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2007年6月27日 (水)

私にも父がいた

思い返して見ると、母はほとんどいつも一緒だし後年別居しても絶えず行き来していたので、想い出も多いし語ることは少なくない。逆に親父の事となると殆ど母の受け売りで、記憶も遥かに乏しい。
十歳のとき5年振りにメキシコから帰国した父と再会したのだが、どこのおっさんかと、とても親しく近寄れる存在ではなかった。
それに無口で頑固で母に言わすとへんくうだと言う。へんくうとは方言で人の言うことを聞かず、頑固の別名みたいなものである。十年後に肺炎で急死した。
小さい時は、遊び過ぎて夕方遅く帰り、怒られることが多かったが、ある時は家を追い出されて、母の詫びで夜遅く帰参を許されたことが一度あった。
農家の長男の私は、それでも可愛がられた方で、怒られても暴力を振るわれることはなく、余程忙しくない限り手伝いをさせられることもほとんどなかった。
本を読むことに熱中していた私がよく勉強していると思われたのであろう、半ば放任されていたようだ。
もっとも学業の方をそこそこいい成績で通したことが原因でもあったのだが。

父との接触で直接深く記憶している想い出が数は少ないがいくつかある。
先ず小学校5年のとき、当時盛んになった少年野球があった。担任の中川先生が休憩時間や放課後はもちろん他にも空いた時間があると悪童たちを集めてノックバットを振るった。
その内チームを作って試合をするということになった。子供だから下手な喧嘩などするより余程面白い。
正式にチームが出来て休日などにはよその学校と対抗試合をするまでになった。
今でも覚えているが、呉の五番町小学校は強かったなあ。ユニフォームまで揃えているのだから、それだけで気圧された。
補欠に近い選手だった私だが、可愛がってくれていた中川先生に、出来たら自分のグラブやバットを親に買って貰うよう示唆されたことがあった。すぐ父にねだった。父はアメリカ帰りだからよく知っていて、すぐ承諾してくれた。
ところが、いつまでたっても実行してくれない。
ある土曜日の午後、今週中には買ってくれると約束していたのだと思うが、食事に帰宅して見ると全然買っていないし、買いに行く気配も見えない。俄然私は泣き叫びながら怒り狂った。
父はそりゃあ悪かったと言うがいなや、直ぐ着替えして1里も先にある岩国の町まで買いに出かけた。
一時間以上かかった思う。グラブもミットもバットも球も(勿論軟式だが)一抱えにして買って還ってきた。
私は躍り上がる様にして、すぐそれらのグラブとバットを持って学校に戻った。その嬉しかったことはいまでもまざまざとその姿が眼前に彷彿する。

昭和13年の春休みに、親友の神村君から自転車で出雲大社に参拝せんかと誘われ、承諾したのはよいが、帰宅してから親に話すと母に大反対されてしまった。それでなくても学校の費用が沢山かかるのに、遊びにまでとお金の心配が先にたっての反対だった。父は若い時にしか出来ぬことだからなあとどちらとも言えない態度だった。
よそで聞いてみるからと、当時朝日新聞を配達してくれていた自転車屋さんに尋ねたらしい。
中国山脈を自転車で超えるなんて、学生には無理だ。自分らも昔行ったことがあるが、故障はするし、突っ張ったり引っ張ったり、歩く距離が長くて死に生きの目にあったという。止めた方がいいぞと父もその気になってきた。
友との約束もあったし、彼がすでに親父の承諾を取って準備が出来てたので中止出来なくなった。
とうとう押し切って出かけることになった。
行く日の朝のムスビつくりまで渋って反対した母に家を御出る様な気持ちで、出立った。
家から出て自転車に股がった途端、そばに寄って来た父がこれを持って行けと紙包みをくれた。10円ではとても1週間は無理だから、気をつけて行けとぼそぼそと言った。5円入っていた。宿賃が1円から1円50銭の相場だった時代だから。旅行経験豊かな父には分かっていたらしい。

昭和14年の9月、満洲重工業関係の就職試験が九州帝大であり、即日子会社の満洲鉱山に採用が決まった。
大喜びで親に報告の為直接郷里に帰った。遠い満洲に行くのと母は不満顔だったが、父は若い時は旅するのもええと喜んでくれた。
それから2、3ヶ月後の11月22日合同教室での講義の時間だった。
突然事務員がドアを開けて教室に入って来て、紙切れを先生に手渡した。先生はチラと目をやって、すぐ私の名を呼んで手招きした。そばへ行くと小声でチチキトクとある、すぐ還りたまえといわれる。
夕方家に着いて見ると、祖母(母の母)が一人ぽつねんと居て、病院に早く行けと押し出す。
病院では母や弟妹らが枕辺に心配そうに並んでいる。父は苦しそうに息を出し入れしている。意識はもう無かった。
急性肺炎ということだった。その翌早朝何も話すこともなく死んだ。59歳だった。私はまだ20歳になっていなかった。父については母から聞くことだけでほとんど知らないと言ってよい。縁の薄い父だった。膝元で父の警咳に接しながら暮らしたのは、結局数年に過ぎなかった。

人生経験豊富な父を失った今、頼るものは皆無と言ってよかった。荒波の中に放り出された小舟のごとく、私の人生はおりからの世界の逆風に喘ぐ日本国の運命のままに翻弄された。
My_parents
My_familyMy_father_1

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