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2009年7月21日 (火)

広東橋を去る

こうして連日雨がつづくと65年前の湖南の里を思い出さずにはいられない。
田園風景といい、山の姿といい、まったくここらと似通っていて当時なんだか郷里を走り回っているような気がしたものだ。緯度は沖縄県と同じだから秋から冬にかけても寒さなどは全然感じない毎日だった。
しかし秋の長雨は不思議な感じだった。あの時もよく降ったなあ。
敵機は全く来なくて助かったのだったが。

朝6時40分又雨の音が激しくなる。南からの風に押されて雨だれが窓を叩く。
食事を済ませても夜がつづいて、やはり寝ているのが無難だ。
こちらはどうでも良いが、悪石島の皆既日食は明日の朝9時頃というが大丈夫かな。

午後に入っても一向に降り止まない。この付近一帯に災害警報が発令される。
河川の増水が著しいか。
山口県がひどく新幹線も高速道もあちこちで交通止めになる。
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私の戦争/湘桂作戦その5
 第1分隊へ連絡のため、夜間伝令の安藤上等兵の運転でだるまで走った事があった。
軍公路ぞいの山から信号弾が飛び交いこれはまずかったかなと思っているうち、同じ思いの安藤が全速力で飛ばした。ひょっと気がつくと座席の下から煙を出している。
あわてて止めたはよいが、今度はエンジンがかからない。
狭い谷間の道、数人の敵兵でも、こちらは小銃一丁では戦えない。万事休すと思ったが、暗闇の中敵情らしき気配は見えない。
息を殺しているうち3、40分も経った頃友軍のトラックが通りかかった。
危うく助かったという一幕もあった。

統集団司令部が一時的にあった、南岳市に2度訪れた。風光明媚な山水で街が賑やかだった。
南岳というのは支那五岳の一衡山のことをいった。山頂近くまで寺院が立ち並び、下からの眺めは壮観だった。
10キロも離れた湘江河畔に別に衡山という大きな街があった。
ここに駐留していた第2中隊でコレラが発生し、5名だったか兵士が戦死した。

ながらく班内で臥せっていた斉藤栄一等兵が10月9日とうとう息を引き取った。簡単な葬儀の後枯れ枝を掻き集めて、家の裏庭で焼却した。我が隊始めての戦死者だった。軍医の診断では脚気衝心ということだった。
作戦の最中だし、郵便の手段もなく故郷へ知らせるすべはなかった。

我が軍は何条にも別れて南嶺山脈を横断突破し、11月初め桂林を包囲占領した。

12月中旬部隊は零陵ー全県間の輸送任務に変更され、ぞの前進に伴い第1分隊は全県に前進、材料廠も12月下旬長かった広東橋駐留に別れを惜しみつつ、前進を開始した。

このときやはり胃腸病で臥せっていた浅川上等兵を易俗河の兵站病院に入院させた。つれていってくれと泣いて懇願されたが、こころを鬼にして突き放した。
彼は翌年5月武昌で帰国途中に隊に元気で帰還し、一緒に揚子江を下った。
戦後彼との付き合いは彼が数年前亡くなるまでつづいた。特に東京日本橋のレストラン・エルムに居る頃はよく逢いに立ち寄ったものだ。(写真は昭和47年頃店に訪ねて撮ったもの、浅川君は私より3歳ぐらい年長だったかな)

大晦日、激戦の痕が生々しい衡陽に入り、敵兵の骸骨のごろごろしてる中で野営した。
自動車廠との連絡と燃料受領の用件があったから仕方がなかった。
昭和20年1月1日朝、雑煮はあらかじめ広東橋で搗いて来た餅に、粉醤油であじをつけ鰹節を削っていれた豪華なものだった。
Asakawa_me

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