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2008年8月 2日 (土)

福田改造内閣発足

8月1日(金)曇
朝から高曇り。
せいこうで背中の治療してもらう。ものの15分で終って帰る。この次にはもういいだろうとの御託宣。

帰宅すると家内の意向で宮内のザ・ビッグに出かける。食料を沢山買う。このスーパーは品数が多いのが良い。客数も多いが。
終って墓を見に行く。
今年から立ててくれた墓屋さんが守してくれなくなったため、草の状況を確かめる為である。
やはり可成りの草が生え出している。概略取ってのけたが、盆前に又来ることにする。
太陽がカンカン照ってる中では草抜きなど無理である。

夕方6時近く雷鳴しきり。
なれど遂に夕立にはならず。蒸し暑さ夜間に及ぶ。

夕方から福田改造内閣組閣の模様がながながと放送される。
民主党内閣の組閣なら興味もわく所だが、所詮代り映えしない組閣人事途中でテレビから去る。

オリンピックも近づいたが少し騒ぎ過ぎではないかな。

8月2日(土)曇
雨にはなりそうにはないが,空はすっぽり灰色、やはり雲なのであろうか。
やわらかな日射しが下界を明るく暑ぐるしくしている。

先程からブルッフのバイオリン・コンチェルトの甘美な音色が部屋の空気をゆるがしている。先般録音したCDからのものである。いいものはいい。好きなものはさらによい。

夕方になるも沖合いの霞は消えない。
今日は終日風がよく吹く。開け広げていると,比較的涼しくて過ごしよい。こんな日もたまにはあるものだ。
午前中にアルパークまで出かけて中元など済ませておく。
老いぼれてこんな儀礼は止めたいものだが、お返しをほっとく訳にも行かないし困ったものだ。

時折列車の轟音が遠くから聞こえて来る。滅多には聞こえないのだが、今日は風が強いから載せられて届くのだろう。なんとなくなつかしい。

昨日あじうりを家内が買って来たのを食べる。何十年振りだろうか、家内は堅くて食べられないとこぼしている。
私はうまくないのでがっかりする。子供の頃よく食べたものだが、おいしかったと思ったのに。

原爆の記念日が近づくと例年お決まりの回顧写真などが新聞などで報道される。
戦場の悲惨さを見慣れたものにも、写真の奥に見えるものが皆想起されて嫌なものだね。いいとか、悪いとか云う積りはないけど。
只云えることはこんな現象は人類の地上から消えることはないということ。情けないね。

いつも思うのだが、参謀本部は兵隊は最低限一日何百グラムかの食料をたべる動物だと計算して戦争したのだろうかと疑う。
我々自動車部隊でも、コメ、塩,乾パンなど若干は携行はしていたが、副食の類はほとんど現地調達だった。
ところが戦場だから、破壊され尽くした部落などに現地人とている筈はない。調達と言っても残されたものを、取って食べる以外にない。敵は略奪と言ってたが、正にその通りである。黙ってもらって行くのだから。
牛は皆連れて逃げていたので、僅かしか残っていなかったが、犬は随分残っていた。皆射殺されて兵隊の胃袋に納まった。時々協力的な現地人が飼い豚など殺して、食わしてくれたこともあるが、1年に1度か2度である。

コメなど収穫貯蔵されたものを、略奪する部隊は後を絶たなかった。良民の訴えを聞いて、その部隊長と掛け合って支払わせたこともある。チョビケンなどという得体の知れない紙幣で支払うのだが、日本軍と言う威光の前に、渋々受け取らざるを得ない訳である。折角収穫したものをごそっと持って行かれた農民はその後どうしただろう。紙を食う訳にはいかないからね。どちらも哀れだったね。

夕方明るいうちから準備が始まって前の公園で盆踊り大会が始まるらしい。(歩くのが億劫なから、また危険でもあるから聞こえる音で想像する)
夜7時地区の盆踊りが始まる。数年前に出来た盆踊り歌から始まる。誰が作ったかなかなかいい歌である。
間もなく各地の民謡が入り始める。輪の中に入って踊ってくださいとの呼びかけが再三マイクで流される。踊る人が少ないのかも知れない。なにしろこの暑さではなあ。
30分もすると拡声器がしぼられて小さな声になる。8時過ぎには花火が10本ばかり上がってどうやら盆踊り大会は終ったかに見えたが、突如拡声器が8時半から盆踊りを始めるからよろしくという。変な盆踊りだなあ!
8時半後半が再開される。前後半があったのか。


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コメント

はじめまして、武内と申します。
亡父の三回忌が終わり、あらためて遺品を
整理していたところ従軍証明書という書類が
出てきました。
それによると独立自動車第31大隊材料廠に
所属していたようです。
Googleの検索でこちらのブログにたどり着きました。

亡父は武内太郎と云います。衛生兵をしておりました。
ご存知でしょうか。

満州の厳しい寒さや進軍中の苦労話など
生前に聞いたことがありますが、
地名等の詳しい事は聞いておりませんでした。
こちらのブログや「私の軍隊生活」をしばらく読ませて頂き、
断片的な記憶を補完し、つなぎ合わせて行こうと思います。良い供養になりそうです。
詳細な記録や思い出を、ありがとうございます。

投稿: | 2008年8月 3日 (日) 01時18分

コメントありがとうございます。
武内太郎という衛生兵はいませんでしたが、河原太郎という衛生兵はいました。戦後変姓されたのでしょうか。
最後は兵長でした。
私が隊長でしたが、抜群によくやってくれました。性格も明るく淡白で、兵の信頼も厚かったと思います。

今戦後作成した名簿を見ると武内太郎で載っていますね。
従軍中になかった名前ですから、河原太郎に違いありませんね。

そうですか亡くなられましたか、生前ご連絡が欲しかったですね。
彼は私の身じかにいつもいてくれた男でしたから、懐かしくてたまりません。
戦後の御模様をメールでお知らせください。お願い申し上げます。
アドレス:sinoman@me.com

投稿: | 2008年8月 3日 (日) 07時13分

早々の返信ありがとうございます。
父は長谷川姓でしたが母と結婚して武内と
なりました。昭和16年のことです。
母にも尋ねましたが河原という名は知らない
そうです。たぶん別の方だと思います。

申し訳ありませんが、材料廠では無かったかも知れません。
従軍証明書とは別のプリントに材料廠と書かれてありました。
恩給をもらう時に参考にしただけかもしれません。
独立自動車第31大隊であることは確かです。

父は大正元年生まれで、除隊時衛生曹長でした。
一昨年、93歳で他界しました。
息子から見ても、幸せな一生だったと思っております。

投稿: | 2008年8月 3日 (日) 12時32分

衛生兵の河原は別の名簿で河原長吉とありました。私の誤認です。すみません。
武内太郎はその名簿にも載っていますので、在籍は間違いないようですが、ただ私が材料廠長に就任した時に、前任者の内藤中尉と一緒に満期除隊したものが10名ばかりいます。殆どが華族出身か特別高齢者(兵隊の中での)のようです。当時の軍隊は身分差がありましたから、差別を付けて処遇された次第です。それしか考えられません。
在籍者名簿ですから、満期除隊者も含まれています。
死亡時93歳ですから、1944年1月に満期除隊された口だと思いますがどうでしょう。
それとも他の中隊へ転属したか、お調べください。

投稿: | 2008年8月 3日 (日) 16時58分

ご返信ありがとうございます。
母が戦地の父に出したハガキを父は持って帰って来ました。
現在も遺品としてありますが、そこには
「つくば隊」の文字があります。
材料廠は「しのぶ隊」と呼ばれていたと
書かれておりますので、別の中隊だと思われます。

父は第3陸軍病院勤務で16年に召集解除され
母と結婚後、17年11月に再召集され、
17年12月に第31大隊に入隊しました。
その後、隊と共に中支に進軍し終戦後21年6月に
鹿児島に復員しました。

父は農家の五男坊で華族ではなく、一銭五厘の方です。
私には大事な親ですが。

「私の軍隊生活」に書かれている宣撫工作の
中国住民への治療活動で住民に感謝され、
村に医者として残ってくれと言われたと
父から聞いたことがあります。

投稿: | 2008年8月 3日 (日) 18時14分

最近再三メールを頂いている並木茂雄さんという方から次の様なコメントが入りました。
並木さんのお父さんも第31大隊第1中隊で収容班長をされていたそうで、昨年亡くなられて居られます。わたしのブログでやはり部隊の消息を知られ、度々メールなどいただいております。
貴方のコメントなど読まれ次のコメントをよせられました。そのまま転送いたします。
よりくわしくご尊父のことなどわかるかもしれませんので。
 ___________________
 御無沙汰致しております、並木です。
その節はいろいろな情報ありがとう御座いました。
 プログを拝見致しましたら、竹内太郎氏のお名前が出てまいりましが、
この方は、私の父と同じ第一中隊に所属しております。
 中隊の編成表を見ると、衛生下士官軍曹竹内太郎と名前が読めます。
 この編成表は、父が軍曹になっておりますので、華中に移動後の物と
判断出来ます。19年4月に華中に転用時には、父は伍長ですから、
父が収容班長で軍曹になっておりますので、竹内太郎氏も華中に
移動されたものと判断できるかと思います。
 つくば会の会員名簿にも竹内太郎氏の名前が載っております。

私と同じように遺品の整理などから亡き父の事を調べる方も多いの
でしょうね。
 篠原さんの書かれているホームページやこのプログを見て、
思っているよりも多数の方が、情報を得ていることと思います。
 これも篠原さんのページのおかげかと、です。

8月に入り、終戦の日が近づき、又、例年のように戦争の事がテレビに
出る事も多くなり、記憶も呼び戻されるようです。
 私も当時の戦争の記録などを見る目が、例年とは違った目で見るでしょう。

暑さ厳しき折、残暑お見舞い申し上げます。

お体大切に、これからも篠原さんのプログ楽しませて下さいませ。
        
                                      並木
___________________

投稿: sinoman | 2008年8月 4日 (月) 09時32分

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