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2009年7月14日 (火)

自動車尾根を行く

また霧の朝、何も見えない。気温26度。

灰色に空に変わりはないのだが、雲があるのかないのかはっきりしない。しかし午前中にはかんかん照りになる。
おかしな天気である。
午後1時やっと青い空が顔を出す。
それでももやがベールのごとく空にかかり,青空を紺碧からうすめている。

前の家でクレーン車をいれて、大きな音を立てて工事をしていらっしゃる。やかましいけど邪魔にはならない。
ただ何をしてるんだろうと,要らぬ節介だけど多少気にはなる。このくそ暑いのに。

午後2時ベランダの温度、影の部分でも34度。熱気が舞い込んで病気になりそう。

防衛省の防衛研究所に戦争中の陣中日誌などがあるという。自動車第31大隊のそれを一度見ておきたいと思う。
私の資料との違いを確かめたいし、行動日時が本部と随分離れた時期もあるので確認したい。

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私の戦争/中支戦線その3
5月10日やっと前進命令が出た。ゆっくりと車列を組んだまま昼夜を分たずのろのろと前進。咸寧付近から南下崇陽方向に向かう。山中で数日か十数日か待機。戦争というのは根気のいるものである。特に後方部隊というのは、期限などというものはない。
5月27日第1次湘桂作戦が火ぶたを切る。第一線が一斉に敵防御ラインを突破して長沙にむかったことを聞かされる。

今度の作戦は第3次長沙作戦というとのことだ。京漢打通作戦に引き続く粤漢打通作戦の始まりである。
北京から広東まで打通しようという狙いだが、戦争の集大成にでもしようと大本営は考えたのであろうか。

6月に入ってようやくのろのろと雨の中を動き出す。
徒歩部隊のごとくちょろちょろと何処でも動き回るというわけにはいかない。
道と言ってもろくな道はない。ちょっと水深の深い小川は橋を架けて渡らねばならない。
崇陽付近に達すると激戦のあとらしく人馬の屍体がまだ散乱している。その腐臭の凄さにあきれる。

雨の中の暗夜遅々として動かぬ自動車のすぐ横には、蛆で白く覆われた人馬が横たわり、腐臭にへどを催すといえども逃れるすべはない。人魂が飛び交う異様な光景は戦場でなければ目にする事はない。戦場の初体験は弾丸のそれではなかったが、正に痛烈度肝を抜くものであった。

夜が開けても、ほとんど進んでいない。
カンパンを齧りながら、付近の探索をする。山中を分け入ると療養所の隔離家屋のようなものに出くわし,鼻や唇が欠けたりした異様の人たちがぞろぞろ出て来たりして驚く。

池の魚を捕ろうと探って、八つ目鰻がたくさんとれる。骨ばかりで食えたしろものではなかった。

崇陽付近を過ぎると、道路は敵軍が破壊除去していて、痕跡すらない。
仕方なく友軍が臨時に作った道路を山に登り,谷を渡り依然としてのろのろ行進がつづく。
我が隊は部隊の最後尾だから、先行を急ぐ砲兵などの一戦部隊が,割り込み先行させろと強要するなど、てんやわんやで本隊からは遅れるばかりであった。

7月に入った頃から、ほとんど山の尾根を走る事になった。
この頃空中戦を演じていた友軍が制空権を敵に奪われたらしく、ほとんど援護しなくなり,敵機の跳梁に任せる有様ととなった。
僅か数機の敵機にでも襲撃されて炎上し、燃料弾薬に引火するなど,各所で道路を塞ぎ,渋滞はますます激しくなった。
昼間は行動不可能になったので、夜間だけしかも無灯火で進まなければならなくなってますます動きが遅くなる。

職掌がら、空襲被害を調べるため前方まで何キロも歩いて廻ったが、とうとう部隊本部にはたどり着けなかった。
昔の部隊は連絡手段を持たなかったのだから万事窮することになってしまった。

作戦を立てた参謀たちはどんな考えで戦を始めたのだろう。
あまりにも前時代的だと言わざるをえなかった。いや自動車隊は出来たばかりで、扱い方がまだ分かっていなかったのかもしれない。民間の普通のトラックを転用したものばかりで、しかも敵アメリカ産の車ばかりだもの。

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