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2009年7月28日 (火)

桂林撤退

またぞろ灰色の空,沖は霧で覆われて何も見えない。
雨になるか予測はつかない。

アルゼンチン蟻の出没が激しく油断ならない。パソコンの中.寝床の中、茶箪笥の中までどこでもござれである。ときどき皮膚を噛む。針を刺すように痛い。
在来種の半分ぐらいで,色が皮膚色透明で全くわかり難い.お手上げである。
妙なものが日本に侵入したものだ。

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私の戦争/桂林駐留
 今振り返ってみると、桂林南方周家村での駐留は昭和20年2月から7月まで正味5ヶ月いたことになる。その割には思い出がない。広東橋は4ヶ月だったが思い出が多い。
どうしてだろうかと考えると、先ずアルコールに打ち込んだ事、寝ても覚めてもだった。
そして大隊全部が一緒に駐留していたので、住民と直接接触する事がほとんどなかった。
毎日同じ仕事の繰り返しでは記憶することの種類が少なかったということだろう。

会稽村のアルコール工場のたたずまい。焼酎の集荷、生産したアルコールの処理などの業務の確認、
そして外に出て街の賑わいを息抜きに見る。白崇禧屋敷に入って蔵書など拝見する。

20キロ離れた駐留地の周家村に戻れば、隊の稼働状況を見て回る。
することは僅かなものだった。

そういえば、この付近は貧しい所だったようだ。主食はなんだか里芋だったような気がする。
朝に晩に里芋のきぬかつぎをよく食わされたなあ。白い犬コロも食用に飼ってたようだった。
食ったかどうかまではしらない。

部隊内に一カ所遊郭みたいなところを作って、娼婦が何人か雇われていたようだった。
本部の深川軍医の管理のもと、検査は厳重にやっとるから心配せんで、通っても大丈夫だよと将校集会の席などで皆を笑わせていた。そういえば集会の後の宴席にはかり出されていたりしたなあ。
駐留期間が長かったから、兵隊の慰安のために施設したのだろうが、そういえば慰安所といったかもしれない。
ひょっとしたら娼婦は日本人ではなかったかもしれない。

会稽村は一応賑やかな街だったから,店も多くいかがわしい店も当然あった。
麻雀賭博をしていた兵隊の中に私の隊の兵隊がいて、週番将校をしていた私の同期の久田副官につかまった。早速友達の私に耳打ちしてくれたので,ビンタを取って説教し釈放した。
宿営地なら重営倉というところだが、戦地ではこの程度で仕方がなかった。私も部下をビンタを取ったのは始めてであった。

桂林陥落の際捕獲した兵器弾薬などは凄かった。アメリカ製の自動小銃、対空機関砲など目新しいものいろいろ配給された。また洋酒などもたくさん配られてときならぬ宴会になったりしたものだ。
これらの武器のお蔭で終戦後撤退の途中役立ったことがあったりした。

この付近の景色は南画に描かれた絵そっくりで、南嶺を超えて樹木越しに、曉暗に浮かぶタケノコ状の山波を眺めた時の驚きは忘れられない。朝に夕に眺め暮らした割にはその後の感動は記憶にない。

戦史によると我が部隊は苓浦を中心の区間輸送を担任したらしいが、直接携わる事のない材料廠だから全然記憶にはない。
アルコール燃料もそれ用の自動車も後はご自由にと任せただけで、あとの事は撤退に忙しくてどうでもよかったのかもしれない。

何も聞かされてはいなかったが、日本が危ないということは、空気伝染で分かりかけていた。
目をつむり,耳をつむっていただけだった。
7月撤退命令が出たとき、やはりそうかと覚悟した。もう生き延びる道はなさそうだと思わざるをえなかった。

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