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2009年2月24日 (火)

第6号潜水艇

昨夜はかなり降ったらしいが、今朝方はぽつりぽつりと思い出したように降っている。
濃霧が立ちこめて天神山の向こうはもう何も見えない。

枕元に置いてある書物の中に藤本仁という人の書いた「佐久間艇長の遺書と現代」という本がある。
相変わらず暖房機を使わない部屋が寒くて、ベッドから離れがたいので、寝たまま思わず手にする。
佐久間艇長というと必ず少年の頃を思い出す。郷土の盆踊りの音頭のテーマには必ず上る。
桜咲く春4月、沈没した海のすぐ前の浜辺にある記念碑の前で盛大なお祭りがあって、皆参詣する、私も毎年約3キロの道を通ったものだ。

ある日私の同じ名前の一級下の子が、小舟で私を誘って遥か海上まで釣りに出た事があった。
実際はもっと沖だったのだろうが、この辺で6号潜水艇が沈んだらしいぞと、誘ってくれた友がささやく。
このとき竿を下ろせばすぐ食いつく小魚に驚くとともに、何か変な巡り合わせを感じて不気味な思いをした事があった。

後年満州の会社に就職し、学校の8年先輩だった、長谷川さんという人に随分世話になった。この先輩が戦後のあるとき突然私を
訪ねて、6号潜水艇を見たいから案内してくれないかと頼まれた。
中学生当時、海軍潜水学校の一角に飾られていて、中に入ってみたりした経験があったので、早速OKして、一緒に潜水学校があった場所を尋ねた。跡地には造船所があったが、誰に聞いても知らない。戦後20年ぐらい経っていて、米軍の接収にあったりしたので無理もなかった。

呉の記念公園の場所にも見当たらない。結局鎮守府まで行き探してもらったところ、江田島の術科学校の校庭にあることがわかったが、時間がなくてこのときはとうとう見る事は出来なかった。
その後私自身は2度江田島を訪れて拝観したが、長谷川さんは遠いところからなかなか訪れる機会はなく惜しくも亡くなられてしまった、
因に長谷川さんの叔父さんはこの潜水艇の副長長谷川中尉で兵学校卒業席次2位恩賜組の秀才だった、佐久間艇長とともに従容として死に付いた乗組員15名の一人であった。

佐久間艇長の遺書は夏目漱石も激賞したとある通り、後世軍人の鏡ともいわれており、なかんずく長谷川中尉以下整然と持ち場に付いたまま死んでおり、当時同じく沈没事故を起こして死んだイギリス海軍軍人の死に様と比較され、世界を驚かせたという。

思い出すまま綴ったのだが、少年の頃遊んだ海も海岸も今は簡単に寄り付けるところではない。西は米軍基地と成り、工場群が海沿いを埋めつくし、岩国港に連なる。埋め立てが進んでむかしの海岸線はどこにあるのか、私には皆目判じが付かない。
五百年前にはまだ万葉の麻里布の浦々を残し、千年昔には白砂青松の美景が人々に歌い継がれた。

第6号潜水艇の遺跡も間もなく記憶の底から消え去るに違いない。艇が沈んだのが丁度百年前、その海の底が見えたと思った頃から八十年、遠くなりにけるかもだ。

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