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2009年7月 1日 (水)

私の大東亜戦争

7月1日(水)雨
3日間降り続く。いかにも梅雨らしい。
朝9時半、今田君からのニューギニア戦記のおくりもののお礼をしたためたので投函に出かける。
数え年90歳の後半を迎える。満89歳は後半年と21日である。
どちらにしても余命はわずかだ。

もう一度思い出を掘り起こそうと思い立った。そして何を於いても先ず兵隊だと。
今田君のニューギニア戦記は大いに刺激となった。

昭和16年1月25日に運命の火ぶたが切られた。
一度数年前書いたことがある。重複の部分が多いだろうが、ブログにはまた変わった味がある。
思い切って始めることにする。
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昭和16年1月25日。長い長い一日だった。
早朝山陽線麻里布駅(2年くらい前岩国市になっていたから、岩国駅となってたかもしれない)の駅頭で市民の見送りと激励をうけ、2年先輩の藤本さん、同級生の吉川君そしてはじめてお目にかかった深海さんと私の4名は市役所の兵事係重田さんの引率のもと広島行きの列車に乗り込んだ。
(通常徴兵による入隊は2年後には満期除隊が常だった。だからこのような送迎の儀式はなかった。
しかし戦争が激しくなり、生還は期し難い時代になった。入隊と言っても満州だから第一線である)

入営部隊の名前は”ハの53部隊”集合場所は広島市袋町小学校であった。
身体検査が終わるとすぐ下着から一切軍装に着替えさせられた。
各人あらかじめ決められた中隊に配属させられ、私は第2中隊の伊達軍曹の指揮下に入れられた。そして同じ班の10ばかりの仮班長を命ぜられた。
全部で300名ぐらいいたであろうか。この中に同じ学校の同級生小田.水田、述本、斉藤、野村、小林君と私の合計7名がいた。

午後徒歩で初の軍服姿で宇品まで歩く。沿道の市民の声援を聞きながらの行進だった。
宇品港につくやはしけに分乗して沖合に停泊している御用船に往復して運ばれる。岸壁には聞きつけた市民が多数群がり別れを惜しんでくれた。顔見知りの同級生も何人か見届けられた。

船は他の部隊と混載らしく、千人以上はいたのではないか。夜に入って知らない間に出航した。
どこに向かっているか知らされず、2日、3日と海上を漂う。
貨物船の空洞に段差を作って、兵隊の座席をしつらえたもので、中底にホールが出来、上から眺められるようになったいた。余興が盛んに行われ、賑やかなものだった。北海道から沖縄の民謡まで披露され、全国から集まったのではないかと思われた。
数日が過ぎた。どこに立ち寄るでもなく、一体どこまで行くのかと思ってたある朝、ごりごりと船壁をこする音が聞こえる。甲板に出てみるとどこかの港に入らんとしている。ごりごり言ったのは一面の氷であった。
船員に聞いてみると、羅津だという。新しく建設中の北朝鮮の港だった。
1月30日有蓋貨物車を連ねた列車で、20人ぐらいづつに分散させられる。駅らしい駅とも見えなかったがそのまま羅津を発車、北上を開始する。31日国境の豆満江を渡る。

ときどき途中停車して、給養を与えられたり.用便させられたりする。荷物車だから外を見ることはできない。
どこがどこやら皆目わからない。

1月3日。突然停止して下車の命令が響き渡る。
ドアを開いてみると白ガイガイの平野のど真ん中。どうしたんだとうろうろしていると線路横の道路にトラックがずらっと並んでいる。それに乗れという。
中隊ごと班ごとに乗せられて、あっというまに近所にあった兵営のなかに運び込まれた。
私の中隊は第2中隊、中隊長は望月中尉という。精悍そのものといった武人らしい人だった。

輜重兵といっても自動車だけの大陸特有の輸送機関というわけである。
この雪と氷の荒野、暑くなれば湿地と泥濘の荒野で輸送任務を果たすということを否応なく教え込まれた。
あっという間の十日間だった。
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2009年7月 2日 (木)

私の戦争/初年兵

初年兵
 自動車第3聯隊という部隊であった。呼称は聯隊でも編成は本部と4中隊、および材料廠からなっていた。兵舎はレンガ作りの内地のそれと外観は変わらなかったが、内部は酷寒地だから、もちろん窓は二重、丸い大きなペーチカが部屋の真ん中両端にあり、上級兵が当番で守をしている様であった。
兵舎の真ん中を幅一間の廊下が貫き、外に向かっての通路が3カ所あり、板張りの真ん中の通路にはそこで靴と営内靴を履き替えていた。
中隊の兵舎は隊長室,将校室、事務室、下士官室6、兵室6に分かれ、兵室は隊長室に近い方から1、2、3、4、5.6班と呼ばれた。
1班は兵長以下が居住し、入営後3年目の3年兵、2年目の2年兵、そして我々初年兵であった。
階級差などを序列と一口に言ってたが、序列の厳しさは大変なもので、特に年次差軍隊特有の階級の上下差が存在した。
この上下差の違いが、指導と言う名の暴力を発生した。関東軍のこの暴力制裁は全日本軍にも知れ渡っている程著名な事実だった。
いいお客さんが来たとばかり、入営まもなく鉄拳制裁が始まった。
おそらく同時多発的に各中隊一斉に始まったことだろう。
1班12名の初年兵は当然のこととして、掃除、洗濯、配膳(食事)、着替えなど班内の全部の仕事を受け持たされた。2、3年兵一人づつを初年兵一人が担当した。
その他に廊下(真ん中の通路)に沿って鉄砲(騎兵銃)棚があり、兵全体の銃が並べてあったが、これは使う使わないに拘らず、毎晩手入れをするのが初年兵の仕事であった。

これらの業務を内務と言ってたが、もし落ち度があったり手ぬかりでもあれば文句なく制裁の対象だった。
私は銃の手入れをしているとき、にこっと笑ったと言って2年兵に手ひどいびんたをくらったことが何度もあった。わたしの癖であって仕方がなかった。ちょっとしたミスなどで自分でおかしくなるのである。

朝夕点呼と呼ばれる集合時間があり、この際いっぱんの注意のほかに服装、態度、返事の仕方などでよく制裁が行われた。私の所の班長はとくにひどかった。やさしい班長もいたのだが。
特に幹部候補生候補の私にはきびしく毎日みんなからの制裁を食わないことはなかった気がする。
点呼のとき2班では同郷の藤本さん、3班では私と毎晩びんたをくらって、ハイッ!ハイッ!と大声をあげていたことを覚えている。藤本さんも幹部候補生資格者だった。

鉄拳制裁は当時は中学時代流行っていたから別に怖くはなかったが、ただ大人と子供それは程度が違っていた.大抵口の中を切り、耳が聞こえなくなり、藤本さんのごとく兵士として失格するということも沢山あった。私は幸い1月ぐらいで耳がよくなり支障がなくなったが。
兵としての能力は中隊一と自負していたので、困難にはへこたれなかった。
幹部候補生試験では中隊トップで合格したと思っている。
しかし夜寝床の中、星空のもとで悔し涙にくれたものである。

考えてみると、軍隊は徴兵制度で出来ているのだから、決して一枚岩ではない。
極端な言い方をすれば、大学出もいれば、小学出もいるし、百姓、商売人、自動車運転手、職工いろいろなんでもいるわけである。
ある晩入浴場で営内靴をとられて、裸足で零下20度の氷の中を走って帰ったことがある。
盗られることを員数をつけられるという。軍隊では何でもこれが流行っている。ということはそれをするものが沢山いるということである。
干し物などはわざわざ当番をつけている。
善意だけでは過ごせない。

軍事教育は学校で8年間も習って来ているし、自動車関連が始めてだったから、努力は人一倍した。
赤松教範というのを母に手紙して買って送らせ勉強した。理屈だけは技術者並みに理解した。
試験成績でも問題なく上位をしめていたので、副班長は特にその点を賞賛してくれ、かわいがってくれた。
担当の3年兵も優秀兵を選んで特別外出に連れて行ってくれたりした。

3ヶ月目に幹部候補生試験があり、パスしたものは別班に集められたので、初年兵の期末試験を経ることなく、新しい教育過程へ進んだ。

正式な幹部候補生任命は5月1日で同時に一等兵に進級した。
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2009年7月 3日 (金)

梅雨のおかげ

気温20度と少しひんやり。雨の日がつづいたので、うちの内外が冷たくなったらしい。
それにしても今度の雨は人間どもを助けてくれた。
今朝の新聞では八田原ダム以外は殆ど満水状態になり、今度は洪水の恐れが出て来た程である。
心行く程水が呑める訳だ。

林田さんから先般の宮島ゆきの写真など送って来る。
孫の顔を見に行ったり、今度定年退職したスーパーにボランティアで掃除に出かけたり、積極的な彼女らしい忙しさで明け暮れている由。別れてからどうしてるのかなあとちょっと心配していたのだが杞憂だったようだ。
すぐ方向転換出来る若さがうらやましい。

叔父さまの戦死状況探求に熱心な松田尚樹さんには、思い出すことはすべて書き送ったつもりだが、一応納得して貰えたらしい。今月に入ってからは、メールの速射が途絶えたようだ。

同窓会の席で今田君から戦場体験を聞かされ、最先端にあった戦場の苛烈さをしみじみ聞き知った。
それやこれや、急に私も戦場記録をもう一度調べ直して、ブログにでも載せようと発心し書き始めた。
持病の関節性乾癬の後遺症で指がまともには使えないので、遅々として作文がはかどらない。
やはり年を取りすぎたようだ。
もう今は行ける所まで、ままよというきもちである。
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幹部候補生
 全部隊から20数名選ばれ、、集合教育が始まった。教官は陸士出の私たちとほぼ同年輩の立間中尉であった。
陸士出らしく活発な偉丈夫だった。厳しさの中にやわらかさもあり、実に楽しい4ヶ月間であった。

5月になると氷が溶け始め、兵舎のすぐ前面数百メートルまではひたひた水が押し寄せ、地表はいわゆる湿地帯と化してしまった。春秋に咲く野花が一斉に咲き乱れ、素晴しく美しい光景に一変する。
教育は高地の、湿地を避けて、陸上訓練は行われるが、自動車となると湿地も避けては通れない。
湿地通過はソ連相手の訓練では最重要な課題だった。来る日も来る日もこれには悩まされた。
実際の戦場では自動車部隊はお荷物以外のなにものでもないと悟らされた。

乾燥期に入ると、誰がつけたか野火が襲って来た。40キロ向こうはソ連である。まさかと疑ったが原因は分からない。弾薬は野原を掘って地中に埋め、雨よけだけしてある体裁だから大変である。
地区の各部隊総動員で野火を防いだ。誰も野の管理はしないのだから、前年の枯れ草をまいて突っ走るように燃え且つ飛んで行くさまは全く壮観である。えんえん数十キロに亘って数日間も燃え盛るのである。
下は湿地だから一過するともう何でもないが、始めての経験だから驚いた。

凍結が完全に融けると、ハンカ湖の水位が上がり、ひたひたと兵舎近くまで押し寄せて来る。朝日に反射してぴかぴか光る水面の美しさはこれまた一種の風物詩と言えた。

6月20日上等兵に進級、7月1日甲種幹部候補生を命ぜられた。
教官や助教たちの印象で選別されたのであろう。20名が甲種となった。
教官は立間中尉の同期で山崎中尉に変わった。落ち着き払った理知的な教官だった。
教育も将校にふさわしいものだったといえる。

6月27日関東軍臨時甲種特別大演習が発令された。事実上の対ソ動員であった。
部隊は編成替えせられて、独立自動車第69大隊となった。
動員せられた新しい部隊がぞくぞく到着し、野戦輸送司令部や別に2個大隊この地区に加わった。
こんな遮蔽のきかない野っ原で、撃たれればすぐ燃え上がる自動車が役に立つのだろうかと疑ったものだ。
しかし輸送手段は他にない。軍はどうするのだろう。
素人の私でも成算はまるで見えなかった。
軍司令官は山下奉文中将と伝えられた。

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2009年7月 4日 (土)

心臓の薬変わる

昨夕内藤内科に出かけ診察をうける。心臓は年相応に弱ってはいるが、悪い症状はないから心配することはないといわれる。食欲不振については、薬の副作用が考えられるので今日からかえることにするのこと。
今度はニコランマートとアーチストという錠剤になる。

昨日千代は娘らをつれてガムに行ったらしい。暢気なことだ。
ガムなら新型インフルの心配はないのか。

昨日午後散歩のため植物園に行ったが休園だった。しかたがにので近くの運動公園に行き広い園内をそろそろ歩く。人は少ないが、立派な公園だ。眺めがいいし、空気もいい。損して得した感じ。

今朝は気温も20度とまあまあだが、一面にもやって天神山から沖は何も見えない。いつもよりひどい。
雨になるのかなんともいえない。

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私の戦争/幹部候補生その2
教育も基礎的なものを終わって、自動車行軍的なものが多くなる。近郊の開拓団訪問、虎頭要塞見学、東安国境視察などなど。特に虎頭でのウスリー河対岸のソ連側監視設備、そして要塞内部などこれは凄いなと感じた。
この間に対ソの戦争準備が真剣にすすめられて居ることに気づいた。
もう引き返しがつかないなと感じた程だ。

夜間の非常呼集も何度か行われて、兵の緊張を高めた。
兵営内ももう1個大隊が入って、窮屈になった。車種は米国製が主力だが、シボレー、フォード、日産、いすず、トヨタ、などが多く、ヒルマンなどというのも僅かにいた。ことごとく中古車で能力のばらつきはひどかった。
道路も悪かったが、故障はつきもので行軍がスムースに行くことはまずなかった。

これだけの車を無理矢理徴集したのだろうが、された方も困っただろうが、おんぼろ車で戦えるのかと我々は心配が先に立った。
第2中隊は全部Fordの38、39年型だった。比較的性能の良い,事故の少ない中隊だった。
私は懸命に構造その他原理にまで研究を続けたから、車には詳しくなったが、他のものはどうだったか、ついていけなかったものが多かったのではと思っている。
他の車は理論は比較的分かり良かったとは思うが。

軍隊は学問だけでは駄目なことはよく承知したが、一歩先んずれば自信につながる。因循だった私がこのころ頗る積極的になり、実兵指揮など進んでやり教官にほめられたりした。

9月東京の輜重兵学校行きを命ぜられ、9月16日甲種幹部候補生20名は斐徳駅出発故国への旅についた。
ハルビン、新京、奉天を乗り継いで、20日大連到着、翌日軍用船に乗船、25日宇品に入港、一旦似島で検疫を受けた後翌日関東軍各部隊から集まった二百余名の将校の卵たちは、宇品から徒歩で広島東練兵場まで約10キロを堂々市中行進した。市民歓呼の中を正に凱旋気取りで歩いたものだ。

大連を出る前こっそり行きずりの日本人市民に依頼して手紙を母に送ったのだが、母と妹は門司につくかと思ってそちらに向かい訪ねたそうだが分かる訳がない。こちらはとも知らず市民に混じって手を振ってはいないかと、目を皿にしてみたが、居る筈はなかった。
何事も秘密裏に運ばれる軍事行動だから、一兵士の浅はかな行為が通用するはずのものではなかった。

軍用列車が広島駅の東側練兵場脇に横付けされ乗り込む。不定期に走って東京に向かう。めざとく我々を見つけた市民が手を振って歓呼の声を上げた。
大東亜戦勃発を後2月に控え、戦意がいやが上にも高まった時期だった。
戦争へ戦争へと国民の意識が一色になっていた。
東條さん一人を責める訳にはいかない世情だった。

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2009年7月 5日 (日)

戦争勃発の思い出

体調が不思議によくなって食欲が出て、何でも食える.自分でも訳がわからない。
内藤内科の薬は今朝から変わったわけだが、それにしても効果がはやすぎる。
とにかくわけがわからない。
まあ一喜一憂は止めよう。自然体でゆこう。

最近又身体が痒い。チガソンを呑み、塗り薬はちゃんと塗ってるのに。これまたわからない。何十年にもなるのに医者先生にも分からないのだからどうにもならない。

暇な老人だから、思い出を書くには都合がよくたっぷりと時間もある。ただし記憶の方がだんだんおかしくなっているので、いきおい昔書いたり残した記録をひもどかねばならない。
こうなると予想したわけでもないが、ワープロやパソコンで保存したものがばらばらではあるが、凄い量残っている。
急に探し始めたのだが,結構大変な作業になりそうだ。
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私の戦争/幹部候補生その2
 列車は凱旋部隊を乗せた雰囲気のまま、歓呼の声を尻目に山陽線、東海道線を走り抜けた。
東京のどの駅でおりたか、降りるとすぐトラックに乗せられ、世田谷の陸軍自動車学校に運び込まれた。
点呼の後区隊分けがあり、私は第5区隊所属となった。区隊長は橋本少尉だった。女性的な穏やかな隊長だった。
大きな食堂で夕食が終わると、三十以上のベッドが両脇に並んだ、なが細い部屋に決められた順に寝る訳である。

自動車修理が一番大変だったかな.いままでの軍隊生活と違って学校らしく戦術、兵器、そのた軍務に関する科学的な授業が多く、術科と称する身体的訓練が少ないので楽なものであった。
ときどき松陰神社まで走らされたことがきつかったのを覚えている。
代々木の練兵場に自動車操縦訓練に何度かいったことが面白かった。渋谷の駅前を交通遮断して全車両が通り過ぎるのは快感がふくれあがった。若者のめだちがりのそれである。
自動車の遠乗りは楽しかった。
そういえば夜中の非常呼集も何度かあり、運動場を走らされるのはくるしかった。

そして12月早々富士裾野の駒門演習場での訓練が始まった。第1次野外演習と称した。
校門を出て厚木、大磯,秦野、小山、御殿場と移動した。大磯では松林を利用してテント宿舎。
2日がかりの行軍だった。
舗装のない道を20台以上のトラックの縦列は、住民を驚かし、長尾峠の蛇行する山路をえんえん数キロに渡る隊列は、我ながら壮観と映ったものである。


当時の車だから、平均時速10キロ、世田谷~大磯、大磯~駒門それぞれ8時間と旅程表に書き残されている。
ほとんど未舗装の砂利道だから、砂煙が激しく、後続の車上に乗車しているものたちは、まともに砂塵を浴びて大変だった。

駒門廠舎というのは、兵舎そっくりの建物で違和感はなかった。規則正しい主に歩兵戦闘訓練が行われた。
最後になった12月8日は伊豆半島に向かって自動車隊の路上訓練が行われた。
道路の周辺ではみかんの収穫が盛んで、箱ごとトラックに投げ入れてくれる人たちも居た。
いつもながらの歓呼を浴びながら修善寺に入って昼の休憩となった。

私たちはとあるレストランに入り,お茶の接待を受けながら弁当を食べていた。
店の大きなラジオの流すニュースが突然耳に飛び込んで来た。
ハワイ奇襲の戦果と日米開戦の東條首相の甲高い宣言であった。
とうとう始めたか、覚悟はしてたが、これでもう生きて故郷の土はふめないなと、ガクッと来るようなあきらめの心境だった。
早速演習は中止となり,昼夜兼行で学校に帰った。
翌日からは戦時服装に着替え実弾入りの銃を持って行動することとなった。
Chizu
Hakone
Break
Tent
Ensyu

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2009年7月 6日 (月)

ひいまご

昨日午後になって,井上のものたちが、雅代と彩寧をつれて突然やってくる。

彩寧はすっかり大きくなって,動作が激しい、机にすがって簡単に立ち上がり素早く左右に移動する。手に触るものはたちまちおもちゃになる。親の言うことはよくわかるらしく,すぐ反応して動作に移る。
よく肥えていかにも元気、いうことはない。
主役は完全に彼女のもの。みな振り回されて口あんぐり。
一時間以上居て帰って行く。原爆の日が誕生日である。もう間もなく1歳になる。
滅多にあったことのない私は終始相手にしてもらえなかった。
Ayane

今朝なんとなく起き辛い。
昨日婿から教えてもらったソフト”宅ファイル便”での送信がどうしてもファイルごとになってフォルダーでは送れなかったので、今朝もう一度今度はフォルダーを圧縮しておくって見る。そしたら一つのファイルと認めてくれたらしく送信可能となった。
婿もちらと圧縮してと言ったようにも思うのだが、その時は聞き流していた。

これで添付書類の制限1MBを超えて楽に送れるようになった。ただしこれでも100MBが限度ではあるが。
灰色の空は終日変わらなかったが、その雲を通しての穏やかな日光が,暑からず寒からず、くらしよい天気にしてくれた。
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私の戦争/幹部候補生その3
 この日昭和16年12月8日は私の記憶の中でも最も鮮明な一日として残らざるをえなかった。演習に同行したカメラマンもよくこの日の写真を撮り残してくれたものである。こうして現在まで生きながらえてみれば,最大の追憶証拠となった。
1週間程度の富士山麓での訓練体験だったが、真近に仰ぐ富士の峰はその印象まことに強烈であった。特に夜半歩哨に立つと、山の威容が正に白扇逆さに天に架かるに似て、まざまざと心の底まで残された風景ではあった。

軍を挙げて東に西にはた南に北に戦火を拡大しているのだから、当然我々も心身ともに臨戦態勢に移った。
最後の3月は火だるまのようになって打ちすぎた。

正月の2日に突然母と妹が上京して来て,面会を申し込んだ。正月休みでゆっくりしていた私も突然のことに驚いたが、外出許可を得ると勇んで外に出た。数年前まで近所に住んでいた山県さんの家に泊めてもらっているとのことで、先ずそこへの挨拶から始まって都心を終日あちこちつれ歩くことになった。
忙しく歩き回ったのだから,今となってはどこへ行ったか定かではない。
へとへとになって門限ぎりぎりに学校へ帰ったことは覚えている。

明日観兵式の日の前の夜,学校酒保で突然同級生の金出宇台君に出くわす。同じ寮で暮らしたことのある男である。明日の式に参列するという。彼は所沢の騎兵学校生徒だった。正に閲兵行進する側である。こんな時期だから正に一期一会の邂逅だった。

昭和12年2月最後の野外演習が愛知県渥美半島で行われた。天白、高師の原野で実践形式の2週間に亘る熾烈な演習だった。

豊橋駅では列車搭載の実戦訓練も行われ、後日満州からの移動の際には大いに役立った。

3月31日教育修了、曹長に進級同時に見習士官に任命された。
即日軍刀を購入し、帯刀して帰郷した。
郷里では母が親戚から刀を分けてもらい軍刀に仕上げて待っていた。
母の志を受け,戦地にはそれを携行した。この刀が最後まで行を共にし、武装解除で中国軍に引き渡す運命となった。

4月5日同士20名は下関で集合し、関釜連絡船で釜山へ、朝鮮経由で新京へ、一日滞在して勤め先の会社の上司、同僚などと久闊を叙し、その夜は先輩のお宅でお世話になり、翌日新京からハルビン経由で斐徳の原隊に復帰した.4月10日だった。
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2009年7月 7日 (火)

一瞬の邂逅に終わった金出君

昨夕遅まきながら,紺碧とは言い難いが,青空が空いっぱいに広がりすっかり好天気になる。
前線が北上するとの予報だったが、止めたのかな。風も涼しいし文句のつけようがない。

私の戦争を書きつないでいる関係上,日記の方は後先まちまちになり、自身でも迷いそうだ。

今朝6時半気温25度、もう熱帯夜ではないかと驚く。
連日宮島が見えない日々がつづく。
我が家からの眺望は今や最低である。
生きてる値打ちはいよいよ遠ざかる。

「ニューギニア戦記」を送ってくれた今田君に求めに応じて恥ずかしながらと,「私の軍隊生活」を郵送する。
苛烈な戦争場面をフンダンに織り込んだ「ニューギニア戦記」にとても読み物として比較にならないが。

ふと今頃になって”私の戦争”にも出て来る金出于台君(昨日書いた)のことが気になる。あの邂逅以来どうしたのだろうか。
戦後同窓会名簿ではいち早く死亡者リストに入れられていた。生真面目な男だっただけに率先して死地に赴いたのか。
秀才の多い下関中学出身だったが。

2005年11月10日上京した際,家内と娘を伴い,東京農大を訪ね、候補生隊の旧跡を尋ねた。
米軍が残したと思われる横文字の記念碑が庭の一隅にはっきりと存在した。RIKUGUN JIDOSYATAIの碑文も確認出来た。
運動場も残っていたが兵舎は当然瀟酒たる校舎に建て変わっていた。

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私の戦争/見習士官その一
 部隊に帰着すると,申告の後とりあえず5名づつ各中隊に配分される。もっとも出身中隊は避けて別の中隊に分けられる。
しばらくは部隊においての将校としての教育が続けられる,教官は山崎中尉が引き継いだ。
軍装を解いて改めて,軍刀を分解し銘をみる。美濃の国関の銘が入っていた.別に記録までしなかったので今は思い出すすべもない。アメリカ人などに負けるものかと、アメリカで数年働いてよく知ってるだけに軍国の母らしく気丈だった。

ほんものの兵隊に対する実兵指揮も何度かやらされて、結構面白い。
何よりも内務班の実地指導が愉快だった。馴れるに従い週番士官をとらされたり、兵隊たちとかかわり合うことが多くなり、気合いの入った見習士官のお返し指揮、指導ぶりであった。
非常呼集はやるは、点呼後のマラソンはやるはで、兵隊たちは驚いたらしい。ビンタも取られただけ取り返すとうそぶいた見習士官も居た。

見習士官は営舎の別室で一緒に寝起きした。もちろん当番が一人一人宛てがわれているから、身辺の雑事は皆当番にしてもらえる。そのかわり週番にて中隊の管理、巡察、警備など任される。
5月1日士官勤務を命ぜられ、同月15日材料廠付きとなった。得意な自動車技術理論の知識が認められたときいている。
兵器,情報係も兼務し、二年兵の教育にも当たった。
この二年兵の中に同郷の同じ日に入隊した同級生の吉川君が居た。同じ初年兵で来たものがかたや教官かたや生徒といった軍隊なればの珍風景もみられた。

8月15日突如2ヶ月間馬術教育を受ける様命ぜられ、輓馬部隊に出向することになった。
教育途中の9月15日東安にある軍貨物廠内部の運搬業務をする輓馬部隊独立輜重兵第54中隊へ転属を命ぜられた。
お上のすることは我々には分からぬことが多いが、自動車を1年以上も教育しておいて馬とはと腹がたったが仕方がない。が馬も乗ってみると面白い。馬場騎乗は辛かったが,野外騎乗は凄くおもしろく、よく雉子と追っかけっこしたものだ。近くの日本開拓村に立ち寄ったりして、遠い故国を偲んだりもした。信濃村、広島村など今でも目に浮かぶ。
10月15日命令通り赴任した。同じ中隊の初年兵で一緒だった脇君は牡丹江の輓馬部隊に転属した。
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2009年7月 8日 (水)

回り道

夜来の雨が降り続き,雨音で目覚める。朝6時半気温25度。夏はまぎれもない。
例年通り台風でもこなければ梅雨は終わらないだろう。

昨日スーパーで買い物をしている家内をカウンターの外で待っていると、乳母車の中で同じように母親を待っている幼児がおしゃぶりを手に、私をにらんでいる。顔をしかめたり合図すると顔をゆがめてまるっこい手足をばたばた動かす。OKなのかNOなのか私にはわからない。可愛いなあ。
昨日は結局過ごし良いいい天気だったが,今日は雨で終わりそうだ。
周平の文庫本をまた一冊買う。
帰宅するとまた読み始める。なにがなんでも読む。

朝すこし下痢気味だ。なぜか分からない。蒸し暑かったから夜中に腹を冷やしたかもしれない。夏布団をかけて寝るのだがだめなんだなあ。時には夜中に急に寒くて震え出したりするのに。

最近家内の手の指の腫れがすっかり引いて,炊事や庭の手入れに支障がないらしく元気である。
記念病院の薬が効いてるらしい。本人は薬が効きすぎて骨が溶けなければいいがと、それを今度は心配している。

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私の戦争/見習士官その2
 昭和17年10月15日赴任して,独立輜重兵第54中隊の第2小隊長を命ぜられた。部下が50名くらいで、身の回りをしてくれる当番兵が2名。見習士官だから当然営内居住で何から何まで世話してもらい全く殿様暮らしの毎日だった。
自動車隊とはまるで気風が違っていたが、やはり馬という生き物を扱っている兵隊は自ずから人間性が異なっていた。
長野県出身の兵隊が主だったので、そちらの風習とかで1時間置きにお茶が出るし,お菓子も机の引き出しに入れてあるという風な,当番さんの気の利かしようで、すっかり気に入ってしまった。
また勉強好きな兵隊が多く、教育の時間などには質問を沢山投げかけてくれ、個室までやってきて話し込むなどじつにやりがいのある兵隊たちだった。

馬も現地産のポニー種で小さく可愛いく、乗るのは楽だが,走るのはいささか乗り心地はよくなかった。
輓馬には結構耐久力があって向いていたらしい。
しかし演習に出ても,私は歩くのが得意でないので、いつも乗馬で行くのだが、小さな馬にちょこんと我ながら不細工な格好だったことだろう。
間もなく木材伐採のため、10キロ山中に入った所に演習と称して出かけ,野営しながら川でマスを沢山つり上げて楽しんだりしているうち、急に第7野戦輸送司令部に転勤させらることになった。1ヶ月たらずの惜しいような勤務だったが軍命もだしがたく、途中から単身演習地を去ることになった。

輸送司令部は東斐徳の4個自動車大隊の中間にあった。
10日間暫定勤務させられた後、11月17日には独立自動車第31大隊に転属、第3中隊付きとなった。
この部隊は関特演で召集編成され、留守部隊は近衞師団で東京近郊から召集された予備兵の部隊で、第69大隊と同じ営舎内にあった。
転属といっても隣に行くようなものだった。ただ兵隊の年齢が少し多く,車種はシボレーが多かった。

見習士官はその名の通り見習いだから、まるで責任がない。しかも身体が楽だし,自由が利くので,公務が終われば,毎日のように将校集会所に行き,玉突きはやるし,酒は飲むし,怖いもの知らずだったようである。
又野外に出てはやたら車を走らせて、原野に雉子を追ったり,ノロを射ったりしたものだ。
ずいぶん野方図にあばれたらしい。

12月1日少尉に任官、予備役編入、即日召集。同日付けで改めて第3中隊付きとなった。
Syoi

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2009年7月 9日 (木)

チチハルの大草原を思い出す

昨日は降り続いた雨に風まで吹いて、窓も開けられず蒸し風呂にいるような一日だった。
しかし時節柄この程度の暑さでクーラーはもったいないから、下着だけで終日過ごした。
もちろんどこにも出掛ける気など起らない。
しかし家内が内藤内科に夕方出掛けるというので、やむなく車で送る。
帰りは汗だくになって帰って来る。

今朝相変わらず気温25度と熱帯夜か。雨はなんとか上がっているが雲多し。

しっかり小説を読んだり、ブログを書いたりいつも通り長生きの業だ。そういえば最近テレビは殆ど見ない。夜は深夜便とDVD音楽、昼はCDかDVD音楽である。静かすぎるのも嫌だから自然こうなる。
私も内藤で薬を変えてもらった効果かもしれないが、食欲はまあまあ出て来たようだが、今度は立ちくらみが多くなったような気がする。
 _________________________
私の戦争/任官その1
 昭和17年12月23日本部付きに転補、兵器情報掛将校を命ぜられた。
任務上本部と材料廠に机を置いての仕事となり、行ったり来たりと結構忙しい役割であった。

兵器とは自動車部隊だから第1種兵器自動車に関することが、先ず第一で、二にも三にも自動車関連ということになる。
材料廠は第69大隊のときにも経験していることだから、仕事の内容は熟知していたので驚くことはなかった。

情報関係はむしろ面白い仕事として関心を持ち,特にソ連関係が主になるので、自分としては特別に熱心に取り組んだつもりであった。上級機関から送られて来る極秘情報を読み,記録し,部隊長(板倉少佐)に報告し、一般に布達するという手順である。
何より嬉しかったのは満州新聞など数種の新聞が遅ればせながらも、毎日一番に読むことが出来るということであった。

何日もかかって来る手紙や、たまに届けられる慰問袋の中の包み紙の新聞で見る内地の状況でも,情報の乏しいこの地では全く貴重であった。職務上人に先駆けて知れるということは無上の喜びであった。

新京に住んでいた当時、放送劇団に入り、放送局で森繁久彌アナウンサーの指導を受けたりしたのだが、その森繁さんが黒龍江のルポルタージュで表彰されたとの満州新聞の記事を見たのもこの頃だった。懐かしかったなあ。

時には部隊全員の前でソ連情報など講演させられたりしたが、拡声装置のないころのことだから、千人の兵隊を相手に大変だったことを覚えている。

またこんなこともあった。初年兵の頃、初恋の女性からの手紙で内容が女々しいといって、班長にビンタを取られるやら,木銃でたたきつけられるやらして、同郷出身の郵便掛かりの二年兵から気の毒がられ、もう返事は出すな、来た手紙も送り返すからと言われてその通りお願いしたことがあった。あれ以来もう2年近く、音信は途絶えたままになっていた。明日の我が身がしれぬ今、音信自由の立場にはなったが再開する気にはもうなれなかった。(彼女には40年も後の1981年3月26日に”生きていたのか”と電話で懐かしい声で、なじられたことがある)

任官と同時に営外に官舎を与えられ、小林副官と同居することになった。もちろん当番兵が私用は何もかもしてくれるので、楽な生活ではあった。
ただ各部隊交代勤務の衞戍地巡察の週番勤務は難儀であった。24時間中自分で設定した時間に3回水道ポンプ場、東部境界橋梁の分哨を巡回しなければならなかった。全部で約8キロあった。昼間は何でもないが夜間が大変だった.特に零下20度以下の暗夜はさすがにこたえた。

3月軍命で、チチハルの第6部隊にガス教育を受けるため出張することになった。
幸いに私の出身部隊第69大隊の同期生述本少尉が一緒ということで、心強い出張だった。
26日斐徳を出発し、牡丹江で一泊して脇少尉と会食し、ハルビンでは満州電業のハルビン支店に勤務している戸倉寛一君のアパートに泊めていただいたりして、チチハルに着いたのは30日であった。

4月1日から教育が始まり、1ヶ月間みっちり鍛えられ、ガスの怖さを身にしみて感じさせられた。
道なき草原を荷框にいっぱいの将校たちを乗せたトラックが横倒しになったりして、けが人が出たり始めから風雲急な教育であった。
最後の夜を徹しての大草原での模擬遭遇戦は大変だった。あまりの過酷さに、拂曉の突撃白兵戦にはへばって倒れてしまった。
睡眠不足と過労で意識が朦朧とし、朝食の配布のときうっかり他の隊の食事をとってしまった。後で怒られたりしてひどく恥をかいた。
赤弾の試射をしてみせたりしたが、風下に現地人の部落があるにも拘らずぶっ放したりして、無茶なことをするなあと怒りを覚えたりした。
敵も味方も同じ被害を蒙るこの兵器は、いくら戦争といえども使われない様祈るばかりだった。(眼鏡着用のものは防毒面の私用が難しく特に苦労した)

チチハルでのある休日述本君と一緒にある書店に入った所同級生の坂口武君にばったり邂逅した。彼は250キロ南方の貨物廠に勤務していて、遊びにチチハルまで出て来たということだった。
彼は現在も元気で我々同窓のため尽力してくれている。

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2009年7月10日 (金)

斐徳訣別

昨日、一昨日と不思議にいい風が吹き込んだ。いいというのは涼しいからである。老人にはこの風の感触はえも言われない。
ただ昨日は昼近く小雨がぱらつき、あわてて窓を閉めに廻った。横雨が窓ガラスを濡らした。これは困る。
ただその他はまことによい。
老人は自然に逆らうことはしないし、できない。

今朝は早朝から降り続いている.気温も25度と相変わらずだ。風は北に廻っている。
午前8時現在かなり強い雨だ。今日も外出は無理だな。
昼前後強く降ったりしたが、午後2時現在雨止み幾分空が明るくなる。
雲が粗くなり、日光がこぼれている感じ。

私はこの約90年間入院したのは、今下に書いているブログの斐徳陸軍病院に盲腸手術のため、これだけである。
もっとも十数年前交通事故で担ぎ込まれたことがあるが、これは病気のためとはいいがたい。
家内も先般はじめて入院して大騒ぎしたが、わたしのこの次は死ぬる時であろう。
医者通いは普通だから、大病は死ぬ時だけということになりそうだ。
 ___________________________
私の戦争/任官その2
何回目かの衞戍地週番巡察の時、これは昼間だったが胃けいれんを起こして、歩けなくなりやっと部隊の衛兵所まで辿り着き助けを求めた。すぐ巡察司令から後任手配をしてもらって、救急医療室入りとなった。
翌日専門医が診察の結果盲腸炎とわかり、改めて斐徳陸軍病院入院、手術を受けることとなった。
少し時間が経ちすぎていて既に患部が破れ腹膜炎を起こしていた。そのため完全治癒まで1ヶ月以上を要することになった。

手術の日、学生時代同じ下宿に居た1期下の松田房夫君に病院で邂逅し、翌日彼は牡丹江に後送されるといって挨拶に来た、これが一期一会の別れとなった。彼は隣の地区の野戦重砲の部隊に所属し、演習中重砲のキャタピラに巻き込まれて足を折られという。
まもなく退役し、家業の酒造業を継ぎ、数年前になくなったが一度も再会することはなかった。
ただ彼が私の初恋の人に生存していることを伝えたといういきさつがあった。(40年ぶりの電話の原因)

この昭和18年は神のいかなる配慮か。、この他にも何人もの旧友と出会ったり別れたりということが、身辺で発生した不思議な年であった。

ともあれ時折聞かされる内地の非常時体制、ガタルカナルなど苦戦の状況とは裏腹に、駘蕩としてのどかな日々の続く、ここ対ソ正面だった。

材料廠長内藤中尉が当時「映画の友」という雑誌を発行していた橘という人の弟と懇意で、カメラの指導を受けたりしていたが、沢山の有名女優からの慰問文や写真を見せてもらったり、間にはカメラの写し方、現焼きの仕方など、教わりながら、毎晩遅くまで手伝わされたりしたものだ。

翌昭和19年1月新規補充兵の入隊があって、部隊ではかなりの除隊者が出た。私は29日除隊する内藤中尉の後任として材料廠長に補せられた。
そして兵器掛将校の後任には札幌出身の山崎少尉が任ぜられた。
間もなく日を改めて椎橋第7輸送司令官による命下布達式行われ、正式に隊長職である材料廠長に補せられた。陸軍少尉であるから階級を飛び越した補任であった。部隊の分列行進の儀礼を受けるやら、大げさな儀式に戸惑うことしきりであった。

大きな責任を背負わされたなあとの実感をひしひしと味わされた瞬間だった。
隊長ともなると、自己のことより先ず隊のことを考えることから始まる。
普通の兵隊と違い、殆どが専門技術を身につけたものばかりで、兵隊とは全く異質な人間たちだった。
私が習熟した軍隊教育は彼らには全く通用しないといってよかった。
むしろ彼らの技術の前に頭を垂れるのみといってもよかった。
後に確信となった私の思い通り、凄い集団だということが戦争後期に発揮された。

思えば関東軍特別大演習は明らかに対ソ作戦のための動員令であった。私たちの所属する東部方面軍はあの有名な山下奉文が指揮し、直上の軍司令官は飯村穣中将であった。
百万といわれ満を持していた関東軍も、肝心なソ連は欧州戦線に釘付けで動く気配なく、ただ漫然と対峙しているうち、南方では日本軍の苦戦がしきりに伝えられて来た。

いずれと思っているうちに、我が部隊にも移動の準備命令が下達された。
今度の人事異動はそのためのものだったに違いない。
家族持ちとか、高年齢のものとかばかり、除隊させたのは間違いない所だ。

4月1日中支方面作戦参加のための、移動が発令となり、部隊長も板倉少佐から生田目大尉に交代した。
移動といっても軍隊のことだから、兵器と軍用装備品だけ持参し、私物は行李一つ拵えれば、自宅宛の名札をつけて残し置けば十分である。

4月5日、特別列車に自動車、装備との貨車搭載を順調に終わり、兵員を乗せ終わるや、3年有余過ごした斐徳との生活に別れを告げた。
Kabocha_2

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2009年7月11日 (土)

初年兵回想をまた

雨は上がっている.気温23度と少し涼しい。
依然として霞に包まれて日射しはない。梅雨に変わりはない。
午後になって家内と近くのスーパーに買い出しに行く。

夕方になるまで降りもしないが、晴もしない。どんぐもりのまま日が暮れて行く。
 ________________________
私の戦争/初年兵の追加
 ここでまた初年兵時代の生活について思い出したことを一二書いてみよう。

兵隊での生活は日常茶飯事にいたるまで、お仕着せの生活だった。だから公式の服装は当然予備を併せてすべて支給されたし、交換もしてくれた。が細かい下着とか、日常使う歯磨き歯ブラシの類から,チリ紙,ハンカチなどはどうだったか、とんと覚えがない。
月々の手当は5円内外だったから、金目のものは当然手が出ないし、外出もないのだから買う所もない。唯一酒保でうどん、そばなどの食物から、鉛筆、便箋の類は売っていたと思うから、おそらくそこで調達したのであろう。
寒い所だから、当然防寒衣料が支給され、下着から靴下、靴、手袋まで官給だった。
眼鏡は当然自分持ちだったが、壊れたときどうしたかこれ又覚えがない。ただ吊るが折れたときは,絲で耳に吊った覚えはある。

軍隊には下着に襦袢,股下というのがある。私の家庭での生活習慣にはないことなので、最初は戸惑った。股下の下端部分が10センチばかり割れていて、割れた両端の部分に15センチばかりの紐がついている。紐はもちろん結ぶためのものだから、誰に聞くともなく単純に結んでいた。
これが問題だった。非常呼集の際、整列して服装検査が始まり、めざとく検査官にその紐の結び方がひっかかった。手抜きをして動作を速くした即ちずるをしたと取られたわけである。
前に引き出されてひっぱたかれ、入隊早々印象を悪くしてしまった。ひもは足首を巻いてしっかり縛るためのものであった。そこに気づかない粗忽さ(常識外れ)が私の身上であった。

入隊1週間目風呂場で営内靴を盗まれた。凡そ公衆浴場には生まれてから一度も行ったことがない私は、履物の管理を自分がするという観念が初めからない。脱ぎ捨てて入ったから出て来てみたらない。ほかにも脱ぎ捨てられた営内靴は沢山あったから、それでいいものだと単純に思った訳。実際は市中の公衆浴場と同じく履物箱に整理すべきものであった。
だからなくなっても誰も取り合ってくれない。零下20度の戸外(といっても広い営庭のことだが)を裸足で走って帰営する羽目になった。営内靴がないといちいち軍靴を履いて(便所に行くにも、もちろん紐をしめて)出かけなければならない。
足を突っかけて出かけるのと早さがまるで違う。軍隊は拙速を尊ぶところである。当分の間苦労することになった。別の班にいた学校の同級生の述本君が見かねて、親戚のもの(一年上級)が隣の3中隊にいるから聞いてみてやろうと言うのでついて行く。その人は名前は知ってた、同郷の3、4年先輩の(河上さん後の岩国市長)だった。なんとか員数外の古いゴム製の少し形が違うものを貰って帰る。
私の初年兵の大半の時期はこのボロ靴のお世話になってしまった。こんどはどこで脱ぎ捨てても盗られる心配はなくなったのが、気の利かぬ私には丁度よかった。
ずぼらなようでも、何事も人より姿形の悪いもの,値段の安そうなものを身につける習慣はこの軍隊生活で育成された。そして生涯を貫いた私の哲学である。

これも入隊して間もない頃だった。時ならぬ時に初年兵集合がかかり、急遽営舎内の一室に集まった。 見ればテーブルの上に同じ兵隊が転がされ顔は布巾で被われていた。嗚咽の声がしたので、泣いてるようだった。週番士官の説明が始まった。この兵隊は規則で決まっている服装をしないで、歩哨に立ち、為に凍傷にかかった。ここを見ろと言われて見ると、足首から先が真っ白くなっている。
もうこれは切る以外にない。このままだとどんどん上まで腐っていって、足はおろか命迄危なくなる。 よいかよう見ておけ、これからすぐ病院に送って切るので、時間がないので急に集めたのだとのこと。 寒いところとは、良く分かっているのだが、現実に凍傷にやられた人間を始めて見たので,聞いてはいたが、さすがに驚きに身も心も引き締まった。
そして何よりも勤務中に凍傷にやられて、足を切られる兵隊の身の上が悲しかった。

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2009年7月12日 (日)

戦場に入る

今田君から昨夕お礼を兼ねたはがきをもらった。こまめなことである。丁寧にはがきいっぱいに書いてある。
昨日スーパーにいった時、カウンターの側に立てかけてある雑誌棚から、文芸春秋を引き抜いて勘定に加えてもらう。
表紙に「奇跡のピアニスト」母の手記とあるのが目のついたからである。
アメリカのクライバーン・コンクールで優勝した辻井君のことが余さず書かれている。まことに誇らしい。
同じ雑誌の中にある「米英を畏怖させた三人の艦長」にも感心した。よくぞ発表してくれた。負けたとはいえ、掘り出せばまだまだ誇るべき業績があるはずだ。老人たちよ気張れ!

今朝も霧が立ちこめて、天候がはっきりしない朝だ。6時気温24度。梅雨が去ってもこんな感じの天気が続くのではと思ったりする。

午後風呂の追い炊き回路の汚れを掃除する。2年ぶりくらいだから凄い量のよごれが出て来る。
冬期はどうしても追い炊きする回数が増えるから、回路にたまる量が増える訳だ。
 ______________________
私の戦争/中支戦線へ
 昭和19年4月5日我が独立自動車第31大隊はその全車両約200台を鉄道貨車搭載し、兵員のそれぞれ別個の有蓋貨車に乗り込み、住み慣れた斐徳の地から訣別した。
列車数が何個だったか覚えていないが、私の隊は最後尾を承って、長い長い列車の尻をもじもじと動いて行った憶えしかない。

一旦進行を始めると、手旗以外に連絡の取りようのない当時の部隊では、ほとんどこちらの意思表示など出来ないままのあなた任せの旅であった。
食事の分配はどこで作られるのか記憶がないが、当番兵が受領して持って来てくれるのが普通だった。
名も知れない駅構内や時として曠野のど真ん中に停車して、食事や排泄などが線路脇を利用して行われたこともあった。
4月とはいえ、まだ白がいがい零下の凍結した満州の天地は、のんびりと落ち着いた行動を許さなかった。
出発途端から臨戦態勢にいることを、いやでも思い知らされることになった。

勿論一般の列車も走る線路を走るのだから、予定も何も知らされないし、停車したまま何時間も動かないこともしばしばあった。
恐らくハルビン、新京、奉天など都会を抜けて来たことは間違いないのだが、気づくことはまるでなかった。
機密保持は厳重に保たれていた。

何百キロ来たか、4月10日めざとく見つけた兵隊の甲高い声で.山海關を通過することがわかり、それらしい城壁をちらと覗き見て、目的地の支那に入ったことを知った。
この時点で関東軍の隷下を離れ支那派遣軍の隷下に入った。

津浦線を南下するにつれ、どんどん気温が上がり、防寒服ともお別れである。
外を覗いてみるたびに麦の背丈がどんどん高くなって行く。小説や流行歌で著名な「麦と兵隊」がこの付近を描写しているのを思い出したりした。

4月12日浦口着。夜を徹して連絡船に列車ごと乗り込み、揚子江を渡る。暗くて何も見ることは出来なかったが、数時間もかかったので、その大きさは何となく理解出来た。
列車はまた鉄道線路に入って、終点の蕪湖に13日到着。自動車を貨車から下しやっと解放された。Gunyoukasya

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2009年7月13日 (月)

武漢三鎮

朝6時半気温26度。宮島おぼろなり。裏の極楽寺山はすっぽりと霧の中。

朝アルパークに出掛ける。久しぶりだが丁度10時頃だったから、早すぎて店内はがらがら。私は本屋に行き地元の地図を買う。
家内はあちこち探し歩いていたが、いいものは見当たらなかったようだ。
昼飯になるようなものを買って帰って食べる。
民生委員の生谷さんが顔を出し健康状態はと聞かれる。別状なしとこたえる。麻雀をやりに来ませんかという。もうそんなのは駄目だとことわる。もう何十年もやらない、できるわけがない。

暑くなって疲れがひどくなった。起居すべてがえらくなった。
まもなく動けなくなるのではと朝不安になるこの頃である。

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私の戦争/中支戦線へその2
南京では貨車搭載の我々の列車ごと新線路への入れ替えなどで忙しく、市内の様子を見る暇などはなく、通過してしまった。
翌13日終点の蕪湖に到着、ここで搭載を終わり.一般道路上に入るのだが、これが簡単ではない。
一騒動も二騒動もあってやっと落ち着く。
遡江の準備もあって4、5日滞在することになる。
戦火もほとんど受けてないので、凄く賑やかであり、物資も豊富だった。
南京政府が発行した儲備券もよく流通してるし、結構買い物が沢山出来た。

大通りを2mもある鯉を背中に背負って、しっぽを引きずりながら歩いている男がいたが、さすがに河も大きいが魚も大きいなとと驚く。

ゆっくり休養をとって、18日フェリーのような船10隻に分散乗船し、各々引き船にひっぱられてしずしずと遡江を開始した。
途中なんども寄港し休憩を重ねる。時折敵機らしきものが見えたが、単なる偵察だった。安慶、九江などすばらしい風景を望み見しながら、観光気分で通り過ぎる。イルカも数頭づつの群れがなんどか後を追って来て、海でも出くわさなかっただけに珍しかった。

26日大冶鉄山の積出港、石灰ように到着。ここで遡江を終わって上陸する。
ここでの食事のまずさには参った。米の中に砂利が沢山混じっていて、すごく食べ難い。とうとう歯を一本欠いてしまった。
健康優良児の歯だったのが、この戦争で虫歯だらけになってしまった。

陸路久しぶりに走って、武昌に入る。
武漢三鎮と言われるだけあって、さすがに大都会である。
しかし戦争のおかげで大半は廃墟と化し、雨露をしのぐに役立つ程度だった。
無人の空き屋を利用して分散駐留する事になる。
家の中はがらんとしているが荒らされた形跡はない、戦争をさけて家財を積み、近郊にでも立ち去ったのであろうか。
しかし便所に入ると早速さそりに出くわす。すぐ兵隊に言って駆除さしたが、怖い御出迎えであった。

電気は200Vだから、満州から持参した電気器具は役に立たない。もっとも同じものを2個直列につなげばなんとか使えたが。
(電灯などくらくてどうしょうもなかった)住み着く訳でないから、必要なことだけ済まして、もっぱらぶらぶらして過ごす。ナンキン虫も多かったなあ。さされておおさわぎする。

空襲はなさそうだから、用事がなければ有名な黄鶴楼をまず見に行く。揚子江岸の小山の上にあって遠くからよく見えてたので、行くのは簡単だった。漢口、漢陽の街も河を挟んでよく見えた。がいずれも訪れる事は最後までなかった。
近郊の竜宮城を思わせる武漢大学は二度訪れた。湖水の向こうに横たわるその眺めは夢に見るような景観だった。(下の写真とはまるで違う紅楼とも称すべきものだった)

(この写真はwww.edu.cn/ より収録)
Photo

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2009年7月14日 (火)

自動車尾根を行く

また霧の朝、何も見えない。気温26度。

灰色に空に変わりはないのだが、雲があるのかないのかはっきりしない。しかし午前中にはかんかん照りになる。
おかしな天気である。
午後1時やっと青い空が顔を出す。
それでももやがベールのごとく空にかかり,青空を紺碧からうすめている。

前の家でクレーン車をいれて、大きな音を立てて工事をしていらっしゃる。やかましいけど邪魔にはならない。
ただ何をしてるんだろうと,要らぬ節介だけど多少気にはなる。このくそ暑いのに。

午後2時ベランダの温度、影の部分でも34度。熱気が舞い込んで病気になりそう。

防衛省の防衛研究所に戦争中の陣中日誌などがあるという。自動車第31大隊のそれを一度見ておきたいと思う。
私の資料との違いを確かめたいし、行動日時が本部と随分離れた時期もあるので確認したい。

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私の戦争/中支戦線その3
5月10日やっと前進命令が出た。ゆっくりと車列を組んだまま昼夜を分たずのろのろと前進。咸寧付近から南下崇陽方向に向かう。山中で数日か十数日か待機。戦争というのは根気のいるものである。特に後方部隊というのは、期限などというものはない。
5月27日第1次湘桂作戦が火ぶたを切る。第一線が一斉に敵防御ラインを突破して長沙にむかったことを聞かされる。

今度の作戦は第3次長沙作戦というとのことだ。京漢打通作戦に引き続く粤漢打通作戦の始まりである。
北京から広東まで打通しようという狙いだが、戦争の集大成にでもしようと大本営は考えたのであろうか。

6月に入ってようやくのろのろと雨の中を動き出す。
徒歩部隊のごとくちょろちょろと何処でも動き回るというわけにはいかない。
道と言ってもろくな道はない。ちょっと水深の深い小川は橋を架けて渡らねばならない。
崇陽付近に達すると激戦のあとらしく人馬の屍体がまだ散乱している。その腐臭の凄さにあきれる。

雨の中の暗夜遅々として動かぬ自動車のすぐ横には、蛆で白く覆われた人馬が横たわり、腐臭にへどを催すといえども逃れるすべはない。人魂が飛び交う異様な光景は戦場でなければ目にする事はない。戦場の初体験は弾丸のそれではなかったが、正に痛烈度肝を抜くものであった。

夜が開けても、ほとんど進んでいない。
カンパンを齧りながら、付近の探索をする。山中を分け入ると療養所の隔離家屋のようなものに出くわし,鼻や唇が欠けたりした異様の人たちがぞろぞろ出て来たりして驚く。

池の魚を捕ろうと探って、八つ目鰻がたくさんとれる。骨ばかりで食えたしろものではなかった。

崇陽付近を過ぎると、道路は敵軍が破壊除去していて、痕跡すらない。
仕方なく友軍が臨時に作った道路を山に登り,谷を渡り依然としてのろのろ行進がつづく。
我が隊は部隊の最後尾だから、先行を急ぐ砲兵などの一戦部隊が,割り込み先行させろと強要するなど、てんやわんやで本隊からは遅れるばかりであった。

7月に入った頃から、ほとんど山の尾根を走る事になった。
この頃空中戦を演じていた友軍が制空権を敵に奪われたらしく、ほとんど援護しなくなり,敵機の跳梁に任せる有様ととなった。
僅か数機の敵機にでも襲撃されて炎上し、燃料弾薬に引火するなど,各所で道路を塞ぎ,渋滞はますます激しくなった。
昼間は行動不可能になったので、夜間だけしかも無灯火で進まなければならなくなってますます動きが遅くなる。

職掌がら、空襲被害を調べるため前方まで何キロも歩いて廻ったが、とうとう部隊本部にはたどり着けなかった。
昔の部隊は連絡手段を持たなかったのだから万事窮することになってしまった。

作戦を立てた参謀たちはどんな考えで戦を始めたのだろう。
あまりにも前時代的だと言わざるをえなかった。いや自動車隊は出来たばかりで、扱い方がまだ分かっていなかったのかもしれない。民間の普通のトラックを転用したものばかりで、しかも敵アメリカ産の車ばかりだもの。

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2009年7月15日 (水)

初空襲にど肝抜かれる

毎日同じような夏の朝。気温25.5度。
朝一番に千代に電話して、湘桂作戦中の陣中日誌の写しを取得してくれるように依頼する。
詳細はメールで送る。暇だそうだからすぐやってくれるだろう。

昼前突然シャワーのごとく降る。
幾分涼しい。
ぼつぼつ梅雨が明けるのかもしれん。
昼過ぎから雨もやみ,島々がいやにはっきり見え始める。雲は依然として深い、
 _________________________
私の戦争/中支作戦その4
いくら人馬の死骸を見ようと、戦いの現実は新米の指揮官に分かる訳がない。
しかしその瞬間は突如訪れた。さして高くはないがうねうねと波のようにつづく山の尾根に、無数の自動車が動きがとれずに立ち往生したまま日が暮れんとした、その時だった。尾根すれすれに飛来した敵P-40が2機折り重なるように銃撃を繰り返してさった。
後方、そして前方つぎつぎと自動車が火を吹いた。燃料を積載してたか,車のタンクを貫通したか。

急いで車から退避したがあとの祭りである。始めてだから爆音と同時にぶるぶると身震いした。震えるというのはこれだなと後で実感した。下の方へ逃げた兵隊の中にはなかなか戻って来ず捜索を出す始末。笑い事ではなかった。
しょっぱなの衝撃はやはりひどかった。

遅まきながら友軍機が間もなくやって来て,こともなげに旋回してくれた。

しかし時ならざる時敵機は襲来した。あっという間に来てあっという間に去る。
友軍機の飛来が少なくなり、敵機の跳梁は激しくなるばかり。
ついに昼間行動は中止し,夜間行動に切り替わった。
友軍の飛行場が空襲を受け,我が方全滅したとの情報も入った。
そうなると連日連夜来るのは敵機ばかり、爆音が聞こえれば退避のくりかえしとなる。やられた車が火を噴き積載弾薬に誘爆すれば側も通れない。

山上の無灯火行進というのはやってみた事がないと分からない不安なものである。勿論助手が誘導するのだが,歩いての場合やバンバーに立ってする場合もある。前面ガラスを跳ね上げて,運転手は血眼で前を睨む。何時間はとてもつづかない。
幸い軍隊は交代が原則だから民間の運転とは少し違うのだが。
しかし渋滞するばかりである。

数日間だったか十日以上かかったか、今定かには覚えていないが,尾根の行軍は水を求めるたびに谷底まで下りねばならず、殆どカンパンや乾燥糧抹に頼るだけの空腹に堪えている兵たちの苦労は大変だった。

来る日も来る日も山上をうろつき、敵機の襲来を気にしながらの毎日だっただけに、やっと平地に下り立った日のほっとした思いが今でもありありと残っている。

(写真はいずれも毎日新聞「日本の戦史」より収録)
P40
Gunhensei

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2009年7月16日 (木)

大きな夕焼け雲

昨夕見事な夕焼け見た。西空から東空へ最後は帯状になって続いた。かってみた事のない夕焼けだった。長過ぎてカメラにも収めきれなかった。

明け方にふったか、地面が濡れている。今朝8時気温25度.南の空に青空が見える。やや霞んで宮島はぼんやり。

9時半、かなり厚い雲間に青空がくっきり。梅雨明けも真近いかな。

10時半家を出て郵便局に立ち寄り、内藤内科に行く。
明日が診察日なのだが、立ちくらみが再三起きるので,一日診察を早めたわけ。
高齢になれば血管が硬化するのでした方ない事だと丁寧に図示説明してくださる。もうどうしようもないことだというわけ。
立ち居振る舞いのスピードを落とせということだ。
しかし薬はまた変更される。
医者も患者のいうことは聞かなくはいけないし大変だな。

今日は午後休診のせいか、患者がすくなく割と早く済む。
Sunset

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2009年7月17日 (金)

湘桂作戦開始

夜来の雨が降り続いている、時に相当激しく。

昨夕問い合わせていた防衛省防衛研究所から独立自動車第31大隊の陣中日誌などは終戦後散逸して残っていないと手紙が来る。
千代に頼んでいたがないのでは,無駄足になるだけなので電話して取りやめる様連絡する。
思えば私の自家製のメモ手帳の記録が唯一の歴史資料となったわけである。

日本では源平の昔から敗軍の将兵を語らずで資料どころか語り継ぐこともなかった。
終戦時大量の戦争資料が焼却された事は万民承知の事実である。敗戦の事実以上に悲しい。

今書き綴っている「私の戦争」はやはり無意義な事ではないと悟る。私の頭脳が生きてる限り書き伝え残そうと決意をあらたにする。

家内が記念病院の広島診療所に雨の中を出掛ける、広電山陽女子大前駅まで送る.ここの薬のお蔭で随分良くなっているのだが、薬をやめるとまたひどくなるとか。

午後に入り雨止む。
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私の戦争/湘桂作戦その1

尾根伝いの前進が、もっぱら夜つづく。
明け方は魔の一瞬である。空が白んで来た瞬間音もなく敵戦闘機が頭上に来てるということが、しばしばあった。
車の退避が一瞬でも遅れるとばりばりと掃射を食らう。ある朝樹木の陰がなくて、仕方なく山の斜面に入った所をやられ、車から逃げる所をもう一機が私を狙い射った。身体の前後に風を伴って数十発走り抜けた。かすり傷すら受けなかった。

再度飛来した飛行機の機上から黒い米兵が覗き込んで下を見た。死んだか確認したのであろう。

やっと山を下りて平地を走る。破壊された部落がつづく。野犬か飼い犬かうろうろしているのを射殺して食う。
貯水池を決壊して魚を食事の足しにする。カンパンだけの糧抹では腹の足しにならない。
戦争の無慈悲さを知る。

身体は垢だらけであり、水虫に足をやられ、歩けなくなる。自動車に乗ってればいいのだから靴を脱いでの行動となる。
ほとんど乾いた田畠がつづく。路上は部隊から遅れて、疲れきった兵たちの行進がつづく。
車に乗せてくれと手を振る兵もいるが無視せざるをえない。
あちこちの木陰には,疲労したか、病気にやられたか、てんてんと横たわる兵士を見る。戦場は非情である。

やっとの思いで長沙に入る。陥落してから1ヶ月も経っていただろうか。
本部より宿営地を割り当てられ、廃屋の中を適宜探して入る。

中隊によっては,休む間もなく任務を貰って長沙ー易俗河間の輸送を始めた。我が部隊の始めての作戦任務参加といってよい。

ここで部隊間の通信手段について、少し説明しておこう。
大隊程度の部隊には無線機はなかったので、伝令による歩行連絡か,伝令車(2人乗り小型4輪駆動空冷車俗にいうダルマ)によるか、行進中は手旗信号によって伝送していた。

だから行動が比較的に迅速な自動車部隊にあっては、事故が起きるとたちまち混乱が生じ、連絡は取れなくなるし,命令などの伝達は混乱を来した。
故に大隊が一丸で行動する事は不可能で、中隊(概ね45輛)ごといや小隊ごとになることが多く、悪路を行く時など間隔が大きく離れて、収拾つかなくなり、分隊長の判断により、数車両の行動が基本になることが多かった。
地区移動以外の区間輸送などは、分隊ごと(約4両)の行動が基本で、分隊長の指揮能力が一番重要であった。

故障車収容、修理補給を主目的とする我が隊は,第一分隊(中村軍曹)を先行さす。易俗河付近に前進させ,駐留修理業務に任ずる。
材料廠は小隊はなく、指揮班、と2個分隊で構成される。
1分隊は工作車(発電機、旋盤、ボール盤諸工具を積載、車上工場となっている)2台(ニッサン)、トラック4輛(部品工具人員)(シボレー)で構成、第1分隊長中村軍曹、補佐林兵技伍長、第2分隊長小林伍長,補佐山口兵技伍長、指揮班長森脇曹長,技術主任西川兵技曹長、指揮班はトラック4輛、伝令車1輛(くろがね)、兵員数約70数名の当初編成であった。

第1分隊は先行中隊に加わり,第2分隊指揮班と共に部隊最後尾が定位置であった。

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2009年7月18日 (土)

赤痢で危篤になる(長沙)

毎朝25度程度の気温が続く。亜熱帯夜といったところか。それほど寝苦しくもなく、涼しい方だ。
沖合はすっぽり霧に隠れて何も見えない。

昼近く青空がのぞき,明るい日射しがひさしぶりに下界を照らす。
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私の戦争/湘桂作戦その2
 8月いっぱい部隊は長沙を起点に本来の輸送業務に精進していた。
私はまもなく赤痢にかかった。当初は凄い下痢で寝込んでしまった。便所に通う時間もたらないぐらいで、当番兵が見かねて腰掛けの中に穴をあけ、ベッド脇に置いて腰掛ければ排泄が出来るようにしてくれた。

リンゲルという注射もされた。太股にする大きな筋肉注射だが、これを何本したか記憶が残っていないが、後年随分長くこの後遺症に悩まされた思いが残っている。ともあれ軍医などの熱心な努力で回復はしたが、動き出すのに一月を要した。
後に軍医がもう駄目かとおもったといった程だった。グアニジンという当時できたての新薬のよく効く薬のお蔭だったと述懐していた。隊長だから使えたとの口ぶりでもあった。入院もせずに危篤の患者を医者や看護兵(衛生兵)の尽ききりで治してもらった。後日の話だが、補充で追求して来た顔を見た事もない部下には同じ赤痢で長沙で死んだものも居た。申し訳ない。

8月というこの月は私は寝ているだけで過ぎた。もちろん任務とはかけ離れていた。
隊の半数は早くから易俗河の方へ転進していたが,残り半分の第2分隊も私を残して前進、湘譚県花蕚郷板塘という易俗河から60キロ南方に修理所を開設した。もちろん部隊は9月から易俗河ー衡山間約百キロの輸送任務についていた。
先行した第1分隊は衡山付近の黄花坪に開設していた。

結局9月半ばまで指揮班の一部を看病に残して、他は第2分隊とともに前進した。
9月に入ってからだったか、B−24の絨毯爆撃を食らった。50機ぐらいだったろうか。
半分は焼夷弾らしかったから、落とした数程の被害はなかった。ほとんど廃屋だし、燃えるようなものはなかった。
私のすぐ側に数発落ちたが,少し壊れた程度で車両には被害0だった。私はすっかり回復し元気になっていた。

転々と火の手が上がってはいたので、視察に出て歩いたが、消火活動するものもいなかったし、不発弾がごろごろころげているのには驚かさせた。衡陽攻略に全力を挙げ,長沙警備の第58師団まで使って、やっと陥落させたくらいだから,このとき長沙はもぬけの殻だった。
閑散としていた警備司令部に被害状況報告に行った際、今晩地下室で日本映画「新雪」を上映するから見においでと誘われた。
支那語字幕付きの日本映画だったが、懐かしく嬉しかったなあ。ぼろぼろ涙を流しながら見た思い出がある。 

長居は無用とすぐ準備して部隊に追求する事にし,出発する。
易俗河までの数十キロの間に、路傍に70輛以上の焼けただれたトラックなどが転げているのに驚いた。
長沙の街中では敵機は大爆撃以外は来た事がなかったが、易俗河付近の渡河点は危ないなと警戒する。
渡河点についてみると、夜にならないと駄目だと言われ,順番を待つ。
この日は順番がこないで翌晩まで待たされる。1、2キロも離れた廃屋のあるところで遮蔽して夜を待つ。
昼間近所の畑で落花生の植わっているのを見つけ,掘り出して夕食のおかずにする。生まれて始めて落花生の煮物を食ったが、おいしかったかどうかそこまでは思い出せない。

工兵の鉄舟をつなぎ合わせたはしけで幅1キロの河を1輛づつ渡してもらうのだが、暗闇での作業だから気が気ではない。運転手は随分緊張したらしい。

無事渡り終えるとすぐ前進、先ず上田冲の本部に立ちより生田目部隊長に報告と謝意を表する。
久田副官は私と同年兵で同じ部隊出身である。よろしく頼んで、10キロ先の我が隊に向かう。
夜が明けてたかもしれない。

準備してもらっていた居室に入る。予期していた訳ではないが、約4ヶ月の駐留が始まった。
地名を軍から提供された地図に現在地部落の名前が入っていないので、現在地と思われる場所に地名か橋名か分からないが広東橋と表示があったので、これだと呼称をこれにきめる。
部下にも,本部や他隊にも通知して、知悉せしめる。

工場は山あいを利用してうまく設営してあった。
兵たちは民間にあって,数年の、中には十数年も年期を積んだものたちで、隊長が作業に口出す事はなにもなかった。

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2009年7月19日 (日)

広東橋に駐留4ヶ月

 一応雨は上がって青空もあちこち見える。気温26度。
そのうち間もなく霧が沸いてきて、いつもの天気の姿にかわる。
雲がやはり厚く、日射しはない。
夕方には雨という予報だが。
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私の戦争/湘桂作戦その3
 我が工場は正直な所さして多忙ではなかった。第1分隊の方は手元で見ていないのでなんともいえないが、第11軍から第6方面軍の隷下に入ったぐらいだから、部隊は軍の最後尾といってよい。
だから敵空軍も手加減したかもしれない。重大故障が少なければ我が隊の出番は少なくなる。
少々の故障などは、経験者の多い召集兵の部隊だから,自分の中隊で治す事ぐらい可能だった。

兵隊を遊ばすのはもったいないので、宣撫工作に力を入れる事にした。
伝令の池本上等兵、河原衛生兵などに命令して,積極的に住民に接触し早く親しくなるようにせしめた。
手っ取り早いのは薬品をつかっての病気治療である。物々交換は塩を使うのが手っ取り早かった。
池本は東京消防庁出身だったから,応急手当はお手の物だった。
積極的に部落を歩き回り交際を深めた。

又給養掛を命じていた犬養上等兵は元の総理犬養木堂の孫でもあったので、この地方の顔役などには孫文の関係で著名であって、非常な親しみを持って迎えられた。食糧などの購入にはなくてはならない存在に間もなくなってしまった。

しのぶ隊と仮称を隊名として使っていたが、2ヶ月もするとこの名称が隣の花石県まで届いたらしかった。県の代表というのがやってきて、自分の方にも来てくれというのである。
かの国の事だから、軍閥とでも考えてるらしかったが、眉唾な話と、もちろん取り上げる事はなかったし,出来もしない話だった。

軍公路沿いだから,昼夜各部隊の往復が続いた。従って時折敵機の襲来があった。夜はないが昼間はよく通過部隊がやられたりした。上田冲あたりから山あいのつづらおりの道の連続で、敵も責め難かったと思うがやはり思いがけず攻撃して来たりした。
このとき始めて落下傘爆弾というのを見た。低伸性の人馬殺傷用の新型爆弾らしい。
通過部隊が6人死傷した。木の枝に一つ引っかかって残ったので、遠くから銃撃破壊した。

私たちの家を取り囲んでいる山の北側に30個ばかりの部落があったが、取り残された犬、猫がいるだけで、家財もろとも避難して誰もいなかった。
時々裏山に登って頂上から俯瞰したが、ものの動く気配はいつもなかった。
うねうねと続く深い谷が奥深くつづき、地図で見るとツーチン山という1000メーター近い山の山麓につながっているらしい。

しかし9月に入って本格的に雨期が到来した。
雲が深く雨も多かったが、飛行機が飛べる状況ではなくなった。
昼の往来が圧倒的に増えた。

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2009年7月20日 (月)

引き続き広東橋

夜来の大雨がつづいている。遠雷が時折聞こえる。
所によっては集中豪雨に見舞われているかもしれない。
じーっと部屋に閉じこもっているしかない。又寝転んで「蝉しぐれ」を拾い読む。もう十回目ぐらいかも知れぬ。

小説と言えば、先頃山本周五郎の「栄花物語」と「日々平安」を買って来て一気に読んだ。
私の好みはやはり周平の方だ。
が、残りがもうあまり無さそうだ。本屋にないのでAmazonで買ったりした。
慎重に選ばないと、二度同じものを買ってもつまらないし。

なんで今日休みかと思ったら”海の日”という。
山の日はないのに。おかしな日だよ。

丁度正午雷鳴轟きひとしきり大雨がつづく。
昼飯のときあまり外が暗いので夜と勘違いし、食後に呑む薬を夜食後と間違ってしまう。
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私の戦争/湘桂作戦その4
 初期には不審な犠牲者も出た。ある日懇意にしてる住民が日本兵が殺されてると告げてきた。
押っ取り刀で10名ばかりつれて現場に行くと、頭を貫通されて若い兵隊が襦袢1枚で倒れていた。
認識表も銃も何も持っていない。広い畑のど真ん中で、人影はどこにもない。人家もない。
仕方がないからどこかに埋めてやろうと、兵隊に担がせて、軍公路まで出て来ると、どこからか兵隊が一人現れて、病院下番の連れだという。名前や部隊名は知らないという。長崎県人だとはいってたがとまことに頼りない。

結局道ばたに穴を掘って埋め、簡単な木の札を立て長崎県人という表示をして去った。
敵情はなかったときなので、犯人の推定は出来なかった。

やはりこうした一般兵が食糧を求めて民家に入り、略奪行為をするものも居た、その都度住民から通報が入り、出掛けて行って取り返し、あるいはビンタを取って制裁を加えたりした事もあった。

大きな部隊で倉庫のもみを勝手に精米しているのを、訴えて来た住民と共に部隊長と掛け合い、代金を支払わす事で折り合いをつけたこともあった。

こうしたことが逐次住民に浸透した結果前記のような事態が生まれたのかもしれない。

池本上等兵は5キロぐらい離れたところにある湘江沿いの馬公堰という市場まで行き、そこの顔役と親しくなり、義兄弟のようなつきあいをしていたと後に聞いた事がある。
彼の案内で私も一度視察に行き、儲備券が流通しているの確認した事がある。
もっとも池本の話では、対岸から支那兵が買い物に来た時は法幤を使うのだといってたが、平和に暮らすには仕方がない事だと思った。

他中隊で芋の収拾に出ていた兵隊が、敵に襲われて6名戦死したとの通報もあった。
ゲリラ的に襲撃してくる敵兵の侵入は戦争だから防ぎようはなかった。
スパイらしきものの侵入も当然免れ得なかった。

住民から敵兵侵入の訴えもあって、ある日急遽20名ばかりを率いて、ツーチン山方向に示威行動を行った。4、5キロ奥には小学校らしきもののあり、住民もたくさんいたが、敵兵との選別はつくわけもなかった。

10月に入ると雨が多く、軍公路の自動車による損傷が激しくなった。轍の跡を修復するたび路面を削るので、だんだん深くなり、場所によっては車がすっぽり埋まって横からは見えない程になった。
湘江を利用する水上輸送が当然増えたらしい。
8月やっと衡陽が陥落、9月には零陵、全県を占領、広西に向けて湖南省、江西省、広西省の境界にまたがる深い大山脈(南嶺)は機械化部隊の進攻は大変だったらしい。

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2009年7月21日 (火)

広東橋を去る

こうして連日雨がつづくと65年前の湖南の里を思い出さずにはいられない。
田園風景といい、山の姿といい、まったくここらと似通っていて当時なんだか郷里を走り回っているような気がしたものだ。緯度は沖縄県と同じだから秋から冬にかけても寒さなどは全然感じない毎日だった。
しかし秋の長雨は不思議な感じだった。あの時もよく降ったなあ。
敵機は全く来なくて助かったのだったが。

朝6時40分又雨の音が激しくなる。南からの風に押されて雨だれが窓を叩く。
食事を済ませても夜がつづいて、やはり寝ているのが無難だ。
こちらはどうでも良いが、悪石島の皆既日食は明日の朝9時頃というが大丈夫かな。

午後に入っても一向に降り止まない。この付近一帯に災害警報が発令される。
河川の増水が著しいか。
山口県がひどく新幹線も高速道もあちこちで交通止めになる。
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私の戦争/湘桂作戦その5
 第1分隊へ連絡のため、夜間伝令の安藤上等兵の運転でだるまで走った事があった。
軍公路ぞいの山から信号弾が飛び交いこれはまずかったかなと思っているうち、同じ思いの安藤が全速力で飛ばした。ひょっと気がつくと座席の下から煙を出している。
あわてて止めたはよいが、今度はエンジンがかからない。
狭い谷間の道、数人の敵兵でも、こちらは小銃一丁では戦えない。万事休すと思ったが、暗闇の中敵情らしき気配は見えない。
息を殺しているうち3、40分も経った頃友軍のトラックが通りかかった。
危うく助かったという一幕もあった。

統集団司令部が一時的にあった、南岳市に2度訪れた。風光明媚な山水で街が賑やかだった。
南岳というのは支那五岳の一衡山のことをいった。山頂近くまで寺院が立ち並び、下からの眺めは壮観だった。
10キロも離れた湘江河畔に別に衡山という大きな街があった。
ここに駐留していた第2中隊でコレラが発生し、5名だったか兵士が戦死した。

ながらく班内で臥せっていた斉藤栄一等兵が10月9日とうとう息を引き取った。簡単な葬儀の後枯れ枝を掻き集めて、家の裏庭で焼却した。我が隊始めての戦死者だった。軍医の診断では脚気衝心ということだった。
作戦の最中だし、郵便の手段もなく故郷へ知らせるすべはなかった。

我が軍は何条にも別れて南嶺山脈を横断突破し、11月初め桂林を包囲占領した。

12月中旬部隊は零陵ー全県間の輸送任務に変更され、ぞの前進に伴い第1分隊は全県に前進、材料廠も12月下旬長かった広東橋駐留に別れを惜しみつつ、前進を開始した。

このときやはり胃腸病で臥せっていた浅川上等兵を易俗河の兵站病院に入院させた。つれていってくれと泣いて懇願されたが、こころを鬼にして突き放した。
彼は翌年5月武昌で帰国途中に隊に元気で帰還し、一緒に揚子江を下った。
戦後彼との付き合いは彼が数年前亡くなるまでつづいた。特に東京日本橋のレストラン・エルムに居る頃はよく逢いに立ち寄ったものだ。(写真は昭和47年頃店に訪ねて撮ったもの、浅川君は私より3歳ぐらい年長だったかな)

大晦日、激戦の痕が生々しい衡陽に入り、敵兵の骸骨のごろごろしてる中で野営した。
自動車廠との連絡と燃料受領の用件があったから仕方がなかった。
昭和20年1月1日朝、雑煮はあらかじめ広東橋で搗いて来た餅に、粉醤油であじをつけ鰹節を削っていれた豪華なものだった。
Asakawa_me

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2009年7月22日 (水)

アルコールの製造

雨は昨夜のうちに上がり、さわやかな朝.気温24度、ちょっとすずしい。
昨日は山口県が大きな被害があった。8人死に行方不明が何人もいるとのこと。
自然はありがたいが、怖い。
空は雲がびっしりだから、大陽が見えるどころではない。大陽があるところはいやに明るいからわかるけど、輪郭まではとても。日食の時は真っ暗になるのだろうからけじめはつくか。

雲あつく大陽が顔を見せる事はなく終わった。しばらく天地の間が暗くなったとき日食が起きたのだろうとは察しがついた。

昼前アルパークに行く.中元のお返しをする。
雨にこそならないが、曇空はつづく。

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私の戦争/湘桂作戦その6
 大隊は既に12月22日頃には新しい任務零陵ー全県間の輸送業務に精出していた。
全県双倍村にて我が隊の第2分隊と合流。しばらく駐留することとなる。
南嶺山脈のど真中といってよく、軍公路脇まで森林に覆われ、車の遮蔽は問題なく敵機の恐れも少なかった。樹木間に蚊帳を吊って暮らす生活がしばらくつづく。

昭和20年2月11日部隊は前進を開始し、14日逐次桂林南方の周家村に到着。
この付近の民家を利用して駐留を始める。

私の隊は桂林に入ったのは20日を過ぎていた。

破壊された市街の中心ロータリに軍の掲示で、サイパン島が敵に占領された事を知った。
しかしマッチ箱くらいの爆弾で軍艦一隻を沈め得る新型爆弾の開発中だとも書いてあった。
こわれた家の中には爆撃で死んだか、凄い形相の死骸が二つ三つと転がっていた。
地雷に注意の表示があちこちあったので、大きな道路を行き,漓江にかかる橋のところで住民が魚を売っていた。1米くらいの大きな鯉を買って、車の所へ向かっていると、後でわかったのだが地区司令官の巡察に出くわした。敬礼すると近寄って来て馬上から何処の部隊か名乗れというので、部隊名と官氏名を名乗った。何も言う事もなく立ち去った。

後日部隊長会議でうちの部隊長が名指しで注意されたらしい。
なんでか理由がよくわからない。わたしには何もいわないで何を注意したのだろう。
私は知らん顔をして聞いていた。ばかばかしい。

到着そうそう南方の形勢不利となり、燃料不足が伝えられ、輸送も滞り始めた。
アルコール燃料の製造方法を教えるから、人を寄越せと軍から言って来た。桐生高工出身の中井兵長と興亜石油勤務だった安藤上等兵そして私の3人が受講のために出掛ける。
他の部隊の要員と一緒に100キロ先の柳州の自動車廠までトラックで運ばれた。
約2週間みっちり教育を受けた。でんぷん類を発酵させて、アルコールを作り蒸留して燃料を作り出す訳である。一方自動車も気化器を新しく作って交換しなければならない。混合比が違うから爆発しないというわけ。

はいはいと言って帰ったが出来るかしらと3人は文殊の知恵を出し合う事になる。
ここで我が技術集団がものをいった。この地方はさといもしかない。発酵がうまく行く訳がないと早急に結論した。焼酎を集めろと部隊に号令した。蒸留塔は板金工を中心にすぐ出来始めた。気化器は鋳物工と旋盤工の合作で、寸法通り立派なものが量産された。原材料はカンパンの空き缶や飛行機の翼などの残骸である。
工場は白崇禧(広西省閥の親玉)の郷里の会稽村に作り、その近辺で焼酎を買い集めた。

20日足らずで稼働を始めた。中井を工場長に5名が従事した。85度以上がとれ始めた。
テスト車をつくり試験走行に没頭した。
普通道路は凸凹が多くて速度も出ないが、そもそもが馬力が足りない。荷物を積んでなどとんでもないと分かった。

兵隊の提案を入れ、鉄道線路を利用する事にした。車輪はトロッコの車輪に取り替えれば大丈夫と分かった。少し車幅や軸心の大きさが違ったが、そこは彼らのお手の物、簡単に手を加えた。
アルコール自動車1台でトロッコ10台ぐらい牽引出来た。夜間でも無灯火で道を踏み外す事はない。そんなに飛ばす事はない。そろそろで結構である。真っ暗な中で走るのだから、敵機はおろか敵兵すら気づかない。
何度か桂林駅に足を運び、材料を集めテスト運行を繰り返した。

が,時既に遅く、軍は反転準備に忙しかった。
会稽村ではフル稼働の最中,或る朝夜が明けると同時に敵の包囲攻撃がはじまった。もちろん狙いは工場だったろう。中井兵長らは屋上から攻め寄せる敵兵を狙撃し数名を倒した。
連絡により集成一個中隊を本隊より送り救援,夕方までには撃退した。こちらの損害は1名戦死ですんだ。
焼酎の集荷もだんだん悪くなり、敵情は悪化するばかりで工場稼働も難しくなった。
その頃、
5月湖南省芷江(衡陽から西方300キロ)で大敗、6月沖縄が占領された。その事情は終戦後まで知る事はなかった。
退路を断たれる恐れが高まった7月急遽全軍反転の命令が下った。
7月23日我が隊も逐次周家村を引き払い、桂林を経てとりあえず武漢に向かう事になった。
軍公路は夜を徹して、北に向かう我が軍の列がつづいた。

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2009年7月23日 (木)

札幌の戦友から見舞の電話

雨漸く上がって,朝から日射しが強い。気温は7時現在22度。
明日からまた下り坂というのだから、今日は一息いれなければ。
ブログも今日はお休みとしよう。

岩中36期生の昭和33年度版から書き写して名簿をつくる。準会員(4年生で進学したもの)を入れて卒業者108名中死亡者26名差し引き82名が存命とこのとき現在一応はなっているのだが。消息不明のものも数名いるので、確定はしない。やはり戦争で死んだものがほとんどだ。
加国とか藤村とかトップクラスが死んでいる。惜しい事をしたものだ。

昼にはかんかん照りとなる。パソコン台の拡張机のビスをどこに整理したかわからない。机をつけようと思ってもどうにもならない.ダイキまで出掛けて買って来る。一汗かく。
家内がスイカを買って来いと言ったが、小さなうまそうにないのしか置いてない。いいのは売り切れたのだろう。皆が欲しがる時は駄目なもんだ。

スイカや瓜はいつでも食べられるように,昔の我が家には水槽に何個も浮かんでいたものだが、あんな姿は田舎に行かないとやはり見られないな。

夕闇が迫る頃にはまた空もすっかり雲に覆われて何時降り出してもおかしくない状態。

暗くなって先般注文していた湖南と広西の戦史叢書がとどく。
我が部隊自動車第31大隊も小さな文字でところどころに載って入る。
ほんとにあったことだから載ってて当たり前だが、なんとなくほっとしながら、その先が知りたい。
やはり戦史だから,戦闘部隊優先で輸送隊なんて目ではないようだ。

夜札幌の山崎君から電話、雨の災害の見舞だが、いつもながら優しい心根.感謝、感謝。
一つ年下だから88歳、老骨にむち打ってフィンランドに5回目行って来た由。元気な事だ。
曾孫が二人だそうだから私より一人多い。
料理が趣味で滋養なものを作っては食べてるという。ながいきするぞー。
兵隊仲間で電話まで呉れてるのは彼一人になった。

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2009年7月24日 (金)

戦史を読む

ときどきぱらぱらと雨粒が散り落ちる変な天気。
家内が広島総合病院で目を診てもらうというのでつれてゆく。
昼過ぎに終わってつれて帰る。老人性の白内障が片方の目に出来ているよし、ひどくならない薬をもらう。他の病気はないとのこと。まあまあ安心。

戦史叢書を読むに急がし。何をする暇もなし。
湘桂作戦今読めば心当たり多し。
特に昭和19年5月25日の開戦間もなく、道なき道を尾根伝いに行った行軍は6月23日進撃中止命令発令とある。
軍は遅々として進まない行軍に愛想をつかして、この進撃コースを中止したわけだった。
方向転換を強いられたわれわれこそ迷惑な話だった。

一晩に1キロといったことがあった。朝になって見るとすぐ向かいの山に見覚えがある.
尾根は皆まっすぐと決まっては居ない。Uカーブした尾根もある。昨夜あそこから出発したのだと指差して驚いたことがあったもんな。そして夜が明けるとまた敵機が襲撃してくる。
隠れ場のない山の尾根をのろのろと一列縦隊で何日も行けば、やられるばかりで、1200台の車両の4割が損傷したと戦史に書いてある。
無惨な戦だったなあ。敵機に取ってみれば、これぐらい面白い戦いはなかったろうな。

燃料の消費量が3倍になったともある。よく燃えたものなあ。燃料満載の車も多かったのだから。
ぶーぶー一晩中ふかして1キロでは割にも合わない。
崇陽を通過した事は今でも覚えているが、平江という所まで行けずに20キロ手前の梅仙で立ち往生したと戦史にある。
崇陽から平江までは約百キロの道のりである。

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2009年7月25日 (土)

戦史を読む(2)

雨は降り止まない。大雨洪水警報は出っ放しである。
防府市の死者は12名になった。2名行方不明というのだからまだふえそうだ。

昨夜8時過ぎ、突然芳邦さんが野菜を沢山持ってやって来る。家内は風呂に入っているし,私は寝床にいるし驚き慌てる。それでも遠慮の要らない中だからそのまま上がってもらって2時間ばかり歓談する。
雷鳴しきりに轟き外はただならぬ気配だが、家の中は和やかな話で終始、遅くなったと慌てて帰り支度して午後10時雨の夜道を帰って行く。気をつけてと暗闇の中を何度も繰り返して送った。

今朝は南からの横雨がひどく外を眺める事も出来ない。もっとも眺めるに値するものは何もないが。
昼頃やっと雨が止む。しかしまだ先は分からない。

また戦史でも顧みよう。
昭和19年6月29日梅仙ー平江付近に停滞して動けなくなっていた,3個聯隊と3個大隊の自動車集団1200台は結局軍命でそこから崇陽まで引き返して岳州を回り、洞庭湖に沿う二本の道路のうち東側の道(長楽街経由)を一気に長沙へと7月17日全車両無事到着したとある。もっともそれ以前に受けた損害は除いての話ではあるが。
結局200キロの道を1月半かかったわけである。
しかし最後尾を受けたまわる私の隊の陣中日誌には8月2日長沙に到着とあるから、戦史より更に半月遅かったことになる。
(私見だが、聯隊といい大隊といい規模は殆ど同じで部隊長の階級が違うくらいのものであった。私も当初第3聯隊に入隊し,そのままの規模で第69大隊に名称が変わった。1部隊約200輛の編成だった)

訳の分からぬまま、前の車の後に跟随して、いつまにか引き返して岳州を廻ってたらしい。
山から下りてえらく早く走ったなあと思っていたが、そういうことだったのだ。とにかく暗闇の中を走るのだから,明るくても未知の土地、どこがどこだかわかるわけがない。
千輛を超える車がぞろぞろ列を作って狭い道を、夜走るのだぞ,想像してみたまえ。

当時の自動車の性能も悪かったが、自動車隊としての行軍速度は時速10キロ、一日100キロと作戦用務令に定めてある。立派な行動基準である。

ついでに気づいた事を書いておこう。この湘桂作戦でつぎ込んだ自動車は15000輛とある。主力の第11軍だけでも9800輛と戦史に書いてある。1500キロの長い戦線だから、ばらまけば問題ないかもしれないが、どこからどうして運んで来たのだろう。

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2009年7月26日 (日)

戦史を読む(3)

何時降り出すかも分からないような空、気温23度、梅雨はまだ上がりそうにないという。
7月に入ってから一日でも天気の良い日があったかしら。
朔日から三日続きの雨の三日目だった。
日記には曇と書いておけばほぼ間違いない日の連続である。

午後に入るととうとう本降りになる。
もう止む気配は全然見えない。

大阪の水戸君から珍しく電話。5回目の抗がん剤を飲み始めたとの事。痛くないので助かるとの弁。
それが一番。遅かれ早かれ何かで死ぬのだ。痛まずに円満に死にたい。
元気な声を出してるからまだ大丈夫だ。もうちょっと頑張れ。


今”私の戦争”をブログに連載しているのだが、私の一番記憶の希薄な部分に取りかかっていて,連載を迷っている所だ。
戦争末期、他の事には目もくれず集中して取り組んでいたのは、アルコール燃料とその実用化問題であった。
連夜桂林駅構内に出向いて、如何に早く,間違いなくトラックの車輪をトロッコの車輪と取り替え,レールに載せて走らせるかであった。10人ぐらいの部下を指揮して,夜を徹して取り組んだ。
敵情など時折信号弾は上がっても、全然気にしなかった。星明かり、月明かりだけをたよりに、今思い出すと不思議な気持ちだ。

テスト運行がうまく行って、もう大丈夫という所で、実際に輸送を担当する中隊に引き渡したのだが、それから後がどうなったか、どうしても思い出さない。
駐留地から桂林まで2、30キロあったから、夜通うのでも何時間もかかる。
引き渡してからは、こちらの役目ではない。
結果は後日聞かされた話になり、実際に体験したのでないからいい加減な記憶になる訳である。
どれだけの実績を上げたかは報告は受けたであろうが覚えていない。

ただ6月か7月輸送司令官が部隊に見え、我が工場をつぶさに見学し、激賞してくれたことはよく覚えている。それがアルコール事業か鉄道に転用した実績だったかそのあたりがはっきりしない。

後日捕虜生活中、久田副官が鉄道のトラック輸送のお蔭で後方に滞貨なしと司令官から賞されたのだから、戦に勝っておれば勲章は間違いなしだったのになと、私に語った事があったが、冗談だったか本気だったかはっきりしない。負けてしまっては後の祭りだと聞く耳をもたなかったせいもあった。
久田副官も20年も前に亡くなって、大分前に資料が残ってないか奥さんに探してもらったが,僅かなものしかなかった。
この度防衛省に問い合わせたが、部隊の陣中日誌や作戦記録は焼却したり、散逸したりして残っていないと回答があった。久田副官が二日市で下車して、終戦事務所に出向したのはなんだったのだろうか。

今ここに風聞程度のことを書く訳に行かないから,私の戦争史から除外しなければならない。
私のやった戦争功績はこれしかないような気がするから,今となっては至極残念でたまらない。
槿花一朝の夢だったかもしれない。

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2009年7月27日 (月)

老人の或る日

今朝3時半目覚める。息苦しいので起き上がりソファに腰を下ろす。深夜放送が流行歌をやってたが,大きな声でやるので,スイッチを切りかけたが思いとどまって音をしぼる。
折から広島、呉、東広島の大雨警報解除が告げられる。窓を大きくいっぱいに広げ深呼吸する。
なんとなく息苦しさが治まる。
又ベッドに入り明け方まで寝る。

6時半気温24度。青空が見えるいい天気.積乱雲があちこち点在し,梅雨明けの空の様。
朝の食事はパン1/3。又しばらく休む。

昼飯をかねて,買い物にアルパークに出掛ける。
先ず讃岐やで腹ごしらえを済まし、贈り物にする品定めをする。
午後1時過ぎ帰宅。
青天井の快晴の空のもと焼け付くような日射し。
眩しくて運転も難しい。
幸い人も車もさほど多くなくて助かる。
とっさの判断は難しいかもしれないが,並みの運転ならまだまだいけそうだ。

夕方5時、空は灰色一色。水蒸気でも立ちこめたか。

天気はいいのに気分はもう一つ。何もやる気がしない。
老人だからこんな日もあるだろう。

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2009年7月28日 (火)

桂林撤退

またぞろ灰色の空,沖は霧で覆われて何も見えない。
雨になるか予測はつかない。

アルゼンチン蟻の出没が激しく油断ならない。パソコンの中.寝床の中、茶箪笥の中までどこでもござれである。ときどき皮膚を噛む。針を刺すように痛い。
在来種の半分ぐらいで,色が皮膚色透明で全くわかり難い.お手上げである。
妙なものが日本に侵入したものだ。

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私の戦争/桂林駐留
 今振り返ってみると、桂林南方周家村での駐留は昭和20年2月から7月まで正味5ヶ月いたことになる。その割には思い出がない。広東橋は4ヶ月だったが思い出が多い。
どうしてだろうかと考えると、先ずアルコールに打ち込んだ事、寝ても覚めてもだった。
そして大隊全部が一緒に駐留していたので、住民と直接接触する事がほとんどなかった。
毎日同じ仕事の繰り返しでは記憶することの種類が少なかったということだろう。

会稽村のアルコール工場のたたずまい。焼酎の集荷、生産したアルコールの処理などの業務の確認、
そして外に出て街の賑わいを息抜きに見る。白崇禧屋敷に入って蔵書など拝見する。

20キロ離れた駐留地の周家村に戻れば、隊の稼働状況を見て回る。
することは僅かなものだった。

そういえば、この付近は貧しい所だったようだ。主食はなんだか里芋だったような気がする。
朝に晩に里芋のきぬかつぎをよく食わされたなあ。白い犬コロも食用に飼ってたようだった。
食ったかどうかまではしらない。

部隊内に一カ所遊郭みたいなところを作って、娼婦が何人か雇われていたようだった。
本部の深川軍医の管理のもと、検査は厳重にやっとるから心配せんで、通っても大丈夫だよと将校集会の席などで皆を笑わせていた。そういえば集会の後の宴席にはかり出されていたりしたなあ。
駐留期間が長かったから、兵隊の慰安のために施設したのだろうが、そういえば慰安所といったかもしれない。
ひょっとしたら娼婦は日本人ではなかったかもしれない。

会稽村は一応賑やかな街だったから,店も多くいかがわしい店も当然あった。
麻雀賭博をしていた兵隊の中に私の隊の兵隊がいて、週番将校をしていた私の同期の久田副官につかまった。早速友達の私に耳打ちしてくれたので,ビンタを取って説教し釈放した。
宿営地なら重営倉というところだが、戦地ではこの程度で仕方がなかった。私も部下をビンタを取ったのは始めてであった。

桂林陥落の際捕獲した兵器弾薬などは凄かった。アメリカ製の自動小銃、対空機関砲など目新しいものいろいろ配給された。また洋酒などもたくさん配られてときならぬ宴会になったりしたものだ。
これらの武器のお蔭で終戦後撤退の途中役立ったことがあったりした。

この付近の景色は南画に描かれた絵そっくりで、南嶺を超えて樹木越しに、曉暗に浮かぶタケノコ状の山波を眺めた時の驚きは忘れられない。朝に夕に眺め暮らした割にはその後の感動は記憶にない。

戦史によると我が部隊は苓浦を中心の区間輸送を担任したらしいが、直接携わる事のない材料廠だから全然記憶にはない。
アルコール燃料もそれ用の自動車も後はご自由にと任せただけで、あとの事は撤退に忙しくてどうでもよかったのかもしれない。

何も聞かされてはいなかったが、日本が危ないということは、空気伝染で分かりかけていた。
目をつむり,耳をつむっていただけだった。
7月撤退命令が出たとき、やはりそうかと覚悟した。もう生き延びる道はなさそうだと思わざるをえなかった。

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2009年7月29日 (水)

日本の敗戦を知る

朝広島総合病院に出掛ける。もちろん一番の呼び込みである。簡単に済む。
帰宅すると家内が長女の所に行って来ると支度している。広電駅までつれて行く。
ちらちらと小雨が降っている。梅雨は8月までつづくようにいっている。
天候異変のうちに入るだろう。

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私の戦争/日本敗北を知る
 昭和20年7月23日桂林に別れを告げる。
出発間際に犬養兵長が連れて行ってもらいたい人があると、頼みに来る。
広西大学教授の陳冰夫妻という。南京政府の周仏海が友人なので,彼を訪ねて行きたい.行ける所まででよいからとのこと。奥さんは香港生まれで英語や,広東語は得意で,主人は北京語と広東語に堪能とかだったが、私との会話は難しかった。奥さんの通訳で英語での会話が多かったような気がする。
ともかくトラックの背中の幌の中での雑魚寝で過ごしてもらうことになった。

周仏海と言えば汪兆銘、陳公博とならぶ南京政府の要人である。名前だけは日本でも著名であった。
日本と手を組んでる人たちだからいいだろうとすぐ請け合った次第だった。

各部隊が一斉に北上を開始したのだから、軍公路の込み具合は大変である。
敵機も早くも察知して、頻繁に襲撃して来る。
だから夜の行動だけで、昼はもっぱら蚊帳を樹木につって昼寝という訳。
私が携行していたマイナー・ハーモニカを寝ながら吹くと、兵たちが唱和して歌うといった、思わぬ戦場風景ともなった。勝敗はともあれ故郷へは近くなるという思いがこころを楽しくさせてくれたのであろう。

8月17日全県を過ぎ、祁陽付近の山茶花の林の中に退避していたとき、本部から各隊長集合の命令が届けられた。部隊長から停戦になったから、昼の行軍で迅速に先ず長沙まで行くようにということだった。停戦ということがどういうことか、よくわからなかったが、ともかく一時武器を置くという事だろうと理解した。しかし敵が攻撃して来た時は戦うことに躊躇するなと言う事が付け加えられた。

住民が豚を殺してご馳走してくれた勢いで直ちに前進を開始した。
南岳市に来た頃,夕方近くなっていたので、車を止め、指揮班長と伝令二人に、偵察に出向かした。
ところが十数分もすると、日本の警備隊と敵が交戦中だと伝令が報告して来た。
そこで私はすぐ戦闘準備を下命し。半数を車両警備に残し。残り半数を率いて、南岳市を包囲するごとく展開せしめた。桂林で補給された、重機、軽機、迫撃砲などは勿論この時とばかり携行せしめた。

街に到着し始めた頃敵は早くも気づいて,衡山の麓を上に向かって、一斉に退却し始めた。
直ちに重機関銃と迫撃砲で攻撃を開始した。敵影がよく見えるので狙い撃ちである。どちらの火器も弾着が分かりやすいので攻撃しやすかった。
小銃を射つ暇もないうちにかたが付き,敵は潰走し、警備隊の10名ばかりを救い出す事ができた。

隊長の見習士官が本隊に帰りたいというので、車に載せ,全員をやく10キロ先の衡山市まで送っておき、こちらは野営場所を求めて更に前進する事になった。

思い出の広東橋があと50キロぐらい先にあるので、暗くなってもいいから、そこまで行こうということに決め急ぐ。

もう8時過ぎ、9時近くなっていたかもしれない。住み慣れた場所だけにすぐ野営施設を始めると間もなく、誰が連絡したのか、部落の顔役などがやって来て、ご馳走するからと案内にやってくる。
皆私たちを忘れてはいなかった。幹部のもの、関係があったもの十数名が招待を受け,夜遅くまで歓待された。
このとき彼らはもう日本は負けてアメリカに占領されたのだから,あなた方は国に帰っても駄目だ。こちらに残ったらどうだという。われわれでなんとか面倒を見るという。

冗談じゃあない。日本が負けるわけがない。一時停戦しただけだ。いずれ戦争は終わるよと事情を彼ら程知らないわれわれは、怒って彼らの言い分を拒否したのだったが。

翌々日長沙に入るとすぐ敵の部隊に武装を解除すると通告を受け、やっぱり負けたのかとがっかり。
超先生にもこういうことだそうだから、自動車は敵に取られるし,送っては行けないから自分で方途を考えてくれと別れる事になった。

8月23日正式に武装解除され、背嚢一つとなり、銃も剣も皆取り上げられてしまった。

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2009年7月30日 (木)

捕虜その1

珍しく青空一面の快晴、気温24度と涼しい朝。
このまま梅雨が上がるといいのだが。

11時内藤内科に行く。腎臓の検査をするという。血液を採って別に検査してくれる。
健康値ぎりぎりで良好と告げられる。
食欲もまあまあだし、これ以上はしかたのないところだろう。

午後はやや雲が出て来たが、かんかん照りよりは過ごし良い。

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私の戦争/捕虜
 昭和20年8月30日夕刻、長沙を徒歩で出発。背嚢には食糧と下着類のみのささやかな荷物を詰め込み、それこそとぼとぼと気力を喪失した歩みであった。

何キロ行ったか、もと鉄道のあった橋だろう、渡る事になった。1kmもある長い橋である。下はごうごうと凄い音を立てて流れる濁流の大河湘江、落ちでもしたら命はない。
線路を取り払った,隙間だらけの橋、揺れ動く橋板の上をそろそろ歩く。まったく肝を冷やすとはこのことだった。始めは何とか立って歩いたが、中程からは皆這って渡り始めた。その方が安全で早かった。歴戦の勇者も形なしであった。

もう帰心矢のごとく、もくもくと歩くのみだった。暗闇の中を、どこがどことも分からず付いて行くだけで、小休止、大休止と伝令が伝えれば休み、路傍にばたばたと寝転ぶだけであった。

9月2日大きな河のほとりに立ち止まった。汨水であった。
川船で渡り、ここから岳州まで鉄道で運んでくれるということで、河辺に散らばって時間を待っていた。
すぐ近くの廃屋にいた電信隊の隊長が、私を呼んで、今日米の戦争終結の調印を放送しているから聞けと,レシーバーを貸してくれた。アナウンサーは間違いなく無条件降伏と伝えていた。
その瞬間思わず涙が滂沱と頬を伝って落ちるのを感じた。もう駄目だ。俺たちの死に場所はどこになるのだろう。その事しか思い浮かぶものはなかった。呆然として真っ白な頭の中。
二千年の昔楚の屈原があの有名な「漁夫の辞」を残し、主君懐王がとらわれた先、秦に客死して、忠誠空しきをを悟り、石を抱いてこの汨羅の淵に身を投じたと伝えられている故地でもあった。

岳州に着いて、しばらく待命休憩の時間がつづいた。
街の中は住民の復帰で混雑していた。憲兵下士官が大きな袋を引きずっているので,なんだと聞くと、袋の口を開いて中を見せてくれた。袋一杯に乱雑に押し込んだ紙幣、いうまでもなく無価値になった儲備券であった。どこかで焼くしかないとやけくそな口ぶり。
何万枚もあったのではないか。

9月9日列車で咸寧県賀勝橋というところに運ばれる。
この駅の近辺に部隊は民家に分宿して、捕虜生活をつづけることになった。
私の隊は駅から一番遠く3キロも離れた部落の民家の土間の何部屋かにシートを敷いて寝起きする事になった。一部屋に十数名のごろ寝である。隊長も兵隊もなかった。
食事は一日主食のみ300グラムの通達で、毎食メンコ半分のお粥か雑煮だった。

この家の住民も同居しているのだが、多勢に無勢黙って狭い一,二室に窮屈そうにくらしていた。
お上の命令だから致し方はない。

隣の部屋に寝てばかりいる老人が居たので,聞くと食うものがないので死ぬのを待っているのだという。さかんに没法子を口走る。一般住民は国が勝とうが負けようが関係ないのである。

おりしも、その国自体も国民党と共産党が死力を尽くして内戦のまっただ中にあった。

(注)漁夫の辞について、よく聞かれるが、詳しい事は私もよく知らない。
nifty searchで拾ってみると、ちゃんと本文と邦語訳があったのでそのまま載せておく。
漁父辞
屈原既放
游於江潭
行吟澤畔
顔色憔悴
形容枯槁
漁父見而問之
子非三閭太夫與
何故至於斯
屈原曰
與世皆濁
我独清
衆人皆酔
我独醒
是以見放
漁父曰
聖人不凝滞於物
而能與世推移
世人皆濁
何不乱其泥
而揚其波
衆人皆酔
何啜其汁
何故深思高挙
自令放為
屈原曰
吾聞之
新沐者必弾冠
新浴者必振衣
安能以身之察察
受物之紋紋者乎
寧赴湘流
葬於江魚之腹中
安能以晧晧之白
而蒙世俗之塵埃乎
漁父莞爾而笑
鼓(木世=えい)而去/
乃歌曰
滄浪之水清兮
可以濯吾纓
滄浪之水濁兮
可以濯吾足
遂去不復與言

屈原 既に放たれて、
江潭にあそび、
ゆくゆく沢畔に吟ず。
顔色 憔悴し
形容 枯槁せり
漁父見て 之に問うて曰く、
子は三閭太夫にあらずや、
何の故にここに至れる。
屈原曰く
挙世 皆濁り、
我、独り清めり。
衆人、皆酔い
我、独り醒めたり
是(ここ)をもって放たれり。
漁父曰く
聖人は物に凝滞せずして
よく世と推移す。
世人 皆濁らば
世人 其の泥をみだして
其の波を揚げざる。
衆人 皆酔わば、
何ぞ其の汁を啜(すす)らざる
何の故に深思高挙して、
自ら放たれしむるを為すや。
屈原曰く
吾、之を聞く
新たに沐する者は必ず冠を弾き
新たに浴する者は必ず衣を振う と
いずくんぞ能く身の察察たるをもって、
物の紋紋たる者をうけんや。
寧ろ湘流に赴いて
江魚の腹中に葬らるるも、
いずくんぞよく晧晧の白きを以って
世俗の塵埃を蒙らんや
漁父 莞爾として笑い
えいを鼓して去る
乃ち歌って曰く
滄浪の水 清まば、
以って吾が纓(冠の紐)をあらうべし
滄浪の水 濁れば、
以って吾が足をあらうべし
遂に去ってまたともに言わず

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2009年7月31日 (金)

捕虜その2

来る日も来る日も,曇か雨か梅雨らしい日が連続して,真夏らしくない涼しい毎日だったが,一昨日,昨日と快晴が続いて、漸く真夏の大陽がぎらぎらと頭上に焼きごてを当て始めた。
今朝は灰色の空を抜け出て来る日射しはないが、あつい雲はなさそうだから、そのうち灼熱の日光が届き始める事だろう。

昼前に出掛けて壱番屋にゆきカツライスを食べる。その足でスーパーで買い物をして帰る。
もうすっかり夏の日射しの中,ちょっとの外出でもくたくたになってしまう。
 ______________________
私の戦争/捕虜その2
捕虜収容所に入ったその日から連日、前の軍公路を陸続と日本軍の部隊の行列がつづいた。

光部隊のように仏印から引き上げて来たという堂々と軍靴を響かせて4列縦隊であるいてくるのもあれば、よれよれに疲れ果ててばらばらやって来る兵隊もある。
中には軍用犬を飼ってくれと置いて行く兵隊も居た。
幸い小林信繁という兵隊が軍用犬師だったので譲り受けて飼う事になった。
絶対に他のものに手を出させない難しい犬だったが、ここを去るときどうしたのかなあ覚えていない。

蒋介石が戦争の怨讐をこえて日本軍は円満に日本に帰すと明言した伝えられ、早くも送還が実行されてるとも伝えられた。
国共内戦のとばっちりを受け、国民党側の捕虜となっている我々に、取り合えず防御用にと小銃と弾薬がかなりの量支給される。聞けば共産ゲリラの出没が予測されるからということだった。また協力して戦う兵士を募集するから、申し出ろとのことでもあった。
私の隊でも中村軍曹ほか5名が、どうせ日本に帰れても碌な事にはならないだろうからと応募して出て行った。
彼らは押収された日本車を運転して、輸送などに従事しているらしく、合間にはやってきて、食の足しになるものをくれたりした。そのうち数ヶ月もするとどこかへ行ってしまったらしく消息がなくなった。

賀勝橋の駅前の商店街に行き、食い物をあさったりした。
公用で咸寧の司令部に行く時など、日本軍が残した木炭列車の機関車の横腹なんかにぶらさがっていった。汽車はものすごくいっぱいで、住民たちは勝手に乗り込んでいる風だった。

商店街の食堂に入ると、見も知らぬ住民が酒をすすめてくれたりした。
皆ひとがよかった。
しかしある日三民主義青年団というのが、漢奸だと称して、数名の男たちを捕縛して,街の広場につれて来て容赦なく銃殺した。夜遅くまでそのうめき声が聞こえ凄惨であった。

広東橋でも経験した住民に対する医療協力を実施した。だんだん知れ渡り沢山の住民が病気治療を受けに来るようになった。お礼にと持参する食糧が我々の台所を潤すことにもなった。

虎に噛まれたと言って,肩から背中にかけて手ひどい怪我をした男が担荷で担ぎ込まれたこともあった。すぐ近くの山でやられたという事で、大騒ぎになった。

住民からの申し出もあり山狩りをすることになり。兵隊数十人と部落民多数で山を取り巻いて、発砲したり騒ぎたてたりしたが、虎は出て来なかった。
アリクイの大きな奴を持参したり、ところかわれば品変わるのたとえ通り、日本で見かけない動物がいろいろいた。

我が部隊だけでも約800名もいるのだから、賀勝橋を中心に4キロ範囲くらいの民家に自由に宿営しているのだが、戦いで荒れ果てていて、捕虜を養うのも簡単ではない。
中国軍もほとんど口出しせずに自主的に管理させているらしかった。中国軍の兵士が見回るなどいうことは一切なかった。

器用な兵隊が居て,演芸会を開いたり、また麻雀、とか囲碁,将棋など遊び道具はいつの間にか沢山作られて各所で大会が行われる始末だった。

近郊に水深が1mぐらい幅3mぐらいの小川がながれていたが、釣り糸をたれても鮠ぐらいしかかからなかった。小さな沼が1kmぐらい離れた所にあったが、こちらでは2、30cmぐらいの鮒がよく釣れた。天ぷら炒めして食うとおいしかった。しかし釣り人多しで間もなくいなくなってしまった。

カエルを捕って食ったり、のびろをつんでくったり、食えるものはなんでも探し歩いた。何百人もの兵隊がやるのだから、そのうち何も無くなってしまった。

近所の住民のうちに行き、物々交換で茶碗一杯のめしを僅かな菜っ葉の漬け物を載せてくったこともあった。
翌年の正月頃になるともうじたばたしても駄目だと悟った。

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