつ二度クーラーをかける。
扇風機だけではどうにもならない。

デオデオに行き,電気カミソリを一つ買う。Braun製である。
家内は下のスーパーで食糧を仕入れる。昼をいくらか過ぎたがそのまま帰宅。
本格的な蒸し暑さで参りそう。

水戸君からさざん会は9月9日に決まったと言って来る。
坂口君がいよいよ神輿をあげたらしい。
早速お礼のメールを送っておく。ガンの事は何も書いて来て居らぬ故、一応おさまっているのだろう。
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私の戦争/生還
 帰還船の駆逐艦は砲塔も何もない只の船だった。艦名は何か,聞く気にもならない。居室はそのままだから、入って行くのも、座るのも寝るのも、窮屈で簡単ではない。分散して指定された場所に落ち着いたが、誰がどこにいるのか、聞いても探しようはない。恐らく誰がどこに入ったか知るものはいないのではないか。
ごろっと横になるともう安堵して寝るだけである。
目覚めて甲板に出てみた時はもう東シナ海と思われる洋上だった。

翌日艦内放送で戦災地の地図が閲覧出来るから、心当たりのものは閲覧室に来いという。早速我が家はどうなっているかと心配していたので見に行く。

地図を借りてみると,大きく何カ所もやられて、その区域が表示されている。
岩国駅を中心に広範囲に爆撃されている。我が家もぎりぎりのところでやられているようだ。

これは帰っても住む所はないかもしれない。母や弟妹はどうなってるだろうか。その生死が一番心配だった。
やはり広東橋の住民が言ってた通りだったか。
がっくりして、纏まらぬ考えで眠られぬ数日だった。

6月5日やっと故国が見えて来た。鹿児島湾に静かに投錨した。
祖国日本の景色を甲板から食いいるように見つめた。鹿児島の街は焼け野が原のように遠目にも見えた。
戦火は国の隅々まで届いているらしかった。

翌6日上陸命令が出る。桟橋を抜けるや、始めて見る大柄な米兵に、上から抱きすくめられるようにして、白い粉を頭から全身に、頸から下着の中までホースで吹き付けられる。DDTという殺虫薬だった。

そういえば捕虜生活中我々の身体には絶えずしらみが同居していて、ひまさえあればシャツを脱いでしらみ潰しをやってたもんだ。
風呂に入る事はほとんどなく。水を浴びる事すら稀な2年間であった。
上陸手続きは連綿とつづき、とうとう夜になり,半壊の高島屋という元デパートの各階に分かれ,土間にござを敷いて雑魚寝ということになった。

鹿児島は全市くまなく破壊され焼けただれているようだった。
このビルもコンクリートの建物だけで,窓もしきりもなく、焼けたあとが歴然とわかった。
翌7日西鹿児島駅から軍用列車で、なんの歓声も起らず,寂しい旅立ちだった。
この大隊即ち独立自動車第31大隊は殆どが東京近辺出身者だったから、2日間の長旅になった。
熊本,福岡は夢うつつの中に通り過ぎる。始めて見る海底トンネル関門海峡には丁度夜明けにさしかかった。戦時中よくも作ったものである。

戦争の傷跡は至る所車窓から望まれ,厳しい生活を強いられている国民の姿がいやでも目に入って来た。心は重くなるばかりである。
故国の土を踏んだ時の華やいだ気持ちはすっかり失せ、うちひしがれて皆目をとじ,黙然と車窓を眺めるばかりであった。

郷里の岩国が近づき、立ち上がって皆に別れを告げ、車窓から見える筈の我が家の方角に目をやる。
兵たちが「隊長殿、お宅どこですか、どれですかと」とせき立てる。見えない。
やはり爆撃でやられたのだ。おお、あの松林が見える。あの前、駄目だ、何もない。

山裾の人家がちらほら見えるが、その前の方は廃墟のようだ。

これでいいんだ。皆大きな犠牲を払ってるんだから。私が帰れただけでもよしとしなければ、と自分に言い聞かせながらすべりこんだホームらしきところに下り立つ。
さよなら、さよなら、皆元気でやれよと声を振り絞って手を振り別れを叫び合う。
小林信繁が車窓から乗り出しすぎて,柱にぶっつかり,ブラーっと垂れ下がる,中から腕が何本か出て引き揚げる。ほっとする。

これがホームか、見渡せば駅舎もバラックで改札もない。ホームからそのまま外に出る。家もほとんどない。修復途中のバラックがちらほら見える。
大波を打ったような凸凹の大地を道なきままに,山に向かって我が家のあった方向にあるく。

途中道路作業をしていた女性が声をかけてくれる。「御帰りなさい。お母さんは元気ですよ。元の家の所に居られますから早く帰って御上げなさい。」と親切な声、だれだったかな。とっさには思い出せない。

取りあえず寄せ木で組み合わせたような、バラックを回り込んで前に出ると,母が鍬を手に歩いて近づきながら、「おお、帰って来たか」といったなり声がでない。
ともかくも生きて皆戦火をくぐり抜けたのだ。

参考に無事帰国で来た今回の我が大隊の兵員は大隊長以下548名(将校18、下士官97、兵432)と記録があり、満州から転戦した850名に初年兵30名を加え,中国軍に入隊した30名を引き、約36%の減耗率であった。
直接干戈を交える事の殆どなかったこの部隊にしてこうである。
戦争の悲惨さがしのばれる。

一応私の戦争は終わった。しかし”生きて行く”という新しい戦いがすぐその日から待ち構えていた。              (終)
(写真は岩国駅近辺の爆撃跡)Iwakuni

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