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2008年1月19日 (土)

ブラジル移民百年に憶う

1月19日(土)曇
朝いい天気かと思われたが予報通りどんどん雲が広がり,午後には一面灰色に覆われて天日はどこにも見えない。
昨夜お茶の先生の依頼のしごとを清書して、食事に外出する徒次届ける。
生憎先生は別の行事の準備で外出中であえず、ご主人に手渡してゆく。

今日の新聞を見ると,ブラジルに日本移民が渡航して丸百年になるとある。
百年といえば私の生まれる12年前である。何故日本人は外国に大勢移民として渡航しなければならなかったか。

その時父母はメキシコ在住中だったのだから、父がメキシコ渡航したのは、百年より昔になるようだ。
父の遺品の中にあるパスポートの写真などを見ると,1901年に移民会社というのができて、応募して百名内外のものがメキシコに渡航したらしいが、今勘定するとメキシコ移民の始めは107年か108年前になるわけである。
母の話では鉱山労働をさせられ,酷使に絶えかねて仲間と脱走し、米国境まで逃げて来て、救われたように言っていたとのことだった。

私が生まれたのが1920年だから、母と結婚するまでの十数年間はどんな暮らし方をしたのであろうかと思うと、無口で我慢強い不屈な闘志の父を見てるだけに、そのハングリー振りがなんとなくよく分かる。

母が写真結婚で渡航した頃は三千エーカーの農場の支配人で沢山の農夫を指揮監督していたので、さほど無理な労働はしなくて済んだらしいが、民度の低いこんなところで子供を育てるわけに行かないと,別居を覚悟で3人の幼児をつれて1925年に郷里に帰国したようである。こちらも気丈な母だったから、私達こどもは随分こき使われた様に思っているが、今思うと当時としてはなんでもないことだったことがよくわかる。

先般NHKドラマで感動を招いた,藤原周平作の『風の果て」で描かれる当時の二、三男の将来像で示される通り、三男だった父の将来は自分で稼いで、家を持ち暮らす以外にはなかった。その必死の思いがこれほど精神力を高めたのであろう。
戦前よく使われた、この狭い日本では生きて行けない、満洲や海外に行けの掛け声は,真実誰もの胸をうつもので、その切迫さは戦争へかき立てる単なる宣伝とはとてもいえなかった。それを遮るものには戦いをしかけても進まざるを得なかったことに結果はなってしまったのだが。

戦後粛々として聖勅を拝し、黙々と廃墟を修復し、泥水をすすり,粗食に堪えて復興に勤めたのは、国民の意思で海外進出を企てのだから当然の報いだと、殆ど全国民が知っていたのである。東条や戦犯に問われた政治家は責任の代表をさせられただけだと皆わかっていた。

現状でも世界中にはこんな立場の国民は多い。紛争や戦争が起きない筈はないことを、平和をお祭りの如く甘い考えで叫んでいるひとびとにこそ強く言いたい。

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