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2008年1月 1日 (火)

老兵は消え去るのみ

平成20年1月1日(2008)(火)曇
朝8時気温0度。ときどき風にゆられて小雪がちらつく。
天候はあまりはっきりしない。今年一年も問題山積の年になりそうである。

日本の人口統計が発表されているが,出生数は相変わらず減り続けているし、死亡数が戦後2番目に多くて、110万人を超えたとある。老人が大半だろうから悪くはないが、活力は依然として低下するのでは、

天皇杯サッカーやはり実力通り鹿島のものだった。サンフレッチェは何度も決勝には出るがなかなか勝ち切れない。
地元だけに、かすかに神頼みしたのだったが、空しかった。

東京の子や孫たちから声の年賀も届いた。みんな元気なのがよい。

午後早めに入浴したので,湯冷めしそうだから、ベッドにはやばやともぐり込む。
年賀状は夕方になって配達されたが、出した数の半数ぐらいしかない。
もう皆忘れたがっているのだろう。仕方のないことだ。
老兵は消え去るのみ。

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2008年1月 2日 (水)

大渋滞

1月2日(水)晴
快晴の夜明け。
天気が良いので急に思い立って宮島参拝を決行する。
10時過ぎ車で出発。岩国バイパス沿いの道に出ると、バイパスは車がいっぱいで殆ど動かない。
これは駄目だと旧国道の宮島街道に廻る。すらすらと合流点まで行くと、バイパスに出た途端やはり渋滞。
約30分のろのろついて行ったが、宮島口近くの駐車場手前でとうとう動かなくなる。
岩国よりの駐車場を先回りして捜してみたが,全部入り口付近で車列、どうにもならないので宮島ゆきを諦めて,ナタリーまで引き返す。食事をして速谷神社に参拝を思い立つ。
ところがナタリーの駐車場もいっぱいで車1台入る余地なし。あきらめて廿日市まで帰って来ると、帰り道も渋滞してなかなか速谷口まで戻れない。
正午を過ぎて腹も減って来たので、高速道路の宮島SAに行き食事をすることに変更、急に進路変更して廿日市ICに入り込む。
宮島SAについてみるとここも満員、レストラン入り口には行列ができている。
家内がもう仕方がないから並んで待つという。

こちらはそれでも10分ぐらいで入場出来る。
やっとあなごめしにありついて、宮島に行った気分を味わう。

五日市ICで折り返して、廿日市ICに戻って下り、速谷神社に向う。交差点を折れた途端もう行列の最後尾。神社まで1キロはある。これは辛抱出来ないと、又反転。
部落の氏神様にでも参るかと、部落の小道に入り込むと、道順を間違えて、とうとううちの前まで来てしまった。

神のお導きかどうか、いや神に嫌われたらしく、変な徘徊をして元日の一日を浪費してしまった。

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2008年1月 3日 (木)

ひいじいになるのか

1月3日(木)曇
長女の招待を受け、己斐まで二人で車で出かける。
昨年までは私の方が、ささやかな宴席に招待していたのだが、孫が結婚して所帯を持ったので、それを招待するついでに私達夫婦もお相伴にあうことになった。
昼飯にということで、途中デパートで少し買い物をしたりして、ほとんど正午きっかりに訪れる。
主人である婿は例の年金関係を担当しているらしく、正月も1日休んだだけで、夜遅くまで残業を続けて居り、この席に連なることが出来ないという始末。
もっぱら孫夫婦を中心に会話が弾む。
8月には出産の予定だと聞き大喜び。私もひいじいになるというわけ。
遅くも早くもない、現実にその日を待たなければ、なんとも言えない気持ち。

もう一人の孫が巧者に料理を作ったりして、長女を助けて豪華なご馳走ができる。
4時間ばかり楽しんで辞去する。

夜は例年の如く、NHKのニューイヤー・オペラ・コンサートをテレビで見る。毎年の如く新しい歌手が出て、世界に雄飛していることを知らされる。頼もしいことである。
圧巻はイーゴリ公のダッタン人の踊りに尽きる。これだけでも十分堪能出来た。

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2008年1月 4日 (金)

新春ハプニング第1号

1月4日(金)晴
殆ど雲の見えないよい天気。
生憎昨日の招待席での無理な姿勢で横になったのが悪かったか、首が痛くて廻らなくなった。
サロンパスを貼ったのだが効果はないらしい。朝痛み止めを呑む。

これでは天気がいくら良くても外出は無理。

くすりが効いたのか午後幾分楽になる。
日射しが部屋の奥深く射し込んで、暖かくまことに快適である。

一番手と思っていたが、ヒラリーがオバマにアイオワ州の選挙で敗れたという。
父親がケニヤ人というのだから、黒人系。アメリカの方が面白くなってきそうだ。

三菱重工業が発電所の炭酸ガスを回収して地中に送り込み石油増産に役立てる技術開発して、アラビアに売りつける工作を始めたとか。一挙両得になるというわけ。いろんな商売があるんだなと感心する。

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2008年1月 5日 (土)

今年も大変だな

1月5日(土)晴
朝8時気温3度。快晴といいたいところだが、もやが立ちこめたごとく、満天を覆って沖の島影はまったくみえない。天日もおぼろで精彩はない。

午後中天に日が移るとようやく日射しが強くなる。相変わらず雲らしい影は見えないが、灰色のもやはすっぽり空を覆って動かない。

外に出る気がしないので、部屋に閉じこもって音楽アルバム作りに余念がない。
50曲ぐらいを一束ねにしようとすると、あれこれと配曲に大変な苦労である。
ただ思いつきを順番に並べるのはあまりに能がないし、配列の効果を考えながらだと案外に難しいし、いくらでも時間がかかる。

先日購入したシューマンのバイオリン協奏曲もクレーメルの演奏がすばらしいので、取り込むことにする。
この曲じたいあまり聞く回数がすくなくて珍しい気がするから。

昨日の株式市場の発会相場は大波乱となった。高見の見物をしているものには、ただ驚いたなと言ってるだけだが、これでは今年も厄介な年になりそうだなという予感はして来る。
投機という新しい戦場が生まれた様な気がする。全世界の知能とお金が鬩ぎあう図である。

夜札幌の山崎さんから例によって電話での年賀。相変わらず元気な声。ひい孫が二人だそうで叶わない。

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2008年1月 6日 (日)

趣味の違い

1月6日(日)晴
気温1度、昨日に続いて快晴。
郷里の墓参りをすることにする。行楽地は混むだろうが、墓地はそんなこともあるまいということで。
10時半家を出る。高速に入る所で、ETCの故障で通れなくなり面食らう。ポリスカーからの拡声器で気づき、発券機からカードを取って通過する。
下りる所では普通に金を支払って下りる。夢タウンで食事をしたり、買い物をして、先に父母の眠る墓地に直行。
今回は杖を持って山登り、よろけはしないが、息がせってとても一気には登れない。心臓の弱ったことを十分自覚する。弟の家で暫く話し、川下の墓地を廻って、田賀に行く。こちらは義弟は留守、暫く居て白崎八幡宮に参拝することにして出かける。
3が日を外れているから、さすがに参拝客は少ない。下の駐車場に車を置いて歩いて石段を上る。
やはり息がはずむ。足もだるい。間もなく88歳になるこの身体をいやでも思い知らされる。

昨年は金比羅様や、津和野の稲荷のそれぞれ長い石段を登ったのにと今昔の差を不思議すら感ずる。
身体の衰えがここに来て一挙に加速したらしい。
帰宅してから、今年のさざん会を引き受けたのはよかったかどうか、急に心配になってきた。

弟が言うには田丸の妹が転んで腕を怪我し、三角巾で吊るしているとのこと、一人になったのだからさぞ困っているだろうと心配である。

5時に帰宅してから一寝入りして、起きると軽い足の痙攣を起こす。正に二重のダメージである。
遅まきながら、足を少し鍛えなければといたく感ずる。

時代劇ドラマがテレビの世界から急速に姿を消しつつあるのだそうな。見るのが高齢者ばかりで、販促につながらないから、スポンサーがつかないのだという。
スポンサーのいらないNHKなら、いいだろうと思ったらNHKも木曜時代劇を45分から30分にするという。
「蝉しぐれ」や『風の果て」は素晴らしかったが、もうこんなのが見られなくなるとは誠に残念である。
下らぬ韓国ドラマがあんなに人気化しているのが私には不思議でならない

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2008年1月 7日 (月)

間違いだったかも知れない長寿

1月7日(月)曇
今日も朝もやって、前方の島影は宮島を含めて全く見えない。雨にでもなる気配。何日も晴が続いたからそれもよかろう。8時の気温5度ともう春並み。
昨日の墓参りはタイミングが凄くよかったようだ。

昨晩鞠子に電話して、怪我の具合を聞き、不自由なことがあったら手助けするからと伝えておく。
葬式後の諸手続きなどあって忙しいようだから。なにせ一人でしかも右手1本では、不自由を通り越す。

昨年暮れから集めた楽曲29時間分をDVDアルバムNO.22として録音する。
もうこれを最後としたいのだが、約束はできない。気持ちがコロコロ変わって自分では制御出来ない性格だから仕方がない。作っても聞く機会が無さそうだから意味ない仕事だが馬鹿なことだ。
そもそも趣味なんてものはまことにくせ者で、ほとんど自分の為にも人の為にも役立たない。それでいて人生に大きく影響を及ぼす。そして何かの中毒と一緒で捕われたらもうおしまいだ。

昨日外で食ったてんぷらが悪かったか昨夜から身体が痒くてたまらない。湿疹が主に腹から背中に掛けていっぱい発生している。ときどきこんなことになる。厄介なことだ。
レスタミンコウワを9錠飲む。

後2週間もすれば、滿88歳になる。
全く無駄な人生だった様な気がする。
第3次長沙作戦のとき、ひどい赤痢に罹った。軍医は後で危篤状態だったと言った。
死の予感は自分にはなかったが、普通の兵隊だったら、あれが最後だったかもしれない。
長沙に入る手前から軍司令部付近に掛けての、延々何十キロに亘り、病みつかれ、路傍に転がった無数の兵士を横目に、なんの手当もしてやれなかった。私は材料廠長という役目の御蔭で特別の計らいを受け助けられた。
運命の岐路を感じないわけには行かない。
生き延びはしたが、後悔ばかり多く、未熟なままの碌な生き様ではなかった。

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2008年1月 8日 (火)

宮島詣で

1月8日(火)晴
昨日とそっくりの朝もやの立ちこめた、雲は殆ど見えないよい天気。気温も4度とまあまあ。
宮島に参るかと家内を誘う。内藤内科に行く予定だが、明日でもかまわないという。
明日は下水配管の掃除に来てくれる日となっているので、ちょっと忙しいかも知れない。

10時半出発。元旦に較べて驚くほど人、車ともに少ない。
一息に海岸を通り抜けて、回廊に入る。
身体が重くて、杖を持った腕がだるい。ときどきスナップを撮りながらゆるゆると進む。本殿で参拝を済ます。
回廊を通り抜けて,道路に出て,博物館横の道路を真っすぐ大聖院に向う。同じ方向に向かう客が多い。
先年の水害の跡が奇麗になってはいるが、大きな岩石は上流にごろごろしている。不安と言えば不安な感じである。
一応景観をかたちどってはいるのだが。

茶店風の食堂でアナゴ飯をたべて、ゆるゆる神社の周囲をめぐって帰路につく。
足の弱さがひどく感ぜられる。ふくらはぎが痛い。心臓が弱って血の循環が滞っている感じがする。
すこし速度をあげるとかなり苦しい。

連絡船に乗るとやれやれである。こんなにふらふらになったのは始めてである。
去年の私ではもうなくなったと痛切に感ずる。やはり寿命の尽きるとはこんな状況をいうのだろう。Torii
Kairou
Kairou2

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2008年1月 9日 (水)

イワシ不足

1月9日(水)晴
毎日朝同じ様な春霞の夜明けがつづく。昨日より少し明るいがやはり島影は一つも見えない。

昼食に珍しくイワシの焼いたのが出される。最近珍しく何ヶ月ぶりだろう。ときどきさんまが食卓に上がるのだが,その都度イワシは無いのかというと、今ごろは売っていないのだと家内がいうので諦めてたのだが、ほんとに少ないのだろうか。庶民に取っては昔は魚と言えばイワシだった。安くて美味しくて,栄養豊富な欠かすことの出来ない食品だった。いつごろからこんなことになったのだろう。

終戦直後遅配欠配が続いた頃、神田駅前の闇市場で一匹5円の焼きたてのイワシをおかずに、飯だけ入れた弁当箱を開いて、立ち食いしたときの美味しさをいつまでも忘れることはできない。東京中央郵便局の3階にあった、連合軍のCCDに勤務していた,僅かな期間ではあったが、昼の休憩時間に神田まで往復して、イワシや進駐軍の残飯から作られたシチューを毎日食べてを過ごした帰還軍人の一人としての生活のわびしさが、鮮明に私の脳裏にこびりついている。

産経の「正論」欄に曽野綾子さんの「どこまで恵まれれば気が済む」が載っている。
引き算人生と曽野さんは言ってるが、その根幹は少子化にあるのではと思う。少なくて切磋琢磨の起きない社会環境の中では、未熟なまま成人して行く人々は、他人の事など考える基礎知識を持ち合せることができない。
切磋琢磨は同世代間でないと効果が薄い。親子とか先輩後輩とか世代が違うと先ず切磋琢磨は起きない。
自分だけが足りない部分だけを取り上げる。比較する材料は新聞テレビで否応無く見せつけられる。
引き算人生はこの日本ではいつまでも続くのではと悲しい。

午後配管掃除の会社の人が予定通りやってくる。水道の水の圧力を利用しての掃除を炊事場、洗面所,浴場そして外回りの水槽を順番にあっという間に済ませてしまう。料金は¥9240.

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2008年1月10日 (木)

戦友三好君

1月10日(木)晴
春霞の毎日。気温は3度、同じ様な日が続く。厳密にはまだ冬のまっただ中の筈だが。やはり温暖化の影響か。

最近上側の門歯の一つが中が穿れて,食事のたびにものがその凹地に嵌って煩わしくてたまらない。その上歯ブラシでこすると、回りの歯茎が痛い。三島歯科に電話すると今日の夕方4時半に来なさいという。
年賀状はくれないが、誕生日には毎年欠かさず賀状をくれる親切なやさしい先生である。

私のブログもまた一年経ってしまった。年ごとに一応整理した方がいいので、製本することにするつもりだ。今度は意識して写真を少なくしたので、モノクロで結構だ。値段も安くあがるし。単なる日記帳に過ぎないのだから,自分史みたいに儀バル必要は無い。

午後3時、霞はなかなか晴れない。宮島の山容がうっすらと輪郭を現す程度だ。気温が現在13度。春と言ってもよさそうだ。

今日も手紙の中に年賀状が一枚入っている。川崎の三好信雄さんである。同じ部隊で桂林まで行った戦友だが、私は全然覚えのない兵隊で、ただ犬養君(元総理の孫)が新設警備隊長をしていた時そこに配属されたらしく、広西大学の趙冰教授夫妻の亡命を助けるために彼が尽力し、私の決断で部隊で同行したのだが、途中終戦となり、長沙に到着してすぐ解放した。教授がその後どうなったかは誰も知らない。年賀状でそのことを未だに案じて書いている。
数年前私がホームページやその他で戦争体験を記した「私の軍隊生活」の中でそのことに触れているので、奇しくもそのコピーが他の戦友から回し読まれ、一昨年突然彼から手紙をもらう羽目になり、知り合うことになった。犬養君はすでに先年亡くなり,三好君にコピーを渡した香川県の河田さんもこの世にいない。
三好君は90歳と言ってるから私より年上だ。おそらく招集されたのだろう。身にしみる様なはかなさである。

また吉屋君が奥さんを亡くした淋しさを改めて訴えたハガキも別に一枚混じっていた。やはり当座はやり切れないだろうなと思いやる。

夕方歯医者さんに行く。いつものごとくやさしく30分ぐらいで片付けてくれる。来週かぶせて呉れることになるらしい。歯茎の上にほんちょっと顔を出した程度に残っている歯だがこうして修理してもらうと未だ役に立つのが良い。

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2008年1月11日 (金)

マーラーの9番

1月11日(金)曇後雨
もう間違いなく下り坂の天気模様。空一面の灰色の雲と霞が混じって,沖の島影一つ見えない。
正月三が日に僅かに青空が見られた日があったが、4日以降沖の海が見えない日が続く。これしも異常気象というべきか。
昼頃から静かに降り始める。
気温が上がらぬまま仕方なくストーブを焚く。
折から流れてるモーツァルトの弦楽四重奏曲K464の物静かな音楽がちょうど良い。
つづいて放送されたベームのウイーン・フィルの田園が老いしおれていた気分を、急に若やかにしてくれる。やはり音楽はいい。

広島交響楽団の友の会から脱会して滅多に生の演奏会に接する機会が無くなったこの頃、家の中で夜も昼も音楽漬けでなんとか気分を落ち着かせている。そしてこれが最も楽しく生き甲斐を持たせてくれる。

夜マーラーの第9をFM放送で聞く。1時間半にならんとする大曲だけに、随分辛抱しないとついて行けない。録音はやめておいて素直に聞く。いや、聞く覚悟をする。起き上がったり横になったり、結局いくら好きでもこれはたまらんなと、感興を通り越す。マーラーはどんな気持ちでこの曲を書いたのだろう。
ベートーベンを意識したと聞いているが,コーラスは入れないで、それほどメロディアスでもなく、死の前年に書いたにしてはロマンが無さ過ぎる気がする。
滅多に聞く機会が無いから、恐らく二度目ぐらいと思うが、?を三つぐらい付けたくなる曲だ。
ラトルさんも相当な決心で指揮したに違いない。

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2008年1月12日 (土)

浩二さん殿堂入りおめでとう

1月12日(土)曇
昨夜来の雨は朝には上がっているが、雲は一面に空を覆っている。8時の気温は10度。
10時頃になるともやが取れて,前面の宮島、黒神、能美の島々が横一線に並んで真近に見える。
食事を兼ねて,買い物に行こうといつもと方向の違う大きなスーパーその名もビッグに出かける。
規模が大き過ぎて、ものも人も捜すのが大変である。私はうろうろするのを止めて待合室でTVを見ながら静かに待つ。
買い物を終わってから、一応荷物を車に納め改めて二階の食堂で簡単に食事をとる。
二人分の食料にしては多過ぎるなあといつも慨嘆する。2,3日分なのだが。

帰宅してから30分ぐらい昼寝。いつものパターンである。

家内のリウマチのせいで、いつも利用する旅行会社からうんざりするほどの旅行案内が届くが、家内も私もすっかり行く気を失って、チラシが山の様に溜まるばかり。
最近の心臓のぐあいを思うと私も自信がなくなってきた。去年の様に一日5百キロのバス旅行はとても無理だと悟る。
近い所はもちろん遠くもあらかた出かけたので、たいして見たいところも無くなったのも事実だが。
やはり体力の余っている時に,旅はして置くものだと思う。幸い私達は思い残すことはなさそうだ。

相変わらず今日の雲は天空をはぐれ動いて止まない。ときに雲間から太陽が一瞬顔を出したりする。
天候の気まぐれは古来変わらない。聖賢を困らせて已まなかった。

山本浩二さんがやっと殿堂入りを果たした。衣笠ならずとも遅かったなあと思う。今住んでいるこの町の出身であるだけでなく、うちの商売にも貢献してくれたことすらある。
今思えばカープの優勝は彼がいた時だけである。そしてその中心に居た。新聞を見ると親友の田淵君を抜いている。あっぱれといいたい。

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2008年1月14日 (月)

ひねもすのたりのたりかな

1月13日(日)曇
かなり分厚く雲が大空を覆って、日の光は遥か東天の一角に赤く滲んでいるだけだ。気温は5度。

10時半頃から雲間から日が漏れ始め少し暖かくなる。
沖の島々もすっかり姿を現す。いつもと違い過ぎて不思議な感じ。
TVと音楽で一日過ぎる。

1月14日(月)晴
霞は相変わらずだが、日光はさんさんとして春の陽気。気温は久しぶりに1度。
昨日は京都の女子駅伝で、地元の京都チームが圧倒的な強さで連勝しかも新記録で圧勝した。
終始見応えのある、女子らしからぬ快走の連続で、一老ファンを興奮させてくれた。
一週間後には、この地で男子府県対抗が行われるが、地元の広島チームには依然として期待が薄い。女子の岡山くらい県民挙げての努力が望まれる。実業団はしっかりしているのだが、高校がいつも穴だ。

昨日は大相撲が始まり、蒙古の二人の横綱が依然として圧倒的な強さを見せた。今場所もこの二人の優勝争いで幕が下ろされことだろう。人種的な力の差を見せつけられている様な気がする。
アメリカのプロ野球の様に国際化されたら、日本の国技なんて言えなくなるかもしれない。もう十年以上も横綱は出ないだろうし、神宮の奉賛相撲にしてもなにか奇妙な感じがしてならない。

三生さんの法事を郷里のお寺で2月2日にやると言って来る。車をチャーターするかも知れないからその積もりでおるようにとのこと。義理にでも兄弟だからお招きに応じなければならないだろう。
葬儀社などより,祖先伝来のお寺があるなら、そこでやる方が本人にとっても意義深いことかも知れない。

もう遠く近く見渡しても,血縁に繋がる年上のものは見当たらなくなった。覚悟はとっくの昔から出来てるつもりだが、なかなかお呼びが無い。もっとも遠くアメリカ辺りを捜せば従兄弟の何人かが生存しているかもしれない。その上の世代はもうひとりもいない。今更交信するわけにもいかないから、他人と思ってなんら差し支えない。
今の所若い世代に大した迷惑もかけていないから、もう少し生きてもいいかもしれない。私がそうであった様に、あれが未だ生きてるからと、頼りにしいているものがいるかもしれない。
自然の理は案外うまくできてるものなのだ。

二十年前、一時松葉杖をつかなくてはならない病気になった.約二年苦しんだ。然し医術の御蔭で不思議によくなった。関節にひずみが沢山出来たが,痛みがないから不自由なことは無い。戦争による後遺症も、戦後発生した事故によるそれも全くない。幸運としか言いようが無い。
最近は運転も起居動作も随分慎重になった。自ら仕掛けることはほとんどないと自信すらある。
ただ相手からの仕掛けは防ぎ様がないからと諦観しているのだが。

今一番危ないなと自覚しているのは,バランス失って物にぶっつかったり、転んだりすることかな。

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2008年1月15日 (火)

枯れ葉

1月15日(火)晴
いつもなら成人の日なのだが、14日に変わっていた。
いつもながらテレビの風景が花やかである。

今朝は0度と厳しい朝。雲は殆ど見えないから中天の日の光はまぶしい。部屋いっぱいに射し込んでくれて凄い暖かさ。部屋の温度は20度を超えている。

家内の誘いで昼前植物園に出かける。冬のど真ん中だから人影も車もごくまばら。
コンジショナーのかかっている本館を一渡り見る。見るべき物なし。
12時になったので軽食堂に入る。本食堂は思った通り休業の看板が上がっていた。
暫く休んでから山頂にのぼり縦走する。一周するのだからかなり道のりはある。
全山枯れ葉の山といっても過言でないぐらい枯れ葉が敷きつもり、かき集めて堆肥にでもするのだろうが、僅かな作業員でうまく出来るのだろうかと,小さな老婆心ながら気にかかることである。
上り坂で少し息が切れるが何とか杖をついて乗り切る。
作業員の数の方が目立つくらいの園内だから、時節柄期待もしなかったが見るべき物とてはなにもない。が十分足腰の運動にはなったような気がする。

少し途中で買い物を済ませて2時過ぎ帰宅。
一寝入りして丁度良いコンジションだ。家内もリウマチの痛みを忘れて元気に歩いたようだ。Img_0915
Poincetia

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2008年1月16日 (水)

医者のくすり

1月16日(水)曇
朝8時15分前家を出て,広島総合病院に行く。
外来多く時間がかかる。終わったら9時半。治療薬に若干の変更あり。
10時帰宅。
カユミ止めを50錠貰う。少々多く呑んでも眠たくなるだけだから、副作用はないとのこと。眼病を患っているものは要注意という。
時々日が射すのだから,そんなに悪い天気でもない。ストーブをつけるほどでもないから。しかし遠くの空は霞んで黒神島は見えない。

古い流行歌のCDでディック・ミネの歌をひさし振りにきく。声を振るわせながら独特の節回しは誰にも真似が出来ない。アイルランドの花売り娘、ある雨の午後,人生の並木道は特に良い。いつもは眠気が誘うのに目が覚める。

夕日が沈むと急に寒くなる。いつもベッドに逃げ込むわけには行かないので、ストーブに点火する。
家内は石油が高いからとやたら空調機をつけてるが、こちも馬鹿にならない.昨日の電気の請求を見ると¥11000.を超えている。(昨日灯油60ltが丁度¥6000.だった)
私の部屋の空調機は安物だったから、20度になるのに1時間はかかる。灯油とは比較にならない。4,5分もすれば、制限温度の22度になって,ファンが静かになっている。
時々換気をしなければならないのが難である。それと湿気が極端に少なくなるのも、肺の弱い私には気になる所である。

だから一番好きなのは、ぽかぽかと日の射し込む下で大きな座椅子にすっぽり頭をつけて、猫の様にうとうとすることである。

5時半明るさが西空の片隅に残っては居るが,もう夕闇が部屋を暗くしている。このパソコンの明かりが異常なほど輝いて見える。少し日が長くなったかな。

また怠惰な私の一日が終わった次第である。

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2008年1月17日 (木)

ブログの予定稿

1月17日(木)晴
殆ど快晴の夜明け、気温2度。予報では殆ど曇となっているがどうだろう。霞も見えない。
資源ゴミの日とあって,家内は朝から集束に忙しい。
昼前には北から白いちぎれ雲がどんどん張り出して来て,太陽を隠す。
東京の娘から、3月の休みにどこかへ旅行しないかと家内に電話があったよし。体調のせいで、家内にも一頃の意欲はないらしい。私に相談を持ちかけるが、娘と一緒ならどこへでも安心だ、好きな様にしろと突き放す。どうせ私は海外旅行は断念し旅券も継続放棄したし。

午後3時前三島歯科に行く。義歯がもう出来ていて丁寧に擦り合わせをしてくれる。約1時間、何度もグラインダーにかけながら合わしてくれるのだが、気が済まないのだろうがいささかうんざりである。
最近は苦情の多い社会だから、サービス側の辛さが何となしによく分かる。次々に入れ替わる患者への対応をみていると大変だなとかんずることしきりである。

4時過ぎ帰宅する。家内はどこへかショッピングに出かけた様だ。
珍しく奇麗な鱗雲が何本も東西に走り、気温の低下はいなめない。外気は12度となっている。
冷たくなった部屋に戻ると背筋に寒気が走る。
早速ストーブのお世話になる。
1時間以上何も食べるなといわれたので、おやつも食えない。仕方なくまた横になる。

6時家内からの食事のブザーが鳴って起き出してみるともう外は暗くなっている。
平凡な夕餉が終わるとまた寝床へ急ぐという段取りに変化は無い。

私のブログはこうした時間の合間合間をはしよって、つきっぱなしのパソコンに入力することによって完成するのである。
身体活動の鈍ったこの頃では頭の活動まで鈍くなって,ブログの材料になるものが激減した。明日明後日までの予定稿などとんでもない話になってしまった。

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2008年1月18日 (金)

年寄りの役目

1月18日(金)晴
予報では曇の筈だが,朝からよく晴れて気温1度の寒さからは,昼中気温上昇の気配さえ感じられる。
部屋に居るとさながら温室に居る感じで暑くてたまらない。
ベッドでなくてもいくらでもうとうと出来る。こんなときはまさに極楽人生である。

午後になるとやはり急変して雲が多くなり、やはり予報通りの天気になる。
おやつを食べた後,久しぶりにこたつに入って,家内と差し向かいでテレビの大相撲を見る。
外国のお相撲さんが多いので代わり映えして結構面白い。
高見山が登場して頃は、うさんくさくてどうにも見られなかったし、国技も他の職業と同じ様に変形してしまうのだろうなと思っていた。
しかし蒙古とか欧州とかのお相撲さんは、本来の相撲のしきたりを良く勉強していて、マナーなど日本の力士よりましなのが多い。皆強くて横綱はじめ上位は皆外国人になってしまった。くやしいけど仕方がない。

家内が近くの外科にくすりを貰いに行き、お茶の先生のご主人にあったとかで、先生から主宰のお茶席の席次第をパソコンで打って欲しいと頼まれる。自筆の原稿を夜ファックスされて来たので、電話で字句を確認し、パソコンのレイアウト設定に従って作成する。明日でいいというので家内にも見てもらい、明日しかるべく返事をするつもり。
なにしろお茶席の文書など馴染みがないので、何度か承っては居るが、その都度確認の要る仕事である。

2時間ばかり夜なべをすることになった。
東京の孫たちがどちらも進学のご褒美にガムに行きたいと言ってるらしい。家内もどうやら神輿を上げざるを得ん様な雲行きである。私は置いてけぼりだが、もう泳ぐわけにはゆかないから仕方がないか。

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2008年1月19日 (土)

ブラジル移民百年に憶う

1月19日(土)曇
朝いい天気かと思われたが予報通りどんどん雲が広がり,午後には一面灰色に覆われて天日はどこにも見えない。
昨夜お茶の先生の依頼のしごとを清書して、食事に外出する徒次届ける。
生憎先生は別の行事の準備で外出中であえず、ご主人に手渡してゆく。

今日の新聞を見ると,ブラジルに日本移民が渡航して丸百年になるとある。
百年といえば私の生まれる12年前である。何故日本人は外国に大勢移民として渡航しなければならなかったか。

その時父母はメキシコ在住中だったのだから、父がメキシコ渡航したのは、百年より昔になるようだ。
父の遺品の中にあるパスポートの写真などを見ると,1901年に移民会社というのができて、応募して百名内外のものがメキシコに渡航したらしいが、今勘定するとメキシコ移民の始めは107年か108年前になるわけである。
母の話では鉱山労働をさせられ,酷使に絶えかねて仲間と脱走し、米国境まで逃げて来て、救われたように言っていたとのことだった。

私が生まれたのが1920年だから、母と結婚するまでの十数年間はどんな暮らし方をしたのであろうかと思うと、無口で我慢強い不屈な闘志の父を見てるだけに、そのハングリー振りがなんとなくよく分かる。

母が写真結婚で渡航した頃は三千エーカーの農場の支配人で沢山の農夫を指揮監督していたので、さほど無理な労働はしなくて済んだらしいが、民度の低いこんなところで子供を育てるわけに行かないと,別居を覚悟で3人の幼児をつれて1925年に郷里に帰国したようである。こちらも気丈な母だったから、私達こどもは随分こき使われた様に思っているが、今思うと当時としてはなんでもないことだったことがよくわかる。

先般NHKドラマで感動を招いた,藤原周平作の『風の果て」で描かれる当時の二、三男の将来像で示される通り、三男だった父の将来は自分で稼いで、家を持ち暮らす以外にはなかった。その必死の思いがこれほど精神力を高めたのであろう。
戦前よく使われた、この狭い日本では生きて行けない、満洲や海外に行けの掛け声は,真実誰もの胸をうつもので、その切迫さは戦争へかき立てる単なる宣伝とはとてもいえなかった。それを遮るものには戦いをしかけても進まざるを得なかったことに結果はなってしまったのだが。

戦後粛々として聖勅を拝し、黙々と廃墟を修復し、泥水をすすり,粗食に堪えて復興に勤めたのは、国民の意思で海外進出を企てのだから当然の報いだと、殆ど全国民が知っていたのである。東条や戦犯に問われた政治家は責任の代表をさせられただけだと皆わかっていた。

現状でも世界中にはこんな立場の国民は多い。紛争や戦争が起きない筈はないことを、平和をお祭りの如く甘い考えで叫んでいるひとびとにこそ強く言いたい。

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2008年1月20日 (日)

雨中の府県対抗駅伝

1月20日(日)雨
強くはないが,早朝から降り続いている。どうやらこの地方では本格的な雨らしい。
府県対抗駅伝が選手も観客も大変だ。スリップダウンなど起きないよう願いたい。

今日の中国新聞の森達也署名入りフォーラムに『不安を煽るメカニズム」というのがある。
防犯カメラから始まって、花粉症そして免疫細胞、仮想敵にと筋書きはまことに面白い。
私自身免疫細胞には二十数年苦しまされていて、治療不能を言い続けられている。
今月の文芸春秋で安倍前総理の突如退陣の釈明文に最大の理由はやはり免疫細胞が大腸壁を攻撃する潰瘍性大腸炎だっと告白している。

いずれも不治を宣告された当事者としては、理解がしやすい説明である。
「敵がいない状態が不安になり、自ら敵を作り出して攻撃してしまう」即ち戦後のアメリカはずっとこの状態にあると論者は書いている。
悲しいかな、解決策はどこにも見えてこない。やはり根治不能の病だろうか。

府県対抗駅伝はやはり予想通り長野の優勝となった。高校生の強さが抜群であった。
始めて雨中のレースとなり、気の毒な展開だったが事故がなかったのはよかった。

横山君から電話で会って話がしたいというので、23日リーガロイヤルで会うことにする。年始を兼ねてちょうどよいだろう。

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2008年1月21日 (月)

61年前の今日

今から61年前の1947年即ち昭和22年の本日は刀折れ矢尽きて、東京退散を思い決めた日であった。

南京で喀血し、帰国後空爆で廃墟のごとき我が家にやっと辿りついたのが,昨年6月8日。
惨状を前に辛うじて生き延びていた母に、どうして肺結核を訴えることが出来よう。
どうせ戦死を免れたこの身、このまま倒れたとて故国の空の下、なんの不足があろうかと、今日病がひどくなるか,明日は喀血するかと思いながらも、黙々と我が家の復興作業に汗を流した。

その内よく食らい、よく労働するので、まだ若かった身体は次第に元気を取り戻し,病気を克服したかに見えて来た。
しかし収入がなければ、一家は共倒れになるは必定、職を得るには東京に行くしかないと悩みの末思い定めた。
別にしかとした当てがあったわけではないが、連日戦友たちから来る手紙を読むと、流石に東京は首都,復興の足跡が一際高く感ぜられ職を得る道は簡単に思われた。(戦友の殆どが東京付近出身の兵隊ばかりだった)

当時食料事情から、生計の立たない者は入京出来なかったので、入京の手段として、誰かの示唆で、一旦何処かの学校に入学して,学生としての入京を思い立った。
こうしてたまたま10月新入募集をしていた国際外国語専門なる学校に応募したら,入学許可が来たので、母を説き伏せ9月の末に上京した。寮が用意されてるというのだったが、これが6畳間に6人押し込まれた。寝るのがやっとで、荷物や本机の置き場など全然ない。電灯も部屋に裸電球一個で、電力不足の当時だから、60ワットでも蛍の光の明るさしかなかった。従って夜になると勉強も出来ない。(もちろん勉強するつもりは無いので構わないのだが)

そこで就職活動する間に,知人の山県さんを何度か訪ねているうちに、窮屈でも良ければうちに来いよと言われ、厚かましくも転がり込んでしまった。昔子供時代に近所に住んで居た人で私より4歳年上の兄貴の様な人だった。
その人と枕を並べて寝起きするわけだった。

そのうち間もなく進駐軍のCCDという所に外務省嘱託として採用され、10月の終頃から東京駅前の中央郵便局の三階にあったCCDの現場に大井町から通勤を始めた。仕事の内容は産業関係の手紙の翻訳であった。

それからの2、3ヶ月これは実に楽しい,快適な勤めであった。日本とアメリカの休日がダブり、入浴その他のサービスは行き届いていた。作業時間はきっちり8時間で残業などは勿論無かった。ただ食堂はまだ無かったので、外食しなければならなかった。そのうち神田の闇市場を見つけてそこへよく通った。

間もなく12月になり、寒くなったせいか、病気が亢進し始めた。やたら咳が出たり,痔の具合が悪くなって通勤に苦労する様になった。
丁度同居の友達の長兄が新宿の鉄道病院のお医者さんで担当日の昨日(1月20日、丁度月曜日)だったので診察を受けに出かけた。

結果は再発ということであった。食料事情の悪い東京で生活するのは健康によくない。田舎に帰っていい空気の中で、栄養を付ける以外に途がないと、まだストレプトマイシンなどいい薬の無い時代だから当然の忠告を受けた。
下手をすると命を失うことになるかもしれないとも言われた。命は惜しくなかったが、友人やその家族に迷惑をかけることは出来なかった。
もはや鴻鵠の志もむなしかった。

CCDに診察書を提出し、退職手続きをまず済ませ、友人安藤のアゼリア開店に呼ばれていたのを断ったり、切符を買いに行ったり、朝から大騒ぎをしてやっと夕方落ち着いたところだった。
切符は簡単には手に入らずやっと25日の急行券が取れた。

奇しくも今日は私の誕生日の前日ということでもあった。

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2008年1月22日 (火)

うまい甘酒

1月21日(月)晴後曇
昨日終日降り続いた雨は夜の間に止んだらしく,雲は残っているが気温3度。
朝9時家内はお茶に出かけ、銀行が集金に来た頃には雲が晴れて日が射し始める。どうやら穏やかな一日になりそうだ。
しかし1時間もすると雲が張り出して空を覆ってしまった。
今日は大寒だという。暦通りの寒さになる。

新春お茶会というわけで、食事が出た様で、おこわを振る舞われこちらまでそのおこぼれにあずかる。
午後は風も出てとても外に出る気はしない。
家内は東京の娘にどこへも行かないよとことわったという。やはり体調に自信がないらしい。

1月22日(火)曇
どんよりと霞深い空模様。朝の気温は3度から始まったが、さほど上がる気配はない。

今日、私もとうとう満88歳になった。若き日には夢にも思ったことの無い年齢である。
若い時あれほど元気だった母が、80歳になった時珍しくて、兄弟が集って祝ったことがあったが、その年だったか脳梗塞で倒れ、病院や老人ホームを出たり入ったりの生活となり、リハビリも及ばず十年近くの闘病生活の後、満88歳直前の1986年3月15日黄泉へ旅立った。享年は89歳だったが、米寿を満たすこと3月及ばなかった。

私の先祖に米寿を超えた人がいたかどうか記憶に無いが、少なくとも希少価値に属するらしい。
別に努力したわけでないので、神が与えてくれた恩典に過ぎないが、ただの米寿でなくてまだ歩き回れるし、こうしてパソコンもいじれるし、読書もまだ大いに進んでいる。運命の不可思議と言う以外に無い。

反対に財産は空爆に潰え、残りはだまし取られ、事業は皆うまく行かず、現在は生まれたままの姿でこの世に存在しているに近く、なにもかも幸福な人生だったと言うわけではない。
しかしまあ欲を張ってはいけない。なにもないという幸せも世の中にはあるということを悟らなければならない。

おやつに家内が先日スーパーで買って来た、甘酒を温めて呑ます。これが実においしい。米麹が沢山混じって、コップいっぱいで最後までフーフーいいながら呑む。何十年か昔国東半島の磨崖仏に参詣した時、下の茶店で呑んだ甘酒をふと思い出した。実においしくて、それ以来甘酒党になってしまったのだが、滅多においしいのにはお目にかかれないので、いつも期待して呑んではこぼしていたところだった。

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2008年1月23日 (水)

古い電気カミソリ

1月23日(水)曇
昨夜の雨は上がっているが、まだ不安な天気.気温は4度。比較的暖かい。
8時横山君から電話、明らかに風邪の声。風邪を引いて出られない.今日の会合はやめだという。
仕方ない別の日にしよう。気をつけろよと言って電話を終わる。

久しぶり街にも出ようと思っていたが中止にする。
中国新聞によると、家のすぐ後の山の上の方にある”蛇の池”が一昨夜凍結したと報道している。
そんなに寒いと思わなかったが、津田ではマイナス3度だったというのだから、極楽寺山の北側あたりまで寒気団が襲ったのかも知れない。一キロの差が明暗を分けたわけだ。

家内が買い物があるから、近くのデパートに行こうと云う。
何故だかお客が多い。廉価販売でもやっているのかもしれない。大体チラシなどは目もくれぬ方だから、こんな時には原因が皆目分からない。

来たついでに、先般デオデオに行った時品切れだった、シェーバーの替刃を捜して山田電機に移動する。人いきれに酔いながら捜す。
辛うして小さなコーナーに並んでいる中から、予め手帳に記していた記号番号を便りに捜す。
10分ぐらいで外刃、内刃をやっと探し出す。何しろ古い器械なのでもう無いかと思ったが、内刃の方は一つだけ残っていて助かった。もう内蔵の蓄電池は使えないが、コンバーターが使えるので、本体を捨てるのが勿体なくて、今度で4回目の替刃交換である。
ここ2、3日切れ味が悪くなって、毛を噛んで痛かったりしていたので、どうでも無ければ本体を新しく買うしかないなと思っていた。ほんとに助かった.帰宅してすぐ交換して試みるといい音がして切れ味も良い。

人が多かったので疲れて、ふらふらしながら帰宅する。88歳を超えるとやはり人並みではないなとよく分かる。自信の無さそうな運転だったかも知れない。

日頃元気な横山君が風邪でダウンした。早く治ってくれればよいがと人ごとではない。Hebinoike

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2008年1月24日 (木)

旧友との会合

1月24日(木)曇
朝気温3度。空一面灰色にて何も見えず。島々も霞のあなた。いつもの風景。

昨晩から昨年の家計簿の集計を始める。我が家では私と家内とがそれぞれ家計簿をつけている。だから年に一度集計しなければ、どんな風にかかったかわからない。もうずっと昔からそうしてるので、乏しいながらの家計の推移がなんとかわかるわけ。
まだ郵便局の通帳記入が年末まで終ってないので、それを済まさないと正確な数字は出ない。
まあ例年2月になってから結了する。昨日確定申告用紙も送って来た。これでやる気も起きるわけである。

10時半頃横山君から突然電話がかかり、具合がよくなったから今日昼例の所で会おうという。
OKして直ぐ出ようとしたが、家内も一緒に行きたいという。しかし信金の店員さんに今朝来る様に電話しているので、待たねばならないという。仕方なく待って、11時20分やっと家を出る。
やはり2、3分遅れたけど何とか間に合う。

横山君が4、5年前に建てたマンションの会計の事で相談を持ちかけられる。決算上儲けになってないというのだが、確定申告上は1年間で1千万円もの長期借り入れ金が減っているのだから、別に問題は無いというと、彼は7億も掛けたのだから、一千万円ぐらいでは少ないという。細かいことは税理士に相談するのがいいだろうと突っ放す。
大きな財産を持て余している者と、正に財産ゼロの私とでは考え方の開きが大きくて話にならない。
歩くのも以前よりはうんと悪くなって心もとない。頭の方もしっかりしてる様でも少し理解がし難い面があるようだ。それでも息子が大学まで出てるのに経理が出来ないとしきりにこぼす。親子の考え方のずれが、他人なりとも気になって来る。困ったものだ。

デオデオに廻ってiWok 08を購入する。テスト版を使ってみてNumbers 08がまあまあ良かったので買う気になった。
Exelでもいいのだが、どこか煩わしいところが気になっていたので、代わりに使いたいと思っている。
顧客招待売り出しの前の日だから、閑散として楽に買い物が出来る。

3時には帰宅する。小雪がちらちら行く手に舞っていた。1時間ばかりぐっすり眠る。

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2008年1月25日 (金)

我が家の財政


1月25日(金)曇
家内が洗濯機が洩れ始めたというので、見てやるのだが原因が分からない。
給水管の接続部が悪いのでは、外してパッキングの様子を見ると、もう13年も経っているのでへこんでいる。これだと直しにかかったがどうしてもとれない。
諦めて業者に修理してもらうことにしデオデオを訪れる。

ところがいろいろ聞いてみると、給水管は全機共通であって取り替えればすむことがわかり、交換法を教わって部品を買って帰る。
帰宅して直ぐ取りかかったが、素人にはなかなか難しかったがともかく説明通りやって何とか仕上がる。結局半日つぶれてしまう。

疲れて午後はしばらく午睡。
夜家計簿を締める。食費だけは不思議に変わらないが、他のものは大分異動が激しい。
特に交際費は葬式も多くなるし増えるばかりだ。税金関係も減りはしない。
所得は変わり様が無いのでだんだん苦しくなるかなと思っている。
医療費もぐんと増えた。大した病気はしていないのにどうしたことだろう。
ともかくも一年纏めてみると、国の財政と同じで厳しくなるばかりの様だ。


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2008年1月26日 (土)

身体髪膚これを父母に享く


1月26日(土)曇
鞠子から久しぶりに電話が入る。腕の具合は大分良い様でほとんど自由に使っているという。ただ医者は無理すると又折れたり皹が入ったりするから、用心する様にくどくいわれているとのこと。ところでまたダイダイをもぎに来いというので今日行くことにする。

家内と二人で11時前車で出かける。沢山なっているうちから、貰って帰る分だけ3、40個箱につめ、あと暫く家の中で病気や腕の事など話す。
昼食を食べに、誘って駅前のホテルグランヴィアまでゆく。中の瀬戸内で定食を食べる。

2時頃までいて、中山まで引き返し、スパークで買い物をして、彼女を家に送りそのまま帰宅する。
かなりの距離を乗ったのでいささか疲れる。4時頃から6時までベッドインということになる。

何より妹が明るく元気なので、驚きながらも安心する。義弟の死は却って彼女を苦労から解放し改めて生きる喜びを感じ直さしたのだろう。

そのうち田舎の家や畑の維持管理に前にも増して精出すことになるだろう。
おふくろの勝ち気な性格をそのまま受け継いだような性格だから、今まで以上に兄弟は振り回されることだろう。くわばら、くわばら。

身体髪膚これを父母に享く、これを傷つけないことが孝行の始めだと聖賢は説いたが、小さいときならいざしらず、此の歳になると親を超えた年齢だから、孝行でもなんでもない。
がしかしこの身体髪膚与えてくれた父母にどれほどのお礼をしたらよいか、聖賢の言葉は聞かない。
兄弟姉妹4人皆元気で今回の様な時に怪我をするけど、動き回りしゃべり回り、溌剌と行動している。ほんとに立派な身体を与えてくれたものだ。心から改めて両親にお礼を言いたい。

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2008年1月27日 (日)

国技の心配


1月27日(日)曇
高曇り、気温1度。雨の心配はないが、気温は上がりそうにはない。
大阪国際マラソンは福士が前半新記録ペースデ飛び出したが、42キロの長丁場30キロを前にスピードダウンとやはりスタミナ切れで後退、野望を達成することは出来なかった。
素人の私にもマラソンを走る難しさがよく分かった。

本日の白眉は何といっても、大相撲の両横綱白鵬、朝青龍の蒙古勢の相星決戦であろう。
勝負そのものも正に横綱相撲と言われる通り、文句なしのもので力を出し切って白鵬が上手投げで、朝青龍を豪快に投げ飛ばした。

この場所もだが、蒙古出身者の活躍が場所を殆ど独占し、僅かに日本人では稀勢ノ里の頑張りがあっただけで、淋しくてならない。蒙古の国技がそのまま日本のそれに取って変わった感じである。このままどの場所も蒙古や外国人に優勝をさらわれるということになると、政治問題とか、その他の問題提起にまでに発展しなければよいがといささか心配だ。

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2008年1月28日 (月)

役立たなかった人間


1月28日(月)曇後雨
朝気温1度、午前中は何とか持ったが、午後には霙まじりの雨になる。凄い寒さ。とても外に出る気になれないのだが。

一昨日届いた書留郵便、配達通知の紙切れ持って取りに行きたいが、この天気ではとその気になれない。家内がいち早く電話して午後配達してくれと頼む。
この寒空を先方はそれが職業とあって届けてくれる。すまんなー。

降り続く霙がやがて雪になり、夕方には見渡す限り白銀の世界と化す。
家の回りは、もともと人の出入りの少ない所だから、こんな状況ではひとっこ一人見えない。
静かに夜の帳があたりを包んで行く。雪明かりが自然界をうっとりさす様に薄墨色に照り映えさせている。
部屋の中では今ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の緩徐楽章がゆっくり奏でられている。
外の世界を忘れて、ほんとに気持ちいい瞬間である。

今日鳳陽会報132号が配達される。冒頭に新東亜経済研究所竣工の記事が写真入りで掲載されている。学生時代大いに啓発され鼓舞された研究所である。現在では往年ほどの理念の昂揚はないと思われるが、昔に帰ったようで懐かしく嬉しい。
同窓諸兄の貢献による建設と聞くが、良い心がけを持ち続ける同窓が沢山いることはほんとにうれしいことだ。しかし力不足で一臂も担えない我が身が情けない。
今号では消息欄に同期では鈴川君の死去が唯一伝えられている.後輩に数多くの馨香簿入りをみるのは残念である。

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2008年1月29日 (火)

平和ぼけ


1月29日(火)曇
雪が薄く積もって銀世界の朝、気温2度でちょっと寒い。雨にでもなりそうな気配。
ゆっくり起きるので、朝はまたたく過ぎて行く感じ。
通勤、通学の人々は大変だなと、往時を懐いしのぶ。

曾野綾子さんのコラムが昨日のサンケイに載ってたが、私も同感だ。
何時の場合でも、彼女の意見に賛同することが多い私だが、昨日の”怠け者で理解力のない日本人”は正にその通りだ。

一月のうち三分の一を休むなんて馬鹿げている。土曜日を休みにし、祝祭日を増やし、代休休みをつくり、政府が率先して国民にこびへつらっている。
当然給料は減るだろうし、休みが多くても使う金がない。給料単価は高くなるから、市場価格も高くなる.景気が良くなるわけが無い。凡そ考え方が逆なのではないか。

おいぼれの私がもの言っても、実行出来ない現状では説得力は勿論無い。
しかし若き日を思い返すと、勤労報恩の精神などは昔に較べて比較にならないほど低下しているのではないか。勉学にしてもそうである。国際学力比較でも昨今は中以下をさまよっている状態だ。あまりにも情けない。
国技の相撲にしても蒙古の人に及ばない。怠けていたのでは何事もうまく運ぶわけは無い。
極小数のプロ野球選手に拍手を送っているだけでは、自分の目指す仕事は成就しないのである。

思うに戦後六十余年の太平が国民の生活意欲を蝕んだとしか言いようが無い.徳川三百年の太平が幕末危機を招来した様に。

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2008年1月30日 (水)

スパイ衛星

1月30日(水)曇
毎日同じ様な朝。但し雪は跡形なし。
昨夜身体が痒くて苦しんだ。全身が痒くて掻けば益々痒くなるいつものパターン。
半分寝られなかった感じ。
この痒いという現象は、原因を特定出来ないだけに困る。いつも同じ様なものを食べ、活発に動き回る事もない。もっとも乾癬が何事も尾を引いている事は感じているのだが。

9時過ぎにはうす雲を通して太陽がかーっと照りつけて来る。良い天気になるのかな。
1時間もせぬうちに雲が張り出してきて、寒くなる。

雨や雪にはならなかったが、とうとうこの調子で日が暮れて行く。
ヘルチェゴビナとの親善サッカーは後半3点をもぎ取って何とか面目を保った。岡田監督もほっとしたことだろうが、ファンのこちらもやれやれと一息ついた。

昨日も言った事だが、ハンドボールも負けるし、サッカーも負けたのでは、日本人はどうなってるんだと夜も眠れなくなるところだった。しかし日本人は強くないなあ。

CNNの報道によると、アメリカのスパイ衛星が落下して地球のどこかに衝突するおそれがあるので、対策を急ぐ必要があると伝えている。
大気圏で燃え尽きる様なものならいいが、本当に衝突して被害が出るなどということになると又世の中が騒がしくなる。金融恐慌のつぎは衛星衝突となると、日米同盟も安心出来ないということだ。

各都道府県で使い道が決まっているのに、ガソリン税の徴集はやめるとはどういうことか。
岩国市みたいに間違いなく入るからと庁舎を改築したのと同じ事だ。
行き当たりばったりの、庶民の台所始末のようなことを、エリートと呼ばれる人たちにやってもらいたくない。腹立たしき限りである。

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2008年1月31日 (木)

不思議な水

1月31日(木)曇
朝一番に岡本さんに電話して、EMXを10本注文する。
在庫してるというので、9時過ぎ出掛けてもらって来る。製品がバージョンアップされて、見かけも内容も少し変わったが、値段は変わらない。

水よりももっと無味無色な不思議な飲み物である。気は心で利くのかも知れない。
朝3度で普段より少し暖かい感じだったが、昼には日が照り始めて部屋の中は益々暖かい。

昔の日記を見ると、昭和16年(1941)の今日図們を通過して、満州国に入ったと記してある。
26日に宇品港を離れた軍用船がうろうろとどこを走っているのか分からないうちに、昨日朝ガリガリと氷を砕く音に目覚めて、デッキに上がってみると、小さな建設途中らしき港に入って行った。聞けば朝鮮の羅津だと答えが返った。
清津なら教科書にも出てくる朝鮮日本海側最大の港だから知ってはいたが、羅津は始めて聞く名だった。そこで軍用列車に積み込まれ、予想通りソ満国境に行くのだなとはっきり分かった。
軍用列車とは荷物貨車のことである。窓も無いし、座席も無い。筵が敷き詰めてあってごろ寝するだけの旅行である。

日記には軍の陣中日誌記載通り載せてるだけで、その時の実感は勿論無い。来る日も来る日ものろのろ走る列車のきしむ音を聞くだけで、ときどき停車してドアを開けてくれる。便所をしろ、飯を食えと命令が出る。飯は飯盒に分けて貰い、便所は近くの草むらを捜すのである。

どこまで連れて行くのかと思っていたが、三日目の昼頃野原のど真ん中でサー着いた皆下りろとドアが開放される。2月3日満州国密山県斐徳到着と記載されている。
列車は斐徳駅に着いたわけではない。駅を通り越して野原の真ん中であった。
平行した道路に沢山のトラックが我々を待機していた。

予め区分された通り、順番にトラックに乗せられ、ものの数分もかからぬうちに兵舎に運び込まれた。新兵さんの涙のラッパ廻しの生活が始まるわけである。

この頃の当地の気温は零下20度くらいだったろうか。勿論気合が入っているから寒さは感じなかったと思う。
遊びに行く所も無さそうだし、見えるは一面の荒野と点在する兵舎だけである。
内地で見ていた軍隊とあまりに違う環境に愕然としたというのがその時の実感であろう。

(地図の緑色の部分は湿地帯、密山=Mishan 、斐徳=Peide いずれも現在の地形です。ソ連は東方約40km)

Mishanpeide

午前中に三隅の土田君から電話がかかる。さざん会の事で水戸君から電話あった由で、一応下調べに新山口に行こうと云う。新山口駅で8日午後3時に落ち合う事になった。
近所のホテルに当ってみて予約することにする。
昨年よりまだ早くなるからせわしない事だ。大分先の6月20日の予定だからなあ。

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