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2009年7月22日 (水)

アルコールの製造

雨は昨夜のうちに上がり、さわやかな朝.気温24度、ちょっとすずしい。
昨日は山口県が大きな被害があった。8人死に行方不明が何人もいるとのこと。
自然はありがたいが、怖い。
空は雲がびっしりだから、大陽が見えるどころではない。大陽があるところはいやに明るいからわかるけど、輪郭まではとても。日食の時は真っ暗になるのだろうからけじめはつくか。

雲あつく大陽が顔を見せる事はなく終わった。しばらく天地の間が暗くなったとき日食が起きたのだろうとは察しがついた。

昼前アルパークに行く.中元のお返しをする。
雨にこそならないが、曇空はつづく。

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私の戦争/湘桂作戦その6
 大隊は既に12月22日頃には新しい任務零陵ー全県間の輸送業務に精出していた。
全県双倍村にて我が隊の第2分隊と合流。しばらく駐留することとなる。
南嶺山脈のど真中といってよく、軍公路脇まで森林に覆われ、車の遮蔽は問題なく敵機の恐れも少なかった。樹木間に蚊帳を吊って暮らす生活がしばらくつづく。

昭和20年2月11日部隊は前進を開始し、14日逐次桂林南方の周家村に到着。
この付近の民家を利用して駐留を始める。

私の隊は桂林に入ったのは20日を過ぎていた。

破壊された市街の中心ロータリに軍の掲示で、サイパン島が敵に占領された事を知った。
しかしマッチ箱くらいの爆弾で軍艦一隻を沈め得る新型爆弾の開発中だとも書いてあった。
こわれた家の中には爆撃で死んだか、凄い形相の死骸が二つ三つと転がっていた。
地雷に注意の表示があちこちあったので、大きな道路を行き,漓江にかかる橋のところで住民が魚を売っていた。1米くらいの大きな鯉を買って、車の所へ向かっていると、後でわかったのだが地区司令官の巡察に出くわした。敬礼すると近寄って来て馬上から何処の部隊か名乗れというので、部隊名と官氏名を名乗った。何も言う事もなく立ち去った。

後日部隊長会議でうちの部隊長が名指しで注意されたらしい。
なんでか理由がよくわからない。わたしには何もいわないで何を注意したのだろう。
私は知らん顔をして聞いていた。ばかばかしい。

到着そうそう南方の形勢不利となり、燃料不足が伝えられ、輸送も滞り始めた。
アルコール燃料の製造方法を教えるから、人を寄越せと軍から言って来た。桐生高工出身の中井兵長と興亜石油勤務だった安藤上等兵そして私の3人が受講のために出掛ける。
他の部隊の要員と一緒に100キロ先の柳州の自動車廠までトラックで運ばれた。
約2週間みっちり教育を受けた。でんぷん類を発酵させて、アルコールを作り蒸留して燃料を作り出す訳である。一方自動車も気化器を新しく作って交換しなければならない。混合比が違うから爆発しないというわけ。

はいはいと言って帰ったが出来るかしらと3人は文殊の知恵を出し合う事になる。
ここで我が技術集団がものをいった。この地方はさといもしかない。発酵がうまく行く訳がないと早急に結論した。焼酎を集めろと部隊に号令した。蒸留塔は板金工を中心にすぐ出来始めた。気化器は鋳物工と旋盤工の合作で、寸法通り立派なものが量産された。原材料はカンパンの空き缶や飛行機の翼などの残骸である。
工場は白崇禧(広西省閥の親玉)の郷里の会稽村に作り、その近辺で焼酎を買い集めた。

20日足らずで稼働を始めた。中井を工場長に5名が従事した。85度以上がとれ始めた。
テスト車をつくり試験走行に没頭した。
普通道路は凸凹が多くて速度も出ないが、そもそもが馬力が足りない。荷物を積んでなどとんでもないと分かった。

兵隊の提案を入れ、鉄道線路を利用する事にした。車輪はトロッコの車輪に取り替えれば大丈夫と分かった。少し車幅や軸心の大きさが違ったが、そこは彼らのお手の物、簡単に手を加えた。
アルコール自動車1台でトロッコ10台ぐらい牽引出来た。夜間でも無灯火で道を踏み外す事はない。そんなに飛ばす事はない。そろそろで結構である。真っ暗な中で走るのだから、敵機はおろか敵兵すら気づかない。
何度か桂林駅に足を運び、材料を集めテスト運行を繰り返した。

が,時既に遅く、軍は反転準備に忙しかった。
会稽村ではフル稼働の最中,或る朝夜が明けると同時に敵の包囲攻撃がはじまった。もちろん狙いは工場だったろう。中井兵長らは屋上から攻め寄せる敵兵を狙撃し数名を倒した。
連絡により集成一個中隊を本隊より送り救援,夕方までには撃退した。こちらの損害は1名戦死ですんだ。
焼酎の集荷もだんだん悪くなり、敵情は悪化するばかりで工場稼働も難しくなった。
その頃、
5月湖南省芷江(衡陽から西方300キロ)で大敗、6月沖縄が占領された。その事情は終戦後まで知る事はなかった。
退路を断たれる恐れが高まった7月急遽全軍反転の命令が下った。
7月23日我が隊も逐次周家村を引き払い、桂林を経てとりあえず武漢に向かう事になった。
軍公路は夜を徹して、北に向かう我が軍の列がつづいた。

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