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2007年7月 1日 (日)

原爆とソ連参戦

7月1日(日)曇
いつものどんよりした梅雨空。でも雨にはなりそうにない。

一昨日の室戸行きのビデオを編集するため、パソコンに取り込む。
奇妙にバスの窓越しの風景が飛ぶ様につながる。とうとう20分ほとんど停止画のないビデオが出来上がってしまった。中程に2、3分モネの睡蓮の池がじっくり座っているだけである。
行く前から遠い四国の端まで行くのだから、バスの中の時間がほとんどだとは覚悟していたので、そのつもりでカメラを回したのは予定通りなのだが、こんなに終始窓越しばかりとは気がつかなかった。
サイドの窓からの風景は移動が激し過ぎるし、路側の樹木や壁ばかりが邪魔してくれるので、助手席前のフロントガラスからの覗きが半分を占めることになった。
前から8番目の座席だから、もう後方に近い。望遠もいいところだ。
画面は揺れに揺れる。途中で気分が悪くなったりする。

肝心の室戸岬のムービーは全然ない。というのはトイレ休憩を兼ねてたので、ビデオカメラを車に置き忘れた。
僅かな時間しかなかったので、勢いデジカメばかりで大急ぎで海岸の浸食された岩石群を写した物ばかりを、読み込んでつなぐことにした。
ついでに中岡慎太郎の銅像も入ったが。
他人が見たら全くつまらないビデオに違いないが、自分ではいっぱしの記録のつもりである。まあいいか。
こんなのもあるということ。

ところで又又久間発言が問題化している。私は完全に久間発言に同意見であるが、その本旨はソ連の動向についての考え方が根幹にある。
昭和16年6月の独ソ戦開始当時、私はソ満国境の部隊に居た。翌月関東軍特別大演習なるものが発令された。
一種の動員令である。私も新しく動員された部隊に配属され、もう間違いなくソ連と戦いになると覚悟した。
しかしそのままうやむやになり、一向に動く気配は見えなかった。
どうやら既に発効している日ソ不可侵条約が邪魔してるらしいと聞こえて来た。
百万の動員部隊は釘付けのまま大東亜戦争勃発まで現状維持を続けた。
ソ連は安心したか、兵力を欧州に転進させ、ドイツを打ち破ることに成功した。
そして昭和20年である。日本は沖縄を失い、敗戦を覚悟してソ連に停戦の斡旋を盛んに打診していた。
米国がなかなか抵抗をやめない日本に対して、終戦を早めるため原爆を落とした。これを見るやソ連は条約を破棄し宣戦布告して満洲や樺太千島に侵入して来た。
どちらも日本敗戦間違いなしと見ての、戦後利得を計算しての参戦であり、原爆投下であった。
8月15日の無条件降伏は正に一歩遅い決定だった。ソ連の参戦は降伏後も延々と続いた。
北海道は正にその蹂躙下になる寸前だった。米国側からの抗議でようやく止まった。まさに俗にいう”分捕り合戦”になるところだった。
ドイツの最後と同じである。ドイツは分割されたが、日本は僅かにそれを免れた。
米国が原爆と真珠湾攻撃をタイに見ていることは賛成しかねるが、ソ連の参戦と原爆は明らかにその真意が読み取れる。久間大臣の発言通りであるし、私はおそらく日本は4分割され、今の朝鮮の状況以下の状態が続いていると見ている。
いや韓国も存在しないかもしれない。
満洲百万同胞引揚げの悲惨も、20万関東軍兵士のシベリア送りも、全部ソ連の仕業であり、こちらにもう少し国民の目を向けなくてはいけないとすら思っている。

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2007年7月 2日 (月)

アルツハイマー病

7月2日(月)雨
朝どうやら本格的な雨。
家内は立ち居が難しくなったお茶に出かける。もう止めなければと口癖の如く言う言葉を聞きながらも、また相変わらず出かけて行く。良くなるか悪くなるか先の保証はない。
今日の雨はだんだんひどくなる。

大阪の水戸君が私のメールを見て、食欲不振を心配して、気づかれからだろうといって素麺を送ったとメールをくれる。
彼の癌を気遣って、こちらばかり元気では嫌だろうからと食欲不振などと調子を合わせたのに、見舞をくれたりしたのでは却って困っちゃうな。
まあいいか。先短い老人同士、なんでも話し合える時間が出来て嬉しい。

家内もなんとか気力でお茶会の相手をしてきたらしい。
夕方には雨は上がる。東に去ったかな。

昨夜の「明日の記憶」というテレビ映画を録画したので、改めて家内と一緒に見る。
遥かに若い年齢の人のアルツハイマー病テーマの映画だが、癌も嫌だが、これはもっと怖いなと寒気を感じながら全部見終わる。渡辺謙、樋口可南子の名演が光る。
老人痴呆が眼前にぶらさがっている私らだけに思いは複雑である。生きるということは簡単なことではないな。

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2007年7月 3日 (火)

核家族で良いのか

7月3日(火)曇
灰色の雲を透して日が射し込む。蒸し暑さ限り無し。
東京の娘から岡山の白桃を送って来る。東京の中元は1ヶ月早い。

Mac Fan誌の定期購読の請求が来ていたので、郵便局に払い込みに行く。
ついでに近くのスーパーでパン牛乳ジュースなど買い込んで帰る。決まりきった物なら私でよい。

家内の健康がこのところ大変心配だ。
昨年までは意気軒昂で、海外旅行を何件か計画していたのに、現状ではどこにも行けないと弱気である。
昨年末折角旅券も更新したが、今の所役に立たない。
本人も一生懸命努力している風だが、80歳近くなるとなかなか思う様に効果が上がらない。
じーっと我慢してると、努力するより却ってよくなることが多いのだが、(私の経験では)なかなかアドバイスしにくいものだ。何もするなといううわけだから。
さしあたり、去年から計画していた、カナダや韓国行きは断念したという。
これらは娘同伴の計画だったから、娘もがっかりだろう。
老人は二人揃って元気でなくては何にもならない。揃って一人前だが、揃わねば0人前以下になるのだから。

私の友人連中で家内に病気をされて、同窓会に出席出来ない者が何人もいた。近くに子供が居ても、核家族社会で子供らも一家の責任があり、それを宛てに出来ないという。子を作ろうにも親が宛てに出来ないお返しである。困った社会になってしまった。

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2007年7月 4日 (水)

久間発言

7月4日(水)雨
昨晩からの雨が梅雨本番らしくしとしとと降り続いている。
湿度は80%以上あろうかというのに、乾癬の痒みが一向に治まらない。
病膏肓に入るという言葉が昔からあるが、膏肓の二字はいずれも皮下脂肪の事である。
膏肓に達した病はもう治らないというのだが、私の乾癬は正にそれだろう。故人はいみじくも簡明に表現してくれている。えらいものだ。

家内はマッサージを受けに己斐に出かける。雨がひどくなったので電停まで車で送る。
目の調子が悪いので眼科にも寄ってみると言ってたが。帰りは昼過ぎか。

久間防衛大臣が辞任した。言葉の一部だけを取り上げられて、責任を取らされる。言論の自由を逆手に取っての暴力である。仮に原爆の御陰で戦争が終わったと言って言い過ぎと言えようか。昭和天皇を始め大部分の国民はもう駄目だと思った筈だ。3番目の原爆はもう嫌だと思ったに違いない。
また米国も終戦を早める為に、原爆を使わずに沖縄戦、硫黄島と同じ様に上陸作戦をしたならば、自己の損害も少なくては済まないと勘定していただろう。
もし手を緩めたなら戦闘態勢の整ったソ連軍に漁父の利を得られたことは間違いない。全力を挙げて戦って来た米国としては何としても独力で止めを刺したいと思うのが当然である。
ドイツでは一番乗りで先をソ連に超され、今度又東京で両軍握手では米軍の分が悪過ぎるだろう。
北九州、京都などは次の投下目標だったといわれる。これでもかと手を緩めるわけには行かない。
米国に取っては一番安上がりな手段である。
素人でも分かりそうなことである。
原爆を使われたのはほんとにしょうがなかった。一介の私でもその通りだと思う。

軍艦は大和が沈められて、もう残りは居なかった。そこで手を上げて当然だった。先日も言った様に、日本が頑張り過ぎたのが一番悪かった。
久間君が発言を撤回して辞任しても、私の考えは変わらない。

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2007年7月 5日 (木)

昭和天皇の詔勅

7月5日(木)曇
昨日米国のロバート・ジョゼフ特使が原爆が日本人を救ったと又アメリカ側の認識を発表した。
日本のジャーナリズムはそうでないと反論する勢いだ。
歴史を歪曲せんとしているのはどちらだ。
私は昭和天皇の詔勅を思い起こす、即ち
「世界の大勢亦我に利あらず。加之敵は新に残虐なる爆弾を使用し、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯くの如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せむや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。」
とある。
当時原子爆弾という名前は日本にはなかった。新たな残虐なる爆弾とは原子爆弾であることは間違いない。
天皇を決意させたものは正にこれだった。原爆の惨害は測り知れない。民族滅亡に繋がると仰せられている。
今更あーだこーだいうのはよそうではないか。
数百万の命は救ったかどうかは、勝手に思わすがよい。詔勅の効果がなかったらそうなったかもしれない。徹底抗戦を叫んだ人間は無数にいたのだから。
千島、樺太、満洲のソ連侵略はその実証といえる。戦意はなくても戦争継続の意志が先方にある限り戦争は終わらない。天皇の詔勅は一種の悲鳴であって、味方も敵も正直に受け取らなければ、戦争は終わらなかったであろう。
アメリカがソ連と一緒に攻撃を続行すれば、何百何千万の犠牲は出たであろう。現に私の家も8月14日に爆撃で壊滅した。降伏受け入れの15日までは続いた。ソ連はまだ受け入れていなかったが。
しかし原爆が戦争の区切りをつけたと天皇の意志とともに素直に認めたい。
原爆が残虐なのは事実だが、戦争そのものが残虐なのである。原爆ばかり突出させないで、その根源にまで議論を向けて欲しい。
原爆さえ使わねば戦争はあっても構わないではいけないのである。原爆がなくなれば戦争が無くなるのでもないのである。戦争を絶対にやるなということである。実現は不可能だろうか。

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2007年7月 6日 (金)

日本の絵に描いた原爆

7月6日(金)雨後曇
朝8時半家を出て、広島三菱病院に行く。交通大混雑して1時間かかる。
谷川さんの紹介で、家内の手足の痛みを診てもらう為である。
レントゲン検査などして、結果は別状なしいうことだった。湿布程度で治るとのことだった。
帰路アルパークに立ち寄り食事と買い物をして帰宅。

昨日原爆について色々書いたが、8月6日に落とされる前、既に日本でも完成近いとの情報を聞かされていたのだが、米国に先を越され、ぬか喜びに終わったことがあった。
もし日本が早かったら、逆の立場になったかもしれなかった。

即ち原爆については、大戦末期両陣営ともその実現化に腐心していた。
ドイツは間もなくまでいっていた。戦後すぐソ連がその科学者を捕虜にして研究を成就した。
日本も田中館愛橘博士らがもう少しの所まで漕ぎ着けていたらしい。
私は昭和20年1月下旬、湘桂作戦の末期、戦火の治まった桂林に入った所で、軍の情報チラシでそれを見て小躍りしたことがある。
敗勢を挽回するこれこそが神風になると信じたからである。
豈図らんや一足早くアメリカに先を超されてしまった。
翌年帰国するまでは逆に日本がその原爆でやられていたとは思いもしなかった。
神風が間に合わなかったなとがっかりしいていただけだったのに。

自分が死ぬか相手が死ぬか、戦争は残虐とかなんとか、文学的表現で結論づけられるものではない。
何時の時代でも勝った方が勝ちである。たらは禁句である。
世の中はがらっと変わる。
そこが面白いから人は争う。業なものである。

桂林での同じチラシでサイパンの玉砕も報じられていた。後でしらべると既に半年経っていた。
軍も不利な報道は遅く出したようだ。国民も欺いたが、一緒に戦う兵士をも欺いた。だが肝心な敵は欺けなかった。
やはり負けるべくして負けた戦争だった。

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2007年7月 8日 (日)

筆を擱くべきか

7月8日(日)晴後雨
朝灰色の空から日がこぼれている。晴になるとの予報だ。
こんな休日の晴の日は、逸楽の若者の邪魔をしてはならない。というのが私の姿勢である。

午後にはすっかり曇って来て、時には小雨さえ降り出しあてが狂った感じ。

体調は何となく悪い。家の中にいても暑いのか寒いのかよく分からない。
起きて何か始めると、眠くなる。横になるといくらでも寝れる。
体力も気力も尽きたかな。

くだらぬことばかり書いたのでは、浪費につながる。ぼつぼつ筆を擱ねばなるまい。

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2007年7月 9日 (月)

くるくる気が変わるこの頃

7月9日(月)雨
昨夜から降ったり止んだりしているらしい。ほとんど音も無く静かな雨である。
雨量は知れてるだろうから、ダムもなかなかいっぱいにはならないだろう。新聞もテレビも知らんぷりだから、水不足解消までは行ってないのだろうな。

乾癬が相変わらず痒い。カユミ止めも沢山貰ったのがあるから、時々呑むのだがこれがまた全然利かない。
安定剤みたいなものだろうから、利き過ぎると副作用があったりして困るし我慢するしか無いか。やれやれ。

家内が性懲りもなく、また旅行の話を持ちかけ始める。外国はだめだが北海道は大丈夫だろうと言う。温泉がたくさんあるから温泉巡りをすれば、今なら涼しいし、身体にいいからと都合のいいことばかり空想している。
再三行ってるのに止めとけと、応ずる。
行くとしたら津軽海峡トンネルだと私が言う。ありゃ青森県じゃないかと不服そう。その先があるじゃあないかと、言いかけたが止めとく。口論は後々の為によくない。

家内の買い物のお手伝いして、うどんやに入り昼の食事を済ます。
少しでも手間を省いてやると機嫌は良い。もう80近いのだから無理無いが。

広島でマンション住いの娘が一人殺された。うちの孫はどうしたのか、まだ親元へ帰らないのかというと、今部屋を改装中だという。来月になるだろうとか。
うちは老人二人でこんなに部屋が余っているのに、孫の一人でも使わして貰えないかと頼みに来ないかなあと嘆息すると、そうはいかないよ、それぞれ仕事があるのだから、それに結構心配が増えて大変だよと言う。やはり内心反対のようだ。一人きりになったら、たまらなくなるだろうが、もうすぐだな。

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2007年7月10日 (火)

父のこと(つづき)

父のことをもう少し書いておこう。
今日書くことはほとんど母などから聞いて憶えていることである。だから正確な所はわからない。
1881年に父は男4人女1人兄弟の三男として生まれた。
村の小学校では成績はいい方だったらしい。特に算術は得意だった。後年私がお世話になった村井先生(私の小学校6年間校長だった)から父と同級だったが、いつも成績上位を争ったと言っていた。
1902年米州移民募集に応じ、渡米した。
途中難波したかどうかで、メキシコ海岸に漂着し、鉱山労働者として使用される。
酷使に耐えかねて、友人と2名で脱走する。
米国との国境メヒカリで、棉栽培の労働者として職を得る。以後ここに定住する。

生活が安定して来たので、1918年母と写真結婚する。母は日本から渡航する。(母21歳)
当時父は綿花畑三千エーカーの支配人として仕事の全部を委されて、沢山の支那人やメキシコ人を使っていた。
馬に乗って見回りしていたと母が言っていた。
1920年1月私が出生。
1922年家族全員で一時帰国。業務は日本から呼び寄せた、甥(長兄の長男)と母の弟の二人に委託して。
1924年家を新築した。もちろん分家としてその父から分譲された土地の上に。
工事のとき5歳だった私が請負の大工棟梁などとたき火を囲んで何かを食べたことを覚えている。
建築が終わった後、その家に母と私と弟妹を残して、父のみ単身で再渡航。
この際、建築用の宅地のことで、父と長兄との間で紛争になり、父は怒って本家の大黒柱を斧で切ったらしい。
傷跡が後年も残っていた。このことをきっかけに再渡航したようでもある。
1930年4月父帰国。業務は甥などに譲渡して帰り、二度と渡米することは無かった。土地をあちこち買い増しして、本格的に農業を開始した。

黙々と口数少なく、朝早くから夜遅くまで、仕事に明け暮れていた。メキシコでどれほど苦労したかはしらないが、
家を建て、土地を買いあさり、国債まで随分持っていた。独力でともかく稼いだのだろうからただ事ではない。
母からはその内容は全然聞かされなかったから私にはわからない。
計算高かった父の真骨頂がこんなところにあったのかもしれない。

中学校の何年の時だったか忘れたが、新聞かなにかの本に鶴亀算の問題を出ていて、どうだこれが解けるか解いてみろと学力を試されたことがあった。算術は習ってなかったから、結局代数で解いたけど、親父の算術には遥かに及ばなかったことがあった。
当時不思議な気がしたものだ。そして学校にも行かない父が、言葉の違う異国でどうどうとやり遂げて来た生活力の根拠が何となく分かった。

そういえば、ひとりごとの様にちょいちょいスペイン語が飛び出した。30年近く向こうで暮らしたのだから無理も無い。来客などよくまごついていたことを思い出す。
もちろん私にも分からなかった。聞いても教えてくれることもしなかった。なんでも自分で勉強しろだった。

私が10歳のとき帰国してすぐ頼んで新聞を取って貰った。当時はよみがなが振ってあったので、小学生でも読むことが出来た。私が字を憶えたのは主に新聞からだろう。学校の教科書を遥かに超えていた。
父も熱心に読んでいたが、その側で私も熱心に読んだ。意味は直ぐ聞けたし、父にも分からない場合はどこかで聞いて来て後で教えてくれた。
父子のふれあう時間は朝のほんの一時だけだった。その時以外はいつも野良にあるか、二頭の牛舎にいるかで、会話はなかった。
父は牛が凄く好きだった。いつもじっと牛の側に佇み、或は語りかけ、或はブラシをかけ慈しんでいた。
牛を肉牛としてばくろうに売った時など、別れの引かれ行く牛がふりかえり、ふりかえり、涙を浮かべてたのを見たことが何度かあった。そして新しい子牛を買いに何時間もかかる、遠くの市場まで行き、一緒に口綱を引きながら、へとへとになって帰宅したことも何度かあった。このときは父と息子であった。小さいながらも多少は頼りにしてくれたに違いない。

尤もこれは小学時代の話で、中学時代はめったに話し合うこともなかった。仕事の手伝いも田植え、刈り入れの繁忙時以外はお呼びがなかった。私はただ勉強すればよかった。実際はほとんど図書館からの借り入れの小説など手当り次第の読書だったが。読書は小学校以前からの習慣だったことは、いつかの日記にも詳しく書いている。

父と母は年齢も親子程違っていたので、愚痴を言ったりするのは母ばかりで、父はそれに口答えするすることは一切無かった。すくなくとも一度も憶えていない。返事もあまりしない父だった。自分から話しかけることがないのだから、どこにいるのか意識出来ないくらいだった。
子供のときカリエスを患い、背中が少し湾曲していたが、爾来健康で、病気で寝たなど記憶がない。
ただ少し耳が遠くて、会話は少し大声になった。
だから家の回りで誰かと話すとよく声が聞こえてきたものだ。甲高い声で通りはよかった。

怒鳴り声は刺し通す様な声で迫力があった。何か怒ったりすると、訳の分からん外国語で怒鳴るので、相手はいっぺんに恐れ入っていた。もちろん年に一度か二度の体験に過ぎないが。しかし大変可笑しかったことをよく覚えている。

中学時代、私の学業成績など口出ししたことはない。ただ4年生のとき、数学の先生が是非広島高等学校(旧制)に受験さしてやってくれと親父にある夜頼みに来たことがあった。
親父は例の通りぼそぼそとそんなに言われるのならと承諾した。結果は数学だけ良くても、動植物学が全然出来なくてすべってしまったが。口頭試問まで含めると一週間かかる大変な試験だった。
独力で自分の道を歩いて、外国まで経験した父は、死ぬる時まで、子供の将来に口を添えたり差し挟んだりしたことはなかった。子供の試験などその後も干渉は一切しなかった。母に任せきりにしたとも言える。
母もそうしたことに教訓を垂れる程の素養は無かった。

前回書いた様に昭和14年秋深く最初にして最後となった父の病床の姿を見た。もう意識がなく語り合うことは出来なかった。
いまだに父がその後戦後まで生きていたならという状態は想像出来ない。

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2007年7月11日 (水)

イチローありがとう

7月11日(水)曇後晴
家内は己斐のもみ医者に朝出かける。遅くなると言って出る。

ここ数日湿疹が全身にできて痒くてたまらない。どうも乾癬が原因ではなさそうだ。
中毒症状によく似た折り重なる様に隆起した湿疹である。
薬局に行き抗ヒスタミン剤を買って来て呑む。
食事の量は少なくなり、格別変わったものは食べてないのにどうしてだろうか。
老人性の湿疹なんてのがあるのかしら。特に腹と背中と太ももがひどい。

夕方になって青空が薄く顔を出し、日光が射し始める。
いよいよ明日から選挙戦が始まる。
いっぺん自民党が大敗してみるといいのだが、政権交代は無理だろうから、ますます政治が可笑しくなり、市場や景気がダウンする懸念が生ずる。
結局何といっても衆議院の選挙が問題で、まだ3年も先のことだから、それまでどんな展開をするのか予想がつかない。

アメリカプロ野球オールスター戦でイチローがMVPになった。5−4で勝利したアリーグの先頭打者で3打数3安打2打点その打点がランニングホームランとなったことが評価された。
目下リーグの首位打者だし凄い活躍である。昔の貧弱だった日本を思い何とも言えない誇らしさである。うれしい。(写真は中国新聞のホームページより借用)
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2007年7月12日 (木)

阿波踊り

7月12日(木)雨
朝一番に換気扇の掃除。べっとり油で汚れているのを沢山の紙で拭き取る。奥深い所はもうどうにもならない。
時々気がついては家内が仕掛ける。夏の我が家の定例行事、手の皮が最近脆くなった私には苦手な仕事。ゴム手袋なしには出来ない。
終わった後ではこんどは全身がまた痒くなる。仕事アレルギーかも知れない。また薬を飲む。

午後雨は上がる。家内はショッピングに出て行く。
東京の娘から徳島の阿波踊りを見に来ないかと電話があったそうな。真夏の人混みの夜、一寸大変だな。
老いぼれ共には無理だろう。やんわり断ったらしいが、仕方がないな。
テレビでは何度も見ているのだが、実物は迫力が違うだろうな。
広島でもフラワーフェスチバルに十数年も出かけたことが無い。人いきれのひどい所はもうすっかり苦手だ。

夕方糞詰まりやっと解消。しかし腸の蠕動運動は随分悪くなったらしいな。下剤のお世話なしでは駄目らしい。
そのうちうんうんうなりながら死ぬなんて嫌だな。

先日婿からのアドバイスで、お別れの日には音楽を流されたら良いでしょうと言われ、もっともだと選択にかかる。
なにしろ何千とある中からだから大変だ。2時間もついているともう駄目だ。根気が続かない。
死ぬ日までには何とかなるだろう。

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2007年7月13日 (金)

お別れ会の背景音楽

7月13日(金)雨
漸く本物の梅雨に入ったなという感じ。かなりの量が降っている。水不足はまもなく解消されるだろう。
台風4号が沖縄、奄美に近づいているらしいから、今度は風水害が心配だ。

選挙戦も本格的に始動した。袋だたきの安倍総理の健闘振りが目立つ。颯爽たる青年将校の趣がある。高杉晋作を真似してるかな。
野党の方が代表の口数が多いのだから、どうしても悪口が激しい。いろいろ言っては居るがマト外れが多い気がする。
憲法問題も他の国の如く徴兵制でもしくとなると、国民の怒号が凄くなるだろうが、字句を少し変えてはっきりさすというのだから、大衆には関係ない。紛争が少なくなっていいのでは。
年金問題も今の政府にツケを持ち込むのは気の毒だ。そもそも戦争中に軍事費の捻出のため考えられたのだから、取られ放しの国民は、こんなもの役に立つのかなと皆思っていた。勢いずさんにならざるを得なかった。
ツケが後世に廻って当然だし、今までの政府が累次直していてよかった筈だ。

午後3時半空明るくなるも雨止まず。

お別れ音楽DVD第1集完成、試聴するも、もの足りず。
第2集の選択にかかる。
こんなことをしたって、誰も聞き耳を立ててくれるものはいないだろう。無駄骨とは思うが。
閑だからまあいいだろう。

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2007年7月14日 (土)

台風4号

7月14日(土)雨
朝台風4号は予定通り九州南部に近づいている。今日上陸するかどうか。
雨が降り続いているが、それらしい影響はまだない。固唾を呑んで見守っている感じ。

我が家は小高い元山地だった所を開発して作った住宅団地といっても、もう50年ぐらい前に造成された場所にあるのだが、直ぐ側には小川も断崖もなく、災害に遭う恐れは無い。台風での心配はテレビアンテナくらいのもので、そのステイをしめ直すくらいである。

テレビの報道を見れば、悪くするとまっすぐこちらにやって来そうでもあるが、夜中だからぐっすり眠っていれば通り過ぎてくれるだろうと、よそ様の様に避難騒ぎなどまるで関係ない。
今考えれば、何の気なしにこの地を求めて34年間、幸運だったことをしみじみ喜んでいる。

午后2時大隅半島に上陸したとテレビが報道する。こちらまでは届かない感じ。先般訪問した室戸半島は、まともに風を食らいそうである。お気の毒様とまだ目に浮かぶ村々に声を掛けたい思いである。
家内のおともで食料を買いにスーパーに行く。
時々猛烈な雨になる。風はそよかぜぐらいだが。

久しぶりにテレビ桟敷で大相撲を見る。パソコンに一日の大部分を費やしている身には、テレビは目の毒と遠慮しているのだが、台風情報を気にしているうちに相撲中継に入って行った。結構面白い勝負が多い。たまにはいいかもしれない。
台風は午後5時頃には宮崎から日向灘に入る。四国に上陸するかも知れない。
午後7時頃足摺岬付近に近づいているようだ。

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2007年7月15日 (日)

颱風一過

7月15日(日)晴
台風4号は夜の間に紀州熊野沖に抜ける。
東海方面が大変なようだ。
こちらは台風一過して、清々しさ言わん方なし。北の窓から余風走り込み、室内にこもった蒸し暑さを吹き飛ばしてくれる。正に蘇生の思い。

午後、真夏の日射しが容赦なく照りつけて、急に暑くなり、参ったと音を上げることになる。
澄み切った大空のもと、内海の島々の木々の姿が目に届く程近い。

昨晩の夕景の異様さを思い出す。嵐将に到来せんとして、雲夕日を遮りしか、全景オレンジ色にかがやき、おとぎの国へでもと驚きし。

大相撲が面白い。新横綱の白鵬、大関狙いの琴光喜がそれぞれ連勝して、勝ち越しを決め後半戦に入った。
大横綱の朝青龍や新鋭の豊眞将が1敗で追う、まさに勝負の醍醐味である。Morning_passed_typhoon
Evening_in_typhoon

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2007年7月16日 (月)

中越沖地震

7月16日(月)雨
朝からまた梅雨の雨が静かに降り続く。
でも9時過ぎには小休止。家内は友達の竹島さんにに会う為に広島に出て行く。

最近定期的にうちに届いている雑誌をぺらぺらめくっていると、リュウマチの事が書いてある。免疫細胞が関節を異物と見なして攻撃破壊するとある。
言葉はよく聞くのだが、さほど興味をもってなかったので、その本質を知って驚く。
実は私の宿痾乾癬も免疫細胞が表皮細胞を異物と見なして攻撃するといわれ、医者や本などで聞かされて来た。だから治療のしようがないというのである。自分の身体の組織同士の喧嘩だからどうしようもないというのである。
変なことがあるもんだなと感心し納得していた。

ところがリュウマチは最近新薬や画期的な治療法が発見され完治出来る様になりそうだと同じ本に書いてある。乾癬はどうなるのだろう。ついでにというわけにゆかないかなあ。

10時過ぎ新潟県でまたまたマグニチュード6.8の大地震発生。道路や橋の破壊が見られ、交通麻痺に陥りそう。
ヘリコプターからの映像では刈羽原子力発電所で火災が発生し、家屋の倒壊が随所に見られる。
大惨事になっていそうな感じである。やはり震度6ともなればただ事ではない。

昼前から雨脚が強くなる。雷鳴しきりだったが、2時間ぐらいで雨止む。振ったり止んだり終日雨模様は続く。

終日テレビをつけっぱなしで、地震速報を見続ける。どんどん災害が広がる。死者は比較的少ない。真っ昼間だったのでその点はよかったかもしれない。しかし夕方までには5人になる。安倍総理も長崎の遊説から急遽東京、新潟と駆けつける。若いから流石に身軽でよい。原子力発電所が一番気がかりだったらしいが、戸外の変圧器の油が燃えただけで済んだようだ。発電所自体は自動停止して、なんら被害はなかったという。
「平成19年新潟県中越沖地震」と命名される。
(写真は読売新聞より拝借)Mm20070716183147673m0

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2007年7月18日 (水)

庭木の剪定

7月18日(水)曇
昨日は中越沖地震の災害状況や復興模様の報道で一日明け暮れる。死者9人負傷者1100人以上と膨れ上がる。
家屋の倒壊は1400棟以上。ライフラインの復旧には1週間以上かかるという。
道路や鉄道はもっとかかるだろう。大変な災害である。

朝9時家内は己斐までマッサージに出かける。
私は庭の植木の剪定をする。1時間もしないうちに汗びっしょりで気分が悪くなる。直ちに中止、シャワーで頭を冷やす。もうすっかり駄目になった。留守中に救急車を呼ぶ羽目にでもなったら大変と、そのまま道具など放り放しのまま寝込む。

一寝入りした後ついでにやり残した剪定を済まして,後片付けをする。
曇り空のままでほとんど日が射さずに済む。

Rink club Newsletterという小冊子に腐敗のデータでひもとく欲望と倫理のバランスシートと言う論文が載っている。
政治経済などの国の汚染度を表にしたものである。
日本は幸いに世界的に見れば良い方の17位(163国中)だそうだが、他国と較べて宗教団体と医療機関に対する腐敗度評価が高くなっている。医療機関はさもありなんという気がするが,宗教団体が世界の殆どトップにいるのはよくわからない。
政党、警察など一番腐敗度が気になる部門では、低くはないが世界に比較するとまあまあというところらしい。
面白い統計である。なんでもコンピューターのおかげで数字表現されてしまう時代だが、これなどはもっともっと一般化されると世の役に立つのではないかと思われる。

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2007年7月19日 (木)

懐かしい悔悟

7月19日(木)曇
灰色に霞んで,雲らしいものも見えず、日光は薄くはっきりしない天気。予報は一応晴と出ているが。
朝23度だが、蒸し暑く爽快さはまるでない。
昨日の夜横山君に電話する。お中元のお礼に午前午後3度電話したが通じないので、また入院でもしていると大変だと思って。
夜はうって変わって元気な声。昼間はあちこち出かけていたとか。
ともかく変わりなく元気な由安心する。

寝たり起きたりして過ごす毎日だから、ラジオ深夜放送は一番親しい日課である。
定期購読しているラジオ深夜便という冊子にこころのエッセーという短編が毎号に亘って掲載されている。
皆こころを打つ印象深い話ばかりで時に頬を濡らしたりする。
85歳の老婦人の「一期一会」というのがあったが,話の筋は全く違うが私にも戦争に遮られて成就しなかった一期一会がある。もうこの世への決別が旦夕に迫っている昨今不思議にあの頃を思い出す。
学生時代最後の一年と就職、兵役の一年の間を通じて続いた愛の文通も、上官の強制によってある日、中断させられてしまった。
そして戦後の混乱は昔を呼び戻す環境ではなく、忘却の彼方へ押しやられてしまった。
ただ一度だけ42年振りに彼女から電話がかかって来たことがあった。
私が生還していることを、同じ下宿にいた一年下のそれもたまたま満洲の陸軍病院で同じ入院患者として、ばったり逢った学友からきいたのだそうである。用件は久しぶりに私の生きていた声が聞きたかった、そして近くテレビに出るから自分を見てくれと言うことだった。
テレビで彼女をしみじみと眺めた。幸福そうな熟年実業家の彼女を見て半ば安心し,半ばこころの痛みを覚えたことであった。しかし何しろ思い出すにしても40余年は長過ぎた。
これは厳格に言えば一期二会ということになるかもしれない。
私にも人並みに懐かしいそして悲しい青春があったということである。

彼女もエッセーの作者の如く、突然便りが途絶し、とうとう終戦後まで状況が分からなくて,永い間不安な毎日を過ごしたのであろうかと思うと、電話を掛けて来たときやはりそれなりの応答をしなければならなかったかもしれない。謝罪はともかく通信途絶のいきさつも教えるべきだったかもしれない。エッセーの作者が深夜の星を眺め,また熱田神宮に参る度に偲ぶ、その現在のこころ根に触れて、今更私自身も悔悟の情が沸き上がるのを覚えるものである。

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2007年7月20日 (金)

青海川

7月20日(金)曇
家内の手足の痛みが一進一退でなかなかよくならない。
貼り薬が切れたので,三菱病院に出かける。
ほとんど良くなったと言われたらしい。
11時には帰宅する。
時々強く降ったりして天候は落ちつかない。

今度の中越沖地震で思いがけずヘリコプターから映し出された映像の説明で何度も青海川の駅名を聞いた。いつか通ったか、見たかしたことがあるぞと気になっていた。
やはり今から53年前の夏、佐渡へ旅行した帰り道、険阻な北陸道沿いの汽車の旅で、思いがけず車窓から眺めた海水浴風景の場所がそうであった。
今は海水浴場ではないのかも知れないが,沢山の人々が楽しそうに泳ぎ,遊んでいた光景を思い出す。
車窓から写した写真も古いアルバムから出て来た。
今回駅の直ぐ近所の崖が崩壊し,ホームの一部を埋めてしまったようである。
知らない所でないだけに、早く復旧させて上げたい思いでいっぱいである。Aomigawa

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2007年7月22日 (日)

青海川駅

7月21日(土)曇
凄い霧の朝。直ぐ前の家まで迫りその先は煙って見えない。
Frog

終日曇り空がつづく。
午後一寸買い物に出る。車が多くてうんざり。
語るべきことなし。

7月22日(日)曇
昨日よりは少しましな霧の深さ。それでも島影は何一つ見えない。何時降り出してもおかしくない空模様。
夜中には少しは降ったらしい形跡が残っている。

昨日は霧ばかりと思っていたら,長崎県では光化学スモッグ警報が出て、運動会などが中止されたとか。
大気圏内にまで有毒ガスが混じって飛んで来ているらしい。
これからの世代の人間は生きて行くのに経済的なことだけでなく、一番大事な空気が問題になると、もう地球に居れなくなると覚悟しなければならない。
自動車や飛行機が人の役に立ち過ぎて、地球を滅ぼすことにまで役立つようだ。もうどうにも止められない。

一昨日青海川駅のことを記憶に任せて書いたのだが、気になって地図を開いてみると、親知らずの嶮の近くに青海というのがあって、青海川というのは見当たらない。青海は柏崎からは百キロもありそうである。
おかしいなとネット情報を調べると確かに,海に一番近い駅で有名な青海川駅とちゃんとある。駅の写真まで沢山のっかっている。
もう一度地図を調べ直すと駅名だけは”あおみがわ”と柏崎の直ぐ近くにちゃんとあった。青海は糸魚川の先だから明らかに違う。
こんなときしか関わりがないだけに紛らわしいことである。ついでに海水浴場はまだあるのかなと見てみると、海水浴場という表示だけはあった。
利用客はかなりある様に書いてある。
やはり早く復旧して欲しいものである。(以下の写真はネットから借用した)


Oumigawa4
Oumigawa5
Oumigawa6

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2007年7月23日 (月)

アジアサッカー

7月23日(月)晴
自動車の購入先から法定点検の案内を頂いたので、明日やって貰うよう電話でお願いする。
今日からしばらく天気がいいようだ。ただ靄はうすく海上にかかり島影は相変わらずはっきりしない。
朝から日射しが強く、今日は暑くなるぞと気構える。

割と風が入り、終日家にいたがさして暑さを感じずに一日を終わる。
明日庭木の剪定をしてくれるシルバーセンターの方が午後見に来ていろいろ打ち合わせて帰る。

一昨夜のサッカーは真にしんどいサッカーをしてくれて、選手以上に疲れた気がする。寝起きが極めて悪かった。
いくら優勢でも、シュートを沢山打っても、点を入れなくては駄目だとほんとによく分かったよ。
高原級のストライカーがもう一人欲しいね。特にスタミナのあるストライカーが。最後にへばってはどうしようもない。
それにしてもPK戦の川口は凄かったなあ。
いつもこうは行くまいから、サウジアラビア戦はしっかり頼むよ。しっかり点を入れてくれっー。

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2007年7月24日 (火)

シルバーの庭師たち

7月24日(火)晴
午前中車を法定整備に購入先のスズキの販売店に持って行く。夕方には出来上がるというので電車で帰宅する。
久しぶりに停留所から我が家への坂道を上って還るのに汗びっしょり。家内の買い物のつらさがよく分かる。
若いときは何ほども思わなかったが、老というのはこういうことかと改めて思い知らされる。

午後には予定通りシルバーの人たちが庭木の剪定にやってくる。
シルバーと言っても私より二回り以上違うのだから元気である。3人でばたばたと半日で片を付けてくれる。
家内はやれやれ助かったと大喜びである。
近所の家々でも老人家庭が殆どなので,口コミでシルバーのお世話になるのが多い。
比較的低料金でやってくれるので評判がいいのだが、ともかくこう老いぼれては頼る以外に無い。

午後5時庭師さんたちも皆帰り、車も修理が終わったので貰って帰る。見違える程車の滑りが良い。やはり時々点検はして貰うもんだな。

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2007年7月26日 (木)

日本サッカー散る

7月25日(水)晴
朝8時からはやばやと高校野球の県予選準々決勝が始まる。顔ぶれが大分変わっている。見知らぬ高校が多いのは学校数が多くなったせいか。
家内はマッサージに出かける。昨日庭師を相手にばたばたしたので又手足が痛むらしい。
昼を過ぎて帰宅する。目医者にもよったとのこと。目には異常は無かったらしい。
梅雨が上がってすっかり本格的な暑さになる。
盆には車で帰って来ると千代から電話があったらしい。船便が取れなかったからとのこと。
楽ではなさそうだが、大丈夫かなちょっと心配である。
無理して帰るなと家内に言わしたのだが、旦那が盆休暇が折角とれたから、墓参に帰りたいとの意向らしい。

高校野球はやはり下馬評通り広陵と如水館が抜きん出ているが,明後日の直接対決する準決勝が見ものである。

7月26日(木)晴
昨夜はアジアサッカーを続けて見る。
韓国とイラク戦はどちらも決定打が出ず、PK戦まで行って、見る方もやる方も草臥れもうけ。イラクにつきが回って、韓国のイラン戦につづく二度目の正直はなかった。
日本も組織サッカーは見事だったが、やはりストライカー二人には叶わなかった。
特に後半疲れの出た日本守備陣を一人で突破してゴール2本を取ったハサウイには敬服あるのみだ。
最後は選手を入れ替えて組織サッカーもうまく行かず、日本はデスパレイトな攻撃を繰り返すばかりだった。
そして選手の素質の弱々しさが目立った。
しかしこの強敵によく戦った選手の健闘は讃えたい。
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YouTube

急に思い立って、パソコンのCDなどに収蔵している母の写真を探し出して、L版とハガキに70点ばかり印刷する。
ついでに写った家族の写真も沢山出て来る。祖母や伯母などの写真は特に懐かしい。
大部分が故人だが、改めて写真の素晴らしい機能を感ずる。

YouTubeというのが面白い。先般は婿がsecondlifeというのを教えてくれたが、こちらの方がバラエティに飛んでいて私には病み付きになりそうである。もっともビデオまで撮って投稿する程の元気は無いが、人の撮った物をただで拝見出来るのはよい。これはブログ以上に人気化するのではないだろうか。
中でもTOKYOMXの陳平と談志の言いたい放題は30分間結構楽しませてくれる。今一番気に入った番組である。
昔テレビが始まった頃徳川夢声と細川隆元の政治放談が人気があったが、これも形が変わって面白い。

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2007年7月27日 (金)

ゴミの捨て場

7月27日(金)曇
最近はすかっと青空という様なわけには行かない。灰色一色の空の東天の一角が金色に輝き、何となく全体が反映しているので晴天だとわかる。
しかし島影は全く見えない。空気全体が濁って,霧というか靄というかそんな形の見える宇宙の姿ではない。只何もかも薄ぼんやりしているのである。朝午前6時の光景である。

このまま寝ていても起き上がっても,気まま勝手な老人だから、何となく部屋の中をごそごそ動き回る。
昨日プリントした写真類がそこらあたりいっぱいに散らかっているので、先ず空いたベッドに整頓して乾かす。
現在は印画紙へ焼き付けというのでないから、個人で出来て便利がいいプリントというわけだが、あと24時間乾かす様にと注文がついているのがちょっと面倒。

選定した植木の枝葉などを、袋詰めしたものを6個ゴミ置き場に恐る恐る出す。まだ何個も残っているが一度に出すと叱られそうで。最近はゴミも簡単には捨てられない。規制が凄く厳しい。いいことか悪いことか。
逆にゴミになるもののなんと多いことか。スーパーあたりで買って来ると何割かはゴミ、中元品などは半分はゴミ、何とかならないかなあ。

今日はとうとう日が暮れるまで灰色のままの空で,雲は見えないが晴とは言えないので曇と訂正する。
蒸し暑さ言わん方なし。

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2007年7月28日 (土)

広陵18回目の代表へ

7月28日(土)曇
昨日と同じ天気がつづく。
木の枝も一様に垂れて、この暑さに参ったと言っている。

高校野球の広島県予選は予想通り広陵高校が春に続いて甲子園行きを決めた。
しかし今日の総合技術高校との決勝戦は本当に凄かった。特に総合の粟村投手のインコースへのシュートは凄く,広陵打線を悩ませた。只決勝点をたたき出した小林だけはこれを得意としたか、先に2壘打、そして延長11回ではホームランを左翼席に打ち込んだ。
3−3で延長戦に持ち込んだ総合技術の粘り強さは、創立3年目の学校とは思えなかった。
呑んでかかっていたと思われる,準決勝の瀬戸内にしろ、決勝の広陵にしろ思いと違ってたじろかされ、冷や汗びっしょりだっただろう。
伝統校といえども伝統にあぐらをかいていては行けないという教訓である。
ともあれ18回目の甲子園行きは立派である。心から祝福したいし,全国大会での健闘を期待する。
(写真は中国新聞より借用)
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2007年7月29日 (日)

参議院選挙

7月29日(日)曇
珍しくさらっとした軽い朝。
昼になるとやはり蒸し暑い。でも灰色の空に覆われて日が射さない分、ベランダの照り返しがないだけに過ごしよい。
しかし空一面に、沖の島影も見えない灰色のものはなんだろう。雲とはいえない。靄とか霧とかでも規模が広大で全宇宙に広がってるのだからおかしい。
只気温の高い分水蒸気の発生が非常に多いことだけは理解出来る。風が少なくて吹き払われないのかもしれない。

参議院議員の投票日なのだが、暑くて服を着るのがいやで、なかなか神輿があがらない。
夕方まで待とうと思いながら一日が過ぎて行く。世情はあれこれと騒いでいるが、誰がやっても変わり様の無い今の世で、老人の一票にさして意味があるとも思われないからでもある。

午後5時半家内がぼつぼついこうやというので、車でふたりで行くことにする。
直ぐ近くの投票所だから、10分もかからずに済ませて帰る。
やり始めると簡単なのだが,神輿が重たいのが行動を難しくしている。

夜9時過ぎには、早くも野党が過半数の議席を獲得し、圧勝が確定した。
安倍総理の進退問題に発展するかどうか。自民党内の後継問題がどうなるかなど、これからの政局の変動は免れそうにない。ただ肝心の衆議院があまりにも野党が少な過ぎる。
参議院で野党から総理を推薦しても、問題にならない。
結局政争が益々激しくなり、肝心の政治情勢が悪くなり国際間の信用と権威の失墜を懸念するものである。
明日の海外市場の成り行きが見ものだ。

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2007年7月30日 (月)

民主党政権を取れるか

7月30日(月)曇
やはり自民党が敗北した。想像以上の大敗北である。民主党は協力野党の分まで食って地滑り大勝した。
選挙というのはこわい。年金などという永年の腐敗のつけを一挙に今の政府に押し付けるのだから。
何度も言う様に、年金などというのは戦争中の戦費捻出の道具とし考えられたのであって、そもそもが国民のためにという真意は乏しい。そんな年金制度に国民はそっぽを向け続けた。
戦後有り余る年金の蓄積に宝の山とばかり蟻の様にたかりむさぼり食った結果が今の有様である。
今の政府に責任を押し付けるのはあまりにも浅はかである。改善し始めたばかりの政府の足を掬いかねない。
結果にくじけず継続してもらいたいものである。
人間というものは時に愚かな認識,行動をするものである。大東亜戦争然り、こんどの選挙も然りである。正に唖然ととする。

しかし政権の交代は絶対に必要なことである。次の衆議院選挙までこの絶好の機運を持続し、その間に着々と新政府要員を整備し、出来れば官僚まで總入れ替えするぐらいの大改革を実行して欲しい。
こうすれば永年お題目を唱え続けて来た構造改革も実現するであろう。

明治維新は教訓として今でもあり続けている。
平和裡に大改革を行わんとすれば絶好のチャンスである筈だ。

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2007年7月31日 (火)

政権交代

7月31日(火)晴
応接間の絨毯を夏物に敷き替える。二人掛かりでふうふう言いながら終わる。老いては何事も簡単ではない。
自然、昼飯は外食ということになる。
かんかん照りの中も車で行くのだから問題は無い。
ガソリンが高くはなったが、節約というわけには行かない。単価の高い食事ということになるかもしれないが。

今度の選挙で与党が負けたのも、一つは構造改革のつけが廻ったのかも知れない。
改革の是非は一口には言えないし、庶民には非常に分かりにくい。
簡単に言えば、人減らしということになるのだろうが、世の中これぐらい人気の悪い仕事は無い。
しかも無駄を省くというが、人間の場合どんな人間でも何らかの力になっているのが殆である。
無駄なものではないのである。
時間をかけなければ、その損失は取り返せないし、必ずしもうまく行くとは限らない。
改革の決断,実行による効果は歴史的に見ても成否半々といったところだ。

鉄道民営はいいとして、道路、郵便の民営化はどうだろう。吉と出るのは随分先の事になるだろうし、出ないかも知れない。
お負けに国家財政は少しは良くなったかも知れないが、我々庶民の負担は目に見え過ぎる程大きくなった。
これでは選挙に勝てるわけが無い。
まあ蒔いた種だから自分で始末をつける以外に無いが、二年後には衆議院選挙がある。
アメリカでも大ごとをしているが、日本も同じである。政権交代の時期が近いと見るがどうだろう。

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