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2009年7月12日 (日)

戦場に入る

今田君から昨夕お礼を兼ねたはがきをもらった。こまめなことである。丁寧にはがきいっぱいに書いてある。
昨日スーパーにいった時、カウンターの側に立てかけてある雑誌棚から、文芸春秋を引き抜いて勘定に加えてもらう。
表紙に「奇跡のピアニスト」母の手記とあるのが目のついたからである。
アメリカのクライバーン・コンクールで優勝した辻井君のことが余さず書かれている。まことに誇らしい。
同じ雑誌の中にある「米英を畏怖させた三人の艦長」にも感心した。よくぞ発表してくれた。負けたとはいえ、掘り出せばまだまだ誇るべき業績があるはずだ。老人たちよ気張れ!

今朝も霧が立ちこめて、天候がはっきりしない朝だ。6時気温24度。梅雨が去ってもこんな感じの天気が続くのではと思ったりする。

午後風呂の追い炊き回路の汚れを掃除する。2年ぶりくらいだから凄い量のよごれが出て来る。
冬期はどうしても追い炊きする回数が増えるから、回路にたまる量が増える訳だ。
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私の戦争/中支戦線へ
 昭和19年4月5日我が独立自動車第31大隊はその全車両約200台を鉄道貨車搭載し、兵員のそれぞれ別個の有蓋貨車に乗り込み、住み慣れた斐徳の地から訣別した。
列車数が何個だったか覚えていないが、私の隊は最後尾を承って、長い長い列車の尻をもじもじと動いて行った憶えしかない。

一旦進行を始めると、手旗以外に連絡の取りようのない当時の部隊では、ほとんどこちらの意思表示など出来ないままのあなた任せの旅であった。
食事の分配はどこで作られるのか記憶がないが、当番兵が受領して持って来てくれるのが普通だった。
名も知れない駅構内や時として曠野のど真ん中に停車して、食事や排泄などが線路脇を利用して行われたこともあった。
4月とはいえ、まだ白がいがい零下の凍結した満州の天地は、のんびりと落ち着いた行動を許さなかった。
出発途端から臨戦態勢にいることを、いやでも思い知らされることになった。

勿論一般の列車も走る線路を走るのだから、予定も何も知らされないし、停車したまま何時間も動かないこともしばしばあった。
恐らくハルビン、新京、奉天など都会を抜けて来たことは間違いないのだが、気づくことはまるでなかった。
機密保持は厳重に保たれていた。

何百キロ来たか、4月10日めざとく見つけた兵隊の甲高い声で.山海關を通過することがわかり、それらしい城壁をちらと覗き見て、目的地の支那に入ったことを知った。
この時点で関東軍の隷下を離れ支那派遣軍の隷下に入った。

津浦線を南下するにつれ、どんどん気温が上がり、防寒服ともお別れである。
外を覗いてみるたびに麦の背丈がどんどん高くなって行く。小説や流行歌で著名な「麦と兵隊」がこの付近を描写しているのを思い出したりした。

4月12日浦口着。夜を徹して連絡船に列車ごと乗り込み、揚子江を渡る。暗くて何も見ることは出来なかったが、数時間もかかったので、その大きさは何となく理解出来た。
列車はまた鉄道線路に入って、終点の蕪湖に13日到着。自動車を貨車から下しやっと解放された。Gunyoukasya

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