« 旧友からの電話 | トップページ | 文字と語り »

2007年1月11日 (木)

上京

今朝早く目が覚めて枕元のラジオを聞くともなく聞いていると、五木寛之の例の「わが人生の歌語り」が聞こえて来る。今朝は丁度苦学を覚悟して,早稲田大学へ入学した当時のことが語られる。
彼は私より随分若いから、終戦後4、5年経ってからの話だが、私は終戦1年後、戦地から帰還して、我が家が跡形も無く爆撃で破壊され、回りの田畠も穴だらけで、このままでは食って行けなくなるとの判断から、何か職をと、手っ取り早く東京に行けばなんとかなるだろうと、皆考えると同じ事を考えて上京を決心した。
徴兵に引き続いての軍務を終えてからの年齢だから、すでに26歳を超えていた。
ただ食料事情から、入京制限があり、やむを得ない事情がない限り入京は出来なかった。
折よく東京中野の国際外語専門学校というのがあって、丁度10月1日からの学生募集をしていて寮完備とあったのを新聞紙上で見て、応募し入学許可の通知を受け取った。

彼五木は家具職人になるか、大学に行くかの選択の上で,早稲田大学入学に決めたのだから、事情は私とは違うが、東京を将来の生きて行く方向に決めた事は同じであった。しかし新聞配達しながら(それも池袋から出かけて、月島方向に朝3時に起きて午前中いっぱい)勉学するというのだから大変ではあっただろう。
似通った戦後の生き方に今更に私も昔を思い起こす羽目になってしまった。

この国際外語というのは、寮完備といっても、6畳一間に6人入居し、机どころか僅かな荷物の置き場もない。
しかも夜は60ワット電球一個で、真ん中に吊るしても、暗くて字も録に読めない。時々停電したり、電圧が急降下して必要な時間に暗くなったりしてますます用をなさない。蛍も居なければ,雪もない。勉強どころではなかった。
幸い同室の青年は皆全国の田舎から来た純朴な年下の若者で、文句の一つも出る事はなかった。

私は夜学部に廻してもらい、学業はそっちのけで職探しに努めた。
たまたま外務省嘱託で、英語のトランスレーターの仕事の募集が新聞に載っていた。
もともと英語を勉強し直すつもりで上京したのだからこれがいいと受験した。
運良く試験官が地元近くの出身の二世将校だったおかげで、簡単な実力試験だけで、一つ上の階級のシニア・トランスレーターとして採用してくれた。

学校寮から10分歩いて中野駅に行き、そこから中央線で東京駅まで、満員電車は今以上で窓から出入し、連結部にぶら下がることもしばしばだった。ドアも窓もほとんどなかったので、振り落とされないように絶えず心配をしていたものだ。
今も存在する東京中央郵便局の三階が職場であった。Civil Censorship Detachmentといい、通常CCDと云っていた。
1セクション10〜12名でキャプテンは米軍将校、ビジネス関係の書簡の内容の翻訳が仕事であった。
部屋の出入りは厳重に管理され、便所以外は勤務中は席を立つ事も許されなかった。隣の人との私語もほとんどなかった。朝8時から午後5時まで8時間勤務で、ただ休憩時間が1時間に10分づつあり、昼食時間が1時間あった。

昼食には東京駅から神田駅まで電車で行き、駅前の雑踏する市場で立ち食いする毎日だった。寮で夜中に小さい電気コンロで小鍋で田舎から背負って来た米を炊き、それを弁当箱に入れて持ち歩き、市場でイワシの焼いたのを一匹5円、米軍の食べ残しのシチュウ一杯5円など買ってそえるのが私の常食だった。
部下を何十名も指揮して戦った俺がと、内心忸怩たるものがあったが、日劇にたまたま行ったとき、海軍大将の息子がサンドイッチマンをやっていたのを見て、時代が変わったのだと自分を慰めたりした。

五木寛之は今流行作家の一人といってよい。一応功成った人だが、こちらは功敗れて悪戦苦闘の末、空しくこの世を去らんとしている。
運命は融通無碍予断を許さない。良かったか悪かったかもわからない。しかし実に面白かった。

|

« 旧友からの電話 | トップページ | 文字と語り »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/13438367

この記事へのトラックバック一覧です: 上京:

« 旧友からの電話 | トップページ | 文字と語り »