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2007年6月 1日 (金)

癌の疑い

6月1日(金)曇
雲間から日がこぼれる。まあまあの天気か。
昨日の病気が何だか嘘のよう。もっとも今朝もお粥一膳。食べたという程食ってないので何とも言えない。
それにしても点滴の効果はどうだ。4月の風邪の時も3回の点滴で治した。そして四国旅行にも1週間後に出かけて何ともなかった。
このまま治ってくれると明日の孫の結婚式にも出られるし、お呼ばれは辞退せざるを得んが、孫の花嫁姿は近くではっきり見納めすることが出来るだろう。
もちろんカメラマンとしても勝手に動き回るつもりだから、記録を残せる楽しみもある。
おいぼれの出しゃばりを咎めるものもいないだろう。

午後せいこうに行く。検査結果を少し気にしていたのだが、悪い所はどこにもないとのことで一安心だが、肝心な原因が分からない。自分の気のせいではチガソンを呑んだ時間が食雨後1時間半だったのが、悪かったのかなとの思い。
11時半に吐き始めたのだから3時間半も経ってでは少し空き過ぎるのではと思ったりする。
結局医者にも分からずじまい。
まあともあれ、良く効いた点滴だった。今日は今の所どうもない。ただ食事はお粥程度で野菜は気をつけた方が良いとのこと。明日の結婚式も呑まず食わずになりそうだ。

実のところ医者の先生が肝臓の具合が原因であることがよくあると昨日言われていたので、検査の結果肝臓の具合が悪くて癌の疑いがあるとでもいわれたら、もう死ぬことが間違いないから、それもよしとおもっていたのだが、これでは遺言も出来ないし先の計画が立たなくて困ったな。

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2007年6月 2日 (土)

孫の結婚式

6月2日(土)曇ったり晴れたり
朝8時上野さんにお願いして、横川の玉姫殿まで私ら夫婦と千代ら夫婦の4名を乗せて行ってもらう。
旧国道を行き、丁度8時半に到着。女性たちは早速着付けにかかる。圭さんと私は手持ち無沙汰。下のコーヒーショップでコーヒーを飲みながら時間を待つ。
10時親族対面、11時キリスト教式の結婚式、12時披露宴とスケジュール通り、厳粛に進行。
婿さんの方は勤め先の上司、先輩、同僚のほか学友など70名、こちらは30名という賑やかさ。
婿さんと同年代の結婚で、交際期間が3年に亘ったというのだから、将来を見据えて間違いないと判断したのだろう。
正式に両方の親同士の承認を得てからの結婚だからトラブルの種は始めからない。
東京から来た私の婿は立派な結婚式でしたねと何度も私に言う。私も彼らの両親に対する感謝の言葉や式場の態度など申し分無く最高の結婚だなと心底感心し安心した。
花婿を愛する先輩友人の声を聞きながら、良い婿に孫を巡り会えたなと内心実に嬉しかった。
娘ら両親も安堵して任せられると、心から思ったに違いない。
両人とも勤めを継続するというし、両方の勤め先や親元の丁度中間点に居を構えるなど心配りもすばらしい。
只人生はいろいろでいつも順風に帆掛け船とはいかない。嵐の中で如何に沈着に力を合わせて舵取りをするかが鍵である。けだしこの二人は既にその覚悟をしっかり身に付けている感じである。
老人がとやかく出る幕ではなさそうだ。
午後4時頃酒を飲まない長女の婿(即ち花嫁の親)の運転で無事帰宅する。
何事も私ら夫婦に取ってうれしくてたまらない一日となった。

Marriage_1

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2007年6月 3日 (日)

最後のさざん会連絡

6月3日(日)曇
朝4時に起き出して、さざん会の出席者に当日の部屋割りなどスケジュールについて、ハガキで通報することにする。
ホテルにもメールで依頼する。
午前9時郵便局本局に行き、速達にしてもらう。明後日必着でないと間に合わないからだ。
昼にはホテルからメールで部屋割りOKが来る。
結局本人の急病2、奥さんの介護要で3と欠席を余儀なくされた会員が多発し、昨年の出席数を超えることは出来なかった。無念残念言いようがない。

午後はもう肩の荷が取れたかぐっすり眠る。

昨日撮った結婚式のムービーカメラがテープの巻き戻しがまた出来なくなる。5年前に買ったカメラだがもう2度目である。テープにはこの故障が多くて困る。なにせ物凄い薄さで長尺なのだから、起るのが当たり前なわけだがなかなか改善は難しい。1時間近く撮ったから、巻き戻しもそれだけながくなる。30分戻った所でうんともすんとも動かなくなった。他のテープをいれて試してみたが駄目、やはりDVDやHD、いやこれも故障の可能性は劣らないから、SDなどのメモリーでないと安心出来ないとも思われる。早速デオデオに出かけ修理をお願いする。これで当分どうにもならない。
さざん会でも使うつもりだったがもう間に合わない。仕方ないか。
古い8ミリを使う手もあるのだが、少し気が引けるし止めとこう。

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2007年6月 4日 (月)

さざん会また減

6月4日(月)曇
午前中家内や千代のお供で近くのデパートに出かける。
食事をそこで済ます。
帰宅してみると、田淵君から手紙が入っている。嫌な予感がしたが、開封するとやはりさざん会に出席出来なくなったと書かれて居る。奥さんが自転車走行中転倒して大腿骨骨折事故を起こし病院に担ぎ込まれたとのこと。
それでは安閑と旅行も出来ないわけ。残念だが仕方がない。早速ホテル側に連絡し、担当者不在なので取りあえずメールでお断りをしておく。
夕方担当の田中さんから電話をいただき、キャンセルのお願いをする。宴会、宿泊とも1名減というわけ。
それにしても老人の予定は狂い放しで、全く宛てに出来ない。
来年はもうどうにもならないだろう。横山君が先般言ってた様にここらあたりが限界だ、もう中止した方がいいということになりそうだ。坂口君あたりがもう少しとねばりそうだが、大勢は付いて行かないかもしれない。

さざん会の開会準備は事務的には全部終わった。無駄が少し出はしたが。
もう早く終わりたい。

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2007年6月 5日 (火)

SDメモリのロック

6月5日(火)曇
千代東京へ帰るのを送って出て、ついでに田淵君への手紙を郵便局に出しに行く。
明日の大会に間際になって出席出来なくなった彼へ、大会の際に渡すべく準備した一切の書類を送ってやることにした。鳳陽会から出席者に渡す様にといただいた金銀のしおりも勿論同封した。
下手すると一生の別れになるかも知れない。哀切の情しきりで拭うべくもない。
彼とは中学以来もっとも近しかった旧友としての縁は深くて断ち様はない。

先日娘のデジカメからパソコンに写真を取り込んだ後、そのデジカメが使えなくなったと娘から苦情が出た。
ロックされていますと表示が出て写真が新しく撮れないというのである。
カメラの設定ミスかといろいろ操作してみたが駄目、パソコン側からもいろいろしらべたが、わからない。結局フォーマットし直して中身を皆消してしまったが、それでも駄目とわかった。大事な写真はパソコンに取り込んでいたので全然なくなって、取り返しが付かないわけではなかったが。
私のもっているSDメモリーに入れ替え、パソコンから写真も取り戻して一応持ち帰らせた。
後からゆっくりSDメモリーそのものを眺めると、なんだSDの横腹にロックがついていて、矢印の方向に動いていた。
これではロックされるわけだった。いつの間にか動いていたらしい。
取扱説明書も見ないでいい加減にやってると、時々こうした痛い目にあうことがあると言う教訓。
しかしあの小さいSDにロックが付いてるとは、随分永く使っているのに、いまだに知らなかった。他のメモリーにもあるのかしら。カセットテープには昔からあることを知っていたが。Img_0730_1

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2007年6月 7日 (木)

さざん会お粗末な一席

6月6日(水)晴
昨夕4時過ぎになってまた吐き始める。何度も吐いて胃袋は空になる。何が原因か分からない。
夜9時頃になってようやく落ちつく。水を飲んでも少量ならむかつくことはない。今回は下痢もしないし、先般のよりずっと軽かった。
今朝はふらふらもなくなり、お粥と梅干しで朝飯をすます。
医者に行くつもりで昨夜は予定していたがこの分なら行く必要はなさそうだ。
朝8時横山君から電話、午後1時にホテルグランヴィアのフロントで会うことにする。
いよいよ作戦開始だ。
午後1時きっかりにホテルに行く。横山君は少し遅れて来る。
私の部屋に入り2時半ぐらいまでいろいろ話をする。
3時入浴。
ひと寝入りする。
5時過ぎ会場の安芸の間に行き、担当の女性と一応打ち合わせ。
5時半には土田君現れる。バスで来た由。
次々に集ってきて、浜井君が手押し車でやってくる。杖を通り越してとうとう車になったかと驚く。こんなにしてまで出席してくれる者も居るということだ。彼は折角広島まで来るのだからと京都にある両親の墓参りを4年振りに済ませて来たという。下関からだからついでは少し可笑しい。言葉だけは相変わらず元気である。
私のデジカメで記念写真を撮り終えると、すぐ会を始める。横山君に挨拶を頼んだが照れて断られる。
前回以後死没者もないことから、すぐ宴会に入る。
予め飲み食い自由で会費¥10000.の料理。
丁度よかったのではないか。但し私は未だ体調が恢復していないので、飲み物はもっぱらウーロン茶。色だけは似ている。料理は刺身とそうめんに少し手をつける。汁物以外は手つかずを運び去らせる。
耳の遠い者が多いので、会話は自然声高になる。私の演説は声が小さく早口だったから何のことか分からなかったと、後になって口々にほざく。絶えず会をリードして行ったつもりが飛んだ齟齬を来していた。
やはり次回の開催場所が終始問題になる。
結局浜井君が洩した何も湯田にこだわることはない。新山口にも便利のいい新しいホテルなどがある。という言葉に同調して土田君がそれがいい、うちからも1時間で行けるし、広島より近いと賛成の弁。
本間(幹事)を口説けと私に命令。まあ仕方がないな、来年の事はどうなるか誰にもわからない。そうしてなんとかさざん会を継続するしかないと最後は協議一決。
この人数だけでもいい集ろうや、というのだからもう仕方がない。
8時土田君がこのホテルの前から出発する最後のバス便で帰るといって席を立つ。
呑み疲れた浜井が部屋へと立ち上がるに連れてぞろぞろとお開きになる。もういつもの校歌の合唱も出ずじまい。
だらしない幕切れで、明日の朝食会場の連絡も皆に徹底したかどうか。もっとも浜井君は翌早朝聞いて来たが。
その晩の寝苦しかったこと。興奮と体調不良でテレビを見たり、ラジオを聞いたり熟睡は無理だった。Sazan

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2007年6月 8日 (金)

さざん会後遺症

6月7日(木)曇
やはり自分の寝床はいい。
だれにも挨拶しないで朝食を済ませると、単独宿を後にする。
不眠でふらふらする頭を扱いかねて、ロビーでじっといて居れなかった。何よりもまた起るかも知れない嘔吐や下痢が怖かった。
8時過ぎのラッシュの終頃だから、すいすい車は走り抜けた。
家内が帰宅の早さに驚く。
すぐベッドに踊り込む。
10時半起き出して、早速鳳陽会に礼状を兼ねた報告を書く。
そしてまた昼まで寝る。
午後遅くホテルの田中嬢からお礼の電話がかかる。
午後から欠席したさざん会会員宛に大会の状況報告と消息集配布を兼ねて手紙を作成し、封筒詰めから宛名書きととうとう夜までかかる。

6月8日(金)曇時々小雨後雨
昨朝体調不良で挨拶もしないで早々にホテルを退去したので、捜し廻ったのだよと横山君から電話がかかる。
いろいろ諸兄に迷惑をかけたらしいので、詫び状を兼ねて記念写真を同封して手紙を一人一人に書いて送る。
昨晩作った欠席会員への手紙も一緒にして昼前に郵便局に出しに行く。これで万事終了ということだが、来年の事もどうやら私の肩にかかってくるらしいのが、いささか心配だ。

午前中は日が照っていたりしたが、夕方には一時的にザアーと来たりする。
旱天が続き、水乞いしなければならないとき、さながら慈雨の趣。

横山君の奥さんから私の病気見舞の電話がかかる。横山君から聞いたのだろう。
午前午後と終日ベッドでうとうとする。なんとなく欝然として冴えない。
完全恢復とはなかなか行かないか。

家内も肩や手首が痛いと言って膏薬をベタベタ貼っている。
庭先の草むしりなど、内外の労働がこたえているらしい。
温泉に行けばいいかもなどとしゃべっていたので、今日も風呂を立てることにする。

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2007年6月 9日 (土)

人のごう

6月9日(土)晴後曇
昨夜9時頃門の外で今晩はとしきりに叫ぶ声がする。窓を少し開けて見ると田賀ですがと芳邦さんの声。びっくりして家内にどなる。正に裸になって入浴せんばかりのところ。
門に錠を掛けているので、開けてやらなければ入れない。
門の所まで出て行って迎える。例の通り娘さんの嫁ぎ先に野菜を届けに行きついでにやって来た由。
いつものように手作りの野菜を沢山担ぎ込む。
また広島の娘の所やら、近所に配り回らないととても老夫婦では処理し切れない。まして私の今の健康状態ではお手上げである。夜の夜更けにこんなに沢山と家内もいささか恨み節。遠慮の要らない弟だからずけずけ言う。
人の良い義弟はえさえさと笑い顔。
私がまともに食わないから、ご馳走するものは何もない。あり合わせのリンゴやバナナとジュースなどでお茶を濁す。
10時過ぎ夜道を帰って行く。70ちょい前だが、まだ百姓ができる。元気なものだ。

明け方ちょっと降ったが、間もなく晴れ上がる。
訳の分からぬ天気。
体調幾分ましかなとの感じ。家内があちこち痛がって、絆創膏だらけの手を見せてくれると、こちらまで元気になれない。
玄関の土間に並べられた野菜の山に、いやでもどうするかと不安に駆られる。

今朝の新聞を見て、「65歳以上4割を超す」という見出しに一瞬ドキッとさせられる。よく見ると50年先の予測らしいが、嘘にしろ本当にしろ、いささか軽はずみな見出しである。新聞でも放送でもこの類の、脅迫じみた誇張が多過ぎる。人目を引く為には仕方がないとやられるのだが、見出しだけ見て通り過ぎて行くものの多い、多忙な社会では少しばかり危険な行為と言わざるを得ない。

午後3時過ぎ昼寝の後、ジュースを少し飲む。胃の調子があまり良くない。
やはり胃袋は空にしておく必要がありそうだ。
身体の湿疹は治まらない。
痒さは一種の業苦といえる。
食中毒は胃腸の痛みを伴うものと医者は言ったが本当だろうか。全然痛まない中毒はないのか。
痒いだけでは中毒といえないのか、素人にはそこらがわからない。

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2007年6月11日 (月)

友、遠方より声掛けて来る

6月10日(日)曇
朝山田君から小荷物、何事かと驚く。岡山の名物のままかりの酢漬けとある。
すぐ電話して聞く。さざん会で世話になったからとお礼の気持ちだと言う。恐縮を訴え好意を謝す。

来年に向けての開催には引き続き努力することを誓わされる。
浜井君、土田君も協力を誓ってくれているから何とかなるだろう。

デオデオに修理に出していたビデオカメラが出来たと昨夜電話があったので、今日貰いに行く。
又35ミリカメラの現焼きを広電の写真店に行って30分ぐらいでやってもらい、貰って帰る。
午後はこれらの焼き増しやムービーのパソコン取り込みにつぶれる。
夜には雅代の結婚式のビデオCDを1枚作る。
雅代は今日ハワイに出かけたのだそうだ。

夜風呂から上がった家内が手の痛みが少し楽になったという。

6月11日(月)晴れたり曇ったり
朝美祢の田辺君から電話がかかる。世話になったといってたが、来年新山口でやることになったから頼むと言っておく。来年の事はお互いわからないが、なんとか本間君と協力してやってくれと。

鞠子に先般の四国行きの写真を送ってやる。

近くのスーパーに行く。チョコレートやおかきを家内に買わす。久しぶりに食い気が出て来た。
やっと胃袋の調子が戻って来たらしい。
これで食い過ぎるとまたダウンするわけ。くわばら。

どうしたわけかさざん会の欠席会員に出した手紙が一つ戻って来る。
理由は宛名なしとある。なるほど印刷したラベルが落ちている。奇麗な落ち方で痕跡もない。
どうしてと思っても、もうどうしようもない。一人ぐらいまあいいか。

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2007年6月12日 (火)

戦死者が少な過ぎる

6月12日(火)晴
早朝珍しく青空。
2月以来のDVDアルバム作り、今日はマーラーの大作交響曲第8番「千人の交響曲」など8曲をPCMで録音する。
3時間ぐらいかかったか、朝寝起きにやってしまう。一枚に5時間20分ばかり入る。PCMではそれ以上無理だ。
さざん会のことでこの4ヶ月音楽をゆっくり楽しむ時間がなかった様な気がする。
なんだか一人で騒がしかったな。

米軍がイラクでの戦死者が3500人を超えたという。もう何年も戦ったのに、えらく少ないなと驚く。一桁違うのではという気がする。
日本では交通事故死でさへ一年で1万人を超えるというのに。
日米戦争では硫黄島だけでも万人を超えた。
日本人の戦争死者は民間人も含めてもう二桁多かった。
イラク側の死者がわからないので、戦争による死者の数はよく分からないが、米軍の死者数は少な過ぎる。こんなことでは戦争を止める気にはならないだろう。
新聞やテレビはこんな小さな数字は報道しない方がよい。戦争が悲惨でもなんでもないと写りそうではないか。
戦争を終結させるためには、もう少し大きな数字に誇張する必要があると思うがどうだろう。

夕方宇部の本間君から下記の様な手紙をいただいた。
「早速さざん会のご報告を頂き有り難うございました ご出席の皆様良き一晩をお過ごしの様子何よりでした
さて貴兄に大変ご心配をおかけし色々ご配慮頂いた問題の結論が浜井、土田両君の計らいでうまく実を結び
来年は小郡でのさざん会に落着したようで小生も一安心しています 
あらためて深く御礼申し上げます
浜井君からもいずれ知らせがあると思います
一年かけてじっくり考えましょう
時節柄一層のご自愛を祈って止みません
平成19年6月10日    」

来年の引き受けを決意したことを言外に秘めた返事と受け取っていいだろう。
責任感の厚い彼のことまず間違いなくやってくれると確信出来てうれしい。

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2007年6月13日 (水)

思い違い、よくあること

6月13日(水)晴後曇後雨
天気が崩れる予報だが、朝未だ青空も見えるまあまあの天気。
昨夜の蒸し暑かったこと、寝苦しくてとうとう深夜に夏布団を引っ張り出して掛け直す。
窓は開け広げているのだがそれでも暑いのだから仕方がない。
今朝は気温21度。どうなることやら。

娘の所へビデオCDや写真、それに貰い物の野菜類を持って行く。
家内はそこの近所のもみ医者に出かけてマッサージを受ける。私は一人帰宅する。途中のサビスエリアでうどんを食って昼を済ます。
昼中は完全な曇り空で結構風があって涼しい。快適な昼寝が出来て夜の難眠を取り返す。

夕方妹から電話がかり一昨日送った写真は希望の者と違っていた。四国の旅のビデオテープを送ってくれといったのだとのこと、家内の思い違いか妹の言い違いか、ともかく全然無意味に終わった。
取りあえず期待に沿うよう勤めましょうと返事をして一件落着。

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2007年6月14日 (木)

住民税倍になる

6月14日(木)雨
夜来の雨が細々と続いている。
山口県まで梅雨に入ったらしいとか。最近は気象庁もおそるおそるの発表だ。

パソコン本体と外付けHDとの間のファイルのやりとりに時間がかかって仕方がない。USBタイプのHDだからかもしれない。IEEEならもっと早かった気がする。古いHDは皆IEEEだから楽で気になることはない。
それともHDの容量が大きいからかもしれないが。
とかく素人は業者の数字の魔術に誘導されて、うさん臭いものまで信用したがる癖があるのだが、私もその一人らしい。

住民税が倍になったので、銀行で一括引き落としが困難になった。
市役所の収納課に電話して分割のお願いをする。
実のところ親から独立して生活していた孫がやはり倍額になった住民税の上に、家賃の負担が背負いきれなくなるから、親許に今月から還ってくるという話を昨日聞いたばかりで、そんなに高くなったのかと驚いて、我が家のを調べてみた次第だった。
どうして急に倍になるほど高くなるのかよく分からないのだが、問題は国にしろ、地方にしろ収支のバランスが永年悪すぎたツケが来たのではないかとの思いがする。
国民の歓心を買おうと、国民の負担は軽くし、公共事業はどんどん人気取りに必要ないものまで手柄顔にやる。借金は膨らむばかりで、誰も手をようつけない。民主主義政治の最大の欠陥である。
若い安倍だから人気を落としてでも敢えて実行する。えらいなと思う。

借金で首が回らなくなることは、経験豊富な私には合点が行くのだが、とうとういつかは来る財政破綻の後始末に入ったか。バブルで上手に儲け抜けた奴らが憎い。
税金というのはあくまでも所得の一部だから、上手に儲けたやつでも、税負担はそのごく一部で、あくせく毎日労働で稼ぐ者と負担の割合は変わらない。

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2007年6月15日 (金)

葬式費用

6月15日(金)曇
家内の手足の痛みが止まらないので広島総合病院に私が連れて行く。
しかし他の医者からの紹介か、予約がなければ今日の診察ということにならないと言われ、空しく帰ってくる。

午後ユーアイベルモニーからの招待で、新しい葬祭儀場に行く。
なかなか便利の良い設備になっているが、仏式に限った構えなので私の気に入らない。
一応承っておく。
ただ家族葬だけに絞って使用すれば可能だなと感ずる。自宅でやるよりはマシだろう。最小費用35万円くらいで済むかもしれない。
私の墓と自宅の丁度中間の場所だし、焼き場は墓地に隣接しているのだから位置的には申し分無い。

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2007年6月17日 (日)

老人の身勝手

6月17日(日)曇
四国旅行などのテープへのダビングが出来たので、急に思い立って、朝早く妹のうちまで届けに行く。
丁度横浜から哲郎君が来ていたので、随分ひさしぶりで懐かしく、現状などもっぱら聞き役で時間を過ごす。
もう立派に貫禄が出来上がっている。51歳というのだから、かなりの経歴も積み会社の役どころを抑えている感じである。
非常に親孝行というのだから、老両親への気配りも並ではなさそうだ。
妹ら夫婦も幸せなことだ。義弟は少しの間体調を壊し入院していたのだが丁度退院していたところだった。
その知らせを聞いて、駆けつけたのかも知れない。

日曜日とあって往復とも車が少なく、楽に往来ができて助かった。
老人の事だから混雑するところを走るのは、最近特にいやになったから。

夕方近く家内のおともで近くのスーパーに行く。何か寒いので作業上着を着込む。
スーパーでは若い人は皆半袖である。気にすれば変な感じ。私はそれでもクーラーが効いているので、ちょうど良い。

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2007年6月19日 (火)

治らなくても病院通い

6月19日(火)曇
いつもより一時間早く起きる。
一ヶ月振りに広島総合病院行きである。今丁度乾癬が閉塞状態にある。診てもらうには都合が悪いのかも知れない。
思ったとおり良くなったですねで終り。殊更言い訳はしない。
帰路銀行により住民税一期分を支払う。

昼寝を済まして、午後のFMが私の好きなペトルーシカをやる。早速パソコンに取り込む。
幼児性とクラシックの調和が何とも言えず面白い。

家内が痛い痛いとこぼしている手足の痛みは、今流行っているらしい。本屋で雑誌の立ち読みしていた時目に入った。
リューマチの薬がよく効くとあったが、拾い読みだからそれ以上はわからない。
家内には早速告げ口しておいたが、反応は今ひとつ。

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2007年6月20日 (水)

メディアは怖い

6月20日(水)曇
夜が明けるとすぐから烏の鳴き声がやかましい、といってもギャアギャアと騒がしく鳴き立てるわけではない。ごくおだやかな声である。恐らく子育ての真っ最中らしい。
毎年きまった近所の大きな木の枝に巣作りしているふうである。近寄れないよその敷地内のことだから遠望するだけで、所在を確認するまではいつも到ってない。
古くからあった大きな木は数年前切り倒されて、その側にある半分くらいの大きさの数本の木の群れの中にまた作っているらしいのである。人間がふるさとを忘れ難いと同じく烏も生まれ育ったところが懐かしいのだろうか。
裏に極楽寺山がでんと控えている。なにも好き好んでこの部落の隙き間にと思うのだが、彼らにも好みがあるのかもしれない。ただ餌は近くで得やすい。ゴミ袋からあさる姿はいつも見かけられる。これが最大の利点というわけか。

今日はやけに耳鳴りがひどい。頭全体がために鳴動する。昔からいつも多少の耳鳴りはしているのだが、普通はしんしんと雪がひそかに降り積もるごとく情緒があるのだが、今日のはあらあらしく猛り狂う感じである。
人に言ってもわかりっこないことだけにどうしようもない。

雨にはならないが、梅雨空は太陽を隠してくれて涼しく老人には恵みの毎日である。

安倍首相の人気が続落しているらしい。但し極少数のくじびきで選ばれた人たちの人気ではあるが。
この少数の倍率をさも全体かのごとく宣伝し、世の中の動向を作り上げるわけである。
ジャーナリズムの作り上げる人気というべきかもしれない。
しかし私達が戦争に夢中になってそれを謳歌した過去があるので、ジャーナリズムの恐ろしさは後になって深く感ずる。新聞、雑誌、映画が世論をリードした。全日本人はこれに引きずられた。

今は当時と違ってメディアが多く、特にこれからはインターネットなどという分かりにくい存在もあるし、情報操作の難しさはあるにしてもその善し悪しが、世の中を変えて行くことは古今東西変わりはない。
北朝鮮やミャンマーが武力で国内のメディアを抑制し、国際世論に抵抗しているが、この手法が何時まで通用するであろうか。
メディアの怖さがまだわかっていないようである。

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2007年6月21日 (木)

6月21日(木)曇
梅雨空らしい、依然としてはっきりしない天気。
昨日は東京の娘からの長電話を家内が相手していたが、朝子はクラブ活動に勉強に熱心にやってるらしいが、晴子が保育がどうも性に合わないらしい。長続きするかどうか心配なようだ。
冷蔵庫を20年振りに買い替えると言ってたようだ。

ユーアイベルモニーから再発行の書類が送られて来たが、昨日私が古い手紙を捜していたら、入会証が出て来た。発見が少し遅すぎたようだ。

私の部屋のシーリング・ライトが2年ぐらい前からだんだんリモコンの調子が悪くなり、とうとう4段階とも利かなくなってしまった。2、3日前デオデオに持って行き調べて貰ったら、寿命が切れたといわれ、新しいのを取り寄せて貰うことになり、今日入荷の通知があったので取りに行く。
今度は大丈夫なようだ。寝台から起き上がるのが段々難しくなり、スイッチまで一々消したり付けたりしに行きにくくなっていたので、細かいことでもほんとに助かる。
よろけて物に打っ付かる怖れがなくなった。

大国中国では、あちこちで洪水に見舞われているらしい。もちろん雨が降らなくても上流から流れ出る河の増水による氾濫もあるから始末が悪い。
戦争中長沙の南方二百キロ付近に長期駐留していたことがあった。
雨季に入って毎日良く降ったが、その挙げ句三百キロ下流の洞庭湖が三倍くらい広がって大変だと、湘江を往来する船舶部隊の兵隊が興奮して語っていたのを聞いたことがあった。
交通途絶してまともな戦争は出来ないから、平和な駐留期間だったことを後で思い出したりしたもんだった。
他ではのるかそるかの大戦争が繰り返されていた。サイパンの陥落の直ぐ前頃の話である。
小さい国はいいなとこんな時期にはつくづく思い出す。
梅雨の雨を心配するなんて、小さすぎて話にもならない。

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2007年6月22日 (金)

気休めの雨

6月22日(金)雨
朝目覚めると夜来の雨がしとしととベランダを叩いている。何かほっとする。
灰色の雲がすっぽりと世界を覆い尽くし諒闇がいつまでも続く。

広島で昨年開かれた国際民衆法定で原爆投下を指導したトルーマン以下の政治家などに有罪判決を下したが、来月判決文を公表すると新聞に小さく載った。
アメリカはホノルル・パールハーバー攻撃の仕返しだとし、同罪だと言い続けている。
アメリカ連合艦隊攻撃という軍事目的と広島、長崎の一般市民50万惨殺を目論んだ原爆が同罪だとは、永久に疑われる論争であろう。
日本は東條以下戦争犯罪人として極刑で始末を付けられている。連合国側は一人の戦争犯罪者もいない。
こんなひどい格差があるだろうか。
戦争の勝敗は善悪の論理を超えて非情なものであることは古今東西不変の原理である。

国際法とか平和とかいっても所詮は強者の論理であって、新聞といえども大きく論ずる埒外のことと弁えている風である。

終日梅雨らしく降り続く。時に小休止はあったが。量的には僅かで旱魃の憂いを救ってくれたとはいえまい。

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2007年6月23日 (土)

したたかな北朝鮮

6月23日(土)曇
東天の雲の隙き間から日の光がサーと街の屋根、屋根を明るく照らす。空は真っ暗だが。

北朝鮮と米国の交渉の当時者ヒル国務次官補が日本に来る。100%目的を果たした北朝鮮はやはりしたたかだ。原子爆弾施設を撤去する公約と実行は一歩一歩の進行で、未だその間に経済制裁の撤廃など条件があると思われる。
拉致問題の解決はまだまだずっと先の課題で、恐らく誠意ある交渉には賠償問題が先にあるというだろう。
北朝鮮にとっては、施設の撤去は何等の損害はない。ノウハウは既に手中にあるのだから。
こだわるだけこだわって大きな成果を得ることになるだろう。振り回されるだけの6ヶ国よ。

核施設はいくら大国だけが独占しようとしても、もう無理である。
大国自身が率先して廃棄に向う以外に解決策はないだろう。一旦ゼロにしてしまえば、いざというときには、経済的に優位にある国が一番強い筈だ。以てよしとしなければならないだろう。
核を使わないことが、何処の国にとっても一番良い選択ではないのか。

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2007年6月24日 (日)

87歳同士のメール交換

6月24日(月)雨後曇
今朝起きるとちょっと腹の調子がおかしい。食前と食後に下る。
食事はパン半分に卵とキャベツをまぶしたもの。それにコーヒーと牛乳だけ。
昨夜も悪そうな物は何もない。変な病気である。

かねて案じていた大阪の水戸君がメールを送って来た。癌の大きさが半分になった。もう抗がん剤治療をやる程のことはないから、一ヶ月一度の検査で様子を見て対処すると医者の先生が言った由。
平常な生活に一応戻れたと喜んでいる。
ー”あなたも私も充分やり尽くして悔いはない身分です。
天命と思って成り行きに任せるのが一番です”ーといって返事をする。
ついでにー”まあいいじゃあないですか。
気分だけはくじけずにやりましょうや”ーとしめくくる。

最近はメール友達だった孫たちも、巣離れして老人の手からは飛んで行き、新聞社や総理官邸などからの堅いメールばかり読んでいるこの頃だけに、冗談が言える唯一の老友のメールは何よりも嬉しい。

昨日注文していたmicro SDカードの一人3個限り(数量限定50個)という特価品が送られて来た。遠慮して1GBを2個注文したのだが、中を開けてみるとminiSDとSDのadapterのセットばかりが2個あるばかりで、肝心のmicro SDカードはあちこち段ボールをひっくり返しても入っていない。それはないでしょうと送り先に文句を云ってメールする。

気分はそう悪くはないのだが、昼飯は抜きにして寝る。音楽を聴きながら。このままスーと死ねればらくちんなのだが。

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2007年6月25日 (月)

あじさい

6月25日(火)晴
空は灰色に覆われているが、日射しは暑く通り抜けて地上にそそいでいる。

昨日は軽率にmicroSDカードのことで購入先に迷惑をかけてしまった。今朝気づいたので訂正お詫びのメールを送る仕儀に到った。
詳細はこうだ。添付写真のように送って来た物はいずれもadapterとのみの表示がしてあり、一応は中身があるのではと調べたのだが、わからなかった。ところが今朝 miniSDのカバーの中程のへこんでいる所を指先でいじった所、小さいMICROカードが抜け出て来た。ああここにと驚くと同時に仕舞ったと思った。
早速お詫びをせねばとすぐメールを送った。老人はとかくはやとちりや間違いが多い。
それにしても指先も届きにくいところにいくらMICROとはいっても、細かいことをするもんだなといささか仰天する。これで1GBというのだからどうなってるんだと再度驚く。

昼前から足慣らしに植物園に行く。歩くのが目的なので、ベゴ二や館を覗いて後、公園内を広く歩きめぐる。
日本庭園もあじさいが花盛りで菖蒲などは終わっている。回りの山も緑が濃くなり暑くて息が切れ、汗びっしょりなるが、風情は乏しい。
家内の足の具合が一番心配だったが別に問題はなさそうである。
園内の軽食堂でうどんを食って帰路につく。
一汗かいたので早速シャワーを浴びる。

家内が頼んでいたシルバーサービスの人が来て庭木を見て帰る。一ヶ月先に剪定に来てくれるそうだ。

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2007年6月26日 (火)

年金は敗戦のとがか

6月26日(火)曇
予報では天気が回復して暑くなるというのだが。
朝からひどく蒸し暑い。

安倍内閣の評判が悪いのは社会保険のせいだといわれ、参議院選挙もあぶないというが、これは可笑しい。
社会保険は今に始まったものではない。60年前いや戦争中から始まったらしい。私も戦後強制的に入らされたけれど、今になってこんなに役に立つとは思いもかけなかった。
考えて見ると、訳の分からぬ事務員さんが、いい加減に給料からさっぴいて、納付書で納付していたのだが、はじめは取られるばかりだから本気でやるものはいない。ただ健康保険と込みだったから仕方なく黙っていた。
小さい企業になると、さっぴいただけで納付しない。会社の利益に繰り入れたりする。
まったくいい加減な物で、将来又戦争でもはじまると何の役にも立たなくなると、期待どころか損をするばかりと不評な存在だった。
従って国民全部が期待していないのだから、うまく機能する筈がない。役人も悪かったかも知れないが、現在の様なコンピューターがあるわけではないし、手間ばかり凄くかかるこんな制度を持続することそのものに無理があった。
性善説に立てば、5千万の人間の面倒見るのが至当かも知れないが、現世の如く性悪説を取らねば行政は成り立たない時代に何を馬鹿なことをと、安倍さんのまじめな応答に呆れる。時効を中断してまでやる必要があるのか。
5千万の人間がいい加減に考えてたから今がある。自分の責任ではないのか。
年金以上に経費がかかり、また増税というのではこちらがやりきれない。
敗戦国日本にはまだまだ過去を穿ればやることは沢山ある。
ねじ曲げられたことも多い。私なども命を投げ出して働いて、家財産すべて木っ端みじんになったが文句の一つも言った覚えはない、
すべて戦争の、敗戦のせいとして片付けられない物か。

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2007年6月27日 (水)

私にも父がいた

思い返して見ると、母はほとんどいつも一緒だし後年別居しても絶えず行き来していたので、想い出も多いし語ることは少なくない。逆に親父の事となると殆ど母の受け売りで、記憶も遥かに乏しい。
十歳のとき5年振りにメキシコから帰国した父と再会したのだが、どこのおっさんかと、とても親しく近寄れる存在ではなかった。
それに無口で頑固で母に言わすとへんくうだと言う。へんくうとは方言で人の言うことを聞かず、頑固の別名みたいなものである。十年後に肺炎で急死した。
小さい時は、遊び過ぎて夕方遅く帰り、怒られることが多かったが、ある時は家を追い出されて、母の詫びで夜遅く帰参を許されたことが一度あった。
農家の長男の私は、それでも可愛がられた方で、怒られても暴力を振るわれることはなく、余程忙しくない限り手伝いをさせられることもほとんどなかった。
本を読むことに熱中していた私がよく勉強していると思われたのであろう、半ば放任されていたようだ。
もっとも学業の方をそこそこいい成績で通したことが原因でもあったのだが。

父との接触で直接深く記憶している想い出が数は少ないがいくつかある。
先ず小学校5年のとき、当時盛んになった少年野球があった。担任の中川先生が休憩時間や放課後はもちろん他にも空いた時間があると悪童たちを集めてノックバットを振るった。
その内チームを作って試合をするということになった。子供だから下手な喧嘩などするより余程面白い。
正式にチームが出来て休日などにはよその学校と対抗試合をするまでになった。
今でも覚えているが、呉の五番町小学校は強かったなあ。ユニフォームまで揃えているのだから、それだけで気圧された。
補欠に近い選手だった私だが、可愛がってくれていた中川先生に、出来たら自分のグラブやバットを親に買って貰うよう示唆されたことがあった。すぐ父にねだった。父はアメリカ帰りだからよく知っていて、すぐ承諾してくれた。
ところが、いつまでたっても実行してくれない。
ある土曜日の午後、今週中には買ってくれると約束していたのだと思うが、食事に帰宅して見ると全然買っていないし、買いに行く気配も見えない。俄然私は泣き叫びながら怒り狂った。
父はそりゃあ悪かったと言うがいなや、直ぐ着替えして1里も先にある岩国の町まで買いに出かけた。
一時間以上かかった思う。グラブもミットもバットも球も(勿論軟式だが)一抱えにして買って還ってきた。
私は躍り上がる様にして、すぐそれらのグラブとバットを持って学校に戻った。その嬉しかったことはいまでもまざまざとその姿が眼前に彷彿する。

昭和13年の春休みに、親友の神村君から自転車で出雲大社に参拝せんかと誘われ、承諾したのはよいが、帰宅してから親に話すと母に大反対されてしまった。それでなくても学校の費用が沢山かかるのに、遊びにまでとお金の心配が先にたっての反対だった。父は若い時にしか出来ぬことだからなあとどちらとも言えない態度だった。
よそで聞いてみるからと、当時朝日新聞を配達してくれていた自転車屋さんに尋ねたらしい。
中国山脈を自転車で超えるなんて、学生には無理だ。自分らも昔行ったことがあるが、故障はするし、突っ張ったり引っ張ったり、歩く距離が長くて死に生きの目にあったという。止めた方がいいぞと父もその気になってきた。
友との約束もあったし、彼がすでに親父の承諾を取って準備が出来てたので中止出来なくなった。
とうとう押し切って出かけることになった。
行く日の朝のムスビつくりまで渋って反対した母に家を御出る様な気持ちで、出立った。
家から出て自転車に股がった途端、そばに寄って来た父がこれを持って行けと紙包みをくれた。10円ではとても1週間は無理だから、気をつけて行けとぼそぼそと言った。5円入っていた。宿賃が1円から1円50銭の相場だった時代だから。旅行経験豊かな父には分かっていたらしい。

昭和14年の9月、満洲重工業関係の就職試験が九州帝大であり、即日子会社の満洲鉱山に採用が決まった。
大喜びで親に報告の為直接郷里に帰った。遠い満洲に行くのと母は不満顔だったが、父は若い時は旅するのもええと喜んでくれた。
それから2、3ヶ月後の11月22日合同教室での講義の時間だった。
突然事務員がドアを開けて教室に入って来て、紙切れを先生に手渡した。先生はチラと目をやって、すぐ私の名を呼んで手招きした。そばへ行くと小声でチチキトクとある、すぐ還りたまえといわれる。
夕方家に着いて見ると、祖母(母の母)が一人ぽつねんと居て、病院に早く行けと押し出す。
病院では母や弟妹らが枕辺に心配そうに並んでいる。父は苦しそうに息を出し入れしている。意識はもう無かった。
急性肺炎ということだった。その翌早朝何も話すこともなく死んだ。59歳だった。私はまだ20歳になっていなかった。父については母から聞くことだけでほとんど知らないと言ってよい。縁の薄い父だった。膝元で父の警咳に接しながら暮らしたのは、結局数年に過ぎなかった。

人生経験豊富な父を失った今、頼るものは皆無と言ってよかった。荒波の中に放り出された小舟のごとく、私の人生はおりからの世界の逆風に喘ぐ日本国の運命のままに翻弄された。
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2007年6月28日 (木)

旅はもう無理か

6月27日(水)晴後曇
相変わらず梅雨空で青い空は見えないが、日射しは暑く灰色の雲を透して照りそそぐ。
家内は相変わらずあちこちが痛いという。今日ももみ医者の治療を受けに出かける。なかなか効果が出ないとこぼしながら。
昼過ぎには帰宅する。喜んでる風は無い。

通じが相変わらず無い。明後日は室戸まで自動車行である。糞詰まりのままでは苦しくていけないだろう。
心配になって下剤の貰い物があったので夜呑む。
先般利き過ぎてひどい目にあったので、違う分で知人に貰ったものにする。
今日はブログに親父の事を書く。想い出も少ないが、その上記憶が薄れるばかり。もう67年も経つのだからしかたがないだろう。写真を見ても全く思い出さない。それでも書き上がった物はかなりの長文になった。

6月28日(木)曇
昨夜下剤プルゼニドを2錠飲んで寝たので、今朝は効果覿面順調に便通がある。
気分的にも随分楽になる。明日の室戸岬行きがあるだけに。

8時過ぎ老人会で部落の集会所の掃除、庭の雑草除去作業奉仕があり、家内が痛む手を無理して出席する。
私が出るのが本当なのだろうが未だかって老人会の行事に出たことがないから、済まんなと思いながらも遠慮する。

昼前にちょろちょろと降ったが、それきりで夕方まで降って来ない。家内は洗濯物を干して出かけたりしてるので気が気ではない。
夕方には涼しい風が吹いて来て過ごしよい。
旅行社から確認の電話が入る。朝6時にバス停まで出ていなければならない。帰るのが夜の10時過ぎだからやはり大変だ。腹具合がうまく治まってくれれば良いが。

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2007年6月29日 (金)

モネの庭と室戸岬

6月29日(金)曇
朝7時予定通り広島駅前を出発、総勢46人のツァーである。
今にも降り出さんばかりの雲行きの中、前途まことに多難の予測の中を出かけたのだが、豈図らんや、瀬戸大橋にかかる頃には青空が見えなじめ、第一の見学地高知県北川村のモネの庭園に付いた頃には、正にかんかん照りの真っ青の空。車を降りた途端、真夏の日光を浴びて途端にがっくり力が抜けてしまった。
花の庭から見て回れとの、案内人の言葉通り、食事が終わるとすぐ実行にかかったのだが、何せこの暑さ、木蔭を求めあるいて肝心な花の何処が良いやら、判断がつかぬ。もっともフランス流の庭園とあって雑草も花も渾然として、私達の流儀では少しも美しくない。
写真も写す気がなくなって、水の庭に移動する。
こちらは素人の私でもよく知っている睡蓮の池実物模写である。
こちらはなかなか良いと思ったが、時期が適当でないのか花が少なく小さくて迫力がない。
それでもこちらは見物の皆さんには好評だった。
ゆっくり廻ったつもりだったが、それでも一時間。
二時間半の予定になっていたので、まったく時間を持て余す。
大して趣味を持たないものには、無駄な時間が多すぎた感じだった。
逆にそれから行った室戸岬は余裕時間20分。道路から沖合を眺めるだけで、波打ち際まで行くとか、海浜道路歩くとかは全然出来ない。これではあまりにも情けない。
先年妹らと二家族で個人的に足摺岬などを遊覧したときは、岬の宿舎に一泊したせいもあるが、暮れの景色、朝の景色と堪能した。その想い出があっただけに余計につまらなく感じた。
室戸と言えば空海である。その事蹟に殆ど接することがなかったのは大いに残念である。
最御崎寺だけ通りすがりに気づいて覗いたが、これだけでも今日一日の旅の値打ちがあったとさえ感じている。
千キロ近い距離をただ自動車で走りまくり、炭酸ガスをまき散らしただけでは情けない。
業者も私自身も大いに反省しなければならない。Monegarden
Murotomisaki
24banji

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