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2008年2月20日 (水)

チチヤスの梅林

2月20日(水)晴
霞がこくて島影は何一つ見えない。太陽も拡散して光の雲となっている。

今日から丁度54年前の1954年の今日の日記に次の書込みがある。
『2月20日(土)
照子とともにセントラルへ行く。稲田さんに貰った招待券のおかげで自転車の預け賃30円だけで済む。しかも2階の特別席で始めから腰を掛けて見ることが出来る。
ルネ・クレマンの「禁じられた遊び」は評判通り良い。最初のパリからの避難民のごったがえす中、空襲の場面は客観描写が足りなくて稍事実程の迫力が出ていないが、農家に拾われてからの挿話はポーレットなる少女とミシェルになる少年の好演技に救われて、実に見事な演出となっている。死ぬるという事と十字架を単純に結びつけて、死を十字架で飾らんとする子供心が思いがけない事件を生んで行く筋は、風俗の異なる我々日本人にとってもはっきり分かる。家族にいろいろ聞かれて、パパもママも死んだと何気なく答える場面、
無心に床に眠る場面、少年が父に折檻されるとき泣き叫ぶポーレットの演技は全く5歳の少女のそれとは思えない。特に最後に近いママに似た姿を追って人混みを分けて呼び求めるポーレットの姿は正に本編のクライマックスを形作り万人を感動せしめる場面である。
こうして静かに消えて行くこの一編は余韻嫋々。人々に限り知れない問題と共感を残し、忘れ難き映画にしているのである。』

未だに良い映画だったとの印象は消えない。テレビでは何度も上映して人気は衰えない。
ついでに昔の事を云えば、1981年の今日田島淳さんがひょっこり店に来訪。
永年勤めていたライト工業を最近退職して,別会社を作って経営しているとのことだった。
1974年に私を探し求めて電話をくれ,翌年はわざわざ訪ねてくれて戦後始めての再会を果たした。彼のことは一昨年(2006)の7月9日のブログに詳しく書き出している。

彼は1940年3月一緒に満洲鉱山に入社した同期生である。同じ課で5歳年上の彼は兄貴分としてよくいろいろ面倒を見てくれた人である。就中新京放送劇団での交流は忘れることが出来ない。森繁久彌氏との一期一会の一緒の舞台経験も交えて、まだ20歳の若者の夢を大きく膨らまさせてくれた人だった。間もなく私は関東軍に徴兵されたので、二度とは会えないと思っていた人でもあった。
戦後三十数年も経って私を探し出し、復縁を果たしたのだが、この1981年の今日の再会が最後となった。
最初に会ったときから,実に40年も経っていたのである。彼の脳裏には深く私のどこかが刻まれていたのであろう。

昼少し前、家内がすすめるのでチチヤスの梅を見に出かける。
行ってみてがっかり、休園中で入園禁止となっている。それでも強引に誰もいない公園の中を歩き回る。
梅の管理は悪くて、まだ見頃になっているものは少ない。樹木数もかなり減っている感じ。
春には整備されて公開されるのだろうか、遊園施設や看板等は新しく塗り替えられていた。
もちろん観客は他に数組いただけで、見たくても見るものがないということだった。
昼食は帰宅してとる始末になった。

家内が黄砂ではないかというほど、一日中天地の間が霞んで、もう太陽は西の山に隠れた。
5月に掛けて毎年黄砂が大陸から飛んで来る季節ではあるが。Titiyasu

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