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2008年8月 2日 (土)

福田改造内閣発足

8月1日(金)曇
朝から高曇り。
せいこうで背中の治療してもらう。ものの15分で終って帰る。この次にはもういいだろうとの御託宣。

帰宅すると家内の意向で宮内のザ・ビッグに出かける。食料を沢山買う。このスーパーは品数が多いのが良い。客数も多いが。
終って墓を見に行く。
今年から立ててくれた墓屋さんが守してくれなくなったため、草の状況を確かめる為である。
やはり可成りの草が生え出している。概略取ってのけたが、盆前に又来ることにする。
太陽がカンカン照ってる中では草抜きなど無理である。

夕方6時近く雷鳴しきり。
なれど遂に夕立にはならず。蒸し暑さ夜間に及ぶ。

夕方から福田改造内閣組閣の模様がながながと放送される。
民主党内閣の組閣なら興味もわく所だが、所詮代り映えしない組閣人事途中でテレビから去る。

オリンピックも近づいたが少し騒ぎ過ぎではないかな。

8月2日(土)曇
雨にはなりそうにはないが,空はすっぽり灰色、やはり雲なのであろうか。
やわらかな日射しが下界を明るく暑ぐるしくしている。

先程からブルッフのバイオリン・コンチェルトの甘美な音色が部屋の空気をゆるがしている。先般録音したCDからのものである。いいものはいい。好きなものはさらによい。

夕方になるも沖合いの霞は消えない。
今日は終日風がよく吹く。開け広げていると,比較的涼しくて過ごしよい。こんな日もたまにはあるものだ。
午前中にアルパークまで出かけて中元など済ませておく。
老いぼれてこんな儀礼は止めたいものだが、お返しをほっとく訳にも行かないし困ったものだ。

時折列車の轟音が遠くから聞こえて来る。滅多には聞こえないのだが、今日は風が強いから載せられて届くのだろう。なんとなくなつかしい。

昨日あじうりを家内が買って来たのを食べる。何十年振りだろうか、家内は堅くて食べられないとこぼしている。
私はうまくないのでがっかりする。子供の頃よく食べたものだが、おいしかったと思ったのに。

原爆の記念日が近づくと例年お決まりの回顧写真などが新聞などで報道される。
戦場の悲惨さを見慣れたものにも、写真の奥に見えるものが皆想起されて嫌なものだね。いいとか、悪いとか云う積りはないけど。
只云えることはこんな現象は人類の地上から消えることはないということ。情けないね。

いつも思うのだが、参謀本部は兵隊は最低限一日何百グラムかの食料をたべる動物だと計算して戦争したのだろうかと疑う。
我々自動車部隊でも、コメ、塩,乾パンなど若干は携行はしていたが、副食の類はほとんど現地調達だった。
ところが戦場だから、破壊され尽くした部落などに現地人とている筈はない。調達と言っても残されたものを、取って食べる以外にない。敵は略奪と言ってたが、正にその通りである。黙ってもらって行くのだから。
牛は皆連れて逃げていたので、僅かしか残っていなかったが、犬は随分残っていた。皆射殺されて兵隊の胃袋に納まった。時々協力的な現地人が飼い豚など殺して、食わしてくれたこともあるが、1年に1度か2度である。

コメなど収穫貯蔵されたものを、略奪する部隊は後を絶たなかった。良民の訴えを聞いて、その部隊長と掛け合って支払わせたこともある。チョビケンなどという得体の知れない紙幣で支払うのだが、日本軍と言う威光の前に、渋々受け取らざるを得ない訳である。折角収穫したものをごそっと持って行かれた農民はその後どうしただろう。紙を食う訳にはいかないからね。どちらも哀れだったね。

夕方明るいうちから準備が始まって前の公園で盆踊り大会が始まるらしい。(歩くのが億劫なから、また危険でもあるから聞こえる音で想像する)
夜7時地区の盆踊りが始まる。数年前に出来た盆踊り歌から始まる。誰が作ったかなかなかいい歌である。
間もなく各地の民謡が入り始める。輪の中に入って踊ってくださいとの呼びかけが再三マイクで流される。踊る人が少ないのかも知れない。なにしろこの暑さではなあ。
30分もすると拡声器がしぼられて小さな声になる。8時過ぎには花火が10本ばかり上がってどうやら盆踊り大会は終ったかに見えたが、突如拡声器が8時半から盆踊りを始めるからよろしくという。変な盆踊りだなあ!
8時半後半が再開される。前後半があったのか。


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2008年8月 3日 (日)

ココログのコメント

8月3日(日)晴
朝起きてすぐパソコんをいじっていると、ブログにコメントが入っている。何事かなと見ると、戦争中私の隊に所属していた衛生兵のご子息のメールである。検索の末辿り当てた由。久しぶりに聞く部下の戦後の経緯である。
3回忌とあるから2年前亡くなった様である。非常に身じかに接してくれた兵隊だっただけに懐かしく、生存中に連絡が欲しかった。
長沙で私が赤痢で倒れた時終始看病に当たってくれた大恩人でもある。同僚の兵たちの信頼は極めて厚かった。
今は只遠くから冥福を祈る以外にない。戦後一度は会いたかった一人である。残念!

武内さんの次のコメントを見ると私の憶測は違っている様だ。旧姓長谷川と仰るそうだ。また階級が曹長ということは、材料廠に配員せられることはない階級である。珍しいことですね。関係者全員が死亡している現在では捜し様がないようです。
また、衛生兵の河原は別の名簿で河原長吉とありました。私の誤認です。すみません。
武内太郎はその名簿にも載っていますので、在籍は間違いないようですが、ただ私が材料廠長に就任した時に、前任者の内藤中尉と一緒に満期除隊したものが10名ばかりいます。殆どが華族出身か特別高齢者(兵隊の中での)のようです。当時の軍隊は身分差がありましたから、差別を付けた処遇があったようです。それしか考えられません。
在籍者名簿ですから、満期除隊者も含まれています。
もしそれでもないとすると、他中隊への転属ですかな。とにかく私には覚えがありません。

田丸の義弟の新盆なので弟と打ち合わせてお参りに行く。哲郎君も佐賀から駆け付けて来て賑やかに談笑する。
昼食は八雲本店で会食。2時頃帰宅。

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2008年8月 4日 (月)

生きるという映画

8月4日(月)曇
あまねくオープンに開かれているインターネットだからこそ、思わぬ人からの通信も入って来る。
昨日寄せられた武内さんのコメントでも、私のブログにいつも目を通しておられるらしい、並木さんの目に止まり早速資料を調べられた結果、以下のコメントを頂戴する。
____________________

 御無沙汰致しております、並木です。
その節はいろいろな情報ありがとう御座いました。
 プログを拝見致しましたら、竹内太郎氏のお名前が出てまいりましが、
この方は、私の父と同じ第一中隊に所属しております。
 中隊の編成表を見ると、衛生下士官軍曹竹内太郎と名前が読めます。
 この編成表は、父が軍曹になっておりますので、華中に移動後の物と
判断出来ます。19年4月に華中に転用時には、父は伍長ですから、
父が収容班長で軍曹になっておりますので、竹内太郎氏も華中に
移動されたものと判断できるかと思います。
 つくば会の会員名簿にも竹内太郎氏の名前が載っております。

私と同じように遺品の整理などから亡き父の事を調べる方も多いの
でしょうね。
 篠原さんの書かれているホームページやこのプログを見て、
思っているよりも多数の方が、情報を得ていることと思います。
 これも篠原さんのページのおかげかと、です。

8月に入り、終戦の日が近づき、又、例年のように戦争の事がテレビに
出る事も多くなり、記憶も呼び戻されるようです。
 私も当時の戦争の記録などを見る目が、例年とは違った目で見るでしょう。

暑さ厳しき折、残暑お見舞い申し上げます。
お体大切に、これからも篠原さんのプログ楽しませて下さいませ。
                          並木
_____________________________
全く時間単位で情報が伝播する。有り難いやらこわいやらである。

午前中せいこうに背中の傷を診てもらう。もう大丈夫だからあまりこすらない様にして風呂に入ってもよろしいと言われる。全治17日ということか。庭でちょっとふらついて転んだだけなのに。

昨夜は黒沢映画「生きる」を見る。改めてこの映画の価値を再発見した気になる。
出来上がった公園のブランコで恋せよ乙女を口ずさみながら、死んで行く場面のみいつまでも記憶に残った映画とのみ思い込んでいたが、さにあらず葬式の場面で展開される名誉欲のやりとりこそ黒沢の狙いだったことに気がつく。
凡そ半分の時間を割いてながながと参列者(殆どが役所の上司同僚部下などである)の回顧談義がつづく。どこにもありそうな話し合いが延々と続く。市民課長の死を予期しての置き土産の努力だったことを知らされるというのが落ちだった。
黒沢映画は基本的には分かりやすい映画といえるし、やはり心に残る映画には違いない。

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2008年8月 5日 (火)

宣撫工作

8月5日(火)曇
相変わらずの灰色一色の空、やたら蒸し暑い。
蝉の声は朝早くから賑々しい。

久しぶりにカレーの店に行き、カツカレーを食べる。今日は珍しく食が進んだ。ただしご飯はやはり小飯をさらに半分残した。胃の腑が小さくなって入らない。

本屋に行きまた周平の「決闘の辻」を買って来て読み始めた。27冊目の文庫本である。

最近どうかすると本が読み辛くなってきた。目そのものが老化しているらしい。近づけてもとおざけても、ぼけて見えなくなることがしばしばある。もう終わりが近いな。
車を買い換えることは止めることにした。今の車を乗り潰すことにする。
今32000キロ乗ってるばかりで、調子が最高に良い。贅沢なことをしてはいかんと反省したわけ。

外出して帰って、すぐ裸になり水を浴びる。水道水が丁度適温でシャワーにもってこいである。

先日武内太郎さんという衛生曹長のことで私のブログがちょっと賑やかになった。
その時私はうちの隊で蔭の役割ではあったが、実によくやってくれた河原衛生兵長のことで、いろいろ思い出したことがある。
私の隊は部隊本部と掛け持ちで軍医が一人、専属衛生兵一人という構成になっていた。
従って通常の薬剤投与、入院手続き、健康診断などは皆衛生兵の仕事だった。
河原兵長はそのほかに住民の宣撫を請け負って、伝令の池本兵長と組んで盛んに住民の宣撫活動をしていた。
住民から崇め親しまれたことはいうまでもない。武内さんもそうだったように、直接住民と接して、病状を聞き、施療を施すのだから喜ばれないことはない。ひどいのになると虎に肩から背中に掛けて食いつかれて大怪我をした住民が担ぎ込まれて治療したことまであった。時には人気化して門前市をなすこともあった。別に料金を取ることはないが、彼らが自ら気をきかせて、野菜果物など有り合わせのもので礼をしてくれるぐらいのものだった。

彼河原は無口だが、まことに誠実な男だったから、実直にこなして温和に住民と接し実績を積み上げた。外交は池本兵長、内政は河原と両輪で積極的に活動した。私の隊の宣撫が非常にうまくいって、隣の花石県の県長の使節が数名やって来て自分の方も宣撫して欲しいと頼みに来たことがあったほどだ。

身じかな所で勤務していたので、私が赤痢を患ったときなど、真剣に看病して私を救ってくれたのに、戦後は別れて以後その消息を遂に聞くことはなかった。心残りの一つである。

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2008年8月 6日 (水)

原爆記念日

8月6日(水)曇
天候昨日に変わらず。沖の島々全く霞の中。何も見えず。
8時15分サイレン高く鳴る。心の中で静かに祈る。あの日から63年目。もっとも私が知ったのは1年も後の事だったが。その惨状もその更に1年後見た。
双葉あき子の”祈り舟”がいつまっでも胸に沁みる。

人類史上の汚点として永久に残った。消すことも忘れることも出来ない。人類が永遠に存続するとしてだが。
繰り返さぬ為には核廃絶しかない。何が何でもマナコを其処に集中しなければ駄目だ。

正木義男さんは電話もし、手紙も出したのに、あのまま身元不明者のままなのだろうか。
あのやさしかった”おっちゃん”が浮かばれない。私は何処にいて原爆に打たれたのかそれが知りたい。

原爆とは関係ないが、親友斎藤七郎君はいつどこで死んだのだろう。そんな筈はないといつも気に掛かっている。
同じ部隊の同年兵で、且つ学校の同期生で戦死したと言われるのは彼一人である。

家内は内藤で今日血液検査があるそうな、せいこうで3回、今度が1回、そんなに血を抜いていいのだろうか。
家内は血が無くなると心配している。

甲子園が雷雨で日田林工と大阪桐蔭の一戦、2回途中で中止、ノーゲームとなる。日田は4点ビハインドだったが、天佑神助あり。明日は逆に勝てよ。

夜小百合から電話で雅代が今朝午前1時無事出産したと知らせて来る。母子とも元気な由。万歳!

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2008年8月 7日 (木)

学校の先輩

8月7日(木)曇
昨日とそっくりの朝模様。少し雲が多いかな。
甲子園の高校野球を朝からテレビ見物。
午後には地元の広陵が高知高校と当る。
広陵は投手がよくないから、打撃の差と思っていたが、4回に集中打で5点先取したのが大きかった。
予想通り同点に追いつかれるのだが、7回に3点取ってなんとかものにした。
結局得点力の差が物をいった。

最近教員の採用試験汚職が問題になっていて、大分に始まってあちこちでくすぶり始めた。
昔から就職試験には情実はつきもので、その裏で金が動くのは仕方のないことであった。
私が満洲重工業の試験を受けたときは正に情実そのものといってよかった。
満業傘下の各社の統合試験で、試験官は満業庶務課長の林周介氏ほか十名ばかり。
ただこの時は金は動かなかったが、学閥がものをいった。
面接の時、君は経済政策や商品学が得意な様だから満洲鉱山に行けといわれた。満洲自動車が希望の様だが、まだ計画だけで仕事は始まっていないから、そうしろと勧められ、ではそうしますと答えた。自分ではこれで決まったなと思っていた。
控え室で終るのを待っていると、X高商の生徒はここに集れと試験官の一人が出て来て我々同級生を集めた。そして後で採用通知を渡すから貰って帰る様にいわれた。
百人ぐらいいる就職希望者の中でやられたので、他の大学や専門学校の学生などは、X高商はどうしたんだ、そりゃあないよと文句が出る始末。こちらは他から文句が出ようが与り知らぬこと。最後まで待ってちゃんと採用通知なるものを貰って意気揚々と故郷の家まで帰った。しかし内心どうしたことだろう、変んことをするなあと思ったのだが、後で聞くと林周介庶務課長が私の学校の先輩だということだった。

当時はそれほど就職難の時代でもなかったし、いい先輩が居れば自然と採用されることになっていたようだ。
私は一発で満洲鉱山に決まったので就職の苦労はなかった。もっとも戦後兵役を終ってからは大変だったが。

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2008年8月 8日 (金)

曾孫と対面

8月8日(金)曇
連日朝模様は同じ。島影はうっすらとは見える様だ。
オリンピックの初戦、サッカーは男子は1敗、女子は引き分けと雲行きはまことに悪い。このまま行けば予選通過は難しそう。世界の壁は日本の情報が伝えるほど甘くない。

昼前広島の中川病院に雅代の出産を祝いに行く。初産の母親は大きな声で泣かれると困ってしまうらしい。初めての曾孫と無事対面する。もっとも未だ目は閉じたままだから、一方的な対面ではあるが。可愛らしいいい子だ。月曜日には退院する予定だという。
この子と長い付き合いは出来そうにはないが、自然の理に沿って、連綿と後世へ繋いでくれと祈るのみである。
大変な世代になりそうな予感がする中に、殊更の幸運を望むのは無理か。

帰りに国際会議場のレストランで食事を済ませ、原爆記念資料館を観覧する。結構沢山の人が入っている。
前回と左程変わったものはなかった。外人が沢山目についた。いいことである。

日射しは厚い雲に完全に閉ざされて、幾分か涼しい一日になった。

夜いよいよ北京オリンピック開幕。過剰な期待はせぬ方がいい。

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2008年8月 9日 (土)

オリンピック初戦振るわず

8月9日(土)曇
北京オリンピック、予想通り簡単には勝つことは難しいことが緒戦からはっきりした。
あの谷選手でも同メタルに終った。地元から出場した平岡選手は初戦敗退で復活戦にも廻れなかった。
いずれも業の切れ味が悪かったというより出なかったという方が正しい。
特に谷選手は往年の切れ味は蔭をひそめていた。
女子サッカーはアメリカに敗れ、予選突破はほぼ不可能となった。
星野ジャパンもセンバツチームに惨敗し、選手の選考を誤った様に思われる。
マラソンの野口選手は入院していると言うし、全くどうなっているんだといいたくなる。

デオデオに行ってデジタルテレビをとうとう買うことにした。家内が寝てみるのに、小型の枕元に置けるのがいいと言うから、26インチのシャープ製にする。明日入荷する予定だ。

帰路スーパーに寄り食料を仕入れる。
猛暑の中をうろうろするのはどうでもいいのだが、老人二人でも結構食料がいるんだなあ。

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2008年8月11日 (月)

北島金でオリンピック佳境に入る

8月10日(日)晴
沖は煙っているが、青天井.日は早くからさんさんと照りつける。
早朝はちょっと爽やかだったが、8時半もういけない。
起き出すとすぐ壁付け扇風機の付け替え、風向きがどうもよくないので下の方に移動さす。従ってスピーカーや蛍光灯が一緒に移動することになる。やっぱり一仕事。

午後3時デオデオからデジタルテレビが持ち込まれる。取りあえず既存のアンテナを使って設定をしてくれる。結果的にはこれが悪かったか、既存のアナログテレビとアンテナを分配して使用を始めたのだが、アナログはぐちゃぐちゃ、デジタルは見えないチャンネルがあり、特に一番良く見るNHKが全然映らない。
しかもBSは別にアンテナを繋いでも全然映らない。

夜までいろいろアンテナをやり替えたりしてみたが駄目。これでは明日またデオデオのお世話にならなければならないとがっかりする。
こんなにデジタルが難しいものとは思わなかった。

8月11日(月)晴
朝早くから珍しく青空いっぱい、島々もほぼはっきり見渡せる。
今日も暑くなるぞー!

昨日のアンテナの不首尾が気になり5時には目覚めてあれこれ考えると眠れない。
どうも古いフィーダーを使ったのが悪かったらしいと気づく。
7時食事をすますとすぐ、アナログ線の方を分配器を取り替えて、配線を出来るだけ新しいのにやりかえると無事奇麗な画面になる。

原因が分かったので、10時デオデオに出かけ、8米のコードを一つ買って来て組み立てを終る。配線が変わったので本体の設定も自分でし直す。
今度はどちらのビデオも快適に奇麗な画面を映し出してくれる様になった。やれやれ。
一時は店員さんに来てみて貰わなければ駄目かと思ったが、その必要がなかったことがうれしい。

まだまだぼけてはいないぞ。

水泳平泳ぎ100米の北島の金メタル獲得もじっくり見届ける。2位になったフィンランドの新鋭が予選で好記録を連発していたので、危ないかなと思っていたが、流石は前大会のチャンピオン58秒91の世界新記録で王座を奪い取ってしまった。

午後は家内のベッドを横取りして、デジタルテレビのオリンピックや甲子園の野球を堪能する。
外は35度を超える夏真っ盛りをよそに、クーラーの中で寝そべってデジタルテレビ見物。極楽極楽!

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2008年8月12日 (火)

広陵よくやった

8月12日(火)晴後雨
南の空、海上の島々の頭上に今夏初めての入道雲が実現。秋近きを思わす。
朝8時半、熱気はむんむんと内外を埋め尽くす。気温すでに32度5分。

今朝の新聞のトップはやはり北島連覇・世界新。予想通りの快挙も喜びに変わりはない。
国民の気持ちが一遍に明るくなったことは否めない。
丁度我が家に入った新デジタルテレビも明るくはっきりした画像を送ってくれて終日楽しい。

昼中の猛暑の時間帯は、老人らしく静かにオリンピックや高校野球の熱戦を観覧しながら過ごす。
地元の広陵高校は思った通り、投手力が弱く、試合巧者な横浜に毎回のように得点を許し結局4−7で敗退、昨年の様には行かなかった。
オリンピックも善戦はすれどもなかなかメタルには届かない。期待の体操も強過ぎるくらいの中国に全く及ばず、瓶メタルに終る。
開催国の面子にかけての力闘が、全競技に亘って漲り底知れぬ脅威を感ずる。
そもそもの開会式の斬新な企画から目を見張らすものがあった。
ギリシャのような力のない国と比較するのは無理な話しではあるが。

平和な時代だからと一スポーツ行事に国力を挙げてその威力を誇示する、良いのか悪いのか、その後から忍び寄るある種の不安を感ずる、私だけであろうか。

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2008年8月14日 (木)

オリンピック酣

8月13日(水)曇
夜中に少し降ったか、水滴があちこちに残っている。新聞も濡れている。
今朝は雲は多いが青空も見える。

7時半広島総合病院に行く。診察一番乗り。薬の量の変更若干あり。
病状変化なし。9時半には帰宅。

帰宅してからほとんど昼寝で過ごす。割と爽やかな風が家の中を吹き通る。
午後は相変わらずのテレビ見物。
水泳二人目のメタルは2百バタフライの松田丈志。金はフェルプスがこれで5個目。しかも世界新、凄い。

夜柔道女子70キロ級で上野選手が前大会に続いて2連覇して、やっと金3個目。
待望の野球はキューバの豪打にくらべ、日本のそれはあまりにも貧弱。2-4で良い所なく完敗。前途まことに多難といわざるを得ない。アマチュアを出した方が良かったのではと思った。星野笛吹けど選手踊らず。

8月14日(木)曇
昨夜夕立頻りでかなりの雨。
今朝はどんよりと雲多く、また雨になるかも知れない。昨夜遅くまでテレビに付合わされたから眠い。
墓参はラッシュを避けて、もう少し遅くすることにする。

終戦の前日の今日、敵米の5百キロ爆弾の爆撃にて、我が家は壊滅した。
私の家では終戦は事実上無かった。

昨夜オリンピックで全く思いもしなかった男子フルーレ個人で太田雄貴がヨーロッパ勢に割り込んで銀メタルを奪取した。快挙といってよいだろう。

人気のサッカーは男子は良い所なく予選落ち、女子は辛うじて1勝1敗1分で決勝進出。どちらにしても世界に伍して行くには道尚通しである。

女子マラソンの野口が結局出場不能となった。つきにも見放された日本勢である。

北島選手は今朝2百平泳でもダントツで優勝する。今度は自分の持つ世界記録にはほん少し足りなかったが。二種目も金メタルを連続取った者は日本では初めてだそうな。
体操個人総合で19歳の内村航平が銀メタルを取る。これ又凄いことである。

昼前井上に行き曾孫誕生のお祝いを正式にする。今日は目を開けていい子をしている。やっぱり可愛い。1039birth

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2008年8月15日 (金)

無条件降伏

8月15日(金)曇
灰色の雲に閉ざされて、朝の気温は珍しく25度と涼しい。

昭和20年の今日、私達はまだ敗戦を知らなかった。
広西省全県と湖南省祁陽間の南嶺山脈中を夜間行軍で、うねうねと武漢に向けて前進中だった。
確かに軍命は前進だったが、内心は撤退だなと敗軍の事実をうすうす察知してはいた。
相変わらず夜間の移動だけで、日中は車は樹間に突っ込み、樹木の間に吊るした蚊帳の中で寝転んで、眠るともなく寝転んでいた。私は携行していたハーモニカを吹いた。兵たちは静かにハモった。遠く故国の空に思いを寄せた。

そして明日も続いた。いやに飛行機の爆音が聞こえないなと気づいた。敵はもう空襲を止めていたのだった。
17日、杞陽郊外の山茶花樹林の中に車を秘匿した昼中、部隊本部から各隊長集合の伝達があった。そして敗戦、いや停戦になったから、軍命通り武漢に向けて昼夜兼行で速やかに前進すべしとの命令が布達された。
部隊長から云われた通り、停戦とばかり思っていたので、途中の敵と干戈を交えることにもなった。

私が無条件降伏を知ったのは、9月2日汨羅の通信隊で其処の兵隊から聞いてみろと渡されたレシーバーで、ミズーリ艦上でマッカーサーに対して、重光外相が降伏文書に署名した報道を聞いたときだった。

家を直撃で爆破され、翌日の今日は敗戦の詔勅を聞いた母のこころがどうだったか、未だにそのことを思うと心が痛む。父は出征前に既に亡くなっていて、銃後を一人で守り続けた母にとっては重過ぎる試練だったと思う。
もちろん私は帰国するまでは何一つ知る由はなかった。

知る知らぬに拘らず、私達一家の運命を激変させた大事件であった。

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2008年8月16日 (土)

汨羅

8月16日(土)曇時々雨
昨日の朝と同じ雲行き。気温まで同じ。御蔭で今朝も涼しい。予報に反して雨は降っていない。
涼しい日に墓参りと思ったが、盆明けのラッシュが始まっていると聞いて取りやめる。うちでじっとしている方が良さそうだ。

9時過ぎとうとう雨が降り始める。20分もすれば止む。
昼は壱番館で野菜カレーを食べる。スーパーでちょっと買い物。
午後1時また降り始める。間もなく又止む。むらきな雨だ。
3時雷鳴轟く。雨少々。
吹き込む風が涼しく、俄然楽になる。
昔から盆を過ぎれば秋風が吹くと言ったものだが、もっとも旧暦時代の話しだから今に当てはまるものではない。
しかしそんな俚諺を思い起こすほど今日は涼しい。

東京の娘が晴子を伴ってこちらへ来ると言う。20日に来てまだ名前のない曾孫を見て22日にはもう帰京するとのこと。慌ただしいことだ。

大東亜戦争終戦時の思い出をまた綴るわけだが、桂林郊外周家村を昭和20年7月23日夕刻出発して夜間行軍で、約200キロ北方の湖南省祁陽に到着したのが8月15日朝で、23日を要している。部隊本部が既に8月4日祁陽市内の張家舖に到着駐留していたので、16日は近所の現地人の招待だったか、こちらの費用で調達したのか忘れたが、豚を一頭殺して全員にご馳走を振るまった覚えがある。

翌17日敗戦を知り、昼間行軍に切り替えて20日には更に約200キロの長沙に入り、部隊全部集合の上中国軍の武装解除を受ける。殆どの車両、兵器、弾薬などは中国軍に引き渡す。
長沙からは、30日夕出発、全員徒歩で取りあえず汨水まで120キロを昼夜を掛けて行く。
9月2日汨水に着いて、岳州行きの貨車(薪燃料の蒸気機関車)に乗ることになり、何時間も待たされる。
この間に一昨日書いた様に偶然にも、汨水河畔にあった通信隊の兵隊から借りた軍の無線通信レシーバーで、ミズーリ艦上の調印模様の中継を聴くことになったわけである。滂沱と下る涙、もはや外聞も何も無かった。
奇しくも場所が屈原が無念の入水自殺を遂げた歴史的に著名な汨羅だったことが、私の義憤の感情を更に高めた。
生涯を通じて忘れ得ない光景である。

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2008年8月17日 (日)

蚊帳

8月17日(日)曇
昨夜の日韓野球、全く腹立たしい負け方で、日本チームの心のあり方を疑う。
9回岩瀬を続投させたが裏目、連打で1点取られ、2アウトからの奇襲バンドでエラーを発生1点、更に阿部捕手の二塁牽制大悪投で更に1点と、挽回不可能な3点を取られる。その裏今度は新井の3壘打、稲葉はサードエラーで1点貰い、次の村田のうまい右翼への2壘打で逆転への下地が出来た。ノーアウトである。しかしこれからが問題だった。
まず敗戦の張本人阿部がセンターへの凡フライ、G佐藤がくそボールを空振り三振、PH森野はサードゴロと全く為すことなく敗れる。先方監督の次々と行った投手起用の妙味に呑み込まれたとも云えよう。高校野球でも見ている様な幕切れだった。

テレビ観戦で男女の卓球試合を見る。技術レベルの向上が何といっても素晴らしい。
私も若い時学校の部活動でやったことがあるが、物凄い反射神経を必要とする競技だから、運動神経が始めから鈍い私には向いてなくて、いくら練習しても強くは慣れなかった。
世界のトップレベルの試合は、見るのが追いつかないくらいの早さで驚かされる。
曾て日本の荻村などという世界一の選手も出たことがあるくらい強かった時代があったが、こんどのオリンピックの試合を見る限り、中国、韓国にはかなり引き離されているように見える。
練習しやすい競技だけに、幼いときから広域に人材を育成して行かなくては、強いチームを作ることは困難だろう。

今日の中国新聞の天風録を読むと、蚊帳の復活と題して興味ある記事が書かれて居る。
江戸期から今次大戦の前後時代まで、庶民の生活には全く欠かすことの出来ない生活資材であった。
記事によると今はアフリカの国々で重宝されているとある。日本の蚊帳が年間三千万張りも生産されているとか。

何処のうちでも、寝る前には寝床の上に蚊帳を張り回し、子供は大喜びでその中を転げ回って遊んだものだ。
もっとも郷愁をそそる夏風景であった。
私の場合は、特に戦争中敵の空襲が激しくて、ほとんど夜間行動に限られていたので、車両を樹間に秘匿し、その側でシートを敷いて昼寝するわけだが、害虫の多い地方だけに、蚊帳は必需品だった。
適当に樹木を利用して張り巡らし寝たものである。この風景は戦後でも屢々夢に出て来た。

高校野球の準決勝は常葉菊川が浦添商業に、大阪桐蔭が横浜に同じスコアの9-4でそれぞれ勝ち、あすの決勝に進んだ。よく打つチーム同士の決戦だから最後まで分からない激戦を演ずることだろう。

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2008年8月18日 (月)

お盆の義務

8月18日(月)曇
朝6時半朝靄甚だし、沖合いいつもに勝りて曖昧模糊。
雨模様ではあるが涼しいので、遅れての盆参りに出かける。
先に田賀の墓に廻る.雨が可成り降ったらしく、水たまりが出来て歩き難い。
田賀の夫婦とも家にいて、昼過ぎまで雑談。また野菜を沢山貰う。

さざん亭で昼飯を食べる。来客多くしばらく待たされる。

2時前室木に寄る。テレビで高校野球の決勝戦を見る。
大阪桐蔭の打線活発で、終始常葉菊川を追いつめ、17-0の大差で勝ち優勝を決める。
昨年のような、高校球児らしい粘りのある好ゲームにはならず、全く味気ない一方的な試合で決勝にはふさわしくなかった。
3時過ぎには日も射し始め、車も予想外に少ない高速道路を走って4時には帰宅する。
お盆の義務をやっと果たした気分。疲れがぐっと出る。
おしゃべり外交を専心勤めた家内も充分疲れたらしい。

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2008年8月19日 (火)

彩寧

8月19日(火)雨
朝早くから遠雷が轟いていたが、雨はその前からしとしととおとなしく降りそぼっていた。
昨日墓参を済ましておいてよかったなとほっとする。

一昨日書いた蚊帳の話しから、いろいろ思い出したことがある。
戦場での偶発した一エピソードとして紹介したい。
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軍は沖縄が落ちたりして故国が急務と考えたのだろう、7月全軍の転進を指令して来た。
7月下旬私の部隊(独立自動車第31大隊)も逐次桂林を撤収、武漢に向けて夜間行軍で前進を開始した。
出発直前、広西大学教授の趙冰氏夫妻が南京政府の周仏海に会いに行きたいので、行ける所まで連れて行って欲しいと頼まれたと、部下の犬養兵長から依頼された。日本兵と同じ待遇でよければよいと快諾した。
この当時の詳しい状況については直接折衝に当った三好信雄上等兵から2006年1月長い御手紙を頂いている。要点をここに記すと「趙冰夫妻は桂林陥落時逃げ遅れて大学の近くに住んでいたが、生活困難になり、南京政府の要人たちが親友なので頼って行きたいと良峰郷警備隊(隊長犬養兵長)に許可を願い出た。教授は50歳シカゴ大学出、婦人は香港生まれで名門大学出の32歳ということだった。三好上等兵が担当し片言の英語でいろいろ尋問した」という。

夫妻には私の指揮官車に同乗させた。もちろん寝起きも食事も一緒だった。教授は訛がひどくて私の支那語では通じなかった。香港育ちの夫人は流石に英語が堪能で、私もいろいろ尋ねたがほとんど彼女の通訳で話すことが出来た。

そこで問題の蚊帳が登場する訳である。蚊帳の様なものが中国にも本来ないことはない。寝台の四方に虫除けに古来から使われている。ただ日本の様に部屋一杯になるようなものはない。
趙冰夫妻も最初は驚いた風だった。欧米式に夫妻だけの孤立した部屋で過ごす方達には、大きな蚊帳の中で十人も雑魚寝する習慣はなかった。隅の方で抱き合っていたかどうかは知らないが、目立たぬ様にじーっとして居られた様だ。
いつもの調子で私がハーモニカを持ち出して吹いても、嫌がらず傾聴してくれたと思っている。

7月23日から8月22日までの一ヶ月の同行だった。
この間8月17日には南岳という街で友軍の警備隊が敵襲を受け包囲攻撃を受けているのに際会し、急遽逆包囲して一挙に駆逐して友軍を助け出し、その本隊まで送ったことがあったが、教授夫妻も思いがけぬ戦闘で驚いたらしかった。
22日長沙に着いて、武装解除の事を知らされ、同行は不可能と判断しここで別れた。
その後どうなったか知る由もないが、後日部下の話しでは夫人が馬に乗せられて、街の中を引っ張られて行ったのを目撃したというのを聞いたことが有る。

後日捕虜として約一年収容されていた間に、私達周辺で宦官狩りと称して沢山の中国人が捉えられ、公衆の面前で惨殺されたが、その中に入っていなければと祈った。しかし後のことはまるで分からない。

(尚趙冰氏については、公開されてる歴史資料「語り継ぐ戦争の記憶、昭和の声」や私のホームページ
http://homepage3.nifty.com/hatukaiti-viefo/
の中の「私の軍隊生活」の中に記載しているが、香港大学教授となっているのは、広西大学教授の誤りです)
  ________________________
ふと気がつくと蝉の声がまるで聞こえなくなった。季節が間違いなく移り変わっているのだろう。
涼しさがまるで違う。燃える様な暑さはどこに行ったのだろう。
あちこちで豪雨が多発していて、警報が盛んに発令されている。
当地はなぜかどこ吹く風である。ありがたい事だ。

曾孫の名前がわかったよと家内が告げに二階の私の所へ知らせに来る。電話で尋ねたらしい、「彩寧」という。
難しい名前だなあ。北京オリンピック開催中だし、中国風にしたのかな。
ともあれ滅多にない名前だから間違われることは無さそうだ。

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2008年8月21日 (木)

日本女子ソフトボールで金メダル

8月20日(水)腫れたり曇ったり
随分涼しくなったものだ。午前中はごろごろしてるのが楽しいくらい。

昼前内藤内科に行く。なんども変わりはありませんかと問われる。別になにもないのに。

午後になるといつもの暑ぐるしさが戻って来る。ゆっくり休んで夕方近くなって買い物に出る。
本屋に行きまた藤澤本を1冊買う。
しばらく読まないからぼつぼつ再開しよう。オリンピックももう見るものがなくなったから。

男子の野球、女子のソフトボール、奇しくも同じアメリカに延長戦で敗れる、それも4点取られて、不思議なことだ。

夜千代と晴子が遅くなってやってくる。若いから元気だ。晴子がえらく綺麗になった。年頃とはこんなのを云うんだなあと改めて感心する。どこもかしこも老いぼればかり毎日見ているのだから驚くのは仕方ないか。

8月21日(木)晴時々曇り
青空がはっきり見えるよい天気。湿度計が27%になってるから空気が澄んでるのだろう。
沖の島影もまあまあ良く見える。気温22度。涼しい。

朝食卓が久しぶりに賑やか。食うだけが仕事の老いぼれは会話の中に閉じこめられることをおそれて、はやばやと食い終わり立ち退く。

朝寝1時間。
食事はアルパークまで行き、八雲でささやかなパーティ。
千代等は土産を買う。

午後昼寝また1時間。

夜日米のソフトボールの決勝戦。正に手に汗を握るというのはこのことか。しかも先に2点を先取したのは日本だった。一点取られ1点差の攻防が最後の回まで続く。満塁に詰め寄られたりした。しかし最終回1点を連打で追加し、遂に3−1で3連続優勝のアメリカを破り金メタルを奪取した。昨日から3連続完投の上野の凄さに脱帽だ。

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2008年8月22日 (金)

野球もやはり駄目か

8月22日(金)晴後曇後雨
朝気温20度。北京も涼しいそうだがこちらも涼しい。

千代等帰京する前に、彩寧を見て帰るというので己斐まで送る。
家内はついでに駅まで送るというので、私一人で帰宅する。
彩寧はよく泣くのか赤い顔をしている。暑いから寝苦しいのだろう。赤ちゃんの方が敏感だからよけいにこたえるのかもしれない。

オリンピック野球、やはり韓国のパワーが勝っていた。日本は人選をどうも誤ったらしい。ヒットもホームランも打てそうな選手がいなかった。6-2で韓国が決勝に進んだが順当な所だろう。
銅メダルは絶対にと星野さん又力んでたが、このメンバーでは無理ではないの。
あんまりしゃかりきになりなさんな。

午後5時過ぎとうとう雨になる。一段と涼しい。

子供等が去ってしまうと、ひどく淋しい。家内も4時過ぎに帰宅して、張りを失ったか畳の上をごろごろしている。
改めて年寄り二人だけでは淋しいもんだなと感ずる。

冷蔵庫の氷が出来なくなったので、デオデオに電話して修理に来てもらう。一応中の方を外してみたりして、これでやったみてくれという。もし直らだったら部品交換をしなければならないとのこと。
お代は今回はいらないという。たのんだら2、3時間もしたらきてくれる。対応の早さは流石だ。

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2008年8月23日 (土)

秋風ぞ吹く

8月23日(土)曇
昨夜は時々激しい雨が降っていたが、今朝はさらりと爽快である。空はどんよりしてこの先何とも云えないが、まあカンカン照りよりはましだ。

ここ数日からだが痒く、湿疹の発生が見られるので、またぞろ乾癬が活動開始したと見てチガソンを1錠飲む。

後1日を残すだけのオリンピックは興味は男子マラソンだけだが、メダルはとても望めない。地元から二人出るが健闘を祈るだけだ。他にはもう何も無い。中国のメタル獲得が圧倒的で金のごときは2位のアメリカの倍にもなる。
時代が移り変わったことがよく分かった。もうアメリカの時代ではなくなるぞと予感がする。
ロシアは何位か昔の面影はない。

冷蔵庫は氷を作り始めた。改めてデオデオの対応の早さにお礼を言いたい。良いことは良い、嬉しいことは口に出して正直に嬉しいと云えば良い。ありがとう。この暑い時期に氷が出来なくては困ってしまう。ただで見てくれたのだから大きな声でお礼を言わなくては気の毒だ。

午前中夕立気味の雨が少しの間降る。
風もちょいちょい吹いて涼しい。

野球は遂にメダルに手が届かなかった。高校生にも劣る様な守備をしたり、肝心な所で全然打てない選手ばかりでは、とても世界制覇は無理だ。先日も言った様にイチローとか松井とかほんとに力ある選手を揃えなくては無理だろう。
世界を甘く見てはいけない。

男子マラソンも一人欠場者が出た。女子と同じ轍を踏むことになりそうだ。
男子サッカーのアルゼンチン−アルゼリアの試合は凄かった。こんな激しい試合を始めて見た。
アルゼンチンの点の取り方はうまかったなあ

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2008年8月24日 (日)

北京オリンピック終る

8月24日(日)晴
男子マラソンもケニアのワンジルのオリンピック新記録での優勝で幕が降りた。
仙台育英高校に留学し、頭角を現して日本の国民の馴染みの人物になった。ケニア人の素質と日本での研鑽の結果と思わずにはいられない。日本選手の不成績が腹立たしいが、一掬の救いだと感謝したい。
佐藤選手は76位で最後尾を走り通して帰って来たが、何らかのアクシデントがあったのだろう。最後を締めくくったマナーは立派だった。
  _______________________
 【北京24日共同】北京五輪最終日の二十四日、陸上の最終種目、男子マラソンが天安門広場—国家体育場(愛称・鳥の巣)のコースで行われ、21歳のサムエル・ワンジル(ケニア)が2時間6分32秒の五輪新記録で優勝、ケニア選手で初めてマラソンの金メダルを獲得した。ワンジルは仙台育英高(宮城)に留学し、トヨタ自動車九州に所属していた。

 尾方剛おがた・つよしは2時間13分26秒で13位、佐藤敦之さとう・あつし(ともに中国電力)は76位に終わった。

 今大会、日本選手の出場は男子マラソンで終了。日本のメダルは金9、銀6、銅10。史上最高成績だった前回アテネ五輪(金16、銀9、銅12)を下回った。

 閉会式は日本時間午後九時から国家体育場で行われ、五輪旗が北京から次回二〇一二年大会開催都市のロンドンに引き継がれる。

【写真説明】<左>13位でゴールする尾方剛=国家体育場(共同)
<右>ゴールする佐藤敦之=国家体育場(共同
(これらの記事は中国新聞よりコピーする)

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   _____________________

中国は北京五輪で金メダルの量産を含め、その情熱と執念の凄さを世界に示し、百年の夢を実現した。
これにより世界に大いなる貢献をしたと自画自賛している。
十四億の民が力を合わせれば、このぐらいの事は出来て当たり前であろう。
そして現実に出来たのだから言うことはない。

ただ多くの外国新聞などがいうごとく、またIOC会長の苦言の如く、言論を抑圧したかに見える政策は真の市民平等のオリンピック精神に反しないかというと疑問は残る。余りにも綺麗に一本化しすぎたからだ。
何事も100%不満無く物事が順調に行くことはないという真理があるからである。
しかし、ここが全体主義国家の面目躍如たるところである。国家の意思が国民の総意だとする理念にいつの時代も変更はない。

この方式は中国だから出来るのだが、次のロンドンや東京などで出来るだろうか。重要な懸念が残されたと言わざるを得ない。

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2008年8月26日 (火)

私にも青春はあった

8月25日(月)晴後曇
早朝から雲一つ見えない青空。これこそ秋の空。久しぶりに島々がはっきり、重なり合って見える。
これが原風景なんだ。しみじみ幸福を感ずる。
若き日に見た風景は毎日これ以上だったんだが、もう元の景色を見ることは生涯出来ないだろう。

6時起き出して庭の徒長した垣根木を整枝する。7時までには終る。汗もかかずに済ます。
食事はちょっとおいしいかな。

太陽が出て来ると雲も張り出して来て、どちらかというと雲の多い日になって来る。

午後広電に買い物に行く。ついでにディックによって高さ60cmの物置台を買う。
帰宅してからデジタルテレビをこれに置き換える。
これで一応格好がつく。

8月26日(火)曇
少し涼し過ぎる風が吹き込んで、もう秋の気配は争うべくもない。
古い日記を読み返していると、現代と違った私の青春を見つけた。
  ___________________
 昭和15年(1940)の日記より
1月10日
 十七円にしては少し高すぎる嫌いはあるけれども、兎も角一年の総計であるアルバムが手に入ったことは嬉しい。新しい本と同じ様に何度もぱらぱらと捲ってみるのが楽しみである。前年のに較べると編集の仕方が目に見えて落ちてるけれども、非常時の折からとて物資不足、物価騰貴もこたえたであろうし、この辺で我慢すべきかもしれない。
(*卒業アルバムが配布された)
 田村君が今日学校に来ない。病気でもしたかと思ったが昨夜訪ねた時はぴんぴんしていたのだし、おかしいと思っていたが念の為行ってみると内には居らない。結局今晩になってこちらに訪ねて来たから聞くと、就職面会に徳山へ行ったとのこと、再三のこととて些かくさってでも居るだろうが、又今度は目でやられたといって、また今度はどこへでも行くさともう失敗った様な事を言って済ましていたが、内心はやはり焦っているだろう。何だか可哀想である。又彼自身としても不運がよくよく付きまとっている。帝人の時は風邪を引いて熱を出して体験で落ち、宇部窒素も不運にも駄目だった。今度こそはしかし何だか通りそうな気がしてならない。何しろ一昨年は石崎さん、昨年は羽村さんと二年続いて岩中同窓会から徳山曹達へ入社しているのだし、今年は後続なしと思っていたがこれあるための田村の二度の不運の失敗と思えば、思えないこともない様な気がする。どうかそうであってくれれば良いと、良友田村の為に祈りたいのである。
(*就職試験のこと)

1月16日
 富永君(高松高商)より便り来たる。昨年四月より音信絶えしままに現在に至ったものであるが、久しぶりの便りとあって非常に嬉しかった。
早速返事をしたためる。
 夜学校で晩餐会あり。校長を始め数人の先生方の陪席を恭うし、固い思いで洋食をいただいた。何だか余り腹が太らない様だ。それに少しづつ持って来るのだからやりきれない。全く残酷だなあと感ぜざるを得なかった。晩餐後ストーブを囲んで9時まで雑談しきり。立て役者は校長と二宮教授といった感じだが、大本教授の痛烈なる法律家的言論にはこの両者も些か技量が落ちると思われた。大本は口数少なけれども雄弁家なりと、今更ながら彼の人柄を愛する気持になった。
 帰って来ると、隣家のクーニャンが我が名を呼ぶ。「はい」と神妙に返事をすると、さも嬉しそうにくつくつと笑う。どうして可笑しいんだろう。不思議だ。(*彼女は3つ歳下の女学生である。卓球が縁で親しくなった。一方的な初恋はもっと早くしたかもしれないが、双方の初恋はこの交際だった気がする。もちろん手も握ったことはないがちょくちょく散歩に誘われたし、伺ってお茶も頂いた。)
 田村君は我が予想に違わず徳山曹達に決まった。これで岩中会も楽しく出来るというもの。慶賀すべきことだ。
 今日はほんとに楽しい日であった。
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隣家のクーニャンとは山口駅での電話で最後の別れを告げた。
文通は満洲鉱山就職後も、関東軍入営後も続いた。
しかし初年兵のとき、彼女が書いた手紙が女々しくて軍人にふさわしくないと、樋口班長に咎められ上靴ビンタや木銃での制裁を食らい、返事が書けなくなった。(*軍隊は書簡の検閲が行われていた)
こうして淡い恋は終った。
その後42年後に彼女から電話をいただいたのが、音信の最後であった。
この最後の電話のことはいつだったかこのブロッグで書いたことがある。

海の向こうの愛媛県では雨が降ってるとラジオがいってるが、こちらは雲行きは良くないが午後3時現在未だ降ってはいない。

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2008年8月27日 (水)

兄妹

8月27日(水)曇
昨夜は雨にならずじまい。ここ広島県は取り残された様に雨に縁がない。御蔭でダムが皆干上がって、断水の危険が迫っている。おてんとさまは気難しくてどうにもならない。
北京では随分化学物質をミサイルで打ち上げてコントロールしたというが、金の掛かることだから簡単にはやれない。
隣の島根県は今雨が降っているとラジオは言ってるが、こちらは雨模様なんていうものではない。

今日も灰色の雲が空を埋め尽くし、日光は朝早く地上に注がれただけで、降るともなく降らぬともなくもう午後2時を廻っている。
北も、南も雨の天気と予報は言ってたが、何となくこの地域は取り残された感じ。
蒸し暑さは異常に凄いからざーっとくるかもしれないが。

昔のアルバムを見ていたら、私が最も若かった時代の写真が数点出て来た。父が再渡航する前記念に撮ったものだろう。私が5歳妹が3歳の時の様だ。
妹は丁度2年と1日歳下である、今も凄い元気で野菜を作りに新幹線で郷里まで通っている。
私が事業に失敗し、人に欺かれて親譲りの財産を全部失ったとき、ぼろくそに罵られ、爾来頭の上がらない妹である。

私の家が終戦前日米軍の爆撃で壊滅した時は、嫁いで九州に居て被害を免れた。
彼女の主人は昨年暮れ亡くなった。しかし気丈な彼女にはどこ吹く風である。そして私以上に生命運は強い方らしい。とても近いうちにあの世へなど想像もできない。

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2008年8月28日 (木)

近所付き合い

8月28日(木)晴
昨夜お湿り程度の雨は降ったらしい。庭先が少し濡れている。伝えられるほどよそ並にはひどくない。これではダムには影響はなさそうだ。
また以前の様な蒸し暑さが戻って来た。

昼はうどんを外食することにする。
スーパーで私も一緒になって食料を漁る。いつも同じではうまくないと思って。
食が細くなった昨今では,食べ残しが多くて,ゴミの量が少なくないのだが、やっぱりよくなかったかなあ。

今日はやたら身体が痒い。乾癬がまた吹き出したらしい。これもマンネリでは効きが悪いと見える。

家内が日頃よく細かく気をつけてくれる松浦さんにお礼ししようとして、毎日のように電話していたが、今日は思いがけず家にいたので早速出かける。話しが永くてなかなか帰っては来ない。
そのうち一時間以上も経って、頭を転がして帰って来る。
曾孫の誕生をうっかりしゃべったものだから、またお祝いを包んでくれたという。
娘の長女を東広島に嫁に行かせて、そちらに出来た子供のお祝いである。届けるのも大変だが、お返しするのも大変だ。そんなのを一々貰ってたら,却って先方さんの迷惑になる。戻しに行けということになり、外出のついでにお返しにあがる。
こんどはお菓子など仏さまのお供えまで降ろして包んでくれたと言う。
親切過剰でいつもこれだから困る。世の中にはいろいろな人が居るもんだ。

最近近所に二階から泥棒が入ったそうよと家内が言う。私がいつも開けて寝るのを警告してるつもりらしい。
貧乏してるんだから,黙って有り金を全部差し上げても大したことはないよと私が言う。
刺し殺されても,丁度いい時期かも知れない。このブロッグを読んでやって来るのがいるかな。
葬式代だけは保険に入ってるから,迷惑はかけないと思うが。

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2008年8月29日 (金)

藤原義江のCD

8月29日(金)雨
朝5時、テラスを叩く凄い雨音に目を覚ます。驚いて窓を閉めて廻る。幸い風がなかったのでカーテンが湿気た程度。
深夜放送を付けっぱなし,夜中に鈴木文弥元アナの声を聞きながら寝込んでしまって、この始末。
全国が集中豪雨で荒れに荒れてる時だけに,この程度の豪雨は仕方がない。

深夜放送では我々ロートルのために、屢々昭和初頭の歌を聴かせてくれる。
中でも藤原義江の歌唱はいつ聴いても圧巻だ。古いシェラック・レコードにつきものの針音を除去して,綺麗な音で聞かしてくれる。それはいいのだが、音域が狭くなるのか普通の人声の様には聞こえない。諦めていたのだが,この度藤原義江のCDを購入した。

説明書に縷々復刻について解説が載っている。専門的なことはよく分からないが、QLY801型という再生プレイヤーが開発され、よりハイ・クオーリティな音が復刻されることになったのだそうだ。
実際にこのCDを聞いてみると、現代の歌手のCDと変わらない音色である。これあるかなとすっかり感心する。

遠い昔、昭和15年2月2日山口市公会堂で彼の音楽会が開かれたことがある。(福井文彦のピアノ伴奏)
その前年藤原歌劇団が創設され(昭和9年創設の東京オペラ・コンパニーが前身で改称)、オペラ・カルメンで評判をとり、人気絶頂に達した時期だったから、会場に入り切らぬ聴衆で息苦しい程だった.就中9割は女性と云う人気だった。

一番印象深かったのは,当時日本の評判を席巻していた映画「オーケストラの少女」のなかで歌われた「椿姫」の乾杯の歌を彼が絶唱したことである。ディアナ・ダービンの声は可愛いくて、美しかったが、藤原義江の声はダイナミックでこれが本物の歌だなと感じさせる素晴らしいものだった。

このCDにも搭載されているが、往時を偲ばせるに十分である。若き日の感傷がよくわかる。
他に鉾をおさめてや波浮の港、荒城の月、箱根八里などはいつ聞いても、他の追随を許さぬものである。

今日は当地も夜半からの雨が続いて、時に中休みしながら終日降り続く。
ダムが一息ついたかしら。
それにしても東海、関東地方の浸水騒ぎの大きさには驚かされる。一都市丸ごと池になるなど聞いたこともない。
豊臣秀吉が高松城を水攻めした故事はあるが、規模が違いそうだ。
もっともお隣の中国ではしょっちゅうだから、珍しくもなんでもないことだが、局地的集中豪雨が原因となるとやはり日本固有だろう。

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2008年8月30日 (土)

久しぶりの旅行

8月30日(土)曇
青空も覗くが雲の多い天気。
朝の間は爽やかだったが,日が射し始めるとやはりまだ暑い。
水戸君からメールを貰っているので返事を書いたりしている間に昼になる。
相変わらず寝たり起きたりですることはない。

告別式用に作った音楽DVDを聞いて見る。作ってから大分時間が経つので、改編が必要かもしれない。もう3本作っているのだが、時の経過と共に色あせた感じ。
明日死ぬるという日に作れば良いが、そういうわけにはいかないのでしかたがない。
未来永劫に亘ってさよならをいうのは左程簡単ではない。誰を対象にするかも案外難しい。

今はうんうんと言って聞いているかに見えるが,実際にその時になってみると心変わりするかも知れないし,無駄になるかもしれない。

所詮世間のしがらみの中で生きてるのだから、特別なことをするのは案外むつかしいものだ。

2,3ヶ月前まではぼつぼつと思ってたが,調子がよくなってみるとタイミングが合わない気がして来る。
9月の末には家内が石山寺に行ってみたいと言うので,同意して妹ら2人も誘った。
死ぬどころではない。
何事も涼しくなったせいだ。

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2008年8月31日 (日)

月末とこの世の終わり

8月31日(日)腫れたり曇ったり
青空もあるが,雲も多い。
日本上空にのっかった南の低気圧と、北から吹き込む冷たい高気圧の御蔭で、此処数日列島は不安定な天気が続いている。局地的な豪雨で水浸しの都市も多い。こんなに広範囲に永く続くのは初めてではないかな。
曾游の地が多いだけに気に掛かる。

昼に寝ることが多いので,夜中によく目が覚めて寝付かれない。
仕方がないので取り置きのDVDを出して眺めることになる。
昨夜は0時頃から「清左衛門残日録」を3編見る。1時間半以上かかる。眠らずしっかり見る。終ると疲れて朝までぐっすり。

午睡を済まして徐に家内に従って近所のスーパーに行く。天気が良くなればやはりまだ暑い。
僅かな買い物でもなくてはすまぬ。たった二人でも結構消費するものだなあといつも思う。
これを全部配達に頼らなければならなくなったらと思うと寒気がする。
この世を終える日はやはり真剣に考えなければならない。

猛暑が続いた8月が終る。何だか記録にでもなりそうだ。ふと阿伏兎観音を思い出す。今にも崩れ落ちそうな拝殿回りの廊下、身震いしそうな程涼しかろうに。今日までだ。9月になっては怖いばかりで能がない。

風呂の準備のついでにシャワーを浴びる。暑さが消える。だがちょっとの時間だ。
夜家内がコロッケを食わす。案外面倒なんだそうだ。見かけは簡単そうに見えるが。

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