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2009年7月17日 (金)

湘桂作戦開始

夜来の雨が降り続いている、時に相当激しく。

昨夕問い合わせていた防衛省防衛研究所から独立自動車第31大隊の陣中日誌などは終戦後散逸して残っていないと手紙が来る。
千代に頼んでいたがないのでは,無駄足になるだけなので電話して取りやめる様連絡する。
思えば私の自家製のメモ手帳の記録が唯一の歴史資料となったわけである。

日本では源平の昔から敗軍の将兵を語らずで資料どころか語り継ぐこともなかった。
終戦時大量の戦争資料が焼却された事は万民承知の事実である。敗戦の事実以上に悲しい。

今書き綴っている「私の戦争」はやはり無意義な事ではないと悟る。私の頭脳が生きてる限り書き伝え残そうと決意をあらたにする。

家内が記念病院の広島診療所に雨の中を出掛ける、広電山陽女子大前駅まで送る.ここの薬のお蔭で随分良くなっているのだが、薬をやめるとまたひどくなるとか。

午後に入り雨止む。
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私の戦争/湘桂作戦その1

尾根伝いの前進が、もっぱら夜つづく。
明け方は魔の一瞬である。空が白んで来た瞬間音もなく敵戦闘機が頭上に来てるということが、しばしばあった。
車の退避が一瞬でも遅れるとばりばりと掃射を食らう。ある朝樹木の陰がなくて、仕方なく山の斜面に入った所をやられ、車から逃げる所をもう一機が私を狙い射った。身体の前後に風を伴って数十発走り抜けた。かすり傷すら受けなかった。

再度飛来した飛行機の機上から黒い米兵が覗き込んで下を見た。死んだか確認したのであろう。

やっと山を下りて平地を走る。破壊された部落がつづく。野犬か飼い犬かうろうろしているのを射殺して食う。
貯水池を決壊して魚を食事の足しにする。カンパンだけの糧抹では腹の足しにならない。
戦争の無慈悲さを知る。

身体は垢だらけであり、水虫に足をやられ、歩けなくなる。自動車に乗ってればいいのだから靴を脱いでの行動となる。
ほとんど乾いた田畠がつづく。路上は部隊から遅れて、疲れきった兵たちの行進がつづく。
車に乗せてくれと手を振る兵もいるが無視せざるをえない。
あちこちの木陰には,疲労したか、病気にやられたか、てんてんと横たわる兵士を見る。戦場は非情である。

やっとの思いで長沙に入る。陥落してから1ヶ月も経っていただろうか。
本部より宿営地を割り当てられ、廃屋の中を適宜探して入る。

中隊によっては,休む間もなく任務を貰って長沙ー易俗河間の輸送を始めた。我が部隊の始めての作戦任務参加といってよい。

ここで部隊間の通信手段について、少し説明しておこう。
大隊程度の部隊には無線機はなかったので、伝令による歩行連絡か,伝令車(2人乗り小型4輪駆動空冷車俗にいうダルマ)によるか、行進中は手旗信号によって伝送していた。

だから行動が比較的に迅速な自動車部隊にあっては、事故が起きるとたちまち混乱が生じ、連絡は取れなくなるし,命令などの伝達は混乱を来した。
故に大隊が一丸で行動する事は不可能で、中隊(概ね45輛)ごといや小隊ごとになることが多く、悪路を行く時など間隔が大きく離れて、収拾つかなくなり、分隊長の判断により、数車両の行動が基本になることが多かった。
地区移動以外の区間輸送などは、分隊ごと(約4両)の行動が基本で、分隊長の指揮能力が一番重要であった。

故障車収容、修理補給を主目的とする我が隊は,第一分隊(中村軍曹)を先行さす。易俗河付近に前進させ,駐留修理業務に任ずる。
材料廠は小隊はなく、指揮班、と2個分隊で構成される。
1分隊は工作車(発電機、旋盤、ボール盤諸工具を積載、車上工場となっている)2台(ニッサン)、トラック4輛(部品工具人員)(シボレー)で構成、第1分隊長中村軍曹、補佐林兵技伍長、第2分隊長小林伍長,補佐山口兵技伍長、指揮班長森脇曹長,技術主任西川兵技曹長、指揮班はトラック4輛、伝令車1輛(くろがね)、兵員数約70数名の当初編成であった。

第1分隊は先行中隊に加わり,第2分隊指揮班と共に部隊最後尾が定位置であった。

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