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2009年7月29日 (水)

日本の敗戦を知る

朝広島総合病院に出掛ける。もちろん一番の呼び込みである。簡単に済む。
帰宅すると家内が長女の所に行って来ると支度している。広電駅までつれて行く。
ちらちらと小雨が降っている。梅雨は8月までつづくようにいっている。
天候異変のうちに入るだろう。

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私の戦争/日本敗北を知る
 昭和20年7月23日桂林に別れを告げる。
出発間際に犬養兵長が連れて行ってもらいたい人があると、頼みに来る。
広西大学教授の陳冰夫妻という。南京政府の周仏海が友人なので,彼を訪ねて行きたい.行ける所まででよいからとのこと。奥さんは香港生まれで英語や,広東語は得意で,主人は北京語と広東語に堪能とかだったが、私との会話は難しかった。奥さんの通訳で英語での会話が多かったような気がする。
ともかくトラックの背中の幌の中での雑魚寝で過ごしてもらうことになった。

周仏海と言えば汪兆銘、陳公博とならぶ南京政府の要人である。名前だけは日本でも著名であった。
日本と手を組んでる人たちだからいいだろうとすぐ請け合った次第だった。

各部隊が一斉に北上を開始したのだから、軍公路の込み具合は大変である。
敵機も早くも察知して、頻繁に襲撃して来る。
だから夜の行動だけで、昼はもっぱら蚊帳を樹木につって昼寝という訳。
私が携行していたマイナー・ハーモニカを寝ながら吹くと、兵たちが唱和して歌うといった、思わぬ戦場風景ともなった。勝敗はともあれ故郷へは近くなるという思いがこころを楽しくさせてくれたのであろう。

8月17日全県を過ぎ、祁陽付近の山茶花の林の中に退避していたとき、本部から各隊長集合の命令が届けられた。部隊長から停戦になったから、昼の行軍で迅速に先ず長沙まで行くようにということだった。停戦ということがどういうことか、よくわからなかったが、ともかく一時武器を置くという事だろうと理解した。しかし敵が攻撃して来た時は戦うことに躊躇するなと言う事が付け加えられた。

住民が豚を殺してご馳走してくれた勢いで直ちに前進を開始した。
南岳市に来た頃,夕方近くなっていたので、車を止め、指揮班長と伝令二人に、偵察に出向かした。
ところが十数分もすると、日本の警備隊と敵が交戦中だと伝令が報告して来た。
そこで私はすぐ戦闘準備を下命し。半数を車両警備に残し。残り半数を率いて、南岳市を包囲するごとく展開せしめた。桂林で補給された、重機、軽機、迫撃砲などは勿論この時とばかり携行せしめた。

街に到着し始めた頃敵は早くも気づいて,衡山の麓を上に向かって、一斉に退却し始めた。
直ちに重機関銃と迫撃砲で攻撃を開始した。敵影がよく見えるので狙い撃ちである。どちらの火器も弾着が分かりやすいので攻撃しやすかった。
小銃を射つ暇もないうちにかたが付き,敵は潰走し、警備隊の10名ばかりを救い出す事ができた。

隊長の見習士官が本隊に帰りたいというので、車に載せ,全員をやく10キロ先の衡山市まで送っておき、こちらは野営場所を求めて更に前進する事になった。

思い出の広東橋があと50キロぐらい先にあるので、暗くなってもいいから、そこまで行こうということに決め急ぐ。

もう8時過ぎ、9時近くなっていたかもしれない。住み慣れた場所だけにすぐ野営施設を始めると間もなく、誰が連絡したのか、部落の顔役などがやって来て、ご馳走するからと案内にやってくる。
皆私たちを忘れてはいなかった。幹部のもの、関係があったもの十数名が招待を受け,夜遅くまで歓待された。
このとき彼らはもう日本は負けてアメリカに占領されたのだから,あなた方は国に帰っても駄目だ。こちらに残ったらどうだという。われわれでなんとか面倒を見るという。

冗談じゃあない。日本が負けるわけがない。一時停戦しただけだ。いずれ戦争は終わるよと事情を彼ら程知らないわれわれは、怒って彼らの言い分を拒否したのだったが。

翌々日長沙に入るとすぐ敵の部隊に武装を解除すると通告を受け、やっぱり負けたのかとがっかり。
超先生にもこういうことだそうだから、自動車は敵に取られるし,送っては行けないから自分で方途を考えてくれと別れる事になった。

8月23日正式に武装解除され、背嚢一つとなり、銃も剣も皆取り上げられてしまった。

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