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2007年7月10日 (火)

父のこと(つづき)

父のことをもう少し書いておこう。
今日書くことはほとんど母などから聞いて憶えていることである。だから正確な所はわからない。
1881年に父は男4人女1人兄弟の三男として生まれた。
村の小学校では成績はいい方だったらしい。特に算術は得意だった。後年私がお世話になった村井先生(私の小学校6年間校長だった)から父と同級だったが、いつも成績上位を争ったと言っていた。
1902年米州移民募集に応じ、渡米した。
途中難波したかどうかで、メキシコ海岸に漂着し、鉱山労働者として使用される。
酷使に耐えかねて、友人と2名で脱走する。
米国との国境メヒカリで、棉栽培の労働者として職を得る。以後ここに定住する。

生活が安定して来たので、1918年母と写真結婚する。母は日本から渡航する。(母21歳)
当時父は綿花畑三千エーカーの支配人として仕事の全部を委されて、沢山の支那人やメキシコ人を使っていた。
馬に乗って見回りしていたと母が言っていた。
1920年1月私が出生。
1922年家族全員で一時帰国。業務は日本から呼び寄せた、甥(長兄の長男)と母の弟の二人に委託して。
1924年家を新築した。もちろん分家としてその父から分譲された土地の上に。
工事のとき5歳だった私が請負の大工棟梁などとたき火を囲んで何かを食べたことを覚えている。
建築が終わった後、その家に母と私と弟妹を残して、父のみ単身で再渡航。
この際、建築用の宅地のことで、父と長兄との間で紛争になり、父は怒って本家の大黒柱を斧で切ったらしい。
傷跡が後年も残っていた。このことをきっかけに再渡航したようでもある。
1930年4月父帰国。業務は甥などに譲渡して帰り、二度と渡米することは無かった。土地をあちこち買い増しして、本格的に農業を開始した。

黙々と口数少なく、朝早くから夜遅くまで、仕事に明け暮れていた。メキシコでどれほど苦労したかはしらないが、
家を建て、土地を買いあさり、国債まで随分持っていた。独力でともかく稼いだのだろうからただ事ではない。
母からはその内容は全然聞かされなかったから私にはわからない。
計算高かった父の真骨頂がこんなところにあったのかもしれない。

中学校の何年の時だったか忘れたが、新聞かなにかの本に鶴亀算の問題を出ていて、どうだこれが解けるか解いてみろと学力を試されたことがあった。算術は習ってなかったから、結局代数で解いたけど、親父の算術には遥かに及ばなかったことがあった。
当時不思議な気がしたものだ。そして学校にも行かない父が、言葉の違う異国でどうどうとやり遂げて来た生活力の根拠が何となく分かった。

そういえば、ひとりごとの様にちょいちょいスペイン語が飛び出した。30年近く向こうで暮らしたのだから無理も無い。来客などよくまごついていたことを思い出す。
もちろん私にも分からなかった。聞いても教えてくれることもしなかった。なんでも自分で勉強しろだった。

私が10歳のとき帰国してすぐ頼んで新聞を取って貰った。当時はよみがなが振ってあったので、小学生でも読むことが出来た。私が字を憶えたのは主に新聞からだろう。学校の教科書を遥かに超えていた。
父も熱心に読んでいたが、その側で私も熱心に読んだ。意味は直ぐ聞けたし、父にも分からない場合はどこかで聞いて来て後で教えてくれた。
父子のふれあう時間は朝のほんの一時だけだった。その時以外はいつも野良にあるか、二頭の牛舎にいるかで、会話はなかった。
父は牛が凄く好きだった。いつもじっと牛の側に佇み、或は語りかけ、或はブラシをかけ慈しんでいた。
牛を肉牛としてばくろうに売った時など、別れの引かれ行く牛がふりかえり、ふりかえり、涙を浮かべてたのを見たことが何度かあった。そして新しい子牛を買いに何時間もかかる、遠くの市場まで行き、一緒に口綱を引きながら、へとへとになって帰宅したことも何度かあった。このときは父と息子であった。小さいながらも多少は頼りにしてくれたに違いない。

尤もこれは小学時代の話で、中学時代はめったに話し合うこともなかった。仕事の手伝いも田植え、刈り入れの繁忙時以外はお呼びがなかった。私はただ勉強すればよかった。実際はほとんど図書館からの借り入れの小説など手当り次第の読書だったが。読書は小学校以前からの習慣だったことは、いつかの日記にも詳しく書いている。

父と母は年齢も親子程違っていたので、愚痴を言ったりするのは母ばかりで、父はそれに口答えするすることは一切無かった。すくなくとも一度も憶えていない。返事もあまりしない父だった。自分から話しかけることがないのだから、どこにいるのか意識出来ないくらいだった。
子供のときカリエスを患い、背中が少し湾曲していたが、爾来健康で、病気で寝たなど記憶がない。
ただ少し耳が遠くて、会話は少し大声になった。
だから家の回りで誰かと話すとよく声が聞こえてきたものだ。甲高い声で通りはよかった。

怒鳴り声は刺し通す様な声で迫力があった。何か怒ったりすると、訳の分からん外国語で怒鳴るので、相手はいっぺんに恐れ入っていた。もちろん年に一度か二度の体験に過ぎないが。しかし大変可笑しかったことをよく覚えている。

中学時代、私の学業成績など口出ししたことはない。ただ4年生のとき、数学の先生が是非広島高等学校(旧制)に受験さしてやってくれと親父にある夜頼みに来たことがあった。
親父は例の通りぼそぼそとそんなに言われるのならと承諾した。結果は数学だけ良くても、動植物学が全然出来なくてすべってしまったが。口頭試問まで含めると一週間かかる大変な試験だった。
独力で自分の道を歩いて、外国まで経験した父は、死ぬる時まで、子供の将来に口を添えたり差し挟んだりしたことはなかった。子供の試験などその後も干渉は一切しなかった。母に任せきりにしたとも言える。
母もそうしたことに教訓を垂れる程の素養は無かった。

前回書いた様に昭和14年秋深く最初にして最後となった父の病床の姿を見た。もう意識がなく語り合うことは出来なかった。
いまだに父がその後戦後まで生きていたならという状態は想像出来ない。

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