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2009年7月 3日 (金)

梅雨のおかげ

気温20度と少しひんやり。雨の日がつづいたので、うちの内外が冷たくなったらしい。
それにしても今度の雨は人間どもを助けてくれた。
今朝の新聞では八田原ダム以外は殆ど満水状態になり、今度は洪水の恐れが出て来た程である。
心行く程水が呑める訳だ。

林田さんから先般の宮島ゆきの写真など送って来る。
孫の顔を見に行ったり、今度定年退職したスーパーにボランティアで掃除に出かけたり、積極的な彼女らしい忙しさで明け暮れている由。別れてからどうしてるのかなあとちょっと心配していたのだが杞憂だったようだ。
すぐ方向転換出来る若さがうらやましい。

叔父さまの戦死状況探求に熱心な松田尚樹さんには、思い出すことはすべて書き送ったつもりだが、一応納得して貰えたらしい。今月に入ってからは、メールの速射が途絶えたようだ。

同窓会の席で今田君から戦場体験を聞かされ、最先端にあった戦場の苛烈さをしみじみ聞き知った。
それやこれや、急に私も戦場記録をもう一度調べ直して、ブログにでも載せようと発心し書き始めた。
持病の関節性乾癬の後遺症で指がまともには使えないので、遅々として作文がはかどらない。
やはり年を取りすぎたようだ。
もう今は行ける所まで、ままよというきもちである。
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幹部候補生
 全部隊から20数名選ばれ、、集合教育が始まった。教官は陸士出の私たちとほぼ同年輩の立間中尉であった。
陸士出らしく活発な偉丈夫だった。厳しさの中にやわらかさもあり、実に楽しい4ヶ月間であった。

5月になると氷が溶け始め、兵舎のすぐ前面数百メートルまではひたひた水が押し寄せ、地表はいわゆる湿地帯と化してしまった。春秋に咲く野花が一斉に咲き乱れ、素晴しく美しい光景に一変する。
教育は高地の、湿地を避けて、陸上訓練は行われるが、自動車となると湿地も避けては通れない。
湿地通過はソ連相手の訓練では最重要な課題だった。来る日も来る日もこれには悩まされた。
実際の戦場では自動車部隊はお荷物以外のなにものでもないと悟らされた。

乾燥期に入ると、誰がつけたか野火が襲って来た。40キロ向こうはソ連である。まさかと疑ったが原因は分からない。弾薬は野原を掘って地中に埋め、雨よけだけしてある体裁だから大変である。
地区の各部隊総動員で野火を防いだ。誰も野の管理はしないのだから、前年の枯れ草をまいて突っ走るように燃え且つ飛んで行くさまは全く壮観である。えんえん数十キロに亘って数日間も燃え盛るのである。
下は湿地だから一過するともう何でもないが、始めての経験だから驚いた。

凍結が完全に融けると、ハンカ湖の水位が上がり、ひたひたと兵舎近くまで押し寄せて来る。朝日に反射してぴかぴか光る水面の美しさはこれまた一種の風物詩と言えた。

6月20日上等兵に進級、7月1日甲種幹部候補生を命ぜられた。
教官や助教たちの印象で選別されたのであろう。20名が甲種となった。
教官は立間中尉の同期で山崎中尉に変わった。落ち着き払った理知的な教官だった。
教育も将校にふさわしいものだったといえる。

6月27日関東軍臨時甲種特別大演習が発令された。事実上の対ソ動員であった。
部隊は編成替えせられて、独立自動車第69大隊となった。
動員せられた新しい部隊がぞくぞく到着し、野戦輸送司令部や別に2個大隊この地区に加わった。
こんな遮蔽のきかない野っ原で、撃たれればすぐ燃え上がる自動車が役に立つのだろうかと疑ったものだ。
しかし輸送手段は他にない。軍はどうするのだろう。
素人の私でも成算はまるで見えなかった。
軍司令官は山下奉文中将と伝えられた。

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