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2006年11月17日 (金)

ふるさと(4)

Gantyuiri_1 我がふるさとへの思いの最も強い時期は何といっても十歳代、それも前半の時期だろう。
十二歳から十六歳までの中学時代の5年間、まだ舗装もされてない4キロの砂利道を、降っても照ってもひたすらに歩いて通学した。尤も最後の2年間は毎日ではなかったが自転車で通う事が多くなった。上級生としての特権で自転車置き場が許可されたからである。
小学校の同じクラスから7名,他のクラスから2名の合計9名が隣町の中学校に入学したのだが、近隣には同級生がいなかったので、通学は何時も一人だった。もちろん上級生は二人三人と同じ道を歩んでいたが、なかなか打ち解けるまでは行かなかった。
自転車通学は今度は遥か下流の橋を通らねばならないので、更に2キロ近く遠回りしなければならなかった。
本好きの私は徒歩通学は止むに止まれぬものだが、歩きながら読書が出来るという長所があった。時に電柱にぶっつかることはあっても、自動車の少ない時代だから危険はなかった。ただ砂埃を立てられて読書の中断を余儀なくされはしたが。
1、2年生のとき、学校の図書館入館数、読書量が極めて多かったといって、学校から表彰を受けた。
特に好きな本は歴史書で、小説もその一つだが、どちらかといえば歴史小説が多かった。丁度この頃机竜之介の活躍する中里介山の「大菩薩峠」がすでに十数冊発行されていて、全部読んでやろうと張り切った覚えがある。途中挫折してとうとう完遂は出来なかったが。

長男の私は一応農家の作業担い手に組み込まれてはいたのだろうが、なにしろ寝ても覚めても本を放さぬ息子に手を焼いたか、余程必要としない限り私を呼び出す事は無くなった。両親とも、義務教育だけの学力では、世の中で何も出来ないという事を身にしみて感じていて、息子の勉強にはむしろ手は貸しても阻害する気は全くなかった。
通い慣れた道路沿いの山野も次第に開発などで様子が変化し、日本で2番目に出来たという電車線も中学2年を終わった頃廃止され取りのけられた。もっとも路線が町中を通り、通学路に遠かったので私は利用した事はなかった。

昭和7年ロサンゼルス・オリンピックがあった。日本が水泳の四百自由型を除く全競泳種目で優勝し、ラジオ放送に熱狂したものである。全校生徒がグランドに並び放送をスピーカーで聞かされた。同じ中学生の宮崎,北村の金メダルは正に圧巻だった。
政府高官の暗殺が続き、大陸で戦争が始まったり、世の中は混乱を極めた時代だったが、我々少年に取っては意気軒昂の一時ではあった。
しかし軍国主義への傾斜が激しかった当時だから、やたら私的制裁が激しかった。上級生は下級生に気合いを入れると云って、休憩時間に呼びつけたり、通学途中待ち構えたりして、鉄拳制裁がしょっちゅう行われた。
この制裁は、反面教師で後日軍隊に入ったときは、くそ度胸がついていて、結構役に立ったなと思ってはいるが。
中学5年間で完全に国は戦時体制に入った。
新聞小説まで吉川英治の『宮本武蔵」が人気で、その苦難の戦いが大いにもてはやされた。
やたら兵隊を送る姿が目に付き、白木の箱もどんどん目立ち始めた。親戚のよく私をいじめた兄貴も無言の凱旋をした。
もうこの頃は、ふるさとなどという小さい田舎のことなど徐々に眼中から遠ざかり、国家という大きなものへと私の意識は大変換していた。
体格のいい生徒は挙って陸海軍の学校を目指した。私は目が極端に近視だったので諦めざるを得なかった。
小学校の恩師が卒業時しきりに勧めてくれたこともあったが、やはり自分は無理だと諦めていた。しかし何時かは国家の役に立つ人間になろうと覚悟していた。

 

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