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2009年7月 2日 (木)

私の戦争/初年兵

初年兵
 自動車第3聯隊という部隊であった。呼称は聯隊でも編成は本部と4中隊、および材料廠からなっていた。兵舎はレンガ作りの内地のそれと外観は変わらなかったが、内部は酷寒地だから、もちろん窓は二重、丸い大きなペーチカが部屋の真ん中両端にあり、上級兵が当番で守をしている様であった。
兵舎の真ん中を幅一間の廊下が貫き、外に向かっての通路が3カ所あり、板張りの真ん中の通路にはそこで靴と営内靴を履き替えていた。
中隊の兵舎は隊長室,将校室、事務室、下士官室6、兵室6に分かれ、兵室は隊長室に近い方から1、2、3、4、5.6班と呼ばれた。
1班は兵長以下が居住し、入営後3年目の3年兵、2年目の2年兵、そして我々初年兵であった。
階級差などを序列と一口に言ってたが、序列の厳しさは大変なもので、特に年次差軍隊特有の階級の上下差が存在した。
この上下差の違いが、指導と言う名の暴力を発生した。関東軍のこの暴力制裁は全日本軍にも知れ渡っている程著名な事実だった。
いいお客さんが来たとばかり、入営まもなく鉄拳制裁が始まった。
おそらく同時多発的に各中隊一斉に始まったことだろう。
1班12名の初年兵は当然のこととして、掃除、洗濯、配膳(食事)、着替えなど班内の全部の仕事を受け持たされた。2、3年兵一人づつを初年兵一人が担当した。
その他に廊下(真ん中の通路)に沿って鉄砲(騎兵銃)棚があり、兵全体の銃が並べてあったが、これは使う使わないに拘らず、毎晩手入れをするのが初年兵の仕事であった。

これらの業務を内務と言ってたが、もし落ち度があったり手ぬかりでもあれば文句なく制裁の対象だった。
私は銃の手入れをしているとき、にこっと笑ったと言って2年兵に手ひどいびんたをくらったことが何度もあった。わたしの癖であって仕方がなかった。ちょっとしたミスなどで自分でおかしくなるのである。

朝夕点呼と呼ばれる集合時間があり、この際いっぱんの注意のほかに服装、態度、返事の仕方などでよく制裁が行われた。私の所の班長はとくにひどかった。やさしい班長もいたのだが。
特に幹部候補生候補の私にはきびしく毎日みんなからの制裁を食わないことはなかった気がする。
点呼のとき2班では同郷の藤本さん、3班では私と毎晩びんたをくらって、ハイッ!ハイッ!と大声をあげていたことを覚えている。藤本さんも幹部候補生資格者だった。

鉄拳制裁は当時は中学時代流行っていたから別に怖くはなかったが、ただ大人と子供それは程度が違っていた.大抵口の中を切り、耳が聞こえなくなり、藤本さんのごとく兵士として失格するということも沢山あった。私は幸い1月ぐらいで耳がよくなり支障がなくなったが。
兵としての能力は中隊一と自負していたので、困難にはへこたれなかった。
幹部候補生試験では中隊トップで合格したと思っている。
しかし夜寝床の中、星空のもとで悔し涙にくれたものである。

考えてみると、軍隊は徴兵制度で出来ているのだから、決して一枚岩ではない。
極端な言い方をすれば、大学出もいれば、小学出もいるし、百姓、商売人、自動車運転手、職工いろいろなんでもいるわけである。
ある晩入浴場で営内靴をとられて、裸足で零下20度の氷の中を走って帰ったことがある。
盗られることを員数をつけられるという。軍隊では何でもこれが流行っている。ということはそれをするものが沢山いるということである。
干し物などはわざわざ当番をつけている。
善意だけでは過ごせない。

軍事教育は学校で8年間も習って来ているし、自動車関連が始めてだったから、努力は人一倍した。
赤松教範というのを母に手紙して買って送らせ勉強した。理屈だけは技術者並みに理解した。
試験成績でも問題なく上位をしめていたので、副班長は特にその点を賞賛してくれ、かわいがってくれた。
担当の3年兵も優秀兵を選んで特別外出に連れて行ってくれたりした。

3ヶ月目に幹部候補生試験があり、パスしたものは別班に集められたので、初年兵の期末試験を経ることなく、新しい教育過程へ進んだ。

正式な幹部候補生任命は5月1日で同時に一等兵に進級した。
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