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2009年8月 1日 (土)

捕虜その3

目覚めると外は雨。やはりまだ梅雨は続くと見える。気温24度。
「雨天は上のポストへ」と張り紙しておいたので、新聞は上のポストに入れてある。
ポストを設置したのは随分前だが、張り紙をしないといつまでも入れてくれなかった。やっと効果があったわけだ。

9時過ぎには雨は止んだ。
家内はせいこう外科へ行く。
午後になると雲間を通す日光が眩しく暑い。
午後3時また空が怪しくなる。家内はまだ降るんだろうかと心配そう。

アルゼンチン蟻の跋扈はますます甚だしい。伝染病などまき散らしてくれると大変なんだが,その気配は無さそうだ。神経質になる方が損だ。共存共栄で行くしかないか。
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私の戦争/捕虜その3
世の中がどうなってるのかわからないまま新年を迎えたが、帰国の話は風の便りもない。
すき腹をかかえたまま、寝転んでの生活がいつまでも続く。一頃の演芸ブームも影をひそめる。
情報も何もない。時折本部の山崎少尉が私を訪ねて来るが。昔話をするだけで先の見通しは情報掛将校の彼にもわからない。
私の隣に寝転んで食べ物の話をしながら、朝まで過ごして帰って行くだけ。

緯度からいえば、奄美大島くらいの位置だから、雪も降らないし、夏服ぐらしでもそんなに寒い訳ではないが、徐々に栄養失調になって行って,身体にカロリーの蓄えはなくなりつつあった。

3月下旬突如帰国どころか、出動命令が下った。咸寧南方50キロの道路、河川の改修命令が下り、各隊から選抜の集成1ヶ中隊を率いて、私に行けというのである。
今まで一番楽をしていたと思われたのだろうな。部隊長は桂林を立ち去る前に生田目大尉から山下大尉に代わってはいたが。
二日行程の一日目の晩たまたま宿営したところに生田目前部隊長の部隊が駐在していた。
生田目さんは大喜びで私を歓待してくれた。楽しく嬉しい限りであった。

私には道路工事や河川改修などの経験も知識も皆無である。指揮指導のしようがなく、各隊任せで適当にやれということだった。
毎日小川で釣り糸をたれて,時間を過ごすだけだった。
子供らがやって来て、いろいろ談笑するのが楽しみになった。海の話は彼らにとって興味ある話題だったらしい。熱心に話しあって時を忘れる事もあった.

4月中旬部隊本部から、軍の帰還命令が出たので、すぐ引き揚げるようにとの連絡が入り、やっときたかと、約80キロの道を昼夜兼行で歩き続けて、一日で賀勝橋の収容所に帰って来た。

出発の前日中国軍の身体意見が実施された。
中国のものと思われるものや、写真などは一切没収されるし,場合によっては逮捕等の原因になるかもしれないので、焼却など処分するようにとのあらかじめの達しがあった。

私は満州以来,愛用のカメラや撮り続けてきた写真ネガを数百枚保存していたが、犯罪につながるようなものはないと自信を持ちながらも、部隊の帰還遅延の原因になることを恐れて、無念の焼却をせざるをえなかった。

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2009年8月 2日 (日)

捕虜その4

相変わらず灰色の空だが、朝から日射しが強いから、雨にはなりそうにはない。
気温はいつも通り24度。ちょっと涼しいかな。

天気が良いからどんどん気温は上昇して10時半には35度を超える。
ぐったりして眠られもしない。
蝉の鳴き声がいやに暑苦しく聞こえる。

デオデオにカミソリを買いに行こうと思ったのだが,家内に止められて今日は止めとく。混む日などは老人なんか相手にしてくれないもんな。

昨夜は蟻の群れに枕元を襲われ驚く。2時間ばかり大騒ぎして眠るに眠れなかった。
共存共栄といったけどやはり楽じゃないな。

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私の戦争/捕虜その4
 私の隊にも終戦間際補充の新兵さんが、5名入隊して来た。
しかし鴨志田武雄と伊藤武一という兵隊は部隊追求途中で途中の兵站病院に入院病死してしまい。顔を見る事も出来なかった。更に西谷益男と江端時雄は帰還途中の全県で病床にあるのを見舞ったが、すでに危篤状態で言葉を交わす事もなかった。風土病に冒されているらしかった。脚部は腐って臭い膿を出していた。

一人松島健四郎のみ元気で着隊し、すぐ先輩隊員にとけ込んだ。そしてそのまま我々と一緒に帰国の途に着いた。

大隊は先頭が4月19日賀勝橋を出発,逐次武昌に向かって行軍を開始した。我が隊は29日に武昌に向かった。
5月6日当隊はやっと小舟10隻に分乗、揚子江を流れ下ることとなる。
大隊は4月29日には逐次河を下り始めていたので、5月11日には南京に到着した。当隊は5月22日南京に到着、上陸するやテントに入る間もなく私は喀血病臥する事になる。
南京から無害貨車で上海に移送される.途中で何度も停車し,押し寄せる住民のブーイングを聞き、略奪をされ、汽車輸送の対価物資の要求をされつつ、やっと懇願しながら上海に辿り着く。

5月24日到着するや収容所に監禁され、外部とは一切遮断される。
もちろん住民とのトラブルを避けるためと分かっているから,忍ぶ以外にない。

6月1日引き出されるまで、長い長い毎日だった。
帰還に要した1ヶ月、まったく忍耐の日々だった。中国兵の略奪にも笑って堪えた。目的はただ故国に帰れればいいそれだった。
南京でも厳重な取り調べがあった。聞けば南京虐殺があったというのである。
身に覚えもないし,寝耳に水の話だった。

埠頭まで厳重な警戒のまま行列し,日本の駆逐艦に乗船させられる。
やっと愁眉を開いた瞬間だった。

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2009年8月 3日 (月)

生還

青空は見えないがたかぐもりで雨は降りそうにはない。只霧は相変わらず深い。
昨夜は蒸し暑くて、1時間づつ二度クーラーをかける。
扇風機だけではどうにもならない。

デオデオに行き,電気カミソリを一つ買う。Braun製である。
家内は下のスーパーで食糧を仕入れる。昼をいくらか過ぎたがそのまま帰宅。
本格的な蒸し暑さで参りそう。

水戸君からさざん会は9月9日に決まったと言って来る。
坂口君がいよいよ神輿をあげたらしい。
早速お礼のメールを送っておく。ガンの事は何も書いて来て居らぬ故、一応おさまっているのだろう。
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私の戦争/生還
 帰還船の駆逐艦は砲塔も何もない只の船だった。艦名は何か,聞く気にもならない。居室はそのままだから、入って行くのも、座るのも寝るのも、窮屈で簡単ではない。分散して指定された場所に落ち着いたが、誰がどこにいるのか、聞いても探しようはない。恐らく誰がどこに入ったか知るものはいないのではないか。
ごろっと横になるともう安堵して寝るだけである。
目覚めて甲板に出てみた時はもう東シナ海と思われる洋上だった。

翌日艦内放送で戦災地の地図が閲覧出来るから、心当たりのものは閲覧室に来いという。早速我が家はどうなっているかと心配していたので見に行く。

地図を借りてみると,大きく何カ所もやられて、その区域が表示されている。
岩国駅を中心に広範囲に爆撃されている。我が家もぎりぎりのところでやられているようだ。

これは帰っても住む所はないかもしれない。母や弟妹はどうなってるだろうか。その生死が一番心配だった。
やはり広東橋の住民が言ってた通りだったか。
がっくりして、纏まらぬ考えで眠られぬ数日だった。

6月5日やっと故国が見えて来た。鹿児島湾に静かに投錨した。
祖国日本の景色を甲板から食いいるように見つめた。鹿児島の街は焼け野が原のように遠目にも見えた。
戦火は国の隅々まで届いているらしかった。

翌6日上陸命令が出る。桟橋を抜けるや、始めて見る大柄な米兵に、上から抱きすくめられるようにして、白い粉を頭から全身に、頸から下着の中までホースで吹き付けられる。DDTという殺虫薬だった。

そういえば捕虜生活中我々の身体には絶えずしらみが同居していて、ひまさえあればシャツを脱いでしらみ潰しをやってたもんだ。
風呂に入る事はほとんどなく。水を浴びる事すら稀な2年間であった。
上陸手続きは連綿とつづき、とうとう夜になり,半壊の高島屋という元デパートの各階に分かれ,土間にござを敷いて雑魚寝ということになった。

鹿児島は全市くまなく破壊され焼けただれているようだった。
このビルもコンクリートの建物だけで,窓もしきりもなく、焼けたあとが歴然とわかった。
翌7日西鹿児島駅から軍用列車で、なんの歓声も起らず,寂しい旅立ちだった。
この大隊即ち独立自動車第31大隊は殆どが東京近辺出身者だったから、2日間の長旅になった。
熊本,福岡は夢うつつの中に通り過ぎる。始めて見る海底トンネル関門海峡には丁度夜明けにさしかかった。戦時中よくも作ったものである。

戦争の傷跡は至る所車窓から望まれ,厳しい生活を強いられている国民の姿がいやでも目に入って来た。心は重くなるばかりである。
故国の土を踏んだ時の華やいだ気持ちはすっかり失せ、うちひしがれて皆目をとじ,黙然と車窓を眺めるばかりであった。

郷里の岩国が近づき、立ち上がって皆に別れを告げ、車窓から見える筈の我が家の方角に目をやる。
兵たちが「隊長殿、お宅どこですか、どれですかと」とせき立てる。見えない。
やはり爆撃でやられたのだ。おお、あの松林が見える。あの前、駄目だ、何もない。

山裾の人家がちらほら見えるが、その前の方は廃墟のようだ。

これでいいんだ。皆大きな犠牲を払ってるんだから。私が帰れただけでもよしとしなければ、と自分に言い聞かせながらすべりこんだホームらしきところに下り立つ。
さよなら、さよなら、皆元気でやれよと声を振り絞って手を振り別れを叫び合う。
小林信繁が車窓から乗り出しすぎて,柱にぶっつかり,ブラーっと垂れ下がる,中から腕が何本か出て引き揚げる。ほっとする。

これがホームか、見渡せば駅舎もバラックで改札もない。ホームからそのまま外に出る。家もほとんどない。修復途中のバラックがちらほら見える。
大波を打ったような凸凹の大地を道なきままに,山に向かって我が家のあった方向にあるく。

途中道路作業をしていた女性が声をかけてくれる。「御帰りなさい。お母さんは元気ですよ。元の家の所に居られますから早く帰って御上げなさい。」と親切な声、だれだったかな。とっさには思い出せない。

取りあえず寄せ木で組み合わせたような、バラックを回り込んで前に出ると,母が鍬を手に歩いて近づきながら、「おお、帰って来たか」といったなり声がでない。
ともかくも生きて皆戦火をくぐり抜けたのだ。

参考に無事帰国で来た今回の我が大隊の兵員は大隊長以下548名(将校18、下士官97、兵432)と記録があり、満州から転戦した850名に初年兵30名を加え,中国軍に入隊した30名を引き、約36%の減耗率であった。
直接干戈を交える事の殆どなかったこの部隊にしてこうである。
戦争の悲惨さがしのばれる。

一応私の戦争は終わった。しかし”生きて行く”という新しい戦いがすぐその日から待ち構えていた。              (終)
(写真は岩国駅近辺の爆撃跡)Iwakuni

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2009年8月 4日 (火)

私の人生に占める比重

気温25度、湿度75%、蒸し暑い。
”私の戦争”は昨日で一応完結させた。
満80歳になった時、書き始めてniftyの戦争フォーラムだったかに「私の軍隊生活」として投稿したのが始めで、他のホームページなどに転載されたのをきっかけに何度か小訂正をして、何年間か放っておいたのだが、この度いろいろ反響があったりしたので再度角度を少し変えて書き直してみた。

日時、出来事など本質的な事はほとんど同じだが、それでも他の兵隊が記録したメモなどとすりあわせて若干の修正をしたものもある。
そして戦史に記録されていた,緒戦の平江からの反転,新経路で進軍した事など、全然気づかずに居た。来る日も来る日も、闇夜の進軍だから、これも珍しくはないことだろう。僅か百キロ強の道程(今なら半日行程)を2ヶ月もかかって自動車隊が進軍したのだからさもありなんと、今更気づかざるを得ない。
もちろん新しく書き加えたものも数多くある。

あれからもう10年近くなったかと,時の早さに感無量である。
戦友もばたばた死んだ。アドバイスしてくれたもの、喜んでくれたもの十数名に上る。
今、加藤鏡児君、山崎初三郎君の2戦友を残すのみである。この二人は「私の軍隊生活」はプリントを読んでもらったけど,今回の”私の戦争”はパソコンが苦手の彼らは読む手段を知らない。

戦争という異常事態とはいえ、わたしの人生90年の中の5年間である。
戦争の期間は他の生活の流れと比較してあまりにも短い。が比重となるとはるかに重い。人生を一変せしめたといって過言ではない。
こうして記録した事が其の意味で意義深い事は誰にもわかってもらえるだろう。

人の世はうたかたの如しと言うが、なんとも恥多く心定まらぬ我が青春だったのだが、
この後の人生のありようはもう何とも表現の使用のないほど未熟で哀れなものだった。

午後3時半とうとう気温35度となり、たまらんのでふんどし1枚になってパソコンのキーを叩く。これで扇風機をかければ何とか持つ。
アルゼンチン蟻があいかわらずちくちく噛むが、裸なら簡単につぶせる。根は小さな弱い動物なのだから。

私のブログの検索による接続数のベストテンが,7月末現在で下記の通り発表された。
1番の斐徳は意外だったが他は順当な所だろう。
1位:斐徳
2位:森脇瑤子
3位:戦争の思い出
4位:満業
5位:asusとは
6位:軍靴 靴紐 結び方
7位:ソ連参戦 韓国
8位:乾癬にスルメは悪いか
9位:見越しの塔久木綾子
10位:マツダ球場

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2009年8月 5日 (水)

悲しい思い出

昨日の夕方やっと梅雨明け宣言があったらしい。今頃梅雨明けなど随分めずらしいことだという。
今度はかんかん照りに悩まされそうだ。梅雨の間は正直な所老人には恵みの毎日だった。

暑い日はなんと言っても,水浴びが最高である。子供のように海や河に飛び込む訳にはいかないから、家の中のシャワーという事になる。上がるとすぐ熱気が襲って来るからほん一時の快楽だけど、もやもやを中断することは後の動作にやはり役に立つ。

部屋の中は今34度だが、すぐ前のベランダは丁度50度にっている。
外に出たらやけどをしてしまうくらい。
昼はクーラーはかけない主義だから,今はふんどしだけでパソコンいじり。
眠くはなるが頭はまだまだ働いてくれてる。
この夏はもたんかなと思っていたのだが,原爆記念日そして盆と一番戦争を思い出す日々が目の前に来た。今年も思い出の深い日々をなんとか通り抜けられるらしい。

軍隊に入る直前の元日の朝宮島の弥山で一緒に初日の出を拝み、兵隊から私が帰った時には原爆で最後を遂げていたおっちゃんが、いまだに眼前をちらちらする。被爆者名簿にまだ身元不詳となってるとは寂しい。
身元は分かっているので,手紙を出したり,電話をかけたりして、届けるようにとお節介をやいたのだが、無視された。人情紙風船。全然知らない世代ではやっぱり無理かなあ。
あの世があれば一番に訪ねて行くのだが。

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2009年8月 6日 (木)

原爆65回目のこの日

沖縄付近に来てる台風8号の影響でこの付近まで大雨に見舞われそうである。
凄く範囲が広いらしい。

原爆の日、8時15分市のサイレンが鳴り響く。黙祷。
あの年以来原爆を使った国はない。しかし保有国は何倍にもなっている。
もう使うにも使えないということである。
その点では北朝鮮もイランも使わせないという抑止力にはなるかもしれない。内心どこにも侵略させないと思ってるのではないか。
韓国も日本も持つだけなら作ってもいいのでは。相手の核に脅えているだけでは情けない。
其のとき始めて非核の時代が到来する筈だ。

1985年の今日の日記に継ぎの記載がある。____
今日貰った見舞い状の中で大井駒二君が材料厰仲間の諏訪郁文、小林美好、小林博、内山
三郎、浅川孝らと一泊旅行に出かけて、満洲、桂林の話に花を咲かせている。今年になっ
て三度目とのこと。少しも飽きずに楽しいから不思議ですとはこちらこそ不思議なくらい。
一度仲間に入れて欲しい気がする。____
戦争は辛い体験だったが、悪い事ばかりではない。明日への結束になってることが、まざまざと浮かび上がってくる。
この日から24年、戦争終結から64年上記の仲間たちはもう皆あの世に行ってしまった。
歳月人を待たず、私の鬼籍に入る日ももうすぐそこ。

雲は多いが青空も覗くまあまあの天気で終わる。風がかなりあるので夕方は涼しい。

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2009年8月 7日 (金)

東部ニューギニア戦記再編集

朝6時20分、気温28度、湿度30%。
昨夜最近録画した米画で「チャンス」というのを見た。最後に湖水に入って行くのだが沈まない。
富豪に使える庭師の物語だが、たっぷり風刺を効かして,時の大統領を悩ませたりする。
分かったようで分からない。不思議な映画だ。
ほんとの所はアメリカ人でないと理解出来ないかもしれない。

今田君の編集した故吉田武陸軍中尉のニューギニア東部戦記をweb用に再編することにする。
活字で100ページはあるので大変だな。
「語り継ぐ戦争の記憶」に投稿したいのだが、私の寿命が間に合うかな。

千代が5時頃来るというので,早めにシャワーを浴びて迎えの準備をする。なにしろ外は猛烈な暑さである。ものを一枚でも着る気になれない。
直前まで裸でいるつもりである。
結構落ち着かないもんだな。
孫は来ないらしいから夫婦とも少しがっかりだが。もう二十歳前後だから昔のような可愛さはないだろうが、やっぱりたまにはあいたい。
こちらが出向く気力体力ともにもうないだけに。

予定通りやって来る。皆元気にやってるようだ。ひとまず安心。

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2009年8月 9日 (日)

お盆の行事どうする

昨夜千代が同窓会から帰って来て、雨が降っているよと起こされる。
部屋のカーペットを干したままにしておいて,濡らしてしまう。長期予報では曇か晴みたいにいってたのにとぶつぶついうが間に合わない。

寝られなくなったのでビデオを2時間ばかり見る。
おかげで今朝の目覚めは7時半近い。雨は依然としてしとしとやっている。

千代一人居るだけでひさしぶりに我が家は賑やかである。

12月9日のオーチャードホールでのオペラ「トスカ」の切符を買ったから、是非出て来るようにと招待を受ける。
レニングラード歌劇場の出張公演らしいが、指揮者はフェラネッツといって私は知らない。
ともあれ「トスカ」は好きなオペラだ.是非みたいと受諾の意思表示をしておく。
ただ問題は東京までの旅行をどうするかだが、あまり自信がない。
行けなくとも孫娘が二人いる、チケットを損する事もあるまい。

午前11時雨は止んでいる。気温は冷やされたか若干涼しい。
出掛ける用事もないので,寝たり起きたり、終日ごろごろする。
相変わらず蟻の攻撃が凄まじい。考えてみると今は彼らのシーズンだから仕方がない。身体に取り付く奴をつまむ以外に方法はない。
小さいから一つまみで一応片はつく。

テレビを見ると全国帰省移動で高速度はすさまじいな。千円効果が効きすぎた感じ。
迷惑する人も多いだろうな。
こんなの選挙の票につながるだろうか。ばかばかしい。

墓参り、墓掃除どうしよう。千代がまだいるそうだからこれを使う手もあるな。

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2009年8月10日 (月)

今度は雨台風

今朝6時気温27度だから、また熱帯夜だった。寝苦しさに変わりはない。
黒雲が覆っているから、天候はくずれそうだ。台風9号が近づいているそうだから、そのせいもあるだろう。こちらに向かっては居ないらしいが。

千代ら姉妹が打ち合わせてアルパークで逢うというので,一緒に車で出掛ける。
久しぶりに酔心で食事をする。話しても話しても話し足りないらしく、喫茶に入り尚続く。
女の姉妹はそれにしてもよくしゃべるなあ。男の兄弟ならああは行かない。しゃべりすぎると喧嘩になる。
仲がいいのはいいことだ。じっくり黙って聞き役に終始したが、結構楽しかった。

北棟が出来て映画は便利がよくなった。今日は子供向きが多く見るのはやめる。
駐車時間が4時間過ぎると有料になるので、こちらは帰ることにする。千代は残ってまだ話すという。お先に帰る。3時間半で無料で済んだ。

甲子園が雨で又ノーゲーム。兵庫県は大雨で12人も死者が出たりする。野球どころではない。
台風9号は紀伊半島に接近している。明日は東海から関東へということである。
長梅雨のあとの雨台風だから困っちゃうな。

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2009年8月11日 (火)

親子水入らず

朝6時ふっと目覚める。幸福な余韻が身体を包む。いい夢を見たからではない。
昨日のアルパークの親子の会食を思い出す。しまった,写真を撮っておくのを忘れた。
考えてみると親子水入らずの会合の機会は今は滅多に訪れる事はない。将来にももう無いかもしれない。
惜しい事をした。全然気づかなかった。
長女がたまたま勤め先が休み,千代が東京から一人帰郷していて、ほんとに親子4人の水入らずとはこの事であった。子らが小さい時以外にはなかった。母や兄弟やその他大勢での写真は沢山あるが、何十年も4人だけというのは無かった筈だ。
惜しかった,タイミングを失った。

3時間も飽きる程水入らずで語り過ごしたのに,記念写真を取り損ねたのは返す返すも残念だった。

9時過ぎになると、夏の日に代わる。かんかん照りの凄い暑さ。
台風9号はもう東の方に去った。

千代が私の部屋を隅から隅までせっせと大掃除してくれる。今日から気持ちよく眠れそうだ。

昼広島駅まで行き、田丸の仏前供物と千代土産を売店で買い、ついでに食事も済ませて田丸に行く。女たちの長話に疲れて眠ってしまう。
4時になったので起こされて帰路に着く。

ときどき夕立が来たが概ね晴れる。
おつきあいでもひどく疲れる。やはり老体は駄目だな。

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2009年8月12日 (水)

墓の掃除

朝日が早くから輝いている。いい天気になるかもしれないが、墓の掃除にはむかないかな。
便所に屈むと無意識にラジオのスイッチを入れる。途端にシューベルトのピアノ・ソナタのあの甘美な主題が聞こえ始める。ピアノは誰かなと一瞬思ったが誰でもよかった。陶然として排便の事を忘れる。15分しても排便しない。便秘かな。

今朝も霧が濃くて島影は一つも見えない。

午前中銀行とスーパーに出掛ける。千代も自分の用事で廣島に行く。
雨が時々思わぬ時に降り始めたりして惑わされる。

ニューギニア戦記のコピーに精出す。指の関節が病気で曲がってしまい使い辛いので、殆ど暗打は出来ない。いちいち真ん中の3本の指を使うのだから,キーを見ながら叩く。本を見たりこちらを見たり忙しい。まだ8ページ、全部では142ページだから、何時終わるのか見当が立たない。

運転免許更新に先駆けての高齢者講習等の案内が県の公安委員会から来る。今までの実習以外に認知症の検査がある。早速近くの自動車学校に予約を申し込む。免許取得期間は12月から2月までだが、寒いときはいやだからといって9月29日にしてもらう。受かればいいがなあ。
忘れっぽくなったから検査は困るなあというと、学校の担当者は難しい事はないですよ、とこともなげに言う。

期日の一週間前にはがきを呉れるというから、そちらは大丈夫だろう。

12月にはオペラを見に東京に行かねばならないし,死に際に忙しいなあ。
近所でも免許証を返納した人は多いらしい。しかし同い年の藤井さんは更新すると言って居られた。負けてはおられない。

墓の掃除は誰も入っていない墓だし、盆明けでもいいと家内がおっしゃる。まあ任せるとするか。

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2009年8月15日 (土)

戦争はいやと敗戦はいや

夜半からの雨、昨夜は無事に宮島の花火大会が盛大に終了したようだ。家からは前の小山が邪魔して,花火の頂上しか見えず,水中花火を音だけが耳に入って来る。
後で聞けば35万人の見物客だったとか。

4、5年前わざわざ連絡船に往復乗船してじっくり見たことがあるが、もうその元気はなくなった。
年々盛大になるが、果たして喜ぶべき事かどうか。

岩国民間飛行場はいよいよ施設工事に着手するらしいが、何か盛り上がりに欠けるようだ。
私自身利用の恩恵に浴する機会はゼロに等しいが、それでも将来のために嬉しくて仕方が無い。
軍用であれ、民間用であれ、飛行場に変わりはない。軍用は戦時になれば稼働するが,平時は民間と同じである。市民に及ぼす経済活力は一緒である。すぐ近くの大連でも先般見た所では戦闘機が飛行場の隅に数十機ずらっと並んでいた。
戦争はやらなければいい、いやもう絶対にやるなである。やったら一飛行場の問題ではない。
その前提で進むべきである。

わが廿日市市でも岩国基地に猛反対しているが、私には理由が分からない。騒音がうるさいという。四六時中やかましい自動車騒音はうるさくないのか。飛行機が宮島に落ちて国宝がなくなるという。確率0%に近い。爆音で傷む事は無い。こんなこと心配してたら生きて居れない。
広島空港まで行くよりは、どれだけ近いか。時間と燃費を計算してみたらいい。

64年前の今日私は終戦を知らず,広西省と湖南省とにまたがる大南嶺山系の密林の中で、昼は眠り,夜はのろのろと自動車を走らす、反転作戦の最中だった。確か全県というところだったろう。
敵機の来襲が急になくなったことは、次の日、その次の日には気づいた。だからといって昼間は走れなかった。なけなしのガソリンを使うよりは、じっとしている方がいいということでもあった。
撤退時は当然補給活動もほとんど無かった。

前日の昭和20年8月14日には、故郷の我が家が敵の猛爆撃に壊滅した。もちろん知る由もなかったが。戦争被害者であることは、国民の皆さんと変わる事は無い。

いつかもこのブログで再三書いたが、開戦の日昭和16年12月8日の生々しい記憶とこの終戦の日の模糊たる記憶との対比が我ながらおかしい。

敗戦後の約一年、飢えと屈辱と後悔に打ちひしがれ、初めて戦争は嫌だと思い知った。それでもまだ”戦争は嫌”ではなくて”敗戦は嫌”だが本音だった。

しかし曲がりなりにも戦争無く六十有余年を過ぎてみると、やはり平和の方が戦争よりは良いと本音で自覚出来た。時間がかかるものである。

しかし敗戦の痛みを知らないアメリカ人は戦争を嫌だと思っていないのではないかと思ったりする。戦争を準備している国は他にも沢山いる。これでは戦争はなくならない。
戦争は嫌でも巻き込まれないという保証はない。
いやいやと言いながら戦争をさせられることになる。これでは前のときと同じ事だ。

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2009年8月17日 (月)

遅まきの墓参り

朝霧深し。気温26度。
6時半起きてパソコンに向う。ネットに入りニュースなど一渡り見る。
受信メールの中に
r-miyoshi@triton.ocn.ne.jp  というアドレスのメールが一通入っている。
三好という文字があるし、去年の7月に数カ所私のブログに載せられているということで、戦友の横浜の三好信雄氏の関連だなとすぐ気づく。調べてみるとやはり3回記事を載せている。思った通りである。
去年の5月に亡くなられているとのこと、もう少し聞きたい事があったのではと残念である。
昨年の年賀状では広西大学教授趙冰夫妻のその後を心配して居られたが,当事者の私にもまるで分からない。彼の友人周仏海(南京政府のno.3)そのものが死刑になったのだから、辿り着く術はなかったのではと思うだけである。
戦争はあくまでも非情である。

午前十時家を出て,家内と二人で遅まきの墓参に岩国に出掛ける。
車が少なくて助かる。同じ区間を、行きは500円,帰りは350円だったが、どういうことだろう。普段は750円とられるのだが。

家内が日傘を墓に置き忘れて,弟がとりに行ってくれる。久しぶりだから話は長くなるし,昼を過ぎて食事は出してもらう等,いとまを告げた時には午後3時、もうひとりの弟のうちでは忙しく話を端折って、それでも帰宅したのはかれこれ5時。とうとう一日つぶしてしまった。
今生の別れになるかもしれないから、まあいいか。
しかし今日は暑かったなあ。駐車中に車が焼けて,危うくハンドルで手を火傷する所だった。

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2009年8月18日 (火)

権利は重く、義務は軽く、それでいいのか

朝早く来信メールを開けてみると、夜中の2時過ぎに発信せられた、三好信雄氏の息子さん力雄さんの長いメールが入っていた。歴史の先生をしておられるとのことで、取り組み方が違うようだ。
あの親にしてこの子ありだ。
長生きしてるといろいろ起きるなあ。

昨日はミチ子さんがいろいろ付近の私も知っている家のその後のありようを一つ一つしゃべっていたが、孫や曾孫の世代になるとそれほどまでに変化するのかと驚く。絶家するうちが又数多いのにも驚く。民主化、少子化は古い日本的体質を画期的に変えてしまったな。後35年一世紀経ったらまるで違う国になることだろう。

韓国ドラマ好きな家内はことあるごとに韓国の家族制度の方がよほど古き良き日本と似ていると語っているが、日本は変わりすぎたのであろう。いい事か、悪い事か私には分からない。

家族制度の崩壊は現実のものだが、次はアメリカ、ブラジルのごとく多民族社会へと進むのではと危惧する。現在でも隣は何をするひとぞで、隣保の精神は希薄である。
言語、習慣の相違から来る差別は郷土社会とはまるで相容れない。
次の孫、曾孫の時代は考えるだけでも恐ろしい。
昨今の原爆症患者訴訟は民族、国籍、居住地の差を否定する事を是とした。

義務は先ず置き、権利は何ものにも勝る社会に向きつつある。
そのうち義務はなくなるかもしれない。
国民は楽な方を好む。政治的にはそちらに1票投ずるだろう。
権利の摩擦は当然争いを生む。平和は言葉だけになりはしないか。それが恐ろしい。

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2009年8月20日 (木)

世の中何事も思うようにはならない

昨夜は眠気が感ぜられず、9時から12時まで藤沢の小説を読み返す。筋などすっかり忘れていて新しく読む心地すらする。

12時からしばらく音楽を聞きながら眠気を促す。
午前1時ごろやっと眠りに落ちる。

今朝は7時丁度目覚める。いつもより疲れを感ずる。まぶたも開け難い。
朝8時もう熱気ムンムン。ベランダの温度は29度となっている、

新型インフルが本格流行と新聞の一面、死者国内3人目と大きな報道。あまり苦しくなければ罹って死んでもいいなとふと思ったりする。

家内は民主が優勢だとやきもきしているが、私は順慶の洞が峠を決め込んでいる。しかし順慶とは違って強い方には味方しない。

カープは弱いなあ。中日に13連敗とか。いい鴨に出会ったドラゴンだが、目の前の敵巨人にはなかなか追いつけない。

J1はあれだけいい選手を揃えた浦和がJ2降格間際の柏に4-1と惨敗、夏バテかな。

甲子園ではよもやのPLが負けた。真夏の異変しきりという所だ。

午後になってから、盆間休んでいた「ニューギニア戦記」の複写を再開する。根気がいるぞー。

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2009年8月21日 (金)

深夜の音楽

午前2時ふと目覚める。深夜放送がトロイメライをやっている。日本語に訳すと小さな夢ということだそうだ。
乙女の祈り、ラ・カンパネラ、ショパンのノクターンまで1時間じっくり聞く。
中でもモーツァルトのピアノ協奏曲第21番の第2楽章を内田光子の演奏で聞かされる。静かなしじまに響き渡るゆっくりした美しいメロディ。
これをテーマ曲に作ったスエーデンのヴィデルベルイ監督の映画「短くも美しく燃え」のビデオを探し出して見る。
映画には別にこの歳では感動は無い。しかし内田光子の演奏はこの時間にふさわしく特によかった。
映画を見終わったら丁度5時。もう寝れないな。

5時半現在気温27度。今日も暑くなりそう。

「短くも美しく燃え」は陸軍中尉とサーカスの綱渡り女性の悲恋物語だが、昔東満州にいたとき兵隊の逃亡騒ぎがあった、林口から虎林まで約250キロの間を、自動車と汽車を乗り継いで探し歩いた事があった。間もなく日を置かず捕まったが、この映画の主人公のごとき悲惨な末路ではなかったと聞いている。たかだか重営倉何日かであった。
私も初年兵の頃制裁に堪えきれず、逃げたくなって悩んだことがあった。しかし逃げた所でオオカミの餌になるだけで、この大荒野と湿地を抜けきる事は無理だと涙を呑んだ。逃亡者はソ連に憧れて国境に向うものが多かったようだが、北樺太のようにはいかない。ウスリー河や大湿地帯が遮っていた。

映画の主人公は食糧が尽き、野草を拾い食う始末で、終に死を選ぶのだが、風土とテーマ音楽の美しさが悲劇を救っている。
只感情の赴くまま、余りにも無謀な逃避行は救いようが無い。


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2009年8月23日 (日)

日本文理頑張れ

朝気温22度と涼しい。もう秋も近いなという感じ。
昨夜はやっと寝苦しさから解放された。サンフレチェが宿敵レッヅに2-1と勝ってくれたのが気持ちを楽にしてくれたせいもあるかも。

相変わらずの曇り空で、日射しがないだけに涼しい。家内が食堂の敷物を上げて洗濯するというから手伝う。
息切れして苦しい。つくづくもう駄目だなと自覚する。

「ニューギニア戦記」を複写するのに忙しくて,ブログなんか書く暇がなくなった。本を一冊写し取るという事はやはり難儀なことだなと思い知る。自分だけのために保存するのならスキャンすれば済むのだが、校正して「戦争の記憶」に登録するとなると、やはり一旦複写する以外に無い。今の状態では今年いっぱいの完成は無理だろう。ほんとに寿命がもつかどうか。

体力が目に見えて落ちた。食わないから駄目だと家内は言うが、食道に詰まって食事が入らないのだから仕方が無い。
大好きだったおかきももう食えない。ボリュームがあり過ぎる。

蟻の噛まれるせいか、乾癬の悪化のせいか、今日も身体が異常に痒い。

全国高校野球選手権大会は準決勝を終って、中京と新潟の日本文理高校との決勝ということになった。中京はno.1伝統校だから、予想はしてたが、番狂わせに逢う事無く決勝に進出した。日本文理は全然思いもしなかった。結構強い学校を連破して勝ち上がったのだから明日も好試合を期待したい。
最近はサッカーといい、野球といい新潟の名をよく聞くようになった。伝統校はいないが、スポーツに力を入れる県民の志をしっかり実現して欲しい。私はこうした下から盛り上がる県民性が好きだ。
明日は初めての大旆を遠慮なく持ち帰って欲しい。

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2009年8月25日 (火)

秋風

気温20度、さわやかな朝である。白雲のなびく合間に青空が色濃く顔を出す。
すっかり秋の気配といっていい。

珍しく青空いっぱいの快晴。今日は降るまいと大喜びで布団類をベランダに干す。
素っ裸になって、痒い所に薬を塗り直す。

昨日は中京がやはり勝った。しかしほん紙一重といってよかった。日本文理の最後の気迫の凄さ、最後のサード・ライナーもほん少し外れて飛んでいたらどうなったか分からなかった。
10-9いずれにしろ稀に見る大接戦であった。
日本文理の健闘に惜しみない拍手を贈るものである。

今日の午後、近くの家具屋ファインズに行って座椅子の良いのを買って帰る。今あるのは安物でどうも長居に堪えられないものだからちょっと贅沢をする。

天気は昨日も今日も終日良かったのだが、風もあり湿気も少なく気持ちのよい一日だった。
昔から盆を過ぎれば暑さも治まると言ったものだが、少し遅かったがその通りになった。
さらっとした空気が一番良い。蒸し暑くなければ暑さも響かない。

「ニューギニア戦記」の複写に終日取り組む。ようやく軌道に乗ったかな。

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2009年8月26日 (水)

四国の山が見たい

昨日の朝に続いて気温20度とさわやかな朝だ。
昨夜は9時前にはベッドインしたから10時間以上寝床にいたわけである。

本もあまり読まなかった。かけっぱなしのラジオが夜中の1時過ぎ落後を2題やってたので、ふと目覚めて面白くて全部聞く。
最初の「たがや」は古典では旗本の頸が飛んでタガヤーとなるのだそうだが、平和の時代だからタガが弾いて陣笠を飛ばした後、侍どもを片付けて群衆の胴上げに逢いタガヤーとなるとという新作落語である。「青菜」は植木屋が旦那の真似をしてしくじるといういつも通りだが、どちらも若々しくて面白かった。眠気は完全に取れてしまったのだが2時のニュースまでには又寝てしまった。

6時目覚めて外を眺めると青天井にはなってるが、沖合は矢張り霞んで島影は薄い。
とても四国まで遠望するという訳にはいかない。
昔小さい頃近くの山に登ると、雲の上に四国の雪を頂いた峰々が時に見えたりしたものだが、今はもう夢にも望めない。

私が生まれた年に国勢調査が始まったと聞いた事があるが、その時は人口が5千万ちょっということだった。朝鮮、台湾も入っているから、日本人は4千万人というところだったのだろう。今は1億人を超えている。増えたものである。
出生率が少ないといっても人口は増え続けているのだからまだまだ大丈夫だろう。

しかし吐く息だけでも倍増したのだから空気が霞むのは無理ないなと思わざるを得ない。
未来永劫四国の山が見える事はないだろうな。地図を見ると100kmしかないのだが。

そういえば、世田谷の陸軍自動車学校に居た昭和16年には毎朝130キロ向こうの富士山がはっきり見えてたものだった。こちらは今でも時折見えるらしいが。
湿気の薄い高い山に登ればまだ見えるかもしれないが、そんなのが無いしなあ。
こんど冬の天気のいい日に宮島の弥山に登って眺めるとしようか。幸運に恵まれればの話だが、ただ老体がそれを許すかどうか。

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2009年8月27日 (木)

あわれ、ダンピール海峡

灰色の空、気温22度。やや湿度が高いかな47%。

大分先の事だなと思っていた衆議院選挙がすぐ目の前に迫った。どうやら民主党が圧勝の気配濃厚だが、この前人気というのが余り宛にならないことが多いから、過信は禁物だ。
ただ私は昔から党よりは人を選ぶ主義だから、相手は時々で変わっている。今回はまだ考慮中だが、弱者に味方する性向から、投票用紙に誰を書き込むかその瞬間までわからない。

世界柔道選手権女子48キロ級で福見選手が金メダルに輝いた。王者谷の後継者が現れた。身体の小さいのは日本だと言うのが嬉しい。
地元の平岡選手が今度は銀メダルだった。北京の惨敗の屈辱を雪いだ。次のオリンピックでは金を狙う足場が出来た。

弱いカープも昨夜は珍しくヤクルトに大勝した。もう来年を狙うしか無いが、選手一人一人の向上を計らねば向上は難しい。外人にウエイトを掛け過ぎている昨今の各チームは相撲同様どうも面白くない。宝くじを引いてるようで気乗りはしない。
良いのが大リーグに出て行ってしまったからか。10年以下の若い選手に期待したい。

今複写している「ニューギニア戦記」がいよいよダンピール海峡決戦の場面に入った。もちろん全輸送船が撃沈される場面だけれど、よく丁寧に描写されている。戦闘場面は極く瞬間的な事象だから、第三者的に見るわけにはいかない。勢い小説的な描写にならざるを得ない訳だが、最近の様にビデオカメラで命がけでとりまくる人がいればほんとの描写になるのだが。
当時はそんなのはなかったから仕方が無い。

それにしても中隊長はよく覚えていたなあ。この手記の白眉の場面である。
あの時ああだったこうだっとと思い返しながら手記したのだろうが、大局的な事は別にしてこんなに細かくはとても覚えきれない。よほど事象を瞬間的に捉え得る能力の持ち主だろう。敬服する。
(以下ニューギニア戦記より抜粋)  
  ____敵機は旭盛丸を最初の目標にしているらしい。敵の編隊は先ずこの船団の一角を崩す事を狙って、先頭の旭盛丸に集中攻撃をかけてきたと思った。当時旭盛丸は二列縦隊で進む船団の、左の列の先頭をきって前進していたのである。
数発目の一発が左舷の数米先に落下して、船は大きく衝撃を受けて激しく揺れた。その瞬間続いて落下してきた爆弾が1番ハッチと2番ハッチを同時に直撃した。後々の記録によると8時15分に被弾したと書かれていた。

耳を突き破る爆風と衝撃とによって、船上に積んである資材も人も吹き上げられ、甲板上に打ち付けられた。同時に1、2番ハッチから真っ黒い煙が立ち昇った。
ブリッジは2番ハッチのあふりを食って前半分が引き千切られふっとんでしまった。今まで平穏であった船上は一瞬のうちに騒然となり、目の前が真っ黒になる様な衝撃を受けた。

敵編隊は悠々と煙の立つ中を轟音を残しながら飛び去ったいった。
2番ハッチの上には大発動艇が二段に積載してあった。蛙を押しつぶした様に支柱が折れて飛び、ペシャンコになっている。
暫くするとハッチに積み込んであった弾丸が火に巻かれて誘発し始めた。
破裂音、煙、怒号と船舶砲を打ち上げる発射音と、狭い船上を右往左往する将兵たちの呼び合う声等、忽ちにして船内は修羅場と化した。隊員は何から手を付ければ良いか迷った。本船のエンジンは停止しているが、船は惰性でまだ前に進んでいた。
ハッチから黒煙が猛烈な勢いで吹き上げているし、また赤い炎も吹き出していて、船は非常に不安定な状態になっていた。
ハッチの中での火災が大きくなったようで、火が回ったらしく、砲弾が破裂する音が甲板まで伝わってきた。船の速度が次第に遅くなってきて、左舷側に向って徐々に傾き始めた。忽ちにして本船は船団から離れてしまった____

____船上にある浮遊物を左の舷側に運び海中に投げ入れる準備をする。
当時の海上の状況を詳しく記録に残した小泉分隊長の日記によると、「1番船倉は火の海となり中の兵員室は飛び散った肉塊と血の海の中で、負傷兵たちがのたうち回っている光景はまさに地獄であった。
底に積み込んだガソリンへの引火爆発による火災は手のつけようが無い。甲板に昇るための階段が爆風により吹き飛ばされたため、船倉に居た兵たちは逃げる事が出来す、阿鼻叫喚の巷となった。助かったものはただ一人のみで船倉の桁から垂れ下がったロープにすがり、必死に甲板に昇り付いたのである。____
[以上は船舶工兵第8聯隊中隊長吉田武(故人)の手記により山口市在住今田勇氏の校正編集になる「ニューギニア戦記」より]

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2009年8月29日 (土)

選挙の声だけ喧しい

相変わらずの霞空、気温26度。
5時半に目覚めて、CDで音楽を聴く。イヤホンで1時間ばかりじっくり聴く。
アップル・タッチホン付属のイヤホンは音の分離が良くて各楽器の音が生々しく聞こえて何時もながら楽しい。
面倒だから寝ているときでないとイヤホンは使えないが、こんな時には良いな。
昨日はデオデオに出掛けたので、もっぱらオーディオコーナーを見て回ったが、觸指が動くものはなかった。
もうロートルはお呼びでないのかもしれない。
3、40年前オーディオ機器が所狭しと並んでいた時代はもう再現不可能なのか。

昨日デオデオのあるスーパーに家内が買い物に行くというのでつれて行く。車がかなり多くて時間がかかる。前記の様にデオデオにも顔を出したが買うものは無い。中の食堂で昼食を済まして帰る。
何を食べてもおいしいという事がなくなった。五感すべて老化した。

最近になって朝がおの花がよく咲いて、毎朝私たちを喜ばせてくれる。どうやら遅咲きの朝顔だったらしい。

蟻は薬が効いたのか、時候のせいか幾分少なくなった。偵察蟻はそれでも所嫌わず出没してはいるが。

家内はせいこうで血液検査を受けに朝食抜きで出掛ける。
9時だんだん蒸し暑くなる。島影はまるで見えない。湿度は70%を超えている。こんなときは体調は当然良くない。

終日「ニューギニア戦記」の複写に忙しい。
指が少ないからもどかしい程時間がかかる。あせってもどうにもならないな。使う指もなんだか疲れて痛いようだ。

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2009年8月30日 (日)

旭盛丸の最後

雨になりそうな雲行き。歩いて衆議院議員の投票場迄行く。結構人が多い。
久しぶりに外を歩いたので汗をかく。
帰宅してすぐシャワーを浴びる。やっと人心地。

こちらは相変わらず「ニューギニア戦記」の複写に忙しい。
先日雲南省のラモーで第56師団の一部守備隊1300名が玉砕した顛末をテレビでやっていたが、国民の知らぬ所で惨めな事実が展開されていた、ニューギニアの戦場も同じようなもので、勝った勝ったで踊らされた国民が哀れである。
   ___________________
  旭盛丸の最後・・・・海上に退避する
30分くらい経った頃船長が巡回してきて、機関室に火が回ってきたのでエンジンが爆発する恐れがあると伝えにきた。既に下船準備の命令が出されていたので、中隊員は銃を斜めに担い、雑嚢に最小限の食糧(乾パン)を入れていた。三人一組のグループを作り、各組は乾パンの空き箱で作った浮きを持って舷側の近くに待機した。
船は殆ど停止していた。「退船用意」の命令で兵士たちは先ず乾パンの箱で作った浮きを投げ込み、次いで携行糧抹や乾燥野菜の入った缶,ブイ、竹材、予備の浮き胴衣等あらゆる浮くものを投げ込んだ。
本船付近の海面は多くの浮遊物が散乱し、暴風雨の過ぎ去った後の港の中のようであった。
輸送指揮官の「全員退避」の命令で一斉に海に飛び込み始めた。

舷側に吊るされていた救命ボートが海中に下ろされていた。下半身を打ち付けて半身不随となっていた中村軍曹が戸板に括りつけられて運ばれてきて、そのまま舷側からロープで吊り下ろされ救命艇に収容された。この様に重傷者はすべてロープや戸板で吊り下ろされたが、無傷のものは自分で、舷側に吊り下げられたロープを伝って海面に降りて行ったのである。
戸板で降ろされた中村軍曹は当夜ラエに揚げられたが、3月7日に死亡した。

相変わらず砲弾は間断なく誘発を繰り返し船倉の中は黒煙が濛々と充満して近寄る事は出来ない。負傷者は見つけ次第元気な兵士に担がれて右舷に運ばれて行く。
当初負傷者は一人一人吊り下げていたが、今はその余裕もなくなった。戸板に括りつけてまま海中に投げ下ろす。戸板が裏返しになるのもあるがそれをかまっている余裕は全くなかった。生も死も投げ入れる一瞬で決まる。表が出れば生、裏が出れば死である。しかし表が出ても生きるという保証はなにもない。烈日の大陽をまともに受けて漂流すれば、命は何時間と保たないであろう。船に残っていてもいずれは沈む船と運命を共にしなければならない。元気な者は生き残っている負傷者に対しとり得る処置にも限界があった。負傷者に対し詫びながら彼等を次々に海中に投げ入れていった。戦友を助けるためだと言いながらこんな方法しかとれなかったことはなんとしても惨い仕打ちであった。

船は最悪の状態となって、右舷は海面すれすれに傾き、左舷側は船の赤い横腹を剥き出してきた。これは恰も巨大な怪物が眼前に迫った様であった。最早スマートな船の姿は目の前には見られず、捕鯨船の銛を打ち込まれて曳航されている鯨にも似ている哀れな姿をしていた。予想外に船の横っ腹の大きいのに驚いた。

ついさっき迄の甲板上の騒ぎはまるで嘘の様に静かになっていた。早くも一時間近くたっていたようだが、見渡す限り周辺の海上に船らしいものの姿は全く見えない。

副中隊長の寺田中尉がやってきて、中隊員が全員退避したことを中隊長に告げた。
二人で船橋のタラップの下に腰を下ろし、寺田中尉が煙草を取り出してそれに火をつけて差し出した。二人は無言のうちに思いっきり煙草をふかした。

船は完全に停止していたが、船上には兵士の姿は全く見られず四周の海上には点々と漂流者が浮かんでいた。もう敵機の姿はなく、打ち上げた砲弾の名残らしい砲煙が薄雲の様に高い空に残っていた。ハッチ内の砲弾の破裂音もまばらになてきた。その時船長が走ってきて「もう危ない」と叫んだ。よし、行こうかと二人は腰を上げ、煙草を投げ捨てて右舷の欄干を越えて寺田中尉と共に一挙に海上目がけて飛び込んだ。これで二人も海上を漂流する仲間となったのだ。
飛び込む前に船上から中隊本部員の位置を確認して,其処に飛び込んだにも拘らず,一旦海上に入ると見通しが悪く皆目見当がつかない。何はともあれ沈む本船から離れる事が先決である。浮き胴衣をつけていると思う様には泳げない。

やっと本船から7、80mばかり本船から離れる事が出来た。大声で呼び交しているうちに中隊本部のグループを発見して,辿り着いてやっと彼等と一緒になることができた。

此の時、振り返って本船を見ると船首を海中に突っ込んでいた。次の瞬間船は逆立ちとなって船尾が水面に立ち上がり、やがてするすると海中に消えていった。
旭盛丸は実に他愛無く沈んで行ったが,暫くして水中を通して腹にずしんと衝撃があったが、これは船が海底に着いた音であろう。と海上に水しぶきが揚がり,暫くして海底から砲弾の破裂する振動音が思い出した様に伝わってきた。味気ない本船の最後であった。

小泉日記には旭盛丸の最後の状況を次の様に記録している。
「旭盛丸は如何なったかと波間から伺うと,黒煙を吐きつつ迎えた最後の光景がはっきりと見えた。それは船首を真下にして船尾を高く空中に持上げたかと思うと,甲板上のあらゆる物品がガラガラと音を立てつつ,茶色の埃を噴き上げて海中に引き入れられて行った。そして、旭盛丸自体も右に体を捩る様にして,急速に海面から消えて行った。ハッチの上に搭載されていた大発動艇が海上に押し出され、ブスブスと余燼を揚げながら海面を漂いつつ海中に消えていった。
あの艇内には戦友の遺体が幾体も横たわっているのだと思うと心が痛む。やがてギシっと腹に強いショックを受けたが船体が海底に達した瞬間であろうか」と。

暫く泳いでいると中隊本部の湯田曹長のグループが見つかり,互いに大声でそれぞれ名前を呼び交した。湯田曹長は中隊の先任下士官であった。彼は大声で「各人、名前を言え」と怒鳴った。彼方此方からそれぞれ名前を名乗って来たが,名前が抜けて出て来ない者が沢山いるようだった。將兵たちは呼んでも返事の返って来ない戦友たちの名前を繰り返して呼び続けたが,そのものたちのの応答はなかった。此の戦友を呼ぶ声は空しい事と知りながら,その後いつまでも続いていた。
(船舶工兵第8聯隊吉田武中尉手記/山口在住今田勇編集ニューギニア戦記から)
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