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2009年7月 4日 (土)

心臓の薬変わる

昨夕内藤内科に出かけ診察をうける。心臓は年相応に弱ってはいるが、悪い症状はないから心配することはないといわれる。食欲不振については、薬の副作用が考えられるので今日からかえることにするのこと。
今度はニコランマートとアーチストという錠剤になる。

昨日千代は娘らをつれてガムに行ったらしい。暢気なことだ。
ガムなら新型インフルの心配はないのか。

昨日午後散歩のため植物園に行ったが休園だった。しかたがにので近くの運動公園に行き広い園内をそろそろ歩く。人は少ないが、立派な公園だ。眺めがいいし、空気もいい。損して得した感じ。

今朝は気温も20度とまあまあだが、一面にもやって天神山から沖は何も見えない。いつもよりひどい。
雨になるのかなんともいえない。

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私の戦争/幹部候補生その2
教育も基礎的なものを終わって、自動車行軍的なものが多くなる。近郊の開拓団訪問、虎頭要塞見学、東安国境視察などなど。特に虎頭でのウスリー河対岸のソ連側監視設備、そして要塞内部などこれは凄いなと感じた。
この間に対ソの戦争準備が真剣にすすめられて居ることに気づいた。
もう引き返しがつかないなと感じた程だ。

夜間の非常呼集も何度か行われて、兵の緊張を高めた。
兵営内ももう1個大隊が入って、窮屈になった。車種は米国製が主力だが、シボレー、フォード、日産、いすず、トヨタ、などが多く、ヒルマンなどというのも僅かにいた。ことごとく中古車で能力のばらつきはひどかった。
道路も悪かったが、故障はつきもので行軍がスムースに行くことはまずなかった。

これだけの車を無理矢理徴集したのだろうが、された方も困っただろうが、おんぼろ車で戦えるのかと我々は心配が先に立った。
第2中隊は全部Fordの38、39年型だった。比較的性能の良い,事故の少ない中隊だった。
私は懸命に構造その他原理にまで研究を続けたから、車には詳しくなったが、他のものはどうだったか、ついていけなかったものが多かったのではと思っている。
他の車は理論は比較的分かり良かったとは思うが。

軍隊は学問だけでは駄目なことはよく承知したが、一歩先んずれば自信につながる。因循だった私がこのころ頗る積極的になり、実兵指揮など進んでやり教官にほめられたりした。

9月東京の輜重兵学校行きを命ぜられ、9月16日甲種幹部候補生20名は斐徳駅出発故国への旅についた。
ハルビン、新京、奉天を乗り継いで、20日大連到着、翌日軍用船に乗船、25日宇品に入港、一旦似島で検疫を受けた後翌日関東軍各部隊から集まった二百余名の将校の卵たちは、宇品から徒歩で広島東練兵場まで約10キロを堂々市中行進した。市民歓呼の中を正に凱旋気取りで歩いたものだ。

大連を出る前こっそり行きずりの日本人市民に依頼して手紙を母に送ったのだが、母と妹は門司につくかと思ってそちらに向かい訪ねたそうだが分かる訳がない。こちらはとも知らず市民に混じって手を振ってはいないかと、目を皿にしてみたが、居る筈はなかった。
何事も秘密裏に運ばれる軍事行動だから、一兵士の浅はかな行為が通用するはずのものではなかった。

軍用列車が広島駅の東側練兵場脇に横付けされ乗り込む。不定期に走って東京に向かう。めざとく我々を見つけた市民が手を振って歓呼の声を上げた。
大東亜戦勃発を後2月に控え、戦意がいやが上にも高まった時期だった。
戦争へ戦争へと国民の意識が一色になっていた。
東條さん一人を責める訳にはいかない世情だった。

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