« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »

2007年1月 1日 (月)

元旦

ここ何年か紅白も見る事もなく、早々と枕辺のCDカセットから流れ出るクラシックを聞くともなく眠りにつくのが習いとなっている。
元旦の寝覚めは流石に早い。しかし起き上がるには寒過ぎる。
夜が明け切ってからゆっくりということになる。
概ね9時過ぎになって、家内が用意してくれた雑煮に新年の記憶を蘇らされるというわけである。
といっても冥途への一里塚をよぎったという感慨以外は起きない。
1月生まれの私は間もなく滿でも数えでも加齢する。
「誕生日おめでとう」と先ずパソコンメーカーからお祝いのメッセージが入るのだが、あまりいい気持ちではない。
子や孫は最近は少し遠慮してくれてるようだ。
年賀状はとうとう例年の半分ぐらい出したが、飽きずに寄越してくれる人には、改めて書く事になるだろう。
結構一仕事あって新年早々忙しくなる。
年賀もまともに出来ない老人とはまことにつまらないものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 4日 (木)

私の三社参り

昨日は「三社参り」というのに参加した。
防府天満宮、津和野太鼓谷稲荷、萩松陰神社の三社を一日かけて参詣して廻るわけである。
元来神仏の信仰の薄い私は、最近はついぞ元旦3ヶ日に神参りなどしたことがなかったのだが、今年は孫が二人入学受験を控えているので、ふと神頼みする気になった次第だった。
旅行好きな家内のところに来る旅行案内に、上記の三社参りの募集が載っていたのでその気になり誘いこまれたという事である。
防府は9時一寸過ぎくらいについたので、人も未だ少なく順調にお参りをすませ、孫たちの合格祈願それのみをお祈りした。
津和野と松陰神社は午後になってしまったので、凄い人並みにもみくちゃにされてしまった。
拝殿にはとうとう近寄れなくて、遠くから拝礼して終にした次第だった。
元気のよい若者たちの群れに圧倒されて近寄る事もできなかった。ころんで怪我をするなんてみっともないから、あえて近寄る事を遠慮したというのが本音だが、神もちゃんと見届けてくれたと勝手に想像している次第。
450キロの道のりを12時間かけて廻ったのだが、他人様の運転だからこちらは楽なもんだが、今回は座席が最後尾だったせいか、バウンドがきつく尻が痛くて閉口した。
家内も長い石段の上り下りのせいか,或は車のせいか足腰が痛いと今朝もぶつぶつほざいている。Img_0161
Img_0202
Img_0221

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 9日 (火)

義母の三回忌

家内の母の3回忌の法要に招かれて二人で出かける。
一昨日の大雪でとても車では無理だと思っていたが、その日のうちに晴天に恵まれて完全に融けてくれ、昨日は楽々と高速道路を走って行く事が出来た。
私には義母になるのだけど、やさしくて思いやりの深い、実の母以上の全くの慈母だった。
私の数々の逆境を支え続けてくれた、有り難い母だった。
今更に深い思いに、仏壇の側に飾られた写真からよびかけられる声を感じた。
1996.6.7かねてから病気に臥せっていた父の看病に疲れたのか、突然脳梗塞に倒れ、病院にかつぎこまれた。
その1月後にはとうとう父が看病の甲斐なく先立ち、爾後ほぼ10年病院を転々としながら恢復に努めたが、完全復調はとうとう成らず、2005.1.13永眠した。享年98歳だった。
年齢に不足はなかったが、後もう少しで百に達したのにと欲を言えば残念な生涯だった。
先立った子が一人いたけれど、七人皆この母を見習った申し分無い良い子ばかりで、良妻賢母の見本みたいな母だった。もって冥すべきであったかもしれない。
余生の少ない私ではあるが、余儀ない別れの直後から枕辺にこの両親の写真を飾り、この恩義に応えるべく自戒の伝手としている。
この母への思いはとても言葉では言い尽くせない。My_mother_in_law_1

My_mother_in_law2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月10日 (水)

旧友からの電話

耳元で鳴り響いている名曲に乗った胡蝶の夢が突如破られて、家内の大きな声に午睡から驚き目覚めた。
大阪から電話という。
格別心当たりはないから、未だ夢の続きかなと思いながら階段を下りる。
受話器を取ると、同窓のM君だ。どうしたんというと、返事はせずにええ音楽をかけてるなあという。
丁度FMがベートーベンの大公をやっている。下でも家内が大音量で掛け放しているのが、私を呼びに二階に上がった間、2、30秒間受話器から流れ込んだらしい。

そしておもむろに年賀状を貰って返事が遅くなって済まぬという。ひい孫の所に行って今帰ったところだという。
ひい孫は一橋の学生で彼の自慢の種であることを、先般の同窓会でしっかり聞かされていた。
自身の母も昔音楽家志望だったことまで持ち出し、正月らしい懐かし話まで出て来て尽きない。

正月になるとよく札幌の旧戦友が長電話して来て驚かされるが、今年は大阪だった。少し元旦は過ぎているが。

話題になったベートーベンの大公は私の最も好きな名曲の一つだ。18、9歳の学生の頃、学校の同好会の主催で市の教育会館で当時世界最高のトリオといわれた、コルトー、ティボー、カザルスの大公のレコードの試聴会を開いた事があった。もちろん聴衆皆賛嘆の声を発するばかりだった。
戦前で生の演奏は勿論レコードですら簡単に手に入るものではなかったし、その上、手回し蓄音機以外の音響装置は珍しい時代だった。

トルストイがベートーベンのクロイツェル・ソナタをテーマに有名なロマンを書いているが、私はこのソナタより大公がもっと好きだ。トルストイがバイオリンとピアノの交錯に両性の愛憎の高まりの激しさを感じたのに対し,大公は終始平和な家庭団欒の響きを醸し出し、チェロの加わった役割が大きく音楽を左右している様に私には感ぜられる。
どちらか甲乙は云えないが、好みの問題で取るしかない。
ベートーベンの曲はどれも単純な音楽では居ない。皆何かを語りかけているものばかりだ。

ベートーベンはいつ、どんな場面に出くわしてもやはり素晴らしかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月11日 (木)

上京

今朝早く目が覚めて枕元のラジオを聞くともなく聞いていると、五木寛之の例の「わが人生の歌語り」が聞こえて来る。今朝は丁度苦学を覚悟して,早稲田大学へ入学した当時のことが語られる。
彼は私より随分若いから、終戦後4、5年経ってからの話だが、私は終戦1年後、戦地から帰還して、我が家が跡形も無く爆撃で破壊され、回りの田畠も穴だらけで、このままでは食って行けなくなるとの判断から、何か職をと、手っ取り早く東京に行けばなんとかなるだろうと、皆考えると同じ事を考えて上京を決心した。
徴兵に引き続いての軍務を終えてからの年齢だから、すでに26歳を超えていた。
ただ食料事情から、入京制限があり、やむを得ない事情がない限り入京は出来なかった。
折よく東京中野の国際外語専門学校というのがあって、丁度10月1日からの学生募集をしていて寮完備とあったのを新聞紙上で見て、応募し入学許可の通知を受け取った。

彼五木は家具職人になるか、大学に行くかの選択の上で,早稲田大学入学に決めたのだから、事情は私とは違うが、東京を将来の生きて行く方向に決めた事は同じであった。しかし新聞配達しながら(それも池袋から出かけて、月島方向に朝3時に起きて午前中いっぱい)勉学するというのだから大変ではあっただろう。
似通った戦後の生き方に今更に私も昔を思い起こす羽目になってしまった。

この国際外語というのは、寮完備といっても、6畳一間に6人入居し、机どころか僅かな荷物の置き場もない。
しかも夜は60ワット電球一個で、真ん中に吊るしても、暗くて字も録に読めない。時々停電したり、電圧が急降下して必要な時間に暗くなったりしてますます用をなさない。蛍も居なければ,雪もない。勉強どころではなかった。
幸い同室の青年は皆全国の田舎から来た純朴な年下の若者で、文句の一つも出る事はなかった。

私は夜学部に廻してもらい、学業はそっちのけで職探しに努めた。
たまたま外務省嘱託で、英語のトランスレーターの仕事の募集が新聞に載っていた。
もともと英語を勉強し直すつもりで上京したのだからこれがいいと受験した。
運良く試験官が地元近くの出身の二世将校だったおかげで、簡単な実力試験だけで、一つ上の階級のシニア・トランスレーターとして採用してくれた。

学校寮から10分歩いて中野駅に行き、そこから中央線で東京駅まで、満員電車は今以上で窓から出入し、連結部にぶら下がることもしばしばだった。ドアも窓もほとんどなかったので、振り落とされないように絶えず心配をしていたものだ。
今も存在する東京中央郵便局の三階が職場であった。Civil Censorship Detachmentといい、通常CCDと云っていた。
1セクション10〜12名でキャプテンは米軍将校、ビジネス関係の書簡の内容の翻訳が仕事であった。
部屋の出入りは厳重に管理され、便所以外は勤務中は席を立つ事も許されなかった。隣の人との私語もほとんどなかった。朝8時から午後5時まで8時間勤務で、ただ休憩時間が1時間に10分づつあり、昼食時間が1時間あった。

昼食には東京駅から神田駅まで電車で行き、駅前の雑踏する市場で立ち食いする毎日だった。寮で夜中に小さい電気コンロで小鍋で田舎から背負って来た米を炊き、それを弁当箱に入れて持ち歩き、市場でイワシの焼いたのを一匹5円、米軍の食べ残しのシチュウ一杯5円など買ってそえるのが私の常食だった。
部下を何十名も指揮して戦った俺がと、内心忸怩たるものがあったが、日劇にたまたま行ったとき、海軍大将の息子がサンドイッチマンをやっていたのを見て、時代が変わったのだと自分を慰めたりした。

五木寛之は今流行作家の一人といってよい。一応功成った人だが、こちらは功敗れて悪戦苦闘の末、空しくこの世を去らんとしている。
運命は融通無碍予断を許さない。良かったか悪かったかもわからない。しかし実に面白かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月13日 (土)

文字と語り

今日の新聞の「記者手帳」というコラムを読むと,扱い難い若者の言葉について縷々述べられて居る。
そしてその扱いに頭を悩ましているとある。
私もささやかながらブログの仲間入りして、人のブログを覗いたり、トラックバックやコメントを頂いたりするが、往々にして若者らしい人のメールには解釈に苦しむ事がかなり起きる。
といって人生体験の少ないものの言葉使いを一々文句を云ったり、理解しようと努めても仕方がないのでは思ったりする。何時の時代でも、あるカテゴリーの中で通用したり,さしたりする言葉は発生するもので、歴史は繰り返している。
私などの若き日にはやたらアルバイトとかシャンとか聞き慣れん外国語をちりばめて得意がったものである。今では何でもない共通語になってしまった。
共感をもたれれば、いずれ万人の共通語となるであろうし、さもなければ間もなく消え去るであろう。
記者さんはすべからくそうした先端的な言葉に惑わされず、むしろそれらに解釈的表現を与えながら、万人に通用する言葉でまかり通って貰いたい。新聞は公器なのだから、あくまでも万人に理解出来る表現にしてもらいたい。特に外国語の乱用は避けて貰いたいし、出来たら面倒でも日本語の意味を付け加えてもらいたい。

一般大衆と呼ばれる殆どの国民は政府の発する公報すら、理解が出来ない場合が多いのではといつも感じているのである。
テレビなどの語り言葉では分からなくても用字や字配り或は懇切な説明で理解さすのが、文字を使用する新聞の存在意義だと思うのだがどうだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月14日 (日)

久井の岩海

いつだったか大分前にテレビで紹介されて一度見ておきたいと思っていたのだが、たまたま昨日家内が天気が良いから足慣らしにどこか歩いて来ないかというので、それでは三原市の”久井の岩海”を見に行こうと誘う。
家内にはあまり興味はなさそうなのだが、強引に連れ出す。
宇根山という山の中らしいから、先日降った雪が気になるのだが、日数が大分経っているから大丈夫だろうと決行する。
もう昼近くなっていたが、五日市ICから高速道に入る。小谷SAで昼飯を食って、三原久井ICまで行き下りる。
出口の料金所で岩海を見に行くのだが雪は大丈夫かと尋ねる。3日ばかり天気がよいから心配ないですよと答えが還る。
15、6キロ行って、入口の表示も云われた通り見えたのでそこから道を折れる。5キロ先と書いてある。あちこち山蔭に雪が見える。
だんだん一車線の無舗装の田舎道に入って行く。向こうから車が来たらどうにもならんなと恐る恐る進む。道路にも車に融かされた残雪が転々と掃き寄せられている。凍りでもしたらスリップして大変だと怖くなる。

やっと岩海表示の入口に着くと10台ばかり置けそうな駐車場があり、先客が一台止まっている。
車を降りて山道を歩いて行く。道は一応滑らない様に荒舗装してある。
百米も行かないうちに眼前にごろごろと大きな岩の群れが帯状に山の頂上まで広がる。
看板の説明を見ると巾65m,長さ550mという”ぜにがめごうろ”というのがこれらしい。他に”なかごうろ”、”おおごうろ”、”こごうろ”と全部で4ヶ処あるようだ。
残雪を踏みしめ、ぬかるんだ枯れ草の上を行くのだから、全部はとても廻れない。
他は樹間に透かし見しただけで,満足して帰る事にする。

大昔大きな岩盤だったのが、自然の気候変化によって、分解し丸くなったのだそうで、学術上大変貴重なものだとある。
以前作楽神社というところで、小さな石が自然の力で固まってさざれ石になったという大きな石を見た事があるが、その逆の自然作用という事になる。そちらは伝説らしかったが、こちらの”ごうろ”は学術的裏付けがあるらしい。
元の岩盤の大きさは、広島市民球場の10倍もある日本最大規模のものと書いてある。

帰りはなんとか順調に広島まで帰る。
ところが広島の先で交通事故があり、ここで下ろされて市街道路を抜けてやっと4時頃家に着く。1時間損した勘定で、これでがっくり疲れが出る。
Img_0233
Img_0239
Img_0243

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月15日 (月)

今のパソコン

数日前東京の娘から、パソコンが真っ黒くなって動かなくなったがどうしたらよいかと電話がかかる。
もともとうちで使っていたIBOOKだからというわけで私に聞いて来たのである。
もう譲ってから2年ぐらいになる。OSのバージョンが今私が使っているのより一代前のものである。
通り一遍のトラブル処理法しか思いつかない。2度3度試してもらったけど治らないという。
電話でのやりとりだから、なんともマドロッコイ事でなんともならない。結局業者に頼めという事になる。

ふと思い返してみると、一昨年6月に今使っているeMacを買ってから、ついぞトラブルにあったことがない。
器械が良いのか、OSがよいのか、それとも使い方がよいのかわからない。
もう一台古いiMacがLanの一端に予備として繋いであるのだが、こちらも別に使う事は殆どなく,家内が時折インターネットを覗くぐらいで支障は起きない。

経験という事は大事なもので、トラブルを解決するという事もその一つである。
昔はいろいろトラブルに遭遇し、書物を見たり、メーカーに尋ねたり、修理に何度も出したりした。十数年になるのだから当然である。
それがここのところ全然起らない。不思議と云えば不思議である。
かなり厄介な使い方をしていたが、何も起らない。1年何ヶ月も前DVDに音楽を録音するとき、12時間作動し続けて,何度も警告が出たりしたが、これもシステム環境設定のセキュリティの内容のチェックを全部外したら今は何も起らなくなった。
使うものの都合に合わせて細かい所まで設定出来る様に考えられていることがよく分かった。
素晴らしいパソコンになった。
何も起らないという心配が発生したという事になるのかもしれないが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月16日 (火)

地球破壊

先日の新聞記事に瀬戸内海の小島が棲息している虫のつくる穴から段々崩落して島が形を変え無くなりつつある状況を報道され驚いた。
昨日の新聞の「天風録」というコラムに同じ驚きを取り上げ論評している。
同じコラムに書いてある、蟻の一穴が堤防決壊の原因になる話は子供の時に聞かされた教訓である。
先日訪れた久井の岩海も自然の恐るべき力をまざまざと見せてくれている。
しかし人間の破壊力は申すまでもなく凄い。しかも桁違いに急速である。下手をすると地球まで破壊するかもしれない。

温暖化現象などは早くから警鐘が鳴らされ続けている。
核実験など、愚か過ぎる。日本の2発で終にすべきである。次に使うときは即地球自爆に繋がる筈だ。
たゆみなく続けられている自然の造化現象に拍車をかけるつもりか愚かな人間共。
行き着く先は火星か金星か。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月19日 (金)

年賀状

もうかれこれ40年も前、私の店で働いていてくれた一女性が未だに忘れずに年賀状をくれている。
公の機関での後輩とか、会社の同僚、後輩とかは未だに年賀状のやり取りぐらいは続いているものが沢山あるが、一時期十数年、個人で経営した仕事上の部下からの年賀状は今はもう殆ど無くなった。
如何に徳のない経営者だったかと、今となるとやはり汗顔の至りと感ぜざるを得ない。
唯一の救いが彼女である。
結婚のため一応退職したのち婚家先の長崎にいるとき、そこの私の店で欠員が出来て、彼女を無理にお願いして再度勤めて頂いたことがあるなど、いくらか他の店員より縁が深かったかもしれない。
その時すでに誕生寸前のお腹をしていた彼女のその長男さんは立派なお医者になり、次男さんは学校の先生になられたとお便りを頂いたことがある。
労働意欲の盛んな彼女はそれでも尚引き続いて、パートなどして家計を助けて来たらしいが、今年の年賀状ではスーパーの支店長になったとある。全く本格的である。
てきぱきとした仕事ぶりで、頭も手足も回転の速い彼女の事だから、不思議ではないのだが、それにしても感心である。
すっかり驚き感心して、長文のお礼を書き添えた年賀状を書き送る事になった。

他にも、昨年亡くなった古い友人で、といっても満洲の新京で僅か8ヶ月一緒に勤務しただけの友だけど、その奥さんから訃報を聞いた直後書き送った私の手紙などを読み返して亡くした主人を憶っているなどと書いてある年賀状も来ていた。

もう生きている事が億劫になって今更年賀状もないもんだと、昨年あたりから出来るだけ書かない努力を続けているのだが、意に反してこうした年賀状もあり、生きさしてもらっている以上仕方がないかなと諦め顔の昨今である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月20日 (土)

本日高齢者運転講習

今日高齢者運転講習というのを受ける。
やはり講習は受けるべきだと心底理解した。
老人になると、目を始め凄く身体能力が落ちている事がよく分かった。
論よりは証拠でちゃんとした器械で測定してくれるのだから文句の付け様がない。
お題目だけでない事がすごくよい。
老人並みの及第点は頂いたが、どの数字も若者に比較すると数倍も差をつけられていることで、すっかり能力の低落を実感した。
60年も乗って来たが、もう人並みではないのだと残念ながら承服する他ない。
まだ免許場での目の検査などがあるから、免許してもらえるかどうかはまだわからない。
もし免許していただければ、もう最後の機会になるだろうから、慎重運転に徹して、人生の終を全うしたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月21日 (日)

府県対抗男子駅伝

府県対抗駅伝に地元広島勢の祝砲が久しぶりに聞けるかと期待して待ったのだが、結果は全く予想を裏切ってベストエイトにも入らない惨敗に終わった。テレビでも1、2区の中高生の健闘が光ったがそれまでで、後は県勢の姿さえ見ることが出来なかった。前評定が高かっただけに落胆も大きかった。
やはり選手の選考はふるさと選手も入れて考慮すべきで、他の大会で優勝したチームだから誰でも良いというのは無責任のそしりを免れないだろう。せっかく地元県民の前でやるレースだから、テレビにも入らないのでは情けない。
兵庫も長野も正月の大学駅伝で活躍した選手がその疲労を押して大活躍した。広島は主力選手を外して醜態を暴露した。見習うべきではないか。
新聞等の予想通り、兵庫と長野の争いに終始し、昨年までの2位だった兵庫がぶっちぎりの優勝を遂げた。
兵庫県民の喜びを祝したい。兵庫県は男女とも頑張るなあ!
大分が最後区間までトップに絡んで健闘したのは見事だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月22日 (月)

運転免許の更新

運転免許の更新に免許センターに出かける。
いつもながらのテキパキした処理にあっという間に終わる。
凡そ役所仕事でここほど沢山の人を相手に手早い所は一寸見かけない。
10時一寸過ぎに着いて、受付に百人ぐらい並んでいたので、今日は大分時間がかかるぞと覚悟したのだが、後が早いので10分ぐらいで終り、5分ぐらい待って新免許証をいただいた。
何か申し訳ない様な気分にさせられたくらいだ。
帰りにいつも道に迷ったりするので、今回はしっかり確認して駐車場に入ったので間違う事はなかった。
家内がお茶会に出席するのを送ったり、朝起きてから気忙しく立ち回ったが、何もトラブルが起きなくてよかった。
今日が免許の期限日なのでしかたがなかったのだが、やれやれ一安心。
これで満90歳まで車に乗れる事になった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月23日 (火)

戦争被害

先の大戦の戦争被害についての訴訟が相も変わらず次から次へと続いている。
その都度我々戦争従事者は暗い気持ちにさせられる。
私も戦場から一年後帰国してみたら、家屋は無くなり僅かな田畠も穴だらけで耕作を始めるのに何年もかかったが、何等の救済も受けた覚えはない。本来の就職先は満洲の民間企業だったから、差しあたり新しい職も探す必要があった。
しかし私以上の被害者は全国に満ち満ちていた。私情を持ち出す場はなかった。
法律で救済策が講じられている人々は、程度の差こそあれ幸甚と羨ましくさえ思っていた。
その権利を楯に未だに国に対して不服を申し立てている人々が後を絶たない。
半世紀以上も経ったのだからいい加減に収束してもらいたいと思っているのだがどうだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月24日 (水)

映画「硫黄島からの手紙」

今日家内がお茶会で提供した茶碗を取りに行く用事があって、ついでに映画を見る事になり、「硫黄島からの手紙」というのを3時間近く見る。
イーストウッド監督の作品だけあって、迫力は満点。音響効果の凄さには全く恐れ入る。
ただ残念ながらドラマそのものは、現実に戦場を体験したものにはうそが多すぎて、作り方に工夫が欲しかった。
硫黄島戦記など読むと、飢餓と水に苦しむ状況が詳しく伝えられているが、映画ではそこらあたりはほとんど捉えられていなかった。兵隊たちも皆元気で、やせ衰えて飢えに苦しむ姿などどこにもなかった。
一番楽な戦場だったといわれる、中支でも飢えや疫病で苦しみ、正に死なんとしている兵や、すでに息絶えている兵を無数に路傍に見捨てながら進軍したことを思うと、甘すぎて話にならない。
下手をすると戦争賛美に繋がりかねないことを怖れるものである。
所詮映画は娯楽が本来のあり方だから仕方がないが、アカデミー賞などとはやし立てない方がいいのではと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月25日 (木)

入試合格第一報

次女の二番目の子が横浜のとある有名な私立高校に推薦入試で合格したと、電話連絡して来た。
合格点をかなり超えたところで、25名の選抜者の中に入れた由、防府天満宮のご利益があったというものだ。
一月のこの時期、はやばやと思っても見なかった朗報である。
嬉しくて今晩は眠れそうにない。
よく勉強していたので、悪い結果は出る筈がないとは思っていたが、現実になってみるとやはり心底うれしい。
今後いっそうの精進を望みたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月27日 (土)

またココログ製本

昨年ココログに投稿したものを纏めて一冊の本にした。
昨年秋に一度試しに作ってみたのだが、まあまあの出来だったし、一色刷りにしたので、いくらか悔いが残って、今度は色刷りにして当初から昨年末までを纏めた。

希望があったり、どうしても読んでもらいたい人たちを選択して、9冊作った。
単価が十倍も掛かったが仕方がない。しかし出来栄えはやはり単色にくらべ、写真の出来が格段によく比較にならないくらいである。
先般は40日以上かかったが、今度は3週間で届けられた。
印刷屋の技術が上がったのか、値段が高いので優先してくれたのか、そこらあたりは何とも云えない。
まあ、ともかくも夜真っ暗の中を、家の前まで来て電話して、戸締まりを済ませていた門やドアを開けさせて配達してくれた。
民間企業は流石だなあと、迷惑ではあったが、後ですっかり感心する一幕とはなった。

ブログだから、まとまりはないが、通して読めばなんとか自分史に近くなるのではと勝手に思い決めているのだが、果たしてどうだろうか。Cocorog_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月28日 (日)

夏蜜柑取り

天気がちょろちょろ変わる不思議な一日。
妹が夏蜜柑をやるから、もぎに来いと家内に電話がかかる。
早速支度をして車で出かける。昼前なので途中のスーパーに寄って寿司など食料を用意して行く。
着いてみるとなるほど沢山なっている。
みかん箱3杯くらいすでにもいでいるけど、後がまだ木の上の方に沢山残っている。
取りあえず食事を済ます。
予め云われた通り有り合わせの箱を準備して持参したのでそれにどんどん取ってはしまい込む。
妹があらかじめ脚立を樹下に固定してくれたので、それに登って作業する。老骨にはちょっと冒険ではあるが仕方がない。
3人で小1時間かかってなんとか全部取り込む。5百個は下るまいと思える量である。
よくもまあこの狭い庭に育った1本の木にこれほどと呆れる。昨年少なかったからその反動だろうという。
一番上の方はカラスにつつかれていたが、酸っぱいので数は少ない。甘みが増して来ると被害は大きくなりそうで今が適期と妹は云う。
大きな箱に1箱貰ってかえる。老夫婦では処理し切れんので、息子や娘らにも送ってやらなきゃと、張り切る当年85歳になった元気な妹である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月30日 (火)

春未だし植物園

快晴の天気に浮かれたわけではないが、じっとしておれなくなり、妻を誘って植物園に出かける。
下界には美しい花などまるで見当たらない時期だけに、格別期待するものとてなかったのだが、広い園内を歩き回ってきれいな空気を吸うだけでもいいと思ったわけだった。
案の定殆ど人影が見当たらない園内で、来月3日からのラン展に備えての準備作業にいそしむ従業員たちの姿だけが目立っていた。
それでも館内はさすがである、熱帯植物のランがコントロールされた熱気の中で、色とりどりに咲き乱れ、特別に席を与えられて、観客の目をいやでも引きつけて飽かさない。
これだけでも今日来た甲斐があった感じである。
食堂は今日はお休みだったので、園内を一周した後、出口近くのケビンルームで軽食をかき込んで外に出る。
やはりどこも春よ来いと、未だ一月も先を待望している風情ととらえられた。
Img_0247_2
Img_0250_2
Img_0251_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月31日 (水)

糞尿譚

先日いつも来る、浄化槽の検査員さんが薬を入れ替えて帰る。非常に奇麗に使って居られますねと誉めて帰ったとのこと。何せ6人槽か7人槽の筈の浄化槽を夫婦二人だけの使用のところを、毎月しらべにやってくるのだから、そんなに汚れるわけがない。
しかも3月か4月には掃除車で乗り込んで来て、大きなパイプであっという間に吸い込んで帰る。
便利なもんである。

いつかのブログで、戦後まもなくの食糧難の時代に、肥料を求めて町家の便槽を覗いて廻り、あくせく糞尿を集めて歩いたことを載せたことがあるが、思い出すと都会を一番悩ませたのは糞尿の処理だったようだ。
18歳の春、自転車で友人と二人で、中国山脈を越えて出雲大社に参ったことがあった。
朝早く広島に到着して、国道を北に向った時、延々と続く肥車に辟易したことが思い出される。
他人の排泄物の異臭はやはり何ともやりきれないものだった。町筋全体によどむこの匂いは毎日界隈の人たちにはさぞ苦痛の時間帯だったのではと想像しながら通り抜けたのだった。

徳富蘆花の”みみずのたわごと”には東京世田谷の肥車の行列を面白おかしく書いているが、狛江市のホームページにも往時農業が盛んだった時代に肥車の往来の壮観さを記載している。今はすっかり住宅地に変わった武蔵野に偲ぶよすがはない。
もっとも住民の出す糞尿を清掃する仕事は手許に盛り沢山あるはずだ。
便利の良い器械ができているから、いや下水管に直結してさっと一瞬のうちに流すから、その匂いを長時間かがねばならない悩みは払拭されたかもしれない。

だが便利が進み過ぎて、震災とか災害にあったとき、対応が出来なくなったらさぞ困るだろうなと今思ったりするのだが、いらぬ心配だろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »