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2009年7月19日 (日)

広東橋に駐留4ヶ月

 一応雨は上がって青空もあちこち見える。気温26度。
そのうち間もなく霧が沸いてきて、いつもの天気の姿にかわる。
雲がやはり厚く、日射しはない。
夕方には雨という予報だが。
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私の戦争/湘桂作戦その3
 我が工場は正直な所さして多忙ではなかった。第1分隊の方は手元で見ていないのでなんともいえないが、第11軍から第6方面軍の隷下に入ったぐらいだから、部隊は軍の最後尾といってよい。
だから敵空軍も手加減したかもしれない。重大故障が少なければ我が隊の出番は少なくなる。
少々の故障などは、経験者の多い召集兵の部隊だから,自分の中隊で治す事ぐらい可能だった。

兵隊を遊ばすのはもったいないので、宣撫工作に力を入れる事にした。
伝令の池本上等兵、河原衛生兵などに命令して,積極的に住民に接触し早く親しくなるようにせしめた。
手っ取り早いのは薬品をつかっての病気治療である。物々交換は塩を使うのが手っ取り早かった。
池本は東京消防庁出身だったから,応急手当はお手の物だった。
積極的に部落を歩き回り交際を深めた。

又給養掛を命じていた犬養上等兵は元の総理犬養木堂の孫でもあったので、この地方の顔役などには孫文の関係で著名であって、非常な親しみを持って迎えられた。食糧などの購入にはなくてはならない存在に間もなくなってしまった。

しのぶ隊と仮称を隊名として使っていたが、2ヶ月もするとこの名称が隣の花石県まで届いたらしかった。県の代表というのがやってきて、自分の方にも来てくれというのである。
かの国の事だから、軍閥とでも考えてるらしかったが、眉唾な話と、もちろん取り上げる事はなかったし,出来もしない話だった。

軍公路沿いだから,昼夜各部隊の往復が続いた。従って時折敵機の襲来があった。夜はないが昼間はよく通過部隊がやられたりした。上田冲あたりから山あいのつづらおりの道の連続で、敵も責め難かったと思うがやはり思いがけず攻撃して来たりした。
このとき始めて落下傘爆弾というのを見た。低伸性の人馬殺傷用の新型爆弾らしい。
通過部隊が6人死傷した。木の枝に一つ引っかかって残ったので、遠くから銃撃破壊した。

私たちの家を取り囲んでいる山の北側に30個ばかりの部落があったが、取り残された犬、猫がいるだけで、家財もろとも避難して誰もいなかった。
時々裏山に登って頂上から俯瞰したが、ものの動く気配はいつもなかった。
うねうねと続く深い谷が奥深くつづき、地図で見るとツーチン山という1000メーター近い山の山麓につながっているらしい。

しかし9月に入って本格的に雨期が到来した。
雲が深く雨も多かったが、飛行機が飛べる状況ではなくなった。
昼の往来が圧倒的に増えた。

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