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2008年7月 3日 (木)

今湘桂作戦を懐う

7月3日(木)曇
予報では雨になるように言われていたが,午後3時今だに降る気配は無い。
どんよりと空は曇り地上は霞んで風は多少吹いてるが蒸し暑い。

ここ毎日並木さんとのメールのやり取りがつづく。うかつにも私は他の中隊が全く別の行動をとっていたとは思っていなかった。このメールの中から新しい事実を確認することが出来た。(日本陸軍が乾坤一擲をかけた湘桂作戦のことである)
もちろん千輛近くの車が道のないところを走り回るのだから、時間、距離の大きくなることは想像するまでもないのだが、同じ部隊の別の中隊が何十キロも別の路線を進んだり,揚子江を上下するのに、汽船、ジャンク、小舟など各種の船舶を動員して、動かしていたのだとは気が廻らなかった。

この戦線に動員された自動車部隊は私の知っているだけでも10は下らない。ということは1万台以上ということになる。その他に各師団の輸送部隊がある。また戦車、重砲など重量級の自動車部隊がある。
事実山上を進んだ我々の部隊と後先になりながらもつれ合って進んだ此れ等の各部隊には困り果てた。当然敵飛行機の好餌にされた。勿論夜間無灯火で走ってでもである。山の上だから懐中電灯一つでも見つけられた。
私の隊には一人もなかったが,資料を頂いた第4中隊には沢山の戦死者が出ている様だ。私の路線を進んだのは第3中隊だったことは憶えているが、他の中隊は別の路線を進んだらしかったことが改めて分かった。
7月20日最初の空襲を受け,沢山の車が山上で火を噴いたが,部隊の兵器掛首座を占めて居った責任上,山の上を何キロも前の方まで歩いて確認を取ったが、第3中隊長以外には会えなかった。その時は部隊の長さがそれほど長大なものだと思っただけだった。他の部隊も混在しているのでどうしようもなかった。無線機器のなかった時代のことである。(何度も戦った戦線だけに敵は道路は全部破壊して地上に残されていなかった)

長沙につくまで、本部も他中隊も連絡が全く取れなかった理由が今にして了解出来た。
少なくとも第4中隊の陣中日誌によると、武昌から冷水舖、新開塘、汨水、新市と洞庭湖畔の平野を進撃したようである。

ほとんど山の頂上を進んだ私の隊は長沙の近くまで部落に突き当たることはなかった。
他の中隊の事は今の所分からない。路線の集った長沙-易俗河間(4~50キロ)は従って敵の餌食になり破壊され放置された車は私の数えただけでも80台を超えた。

60年以上も経ってこの頃の事を語ってもあまり意味がないが、ハンニバルがアルプスを越えてローマに攻め込んだと一緒で,帰ることも補給することも考えない(或は別にあるとして)珍事として歴史に残る。古今この種の人間は数多い。

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