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2008年1月21日 (月)

61年前の今日

今から61年前の1947年即ち昭和22年の本日は刀折れ矢尽きて、東京退散を思い決めた日であった。

南京で喀血し、帰国後空爆で廃墟のごとき我が家にやっと辿りついたのが,昨年6月8日。
惨状を前に辛うじて生き延びていた母に、どうして肺結核を訴えることが出来よう。
どうせ戦死を免れたこの身、このまま倒れたとて故国の空の下、なんの不足があろうかと、今日病がひどくなるか,明日は喀血するかと思いながらも、黙々と我が家の復興作業に汗を流した。

その内よく食らい、よく労働するので、まだ若かった身体は次第に元気を取り戻し,病気を克服したかに見えて来た。
しかし収入がなければ、一家は共倒れになるは必定、職を得るには東京に行くしかないと悩みの末思い定めた。
別にしかとした当てがあったわけではないが、連日戦友たちから来る手紙を読むと、流石に東京は首都,復興の足跡が一際高く感ぜられ職を得る道は簡単に思われた。(戦友の殆どが東京付近出身の兵隊ばかりだった)

当時食料事情から、生計の立たない者は入京出来なかったので、入京の手段として、誰かの示唆で、一旦何処かの学校に入学して,学生としての入京を思い立った。
こうしてたまたま10月新入募集をしていた国際外国語専門なる学校に応募したら,入学許可が来たので、母を説き伏せ9月の末に上京した。寮が用意されてるというのだったが、これが6畳間に6人押し込まれた。寝るのがやっとで、荷物や本机の置き場など全然ない。電灯も部屋に裸電球一個で、電力不足の当時だから、60ワットでも蛍の光の明るさしかなかった。従って夜になると勉強も出来ない。(もちろん勉強するつもりは無いので構わないのだが)

そこで就職活動する間に,知人の山県さんを何度か訪ねているうちに、窮屈でも良ければうちに来いよと言われ、厚かましくも転がり込んでしまった。昔子供時代に近所に住んで居た人で私より4歳年上の兄貴の様な人だった。
その人と枕を並べて寝起きするわけだった。

そのうち間もなく進駐軍のCCDという所に外務省嘱託として採用され、10月の終頃から東京駅前の中央郵便局の三階にあったCCDの現場に大井町から通勤を始めた。仕事の内容は産業関係の手紙の翻訳であった。

それからの2、3ヶ月これは実に楽しい,快適な勤めであった。日本とアメリカの休日がダブり、入浴その他のサービスは行き届いていた。作業時間はきっちり8時間で残業などは勿論無かった。ただ食堂はまだ無かったので、外食しなければならなかった。そのうち神田の闇市場を見つけてそこへよく通った。

間もなく12月になり、寒くなったせいか、病気が亢進し始めた。やたら咳が出たり,痔の具合が悪くなって通勤に苦労する様になった。
丁度同居の友達の長兄が新宿の鉄道病院のお医者さんで担当日の昨日(1月20日、丁度月曜日)だったので診察を受けに出かけた。

結果は再発ということであった。食料事情の悪い東京で生活するのは健康によくない。田舎に帰っていい空気の中で、栄養を付ける以外に途がないと、まだストレプトマイシンなどいい薬の無い時代だから当然の忠告を受けた。
下手をすると命を失うことになるかもしれないとも言われた。命は惜しくなかったが、友人やその家族に迷惑をかけることは出来なかった。
もはや鴻鵠の志もむなしかった。

CCDに診察書を提出し、退職手続きをまず済ませ、友人安藤のアゼリア開店に呼ばれていたのを断ったり、切符を買いに行ったり、朝から大騒ぎをしてやっと夕方落ち着いたところだった。
切符は簡単には手に入らずやっと25日の急行券が取れた。

奇しくも今日は私の誕生日の前日ということでもあった。

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