« 素人時評 | トップページ | 私の戦争/初年兵 »

2009年7月 1日 (水)

私の大東亜戦争

7月1日(水)雨
3日間降り続く。いかにも梅雨らしい。
朝9時半、今田君からのニューギニア戦記のおくりもののお礼をしたためたので投函に出かける。
数え年90歳の後半を迎える。満89歳は後半年と21日である。
どちらにしても余命はわずかだ。

もう一度思い出を掘り起こそうと思い立った。そして何を於いても先ず兵隊だと。
今田君のニューギニア戦記は大いに刺激となった。

昭和16年1月25日に運命の火ぶたが切られた。
一度数年前書いたことがある。重複の部分が多いだろうが、ブログにはまた変わった味がある。
思い切って始めることにする。
 _________________________
昭和16年1月25日。長い長い一日だった。
早朝山陽線麻里布駅(2年くらい前岩国市になっていたから、岩国駅となってたかもしれない)の駅頭で市民の見送りと激励をうけ、2年先輩の藤本さん、同級生の吉川君そしてはじめてお目にかかった深海さんと私の4名は市役所の兵事係重田さんの引率のもと広島行きの列車に乗り込んだ。
(通常徴兵による入隊は2年後には満期除隊が常だった。だからこのような送迎の儀式はなかった。
しかし戦争が激しくなり、生還は期し難い時代になった。入隊と言っても満州だから第一線である)

入営部隊の名前は”ハの53部隊”集合場所は広島市袋町小学校であった。
身体検査が終わるとすぐ下着から一切軍装に着替えさせられた。
各人あらかじめ決められた中隊に配属させられ、私は第2中隊の伊達軍曹の指揮下に入れられた。そして同じ班の10ばかりの仮班長を命ぜられた。
全部で300名ぐらいいたであろうか。この中に同じ学校の同級生小田.水田、述本、斉藤、野村、小林君と私の合計7名がいた。

午後徒歩で初の軍服姿で宇品まで歩く。沿道の市民の声援を聞きながらの行進だった。
宇品港につくやはしけに分乗して沖合に停泊している御用船に往復して運ばれる。岸壁には聞きつけた市民が多数群がり別れを惜しんでくれた。顔見知りの同級生も何人か見届けられた。

船は他の部隊と混載らしく、千人以上はいたのではないか。夜に入って知らない間に出航した。
どこに向かっているか知らされず、2日、3日と海上を漂う。
貨物船の空洞に段差を作って、兵隊の座席をしつらえたもので、中底にホールが出来、上から眺められるようになったいた。余興が盛んに行われ、賑やかなものだった。北海道から沖縄の民謡まで披露され、全国から集まったのではないかと思われた。
数日が過ぎた。どこに立ち寄るでもなく、一体どこまで行くのかと思ってたある朝、ごりごりと船壁をこする音が聞こえる。甲板に出てみるとどこかの港に入らんとしている。ごりごり言ったのは一面の氷であった。
船員に聞いてみると、羅津だという。新しく建設中の北朝鮮の港だった。
1月30日有蓋貨物車を連ねた列車で、20人ぐらいづつに分散させられる。駅らしい駅とも見えなかったがそのまま羅津を発車、北上を開始する。31日国境の豆満江を渡る。

ときどき途中停車して、給養を与えられたり.用便させられたりする。荷物車だから外を見ることはできない。
どこがどこやら皆目わからない。

1月3日。突然停止して下車の命令が響き渡る。
ドアを開いてみると白ガイガイの平野のど真ん中。どうしたんだとうろうろしていると線路横の道路にトラックがずらっと並んでいる。それに乗れという。
中隊ごと班ごとに乗せられて、あっというまに近所にあった兵営のなかに運び込まれた。
私の中隊は第2中隊、中隊長は望月中尉という。精悍そのものといった武人らしい人だった。

輜重兵といっても自動車だけの大陸特有の輸送機関というわけである。
この雪と氷の荒野、暑くなれば湿地と泥濘の荒野で輸送任務を果たすということを否応なく教え込まれた。
あっという間の十日間だった。
 ______________________

|

« 素人時評 | トップページ | 私の戦争/初年兵 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/45506753

この記事へのトラックバック一覧です: 私の大東亜戦争:

« 素人時評 | トップページ | 私の戦争/初年兵 »