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2008年8月 3日 (日)

ココログのコメント

8月3日(日)晴
朝起きてすぐパソコんをいじっていると、ブログにコメントが入っている。何事かなと見ると、戦争中私の隊に所属していた衛生兵のご子息のメールである。検索の末辿り当てた由。久しぶりに聞く部下の戦後の経緯である。
3回忌とあるから2年前亡くなった様である。非常に身じかに接してくれた兵隊だっただけに懐かしく、生存中に連絡が欲しかった。
長沙で私が赤痢で倒れた時終始看病に当たってくれた大恩人でもある。同僚の兵たちの信頼は極めて厚かった。
今は只遠くから冥福を祈る以外にない。戦後一度は会いたかった一人である。残念!

武内さんの次のコメントを見ると私の憶測は違っている様だ。旧姓長谷川と仰るそうだ。また階級が曹長ということは、材料廠に配員せられることはない階級である。珍しいことですね。関係者全員が死亡している現在では捜し様がないようです。
また、衛生兵の河原は別の名簿で河原長吉とありました。私の誤認です。すみません。
武内太郎はその名簿にも載っていますので、在籍は間違いないようですが、ただ私が材料廠長に就任した時に、前任者の内藤中尉と一緒に満期除隊したものが10名ばかりいます。殆どが華族出身か特別高齢者(兵隊の中での)のようです。当時の軍隊は身分差がありましたから、差別を付けた処遇があったようです。それしか考えられません。
在籍者名簿ですから、満期除隊者も含まれています。
もしそれでもないとすると、他中隊への転属ですかな。とにかく私には覚えがありません。

田丸の義弟の新盆なので弟と打ち合わせてお参りに行く。哲郎君も佐賀から駆け付けて来て賑やかに談笑する。
昼食は八雲本店で会食。2時頃帰宅。

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コメント

情報をありがとうございます。
「つくば」という文字も当てはまりますので
父は第1中隊に所属していたようです。
並木さんのコメントは昨日読みました。
私と同じ経緯だと思っておりましたが、
同じ中隊だったのですね。
戦後、戦友会には何度か出席した話は
父から聞いております。きっとそこで
再会を果たしていると思われます。

終戦になり、武装解除される時
父の所持していた医療器具も没収されそうに
なったのですが、父はものすごい剣幕で怒り出し、
その迫力にたじろぎ没収をまぬがれたと
話しておりました。
生前の父から察して十分にありえるエピソード
だと思っています。その一部なのでしょう
アルマイトのケースに入った注射器と針が
遺品として今も仏壇に飾られております。

今回、篠原様のホームページやブログを読み
当時の父の置かれていた状況等がわかり、
篠原様には大変感謝しております。
貴方のブログは宝の山でした。
昨日は丸一日読み耽りました。
どうか健康に注意され、ライフワークとも思われる
ブログを書き続けてください。
きっと又、並木さんや私と同じような者が訪れるでしょう。
本当にありがとうございました。

投稿: | 2008年8月 4日 (月) 15時43分

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