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2009年7月20日 (月)

引き続き広東橋

夜来の大雨がつづいている。遠雷が時折聞こえる。
所によっては集中豪雨に見舞われているかもしれない。
じーっと部屋に閉じこもっているしかない。又寝転んで「蝉しぐれ」を拾い読む。もう十回目ぐらいかも知れぬ。

小説と言えば、先頃山本周五郎の「栄花物語」と「日々平安」を買って来て一気に読んだ。
私の好みはやはり周平の方だ。
が、残りがもうあまり無さそうだ。本屋にないのでAmazonで買ったりした。
慎重に選ばないと、二度同じものを買ってもつまらないし。

なんで今日休みかと思ったら”海の日”という。
山の日はないのに。おかしな日だよ。

丁度正午雷鳴轟きひとしきり大雨がつづく。
昼飯のときあまり外が暗いので夜と勘違いし、食後に呑む薬を夜食後と間違ってしまう。
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私の戦争/湘桂作戦その4
 初期には不審な犠牲者も出た。ある日懇意にしてる住民が日本兵が殺されてると告げてきた。
押っ取り刀で10名ばかりつれて現場に行くと、頭を貫通されて若い兵隊が襦袢1枚で倒れていた。
認識表も銃も何も持っていない。広い畑のど真ん中で、人影はどこにもない。人家もない。
仕方がないからどこかに埋めてやろうと、兵隊に担がせて、軍公路まで出て来ると、どこからか兵隊が一人現れて、病院下番の連れだという。名前や部隊名は知らないという。長崎県人だとはいってたがとまことに頼りない。

結局道ばたに穴を掘って埋め、簡単な木の札を立て長崎県人という表示をして去った。
敵情はなかったときなので、犯人の推定は出来なかった。

やはりこうした一般兵が食糧を求めて民家に入り、略奪行為をするものも居た、その都度住民から通報が入り、出掛けて行って取り返し、あるいはビンタを取って制裁を加えたりした事もあった。

大きな部隊で倉庫のもみを勝手に精米しているのを、訴えて来た住民と共に部隊長と掛け合い、代金を支払わす事で折り合いをつけたこともあった。

こうしたことが逐次住民に浸透した結果前記のような事態が生まれたのかもしれない。

池本上等兵は5キロぐらい離れたところにある湘江沿いの馬公堰という市場まで行き、そこの顔役と親しくなり、義兄弟のようなつきあいをしていたと後に聞いた事がある。
彼の案内で私も一度視察に行き、儲備券が流通しているの確認した事がある。
もっとも池本の話では、対岸から支那兵が買い物に来た時は法幤を使うのだといってたが、平和に暮らすには仕方がない事だと思った。

他中隊で芋の収拾に出ていた兵隊が、敵に襲われて6名戦死したとの通報もあった。
ゲリラ的に襲撃してくる敵兵の侵入は戦争だから防ぎようはなかった。
スパイらしきものの侵入も当然免れ得なかった。

住民から敵兵侵入の訴えもあって、ある日急遽20名ばかりを率いて、ツーチン山方向に示威行動を行った。4、5キロ奥には小学校らしきもののあり、住民もたくさんいたが、敵兵との選別はつくわけもなかった。

10月に入ると雨が多く、軍公路の自動車による損傷が激しくなった。轍の跡を修復するたび路面を削るので、だんだん深くなり、場所によっては車がすっぽり埋まって横からは見えない程になった。
湘江を利用する水上輸送が当然増えたらしい。
8月やっと衡陽が陥落、9月には零陵、全県を占領、広西に向けて湖南省、江西省、広西省の境界にまたがる深い大山脈(南嶺)は機械化部隊の進攻は大変だったらしい。

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