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2007年7月 1日 (日)

原爆とソ連参戦

7月1日(日)曇
いつものどんよりした梅雨空。でも雨にはなりそうにない。

一昨日の室戸行きのビデオを編集するため、パソコンに取り込む。
奇妙にバスの窓越しの風景が飛ぶ様につながる。とうとう20分ほとんど停止画のないビデオが出来上がってしまった。中程に2、3分モネの睡蓮の池がじっくり座っているだけである。
行く前から遠い四国の端まで行くのだから、バスの中の時間がほとんどだとは覚悟していたので、そのつもりでカメラを回したのは予定通りなのだが、こんなに終始窓越しばかりとは気がつかなかった。
サイドの窓からの風景は移動が激し過ぎるし、路側の樹木や壁ばかりが邪魔してくれるので、助手席前のフロントガラスからの覗きが半分を占めることになった。
前から8番目の座席だから、もう後方に近い。望遠もいいところだ。
画面は揺れに揺れる。途中で気分が悪くなったりする。

肝心の室戸岬のムービーは全然ない。というのはトイレ休憩を兼ねてたので、ビデオカメラを車に置き忘れた。
僅かな時間しかなかったので、勢いデジカメばかりで大急ぎで海岸の浸食された岩石群を写した物ばかりを、読み込んでつなぐことにした。
ついでに中岡慎太郎の銅像も入ったが。
他人が見たら全くつまらないビデオに違いないが、自分ではいっぱしの記録のつもりである。まあいいか。
こんなのもあるということ。

ところで又又久間発言が問題化している。私は完全に久間発言に同意見であるが、その本旨はソ連の動向についての考え方が根幹にある。
昭和16年6月の独ソ戦開始当時、私はソ満国境の部隊に居た。翌月関東軍特別大演習なるものが発令された。
一種の動員令である。私も新しく動員された部隊に配属され、もう間違いなくソ連と戦いになると覚悟した。
しかしそのままうやむやになり、一向に動く気配は見えなかった。
どうやら既に発効している日ソ不可侵条約が邪魔してるらしいと聞こえて来た。
百万の動員部隊は釘付けのまま大東亜戦争勃発まで現状維持を続けた。
ソ連は安心したか、兵力を欧州に転進させ、ドイツを打ち破ることに成功した。
そして昭和20年である。日本は沖縄を失い、敗戦を覚悟してソ連に停戦の斡旋を盛んに打診していた。
米国がなかなか抵抗をやめない日本に対して、終戦を早めるため原爆を落とした。これを見るやソ連は条約を破棄し宣戦布告して満洲や樺太千島に侵入して来た。
どちらも日本敗戦間違いなしと見ての、戦後利得を計算しての参戦であり、原爆投下であった。
8月15日の無条件降伏は正に一歩遅い決定だった。ソ連の参戦は降伏後も延々と続いた。
北海道は正にその蹂躙下になる寸前だった。米国側からの抗議でようやく止まった。まさに俗にいう”分捕り合戦”になるところだった。
ドイツの最後と同じである。ドイツは分割されたが、日本は僅かにそれを免れた。
米国が原爆と真珠湾攻撃をタイに見ていることは賛成しかねるが、ソ連の参戦と原爆は明らかにその真意が読み取れる。久間大臣の発言通りであるし、私はおそらく日本は4分割され、今の朝鮮の状況以下の状態が続いていると見ている。
いや韓国も存在しないかもしれない。
満洲百万同胞引揚げの悲惨も、20万関東軍兵士のシベリア送りも、全部ソ連の仕業であり、こちらにもう少し国民の目を向けなくてはいけないとすら思っている。

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