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2008年2月 1日 (金)

自動車運転

2月1日(金)曇
朝1時間ばかりは良い天気になったが、間もなく雲が張り出して予報通りの天気になる。明日は雨も降るかも知れんとのことだが、田丸の法事が多田であるので出かけねばならず、なんとか持って欲しい。
気温は朝1度だったが昼には大分暖かくなる。

8日に新山口まで出かけて、ホテル探しをするために、当初新幹線で行くつもりにしていたが、今は「のぞみ」がほとんどで、ジパング割引が利かない。となると往復で1万円近くかかる。しかも時間も普通線を経由するので1時間半かかる。
車ならと計算してみる。距離が約110kmだから1時間半で楽に行ける。
費用は¥2800x2と半分近い。ガソリンが高くなったから@¥150でいくらかかるかだ。
軽だから往復10ltぐらいだろう。とすると2千円は安く上がる。
ということで車で行く事にする。

明日の法事ももちろん車で行く。お寺の下に駐車場があると弟がいう。尚都合が良い。
老いてもやはり車は已められない。軍隊でしっかり鍛えてくれた御蔭である。

今日届いた市報を見ていると、近くの宮島SAで来月2日からETC出入りが出来る事になるらしい。
時々飯を食いに出かけたり、家のもののツアーの行き帰りに車で迎えに行ったりして、便利のよいところなので助かる。大いに利用したい。特に上り線が便利だな。

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2008年2月 2日 (土)

死してわかる友の価値

2月2日(土)曇
どんより曇り空。旭の影も見えない。当然島影も。ただ前の宮島は霞んでは居るが、ほぼ輪郭を現している。
法事が12時というのだから、すこし気ぜわしい。遠方から来るものは大変だな。

11時丁度家を出る。廿日市ICから高速に入り、岩国ICに抜け、東に少し戻りお寺を捜す。行き過ぎたらしく家内の注意に応じて後帰り、国道からすぐ右に急な坂道を上に上がる。百メーターも行くと寺の正面。車はそこに置かさせてもらう。
東京などからの連中はすでに着いていた。
12時定刻に御経が始まったが、お寺の広い金堂のこと空調機は働いているのだが、さっぱり利かない。零下の気温の中での法要だからたまったものではない。
寒くてとてもオーバーは脱げない。若い人たちはそれでも我慢してオーバーを抱えて、かしこまっている。

そもそも設備も無いお寺で法要をするなど無理なことだと思っていた。
妹は暖房設備はあるからと言われて、通常の設備だろうと思っていたらしかった。
食事もなんとか出来るとふんだふしがある。
肝心な和尚が病気で寝たきりだし、葬儀も特別に捜してもらって近くにすむ坊主にしてもらったらしかった。
とうとう小1時間の行事が終わって、納骨。墓地はすぐとなりだから移動は簡単だが外はかなりの雨。
御経の間にお参りを済ませて、又寒いお堂にもどりそこでのお斎。
およばれも車で来たものが多くて、アルコールは禁物。暖かいものはお茶だけ。
流石に老骨にはこたえた。

早く終ってもらいたくてイライラし通しだったが、結構久しぶりに親族の会合。
積もる話が多くてなかなか終らない。
こらえかねて、先に席を立つ。とうとう寺側の好意のコーヒーもそこそこに帰り支度。雨の中をイの一番に車で走り下りる。そんなにいそがなくてもの家内の声にも、もう聞く耳を持たなかった。
終ったのが丁度2時、帰宅したのは3時少し前だった。

食事が済んで、片付けしているとき、思いがけず哲郎に向って、わしが死んだらお前は来なくていいよと言葉が口から飛び出していた。唐突だから哲郎はたまげたらしい。
絶句して声は出ない。私自身もしゃべってしまって驚いた。へんなこと言ってしまったな
と。
私はかねてから葬式はやらないといってる。坊主とか神主とか必要な葬式はやらない。
だからこんな無理でもなんでも法事をするなどという事はやらない。従って死んだときは遠くの方から弔いに来てもらわなくていいよという、前提の言葉が落ちたままだった。

老いぼれとうとう頭に来たなと思ったに違いない。一人合点がますますひどくなる今日この頃である。

隣にすわっていた三生君の従兄弟の三宅さんが、若き日に三生さんと慣れ親しんだ経緯をとつとつと語って皆に聞かせていた。死してなお、忘れ去るに堪えられない思いが込められていた。
多感な青年時期をほとんど一緒に過ごし、後を追って同じ学校に進学してまで、生涯を掛けたこの人。その人に及ぼす影響の深さは友を除いていないとまで思う。
三生さんもそれだけの影響力を持った人間だったのだ。えらいなあ!

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2008年2月 3日 (日)

とんだ法事よばれ

2月3日(日)晴れたり、曇ったり
東京の方は大雪とのラジオ報道。こちらは青空も広がるいい天気。昨夜のうちに雨は上がり東に去った。ただ北部の山間は雪に埋もれているらしいが。午前9時を少し廻った所で、下腹部がにがり始めた、もちろん便意のせいだろうと厠に駆け込む。腹部のいたい部分を押す様にして、かなりの量を排便する。終ってしばらくして又激しくにがってたまらない。もう一度厠に入る。大量の便が排出される。

昨日のお斎の料理があたったに違いない。大きな今流行のプラスチック容器一面にしつらえられた、山海の珍味で一度では食いきれないで、半分以上家に持ち帰り夜の食事とする。
この夜の食事が悪かったらしい。刺身や酢の物に腐敗したものがあったのではと今日になって悔やまれる。
とうとう昼食は抜き、夜はお粥いっぱいに梅漬けで済ます。しかしまだしゃんとしないので、厠にかがむ始末.

とんだ日曜日となってしまった。
もちろん間は一日中寝てばかり。
家内も誘われた様に、腹具合がよくないという。しかし下痢はしてないようだ。

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2008年2月 4日 (月)

奉仕活動の義務化必要

2月4日(月)晴時々曇り
朝10時頃までは全くの快晴。しかしじょじょに雲が張り出して来る。

早朝午前2時ふと目覚めると腹が痛い。便所に急ぐ。下痢便が下って痛みが無くなる。
安心して眠ったのだが、朝起きてパンをかじった途端また痛み始める。
すこし下る。老いぼれてはダメージが普通より大きいらしい。

天気はいいが、本日も休養とするか。
正午近く空はすっかり雲に覆われて、逐次寒さ募る。

今中国の餃子中毒事件がジャーナリズムを賑やかしているが、外食への依存度が高くなった我々老人も他人様の作られた食事を安心して食べにくくなってきた。
外国との貿易が盛んで、なんでも食べられるのはいいが、その為に身じかで生産してくださる食料がだんだん少なくなるのはいなめない。
特に生鮮食料は近くで取れるものが一番安心である。それが叶わぬ事になったのが辛い。

生産者名、生産地名と法律により規制は厳しくなっているが、これとて信頼出来るかどうかが、もう一つ課題として突きつけられている。先般来つづいた偽証事件である。

日本人は古来正直でよく働くと、外国で評価されていた。私の父などその口でメキシコで大地主に信頼され成功した。
昨今の道徳観念の衰微は目に余っている。ずる賢さを教え、利益追求ばかり宣伝するジャーナリズムのせいだろうか。

昼過ぎには雨が降り始める。が2時頃には雲が切れて太陽が顔を出したり、めまぐるしく天候が変わる。

また曾野綾子さんの受け売りをする。
奉仕の義務化を説いて居られる。私は何度か私のブログや通信フォーラムで徴兵制度に似た青年の奉仕活動義務化を投稿した事がある。
私自身の体験から、軍隊教育は必ずしも悪くなかったと思っている。
二十歳前後の無定見に揺れ動き、感受性が高く、運動能力の一番優れた時期に良い体験をさすということは、社会を将来担って行く彼らにとって必要で悪くない体験だと思う。

女性の曽野さんが提唱されるのだから、対象はもちろん女子を含めてであろうが、私は男子だけでもよいと思っている。育児などという大事が任されている女性には少し無理だろうと思うからである。お隣の韓国では2年以上の兵役義務があると聞く。徴兵制度をとっている国は他にも多い。1年程度の奉仕活動の義務化が悪いなどとは全然思わない。国民運動にでもしたいくらいだ。

災害国日本というくらい、自然災害が多く、古来為政者は悩まされ続けて来た経緯が史書の中に数多く見える。対策はいずれも強制的に民衆の力を借りるしか無かった。場合によっては民衆自身の発案奮起によって困難を打開した。
年々起きる大災害を見ても、自衛隊とか、ボランティアに頼る事なしには解決できない。
予め計画的に準備しておけば、社会の為はもちろん自己の研鑽に多いに役立つのではと、つまらぬ政争にあけくれている国会議員のていたらくに呆れるばかりである。

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2008年2月 5日 (火)

修学旅行

2月5日(火)晴
朝快晴の空、射し込んで来る日光で部屋は正に温室。
それでも沖の方は少しもやって島影ははっきりしない。

昼外食に出る。やはり外は寒い。丸首の毛糸のシャツを出して来て、これを来て行けと家内がすすめる。天霧の店の中は暖かい。
帰路スーパーによって買い物をすます。
空の高いところに白雲がうっすりたなびいているが、太陽の邪魔にはならない。
家に帰り、部屋に落ち着くと暖かくホッとする。

新聞で中学生の正論というのを読む。
修学旅行について書いているが、中学生にしては立派な論文である。2年も前から行き先の計画を立て、その地理歴史などの勉強をするのだそうである。行き当たりばったりの親の世代とはまるで違っているし、その批判の目も手厳しい。
私の時代は小中学校を通じてそんなものはなかった。ただ他校で修学旅行があるやに聞いて羨ましく思った事はある。経済力の無い田舎の学校だから仕方がなかったし、戦争の真っ最中だからやむを得なかった。
ただ私も軍隊で思わぬ外国旅行をした。大いに勉強になった。善悪は別にして、他国の風土に接し、異境の人と交わり、経験する事は全部知識となって、身に付く事は間違いないことを知った。
先般もテレビで関口知宏が外国をながながと旅する姿が写し出されたが、他人の行為でも十分勉強になる。本人とともに貴重な体験ができたと思っている。

悲しいかな旅はほとんど視覚に訴えるところが多いだけに、本来保存が利かない。しかし今は写真とかムービーなどで記録する事ができるから、随分ましにはなった。
若い世代は努めて旅をすべきである。そして世界を学び、この中学生のごとき意見をもち、役立たせてほしいと思う事切なるものがある。

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2008年2月 6日 (水)

ワールドサッカーいよいよ始まる

2月6日(水)晴れたり曇ったり
起き抜けはここのところ気温2度がつづく。
よく晴れていたが、9時近くなるともやってくる。今日もくもりかもしれない。
昨夜も身体が全身痒くて満足には眠れない。再三起き出してCDを掛けなおしたり、本をめくったりする。ひどく痒くなった所には薬を塗る。夜中の仕事みたいなものだ。
着膨れしているから何をするにも煩わしい。早くこいこい暑い日よだ。

昼近く結構良い日和になる。

昨日はうちからほぼ真北の方向約35kmにある恐羅漢山のスキー場から、スノーボートで西南の羅漢山に向った山男たちが、折からの天候急変から道を迷い、3日目にやっと救援隊に助けられた。7人の助けられた男たちは異口同音に冬山を甘く見過ぎたと述懐していた。
急峻な山ではないので雪崩に埋没するようなことはないだろうが、やはり霞に覆われるとどこへ行くか分からなくなる。一人でも事故者が出ると対応が自ずから違ってきて難しい事になる。もう1日悪天候がつづいたら危なかった。食料をまるきり持ってなかったということはやはり軽率のそしりを免れない。

私の身辺にも登山好きが二人居る。どちらも用心深いのでこんな心配はしないですんでいるが、すぐ近くの山でこんなことが起きるとやはり人ごとではない。

いよいよ始まったワールドサッカーアジア予選、吹雪の中を日本が4−1でタイを破り、幸先よい緒戦勝利を果たした。無論負ける相手ではないし、何が何でも勝たねばならぬ初戦だったから、前半リードした直後忽ち同点に追い込まれたのはショックであった。やはり油断は禁物の格言は永久に生きている。

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2008年2月 7日 (木)

老人病の一つ

2月7日(木)晴
気温0度。ちょっと冷たい。放射冷却らしい。宮島も遠く霞んでいる。明日の天候が少し心配だ。

家内がラン展を見に行こうというので一緒に植物園に出かける。
出展者が中国各地から沢山いる関係で入場者が多く、ごった返す。
出店物は千差万別色とりどりで、目を引くものなんでもないもの雑多である。
それほど関心があるわけでないので、家内ほどの真剣味はない。通り一遍に見て回る。
昼になったので構内のレストランに行ったが、満員で受付は行列、これではどうにもならないと軽食堂に廻りピザを食って帰る。

家に帰って、食事の追加をし、撮った写真の印刷をしておるとき、ちょっとした立ち居の際の動作間違いからころんでしまい、腕や頭にちょっと怪我をしてしまう。
やはり歩き疲れたのかも知れない。
この分では明日の小郡行きが少し気になる。家内はJRで行けというがさあどうするか。
明日にならないと決心がつかない。
家内が老人の怪我は室内での転倒が多いのだそうよという。合点する!
しかし気を付けられるかどうかな?

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2008年2月 8日 (金)

大村益次郎

2月8日(金)晴
天気予報と違っていい天気。
気分もいいので予定通り車で出かけることにする。
昨日所得税の申告も済ます。もし万一のことがあっても困るから。
税金も5%で済んだので大分安くつく。
山口南ICを出てすぐのところに大村益次郎の墓やお社があるのでお参りして行くつもりだ。
何十年ぶりだろう。

予定通り山口南ICから大村益次郎の墓を訪ねる。直ぐ近くで里の人に聞く。りっぱな夫妻の墓が建っている。直ぐ近くには大村神社がひっそりと立っている。私以外にもう一人参拝者があった。今となっては予想通り訪ねる人は少ない。
日本軍の創建者といってよい人物だが、現在の世では通用しなくてもしかたがない。他にも寄るつもりだったが、ホテルの駐車場を捜すのに少し時間を食ったし、腹が減ったので食事場所を探したりして、落ち合う時間に間に合わなくてはと心配で、そのままグランドホテルに入って用件を聞いてもらった。
土田君が来る午後3時までそれでも寒い新山口駅のロビーで2時間近く待つ。

用件の方は担当の吉松さんと話し合って簡単に6月20日に予約を取る。念のため会場や宿泊室など一応見せて貰う。

彼が土産を買ったり食事をするというので、駅の構内の土産店などうろうろして、彼の折り返し帰宅の時間までを過ごす。彼が頭が寒いといって毛の頭巾を冠っている。駅で出会った時、様子が違っていて気づかなかったくらい。しかし元気なものだ。82歳まで県会議長などの要職をこなし、勲章も勲三等を貰っているのだそうだ。友といっても格差がありすぎるな。今後4ヶ月メールなどを駆使して、準備をしなければならない。

疲れたら泊まるかもしれないと、家内には言って出かけたのだが、別につかれたようでもないし、4時半には用事が終わって、彼の帰りも送ったので、そのまま帰る事にしてホテルを後にする。
小郡ICから高速道に入り、途中下松SAで食事をして帰宅する。
うっかりミスでまたまたガス欠事故をすんでの所で演ずるところだった。後0.1ltも残っていなかったのではあるまいか。
気づいた時、メーターがEのところだったが、それから20kmぐらい燃費を考え考え走るつらさ。やはり最後の2,3ltがものをいったわけ。

下松SAではほんとに蘇生の思いをした。神様ありがとう!Img_0927

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2008年2月 9日 (土)

老の痛み

2月9日(土)曇
昨日は思いがけず終始好天候で、あまり寒くもなく予定通り仕事ができて、幸運にも恵まれてガス欠を辛うじて免れ、無事に役目を終えて帰れたのだが、やはり老骨には無理があったのだろう。疲れもひどかったか、9時頃までぐっすり眠る。

夜中に足の痙攣が起き、ひどい痛さで今朝は歩くのに困るほど。サロンパスを足首回りに3枚貼付ける。

腕の傷がちょっと腕を動かすだけで痛くて、化膿かなにか始まっているのではと一日中気にかかる。夕食の時にも、茶碗の上げ下げもできない。お茶を飲むのも右手にやり替えて呑む始末。
どうせ寝る前には裸になって薬を塗る毎日なので、家内に応援を頼んで下の部屋を暖かくしてもらって裸になる。
下シャツを取ると、案の定腕の傷口に塗布した貼り薬が剥がれて、ぶらぶらしている。
道理で直接傷口がシャツを擦れ合い痛んだわけだった。血痕は少々ですんでいたから、傷そのものは快方に向かっていたらしい。

こんどは念入りに貼付けてもらい、用心の為に包帯でぐるぐるまきにする。
少し窮屈だが1,2日は辛抱するしか無い。

午後も疲れのせいか、よく寝て家内が食事の時間を告げに来るまで眠りこけていた。
長女の所ではこの3連休を、兄夫婦が旅行するとかで、代わりに両親の面倒を見る為に、引っ越して世話をすることになったとのこと。
兄夫婦と同居している、両親の世話をたまには代わって実地にするのもいいことだと思う。
娘は両親がその気ならば何処かへ旅行に連れて行っても良いのだがと言ってたとか。

さざん会の案内状の原稿ができたので、土田君にファックスする。
折り返し電話で、あれで結構だが、世話役に私の名前を入れておく様にと注文がつく。
何せ6月までまだ時間があり過ぎるので、一応予告案内ということにして、正式には4月頃に出すからとして置く。

さざん会が終になったかどうか心配していた向きには、早くても良かった筈だ。

夕方には足首の痛みも取れる。

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2008年2月10日 (日)

乾癬悪化

2月10日(日)
朝気温3度、相変わらずもやで霞んだ空。太陽も霞を通して燦然と輝きまぶしい。
予報ではいい天気になる筈だ。
庭の通路に何気なく足を下ろした途端ぎくっとくる。ありゃ又やった!
足首の痛みが再発。

午前中掛けてさざん会山口大会開催通知状を作成印刷し終わる。29名分の封書も出来上がったので投函しようと思ったが、休日なので切手がたりない。明日に延期する。

相変わらず乾癬が痒い。しんどくて気が散って何もできない。

外はよい天気で寝てるにはもったいないくらい。

夜風呂から出て、家内に背中の乾癬塗り薬を塗ってもらう。
背中全体に広がって、大変だ!くすりがよくないのではと家内が言う。
といわれてもこちらはどうしようもない。
痒くさえなければ、いくら蔓延っても構わないつもりなのだが。長生きするだけがいいってわけではない。

13日には医者に行くのでよく話してみよう。

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2008年2月11日 (月)

岩国市長選挙

2月11日(月)晴
岩国市長選挙は新人の福田氏が僅少の差で勝った。井原前市長は艦載機移転を拒み続けて、結局民意に背かれてしまった。おそらく岩国市が合併で広範囲になり、影響の少ない市民にそっぽを向かれたに違いない。
素人の私でもそこらあたりの理解はつく。
前回合併前に大急ぎで市民投票をやって、大差の移転反対票をとりつけ、岩国はこの通り市民が反対しているのだと、全国に訴えた。これも選挙戦術だが、こんどは議会解散では効果なしと見たか、市長自ら引退して再選挙に望んだが、墓穴を掘ってしまった。
市民もいつもかつも戦略通りには動いてくれない。

隣町の大竹市は政府側に付き、予算の分配に預かり、その隣の廿日市市は依然として猛反対を続けている。騒音で世界遺産の宮島の神殿が傷むというのである。また学校では何にも聞こえなくなって、授業ができないという。
反対しようと思えばなんでも理屈がつけられる。公害訴訟などは大方そんなものだ。
飛行機も自動車も止めてしまうのが一番問題ないのだが、そうはいかない。戦争がなければ、軍備もいらない。やはりそうはいかない。

岩国は運悪く狙われた町である。他所へ持って行ってくれといっても、言われる相手も困る。
世の習いの通り、我慢するしか無いのでは。代わりに犠牲補償をたっぷりいただくことだな。

休日なので本局まで出かけて、別納郵便でさざん会案内状を29通出す。

午后2時大阪の水戸君が電話をかけてくる。私のブログでさざん会の準備のことを知ったらしい。感謝のことばを投げかけてくれる。6月には是非会いたいといっておく。
山口往復だけで結構大くたびれしたので、やっぱり体力が急に落ちたのだなときづく。
足首の調子も不安で、歩くのに随分気がかりになってきた。
この調子では今年が私の最後だなと天の声が聞こえる様な気がする。

ここのところ寝る時間が物凄く増えたので、読書も多いに進む。といっても藤澤周平にのめり込んだ感じで、なんどもなんどもくり返し読む。全集は重くて大変なので、文庫本を買って来て読む。寝て読むにはまことに勝手が良い。

宮島の事を書いたので、思い出したのだが、2、3ヶ月前に買って来た文庫本で『英国人写真家の見た明治日本」というのがある。この世の楽園・日本という副題がついている。
その最後の方に”宮島”のことを気恥ずかしくなるほど褒めちぎって書いてある。
 『宮島!その名前からして耳に優しく快く響く。それは女王にふさわしい名前だ。確かに宮島は、世界中で最も美しい水域の一つ、瀬戸内海に君臨する島の女王と言ってよいだろう。』
以下連綿と褒め言葉がつづく。南極スコット探検隊記録他世界各地の写真を数多く残したポンティングというイギリス人の写真記録の一節である。

人に言われるまでもなく、大切な遺産には違いないが、といって飛行機の爆音や墜落事故にこじつけるのはどうだろう。私はむしろ台風などによる海水の高まりが一番心配だ。

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2008年2月12日 (火)

瞬時の牡丹雪

2月12日(火)晴
朝の気温が7度と異常に暖かい。といっても予報では最高が8度と言ってたのでこのまま推移するのか。
空はいつものごとく霞に覆われて、前の宮島も他の島影一つ見えない。あやしげな気配だ。
その内どんどん気温は上がって部屋の中が23度、テラスが20度と予報は大狂い。

岩国市長選挙は番狂わせと感じた向きが多いようで、テレビに新聞にまちまちな感想が発せられて面白い。井原市長の作戦はまことに妙で、勝つ事間違いなしと皆思ったらしいのだが、そうはいかなかった。
民主党も先の選挙で天下を取ったつもりで居ても、現状の様な優柔不断な対応振りでは,次はひっくりかえされそう。ガソリン値下げなら値下げで押しまくらねば野党とは言えない。政権欲しさでまともに口が開かない様では駄目だ。国民は直ぐそっぽを向くぞ。

午後にはやはりびっしり雲が張り出して急に寒くなる。
午後5時突然牡丹雪が一面に舞い降りて来る。なかなか積もる所までは行かないが,見事なものである。春になったといっても寒さは去り難いか。

20分もすると止む。暮れの闇へまっしぐら。

岩国から家内の知人から長い電話。孫に近い若い新市長の先ずはお手並み拝見とのこと。飛行場から100mのところに住んで、関心の強さはいわずもがなだが、接戦の星を逃した無念さがありあり。
立ち退きを迫られる不安が言葉の合間にのぞく。
騒音を言い過ぎるとこちらへどうぞと、立派な代替地が準備完了とか。
一般市民は得をしても損をすることはないだろう。ただ程度の低い外人さんが増えるかもしれない。しかしこれは日本中皆同じ。

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2008年2月13日 (水)

私もiPod touch 党

2月13日(水)晴
朝起きると一面の薄い銀世界、1cmもあろうか、どの屋根も光っている。
気温はマイナス1度。予報通り。昨夜寝る前に外部の水道の凍結を恐れてカランを締めたり,開いたりしておいたのがよかった。
7時前に起きて、8時前には広島総合病院に入る。
雪のせいもあってか、外来が少なく.9時過ぎには帰宅する。
病気は進みもせず良くなりもせず,カユミ止めだけ新しい薬に代わる。アレジオンを毎夕一錠。利くか利かないかわからんが、医者もわからんという。
雲の去来は激しいが,概ね上天気。

新聞によると、携帯音楽プレーヤーの市場はiPodとウオークマンが8割を独占しているとか。
私も過去にウオークマンの虜になり,今はiPodを二台も買って一役かっている。
知らず知らずその宣伝に乗せられているんだなあとその巧妙さにあきれる思い。

16時西の空の雲が切れて突如陽光が激しく部屋に飛び込んで来る。
今日は朝から晩までおかしな天気だった。家内は洗濯物を出したり入れたり,場所を替えたりなんどか誰にともなく言う小言の声が聞かれた。

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2008年2月14日 (木)

万事塞翁が馬

2月14日(木)晴
相変わらずの好天気で毎朝始まる。気温はマイナス0.8ぐらいか。
手足が少し冷たい。霞がかかっているので,日射しがやや弱く,部屋の温度は上がりづらい。
足首の痛みも,左肘の傷も随分よくなった。昨日も病院に行くのにちゃんと杖は携行した。
転ぶのが一番困る。自覚なしに突然起るので油断がならない。畢竟反射神経の衰えが原因だからなす術ない。
妹から主人が年末に亡くなり,年賀状を沢山受け取っていたので、欠礼の理由を挨拶状にしたため、印刷して欲しいと頼んで来たので、原稿を元にハガキに十数枚印刷して送り返す。
出たついでに家内と一緒に天霧で外食して帰る。

ここのところ不思議に午後になると雲が出て天気が悪くなる。
今日もさほどひどくはないが、日が隠れて薄ら寒い。老体には僅かな事がこたえて、元気が出てみたりなくなったりで、着るものもとっかえひっかえ自然と忙しくなる。

終戦の翌年の今日2月14日(1946)には、捕虜収容所から奥地百キロの崇陽付近の道路河川改修をするよう軍命令を受け、1ヶ中隊を編成して隊長となり、二日がかりで行軍して現場に赴き工事にあたった。
なにしろ経験した事のない仕事をやらされるのだから、うまくやれるわけがない。食料もろくに無い当時のことだから、力も出ない。
部下の中の要領のいいやつに任して、毎日ぶらぶらと魚つりにいそしむ始末だった。
何よりぼつぼつ国への帰還命令が出るかと思っていたのに,逆に奥地の方へ復旧作業に行かされるなど思っても見なかったショックは大きかった。やる気が起きるわけが無かった。
何もする事の無い捕虜収容所の約8ヶ月間のうちでも、この将来への希望を失いかねない復旧作業命令こそは最も大きな精神的打撃だったことを未だに忘れない。

この作業期間中の4月18日になって漸く帰国命令が届けられた。欣喜雀躍振りはもちろん凄かった。しかし帰国といっても上海まででも1500kmもある道のりをどうするのか、運を天に任すしかなかった。私達は結局小舟で揚子江を半月掛けて下ったのだが、後に聞いた話では鉄道であちこち廻り回って上海に出て来たのもあったようだ。

この頃既に栄養失調で胸をやられていたのだが、発病は南京に上陸して喀血してわかった。
後半年もこの勤務が続いていたら、彼の地で命を落としていたかもしれない。
この日の前日道程の途中で前部隊長だった生田目少佐に偶然再会し、えらく歓待、激励をうけた。私を非常に可愛がってくれた部隊長だった。福島県出身だったから、遠くて戦後もなんの消息を聞くよすがは無かった。
しかし運命の不思議さには今だに驚くことが多い。
いつだったか八王子の友人がいつも運命の岐路に立った時,幸運の道に転がり込んだと言っていたが、別の道に行かされた同僚が皆不運に泣かされ,或は命を失ったと実例を挙げて私に手紙を送ってくれたことがあったが、90年も生きるとそれだけで幸運のあかしだろうか。

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2008年2月15日 (金)

隣近所

2月15日(金)曇
気温1度、雲多く日光及ばず。
昨日書いた捕虜収容所生活の前年即ち終戦の年1945年2月14日は丁度現在観光地として脚光を浴びている桂林の近郊周家村に入り,約5ヶ月間の駐留を開始した日であった。
作戦中一番長く駐留したのだから,当然記憶することも多かったと言いたいのだが、数的には全く僅かで、アルコール製造とこれを使って自動車を走らせることに没頭したこと以外に、ほとんど思い出すことがない。アルコール製造工場は原料の焼酎を集荷しやすい10kmばかり離れた 会稽村というところに作って、中井という桐生出身の兵技軍曹に指揮させていた。一度街全体が敵の包囲攻撃を受けたことがあったが、救援隊側に戦死者1名を出しただけで,工場警備隊が死守してくれて損害はなかった。
御蔭で生産したアルコール燃料を使用し、鉄路を利用して物資輸送を夜間徹夜で敢行して成果を挙げ,軍司令官の賞詞をうけることが出来た。極短期間ではあったが全員一丸となっての努力の実りが実現した想い出は未だに脳裏深く留まっている。

もうガソリンの補給は尽きなんとして、敵の反撃急となり,8月を待たずに工場閉鎖撤退の已むなきに至った。終戦時には省境近くの杞陽の近郊の山茶花畠の中だった。

今日は終日雲が多くいい天気とは言い難かった。
家内も浜田さんに家に招待されて夕方まで遊んで来たようだ。近所で一番仲のよいばあさんだ。私と同い年というのだが。家の中なら暖かいから風邪を引く心配は無い。
大藤の奥さんはどこかリハビリ施設に入られたとか、主人も一緒だというのだがよくわからない。最近は近所にも黙ってこっそり入院する人が多くなった。迷惑をかけたくないというのがその理由だが、過疎化が精神的な環境まで進むとは情けないことだ。

幸い今はそんな心配がない私達だが、何時そういうことにならないとも限らないだけに、よく考えておかなくてはいけない。ああいやあなことだ!

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2008年2月16日 (土)

わが町、我が国

2月16日(土)曇
マイナス0.5度の朝、庭のあちこちに霜が降りていて流石に冷たい。
午前中は雲の往来が激しくて、太陽もなかなか顔を出さない。
先日の恐羅漢の遭難救助費用が二千万円かかったと新聞に出ている。ほとんど公の負担だそうだ。
いいのか悪いのか何とも云えないが、とかく世の中はありがたいものだ。

昨夜はまたまた身体が痒くて寝づらかった。従って昼寝はたっぷり出来る。
人間の身体はいい具合に出来ている。

午後は快晴がつづき、部屋の中は正に温室。日が沈むまで変わらない。北国は吹雪が連日激しいというのに,天候まで極端な格差だなと有り難い様な気の毒なような気持ち。

今日のサンケイにも出ていたが、日本史教育が強調し始められた昨今だが、日本史が日本の学校で教えられていなかったのだと聞いて驚いている私である。日本語もろくに理解出来ない日本人が多いのも不愉快だが、日本史を知らないでは故郷などと言っても始まらないのでは。
同新聞には、歴史をまなぶことを難しく考えることはない。『わが町」や『わが国」のご先祖たちと出会い,彼らが何を思い、どう生きたかを辿って行けば良い、とある。

ともかくあまり難しく考えることは必要はない。今は有り余る情報によって、いやでも世界の状況がわかる。そして現在の自分の存在との比較が出来る。わが町、我が国への愛着は知らぬうちに育ち行くのではなかろうか。

天候の格差をいったけど、良い所に生まれ、いいところで生きている幸せを再確認する、これこそがわが町を愛し,我が国をあいすることにつながるを実感する。歴史への思いはこんなことが根底にある筈だ。
日本史から学ぶことは自由だが、殊更なる主張と政治的なこじつけはして欲しくない。自然体に受け止めて欲しい。

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2008年2月17日 (日)

54年前の今ごろ

2月17日(日)曇
54年前の日記を読んでいると、偶然同じ2月17日のページが出て来る。
『2月17日(水)
日記を付けようと思ってペンをとると小百合が早速真似て鉛筆を握って、頭からすりよっ
て来て書く所作をする。前々頁の鉛筆の跡がそれである。何としても邪魔になって書けな
い。とうとう書くことを止めて、小百合を抱いて外に出る。喜んで矢鱈に腕の中で雀躍り
する我が児を落とすまいと抱きしめていると、何かほのぼのと愛情が胸に沸き上がって来
る。
今度新入職員3名の割り当てがある予定。男1、女2。いずれも高等学校出身である。こ
れでどうやら陣立も出来上がるというものか。
今晩の泊まりから新しい蒲団。仲々色彩の鮮やかな大きな蒲団である。有馬さんがお初と
あってはしやぐことはしやぐこと。』
こんなこともあったのかなと、懐旧の情ひたすら胸を打つ。
新しい蒲団というのは、宿直の蒲団が古くなったからと稲田理事が新しいのと取り替えさせたことを云う。

前の方をめくると、私の誕生日の1月22日にこともあろうに悪童たちに同窓会をやろうと急に呼び出される。
『1月22日(金)曇
午過ぎ村岡より電話で今晩同窓会をやる旨言ってくる。快諾して6時頃出かける。
村岡の家に一応集まって出かける。同勢5名、村岡、山崎、村尾、広沢と私。皆気の合っ
た連中ばかり。先ずどこへ行くか協議の結果、「ともえや」に決まり出かける。忙しいの
かそれとも無愛想なのか全くかまってくれないで、料理も途切れがちに皆腹を立てて、こ
こを出ようということになり、外に出て行く先を決めるのに暫く協議。トルコ風呂はどんな
ものか一つ見に行こうということになり「岩国別荘」へ行く。何のことはない首枷をつけ
た箱風呂で、いつか映画でも見たことのある代物。見るだけみたらもうよいとばかり又席
を設けて飲む。些か参る。続いて「銀馬車」といういかがわしいバーに飛び込む。どうや
ら皆草臥れたらしく、これにて漸く幕となる。』

若かりし時代、終戦後の混乱期を過ぎて、ぼつぼつ十年、朝鮮動乱が終わった翌年で好景気に沸き立った想い出が多分に残っている。日本は先進国の仲間入りに向って怒濤の産業復興を果たしつつあった。
戦場の屈辱とその反動での血気の向うところは、34、5歳という中堅世代だし、もう怖いもの知らずだった。

今日も午後の天気は悪くない。ただ風が少しつめたいが。
午後買い物に大きなスーパーに行ったが,来客は妙に少なかった。偶然かも知れないが。
昨夜モーツァルトの伝記映画をやっていたが、録画していたのでもう一度昼見る。モーツァルトの音楽が沢山出て来て楽しい映画である。ただモーツァルトの奇矯さにマトを当て過ぎて気の毒な感じがしてならない。
どんなであれ、モーツァルトの音楽のすばらしさは、永遠にかわらないだろう。

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2008年2月18日 (月)

家内のお茶会

2月18日 (月)曇
家内は久しぶりのお茶会にいそいそと出かける。もう終にすると何度目か言いながら。
今朝はジャスト0度、いささか冷たい。空も雲が多くて明るさが見えない。予報では良くなると云った筈だが。

持病の乾癬は今の所痒い以外は治まりかけているのだが、心臓が大分疲れたらしく部屋に戻る階段がだんだんしんどくなってきた。てぶらなら何でも無いのだが、何かを提げて上がると緊張が高まるせいか、息が弾んで苦しい。
その都度もう永くないなと、終末の近づいた淋しさ、いや喜びを感ずる。
丁度今採りだめのCDから、”海行かば”が朗々と流れている。
やっぱり俺の人生はこの歌に尽きるかと懐う。何も後に残らない草蒸す屍,古人が描いた日本人の理想の姿だ。
何人でも、一生を終えた時、何の影響も残さないのが一番良い。人の心の隅の記憶以外は。

今朝の時事通信によれば、テニスツアーで18歳の錦織圭(ランク244位)が世界ランク12位のジェームス・ブレークを破って優勝というニュースが飛び込んで来た。聞いたことの無い日本人なので驚く。
  ___________________________
18歳の錦織、ツアー初優勝=松岡修造以来、日本勢16年ぶり?男子テニス(時事通信)
 【ニューヨーク17日時事】男子テニスのデルレービーチ国際選手権は17日、米フロリダ州デルレービーチで行われ、シングルス決勝で世界ランキング244位の錦織圭(18)=IMG=が同12位で第1シードのジェームズ・ブレーク(米国)に3ー6、6ー1、6ー4で逆転勝ちし、ツアー初優勝を果たした。日本勢の優勝は1992年4月の韓国オープンを制した松岡修造以来、16年ぶり2度目(2人目)。
 錦織は予選から勝ち上がり、ツアー6度目の出場で初めて決勝に進出。第1セットを失ったものの、サーブが復調し、安定したストロークも生かして強敵を逆転した。
 島根県出身の錦織は5歳でテニスを始め、小学生のころから全国規模の大会で活躍。ボリス・ベッカー(ドイツ)、松岡らを育てた名コーチ、ボブ・ブレット氏(オーストラリア)に師事して腕を磨き、米国に活動拠点を移した後、昨年10月にプロに転向した。 
[時事通信社:2008年02月18日 09時40分]
_____________________________
音楽の世界では生きのいい若者が沢山いるが、スポーツではなかなかお目にかかれない。テニスで18歳は驚きだな。
今後におおいに期待したい。

家内はお茶の会を三月いっぱいで引退を言い出したらしいが,全員が止めてくれるなと云って止めるので困ったという。とうとう結論が出なかったようだ。

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2008年2月19日 (火)

私の転居人生

2月19日(火)晴後曇
朝気温マイナス1度,雲一つなき快晴から始まる。正午近くなり灰色の霞空に変わり、陽光も弱くなる。
終日はっきりしない天気。雨にはならなかったが。

昔の事を思い出してみると、1955年即ち昭和30年の今日、妻の実家の借家に引っ越したことになっている。
私の放浪人生の始まりだった。
妻がその前年の9月20日に洋品店を実家の母と共同で開店していたので、朝晩の通勤が大変だったからだったかなと思っていたら、家内はそれは違う、友達と上司が共に4月の市会議員に立候補するからと、年初に早々と頼みに来られ困って地元から逃げたのだという。そういえばそうだったかもしれないと今思い当たる。

当時の日記帳を繰ってみると、4月30日の選挙に上司と友達の一人と従姉妹の主人の3名は当選したが、友達の一人が惜しくも落選した。後でお見舞いに出かけたが云う言葉が出ないで困ったとある。

どういう巡り合わせか、この引っ越しを皮切りに4回転居している。都合5回住所が変わったわけである。
他に学生、就職、軍隊をいれると、どれほど人様のうちにお世話になったことかと思う。
戦争の御蔭で仕事も変わる(在満の会社だった),住まいも変わる(空爆で壊滅)、いつも口癖になっている流転の浮き世人生だった。
正確には、終戦直後軍隊から帰還して,その年唱和21年9月30日から東京へ転入して、すぐ転居したので、2つの住所を持ったことも入れなくてはならないかも。

若き日の私はまことに落ち着きの無い生き方をしてきたなと自分ながら感心する。
そしていつも戦争のせいにしている。実際はどうだか。

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2008年2月20日 (水)

チチヤスの梅林

2月20日(水)晴
霞がこくて島影は何一つ見えない。太陽も拡散して光の雲となっている。

今日から丁度54年前の1954年の今日の日記に次の書込みがある。
『2月20日(土)
照子とともにセントラルへ行く。稲田さんに貰った招待券のおかげで自転車の預け賃30円だけで済む。しかも2階の特別席で始めから腰を掛けて見ることが出来る。
ルネ・クレマンの「禁じられた遊び」は評判通り良い。最初のパリからの避難民のごったがえす中、空襲の場面は客観描写が足りなくて稍事実程の迫力が出ていないが、農家に拾われてからの挿話はポーレットなる少女とミシェルになる少年の好演技に救われて、実に見事な演出となっている。死ぬるという事と十字架を単純に結びつけて、死を十字架で飾らんとする子供心が思いがけない事件を生んで行く筋は、風俗の異なる我々日本人にとってもはっきり分かる。家族にいろいろ聞かれて、パパもママも死んだと何気なく答える場面、
無心に床に眠る場面、少年が父に折檻されるとき泣き叫ぶポーレットの演技は全く5歳の少女のそれとは思えない。特に最後に近いママに似た姿を追って人混みを分けて呼び求めるポーレットの姿は正に本編のクライマックスを形作り万人を感動せしめる場面である。
こうして静かに消えて行くこの一編は余韻嫋々。人々に限り知れない問題と共感を残し、忘れ難き映画にしているのである。』

未だに良い映画だったとの印象は消えない。テレビでは何度も上映して人気は衰えない。
ついでに昔の事を云えば、1981年の今日田島淳さんがひょっこり店に来訪。
永年勤めていたライト工業を最近退職して,別会社を作って経営しているとのことだった。
1974年に私を探し求めて電話をくれ,翌年はわざわざ訪ねてくれて戦後始めての再会を果たした。彼のことは一昨年(2006)の7月9日のブログに詳しく書き出している。

彼は1940年3月一緒に満洲鉱山に入社した同期生である。同じ課で5歳年上の彼は兄貴分としてよくいろいろ面倒を見てくれた人である。就中新京放送劇団での交流は忘れることが出来ない。森繁久彌氏との一期一会の一緒の舞台経験も交えて、まだ20歳の若者の夢を大きく膨らまさせてくれた人だった。間もなく私は関東軍に徴兵されたので、二度とは会えないと思っていた人でもあった。
戦後三十数年も経って私を探し出し、復縁を果たしたのだが、この1981年の今日の再会が最後となった。
最初に会ったときから,実に40年も経っていたのである。彼の脳裏には深く私のどこかが刻まれていたのであろう。

昼少し前、家内がすすめるのでチチヤスの梅を見に出かける。
行ってみてがっかり、休園中で入園禁止となっている。それでも強引に誰もいない公園の中を歩き回る。
梅の管理は悪くて、まだ見頃になっているものは少ない。樹木数もかなり減っている感じ。
春には整備されて公開されるのだろうか、遊園施設や看板等は新しく塗り替えられていた。
もちろん観客は他に数組いただけで、見たくても見るものがないということだった。
昼食は帰宅してとる始末になった。

家内が黄砂ではないかというほど、一日中天地の間が霞んで、もう太陽は西の山に隠れた。
5月に掛けて毎年黄砂が大陸から飛んで来る季節ではあるが。Titiyasu

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2008年2月21日 (木)

幸福の絶頂

2月21日(木)晴
昨朝と同じく霞み空。島影はまるで見えない。
よく見ると黄砂かも知れない。報道はされてないが、この景色は間違いない。とすればえらく早くから蒙古襲来だ。

昨夕思いがけず東京の月岡君から電話が入る。学生時代以来の声だから、もう70年にもなる懐かしい声だ。彼もいつも世話になるばかりだからせめて君の声が聞きたくなったのだと云う。
さざん会の世話をしていることを言ってるのだが、もう身体は曲がってしまったし,外出できるような状態ではないから、いつも案内をいただいても参加することは不可能だとのこと。
日立という大会社に身を投じ、退いても系列の会社を経営し、申し分無い生活を送っているようだが、同窓との付き合いまでは手が回らなかったらしい。くやしさを滲ませての口ぶりだったが、世の中そんなに甘くないし、なにもかもに手が届く様なものではない。
しかし東京のど真ん中で何不自由無く暮らしてゆけるとは、最高の幸福人生ではあるまいか。
私の蔭の声であるが、学生時代下宿した古い暖簾の呉服屋さんの娘さんと結婚し,それが運を呼び込んだのか、大会社に就職してとんとん拍子に出世し、自分の自由になる会社を作って思うままに手腕が振るえたとあって、これ以上の人生はあるまい。
私などまさにその正反対の道を歩いて来なければならなかった。運の違いが大き過ぎて話にならない。

大きな声でよくべらべらとしゃべったが、どこが悪いのかと疑いたくなる様な調子だった。
永年自信満々に業務を取り仕切って来て、習い性となり、学生時代の姿から遠く抜け去った現在の彼を、言外にはっきり感じ取ることが出来た。
悪くいえば、同窓会なんて子供らしいことには興味が無いよということでは、過去33回の同窓会に一度も出てこないのだから。
それにしては東京からわざわざ電話をくれたということは、行く先短くなり里心が思わず沸き上がったということかもしれない。

黄砂は終日空を曇らせた。夕方近く中天に僅かに青空をうっすらと覗かせはしたが。

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2008年2月22日 (金)

宮島全国押し花展

2月22日(金)晴
昨日と同じく黄砂の影響で天候ははっきりしない。朝の気温は3度と上向きだが、四辺全く霞んで灰色一色。
家内は松浦さんと打ち合わせて10時宮島に向かって出発する。
日本全国の押し花画展が千畳閣から回廊や大聖院まで展示してあったそうな。午後3時を過ぎて帰宅する。
二人で全部見て歩いたそうである。女性パワーは流石に凄い。しかしかなり疲れた様な感じではあるのだが。
後で地方紙を見ると写真入りで、この押し花展が大きく掲載されていた。
天気が一応暖かかったが、とうとう太陽は顔を出さずじまい。夕暮れても黄砂現象はつづいている。いやますますひどくなってるようだ。

こうして連日蒙古嵐のお蔭を蒙っていたのでは,春は来そうにない。
こればかりは何ともしようがないし,文句を云うて行く所もない。最近は政府の物わかりがよくて、なんでもかんでも国民の言う通りにしてくれてるが、こればかりはご勘弁をというだろう。

天候が悪いせいか、身体またひどく痒くなって来た。精神的なものもあるのかもしれない。
気にすればするほど悪くなるから。気にしないで済む方法はないものかなあOsibanae

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2008年2月23日 (土)

宮島SA=スマートIC

2月23日(土)晴
風が強くなったせいか、雲や霞が吹き払われて青空がのぞく。
朝まだき空を覆っていた黄砂と思われる灰色のもやはどこかへ飛ばされたらしく,宮島を始め島々が顔を見せ始める。
11時現在まだおぼろではあるが、早朝よりは遥かにましである。
家内が昨日帽子を落としたと言って、宮島渡船の受付に電話し,拾得されているというので貰いに出かける。
帰路スーパーで買い物をし近所の食堂でうどんを食って帰る。
午後になると青空が広がり好天気になる。

相変わらず身体が痒い。四六時中気になってたまらない。横になっても無意識にあちこちを掻くのでますます痒くなって眠るどころではない。
カユミ止めはどれもこれも効くどころかひどくなる様な気さえする。なんの因果だろうと思ったりする。

今日の新聞をみると、近くの宮島SAからETCで実験的に出入り出来ることに、3月2日からなるらしい。早速試してみるかなと楽しみである。交通混雑を避けられることが何よりよい。

小泉元首相が”再編にらみ虎視眈々?”という新聞記事が出ている。自民党をぶっこわした張本人がこんどは修復側に廻るつもりか。もっとも中身をよくみると民主を含めてのねじれを修復する狙いということらしい。
豪腕の彼ならではの世評は面白い。

イージス艦に漁船が体当たりして問題になっている。自爆ばやりのこの頃だからそのつもりだったかも知れないが、普通なら小さい方が逃げるのが一番賢い方法だと思う。大きい方に肩を持つつもりはないが、大きい方は動作も大きいから簡単には舵が切れない。だから相手が先に切って逃げてくれることを願う。私ならそうするだろう、当られても痛くも痒くもないのだから。暗がりだから、漁船が勘違いして逃げ遅れたのと違うか。

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2008年2月25日 (月)

雪の日々

2月24日(日)曇
雪の朝。7,8cmでも積もっているだろうか。久しぶりだ、何時以来か覚えていない。
昨夜は体が痒くて眠れなかったので、今朝は家内に起こされる始末。8時20分になっていた。

風が強く,時に雪が舞い落ちるなど、落ち着かない一日。
昼の食事を済ませた頃から,雲間から太陽が顔を出し、燦々と降り注いだりする。屋根の雪はもうすっかり溶けてどこにも見えない。
家内も冷たいのがリウマチにこたえるとみえ、痛みを訴えたりする。

外出は寒いのでやめて、二人でもっぱらこたつに入ってテレビやビデオを見て過ごす。

2月25日(月)晴
昨日は雪に明け暮れして、寒い思いをしたが、今日は朝から上天気で,青空いっぱいの中を夏にも似た陽光が降り注いでくれる。
今朝の気温は0度だったが、12,3度には上るだろうとの予報。ただ午後になると低気圧のおかげで悪くなるらしい。明日は雨の予報でもあるし変化は激しい。

東京の孫たちはもう春休みに入って,先日の東京マラソンにはボランティアで引っ張り出されたとのこと。
アルバイトのお呼びが掛かったり結構忙しい毎日らしい。

天皇陛下が骨粗鬆症の恐れがあると発表される。宮中だから食事の案配は間違いないと思われるのにこうした事が持ち上がる。人間というのはやはり難しい生き物だと思われる。

午後3時になるのに天候はまことに良い。日本晴れといってもよい。
雪の被害の多い地方に較べて、この恵みは有り難過ぎるほど。部屋の中は今24.8度である。テラスが17度。

おやつの時間に家内が写し出したビデオでイタリアに旅行した映像を見る。一時間以上見てると疲れてしまう。
次女が撮影して来たのだが、よくも写したものだと感心する。自分が鑑賞する余裕は無かったと思われる。
やはりイタリアは西洋の粋だと分かる。東洋の粋は中国かな日本かな。

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2008年2月26日 (火)

春雨

2月26日(火)雨
気温3度.ぬか雨が降り続いている。
こんな日は始めから寝ていようという気になる。
幸い昨夜から見かけのビデオもある。音楽は早くからなにやら鳴り響いている。
最近は隣を気にすることはほとんどない。少々大きくても留守の多いおうちだから、邪魔になる筈はないし、居られても気にしては居ない風だから。

在日米軍司令官に黒人のライス中将が就任した。米本土では黒人大統領が発生しそうな雲行きでもある。
私の親父は排日侮日の最中に、彼の国で苦労した。日米戦争の原因の一つともなった黄禍論に由来する。皆白人優位の社会が招いた産物であった。あれから半世紀以上経って、米国を救いリードしているのが、もう白人だけではないことが実証されて来て、どうにもならなくなった。
今後彼の国も変わるだろうが、日本人の彼らを見る目が大転換することを期待したい。

終日ほとんど変化無く降り続く雨、こんなことは最近ほんとに珍しい.古人が詠った春雨がなんとなく分かる気がする。

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2008年2月27日 (水)

黄砂情報

2月27日(水)曇
朝の気温昨日と同じく3度。雨はよるのうちにやんで、どうやら良くなる気配。
9時を過ぎてもまだ雲が多くて日射しは弱い。

新しい岩国の福田市長が山口県知事と会見し、艦載機移転の容認を伝えたとある。国の財政支援に狙いとあるが、これはもう間違いないだろう。私は国営空港を要望するよう県知事と意見一致したとある点が一番重要だと思っている。
ただ国の言いなりでは駄目だ,その上を狙えということである。もしこの空港が実現したら、広島県西部、山口県東部、北部の利便向上は大きい。産業、交通上の利得も少なくない。

今日の新聞によれば、環境省は黄砂の飛来状況を毎時ネット表示することになったと報じている。
連日被害を受けている私達には有り難い。ホームページのアドレスは次の通りと発表している。
http://soramame.taiki.go.jp/dss/kosa

壱番館に出かけ、カキフライのカレーを食べる。スーパーでいろいろ買い物をして帰宅。
風がときどき突風化して寒い。
カレーが体質に合わなかったか、夕方になるとジンマシンが身体一面に出る。またまたやれやれである。
風呂でよく汗を出して寝ることにしたのだが、うまく眠れるかどうか自信はない。

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2008年2月28日 (木)

医者通い

2月28日(木)晴
今日は宮島がからくも見えるが、霞がかった朝の風景は変わりない.今朝の温度は1度、少し寒いかな。
今朝になって右手の甲が異常に腫れている。痛くもどうもないが理由が分からない。

家内は胃の検査のため朝飯抜きで医者に出かける。
医者との付き合いはますます激しくなる。保険料が上がるのは無理無いな。

宅配のにいさんが頼まれの米など置いて行く、奥さんはというから胃の検査で医者へ行ったというと、大袈裟に驚いた風に、それは大変だ気をつけてくださいと、社交辞令を残して帰る。

家内は昼前になってやっと帰宅。どうしたんだと聞くとどこも悪くないという。いろいろの検査があったらしいが、ともかく別状ないということは嬉しい。

今度は私の手の腫れ具合を見て、医者に見せろという。心臓が悪いのかも分からぬから内科に行けという。
来月の始め頃に別府温泉にでも行こうかと云うことになっていたので、その前に決まりをつけて置かねばということに決まる。やっぱり医者の世話にならなければとうんざり。

昨今の新聞を読むと、私などにはわかりにくい自民、民主入り乱れての超党派議連の動きが活発らしい。もちろん明日の政権を目指すものだろうが。やはり多数がものを言う社会だから当然といえば当然の流れだろう。
次の政党、次の総理は誰にも読めない。

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2008年2月29日 (金)

医者もいろいろ

2月29日(木)曇後雨
朝9時半に内藤内科に行く。外来の多さに先ず驚く。これは簡単には終らないぞと覚悟する。
手足の腫れを言って、心臓の最近のみだれと併せて訴える。
レントゲン、心電図、尿検査、そして最後に血液検査ととうとう正午まで掛かる。
排尿促進と血管拡大の薬をくれて、詳細は4日後の血液検査の結果を見て又考えるとのご託宣であった。

内科の検査を受けてるとき、裸になった私の身体に出来た発疹を見た看護師さんが薬疹の疑いがありますねと言われたが、私もどうも食事の中毒ではない筈だし、薬害ではないかと疑ってたので、今日からカユミ止めや副腎質ホルモン系の塗り薬の使用を止めることにした。いつまで続けられるか分からないが、とにかくやってみることにした。

身体全体に出来た発疹は、乾癬のものとは明らかに違っているし、複合した皮膚病に進化したらしい。
医者の先生も、皮膚科専門の先生が直せないのではねえと嘆いて居られたのが、私には強い衝撃であった。

サンケイの報道によると、共同記者が中国でメタミドボスを購入し、持ち出そとした為摘発されたとある。
誤解のようでもあるが、中国のネットは毒餃子事件は日本人記者の自作自演だったと大変な騒ぎになったとある。
真相究明は勿論だが、いかにもありそうな軽率な行為だからどう発展することやら気がかりなことだ。

午后2時完全な曇空となり、小雨が降り出したらしい。予報ではもう少し良くなると思っていたのだが。

暗くなる頃には雨がひどくなったようだ。
明日は寒くなるというし、老人には辛い一日になりそうだ。

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