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2009年7月 7日 (火)

一瞬の邂逅に終わった金出君

昨夕遅まきながら,紺碧とは言い難いが,青空が空いっぱいに広がりすっかり好天気になる。
前線が北上するとの予報だったが、止めたのかな。風も涼しいし文句のつけようがない。

私の戦争を書きつないでいる関係上,日記の方は後先まちまちになり、自身でも迷いそうだ。

今朝6時半気温25度、もう熱帯夜ではないかと驚く。
連日宮島が見えない日々がつづく。
我が家からの眺望は今や最低である。
生きてる値打ちはいよいよ遠ざかる。

「ニューギニア戦記」を送ってくれた今田君に求めに応じて恥ずかしながらと,「私の軍隊生活」を郵送する。
苛烈な戦争場面をフンダンに織り込んだ「ニューギニア戦記」にとても読み物として比較にならないが。

ふと今頃になって”私の戦争”にも出て来る金出于台君(昨日書いた)のことが気になる。あの邂逅以来どうしたのだろうか。
戦後同窓会名簿ではいち早く死亡者リストに入れられていた。生真面目な男だっただけに率先して死地に赴いたのか。
秀才の多い下関中学出身だったが。

2005年11月10日上京した際,家内と娘を伴い,東京農大を訪ね、候補生隊の旧跡を尋ねた。
米軍が残したと思われる横文字の記念碑が庭の一隅にはっきりと存在した。RIKUGUN JIDOSYATAIの碑文も確認出来た。
運動場も残っていたが兵舎は当然瀟酒たる校舎に建て変わっていた。

Jidoushatai_memory
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私の戦争/見習士官その一
 部隊に帰着すると,申告の後とりあえず5名づつ各中隊に配分される。もっとも出身中隊は避けて別の中隊に分けられる。
しばらくは部隊においての将校としての教育が続けられる,教官は山崎中尉が引き継いだ。
軍装を解いて改めて,軍刀を分解し銘をみる。美濃の国関の銘が入っていた.別に記録までしなかったので今は思い出すすべもない。アメリカ人などに負けるものかと、アメリカで数年働いてよく知ってるだけに軍国の母らしく気丈だった。

ほんものの兵隊に対する実兵指揮も何度かやらされて、結構面白い。
何よりも内務班の実地指導が愉快だった。馴れるに従い週番士官をとらされたり、兵隊たちとかかわり合うことが多くなり、気合いの入った見習士官のお返し指揮、指導ぶりであった。
非常呼集はやるは、点呼後のマラソンはやるはで、兵隊たちは驚いたらしい。ビンタも取られただけ取り返すとうそぶいた見習士官も居た。

見習士官は営舎の別室で一緒に寝起きした。もちろん当番が一人一人宛てがわれているから、身辺の雑事は皆当番にしてもらえる。そのかわり週番にて中隊の管理、巡察、警備など任される。
5月1日士官勤務を命ぜられ、同月15日材料廠付きとなった。得意な自動車技術理論の知識が認められたときいている。
兵器,情報係も兼務し、二年兵の教育にも当たった。
この二年兵の中に同郷の同じ日に入隊した同級生の吉川君が居た。同じ初年兵で来たものがかたや教官かたや生徒といった軍隊なればの珍風景もみられた。

8月15日突如2ヶ月間馬術教育を受ける様命ぜられ、輓馬部隊に出向することになった。
教育途中の9月15日東安にある軍貨物廠内部の運搬業務をする輓馬部隊独立輜重兵第54中隊へ転属を命ぜられた。
お上のすることは我々には分からぬことが多いが、自動車を1年以上も教育しておいて馬とはと腹がたったが仕方がない。が馬も乗ってみると面白い。馬場騎乗は辛かったが,野外騎乗は凄くおもしろく、よく雉子と追っかけっこしたものだ。近くの日本開拓村に立ち寄ったりして、遠い故国を偲んだりもした。信濃村、広島村など今でも目に浮かぶ。
10月15日命令通り赴任した。同じ中隊の初年兵で一緒だった脇君は牡丹江の輓馬部隊に転属した。
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