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2006年11月 8日 (水)

佐久間艇長


最近の中国新聞の読書欄で「佐久間艇長の遺書と現代」(千田武志著)という書物が発売されたことを知った。
佐久間艇長は幼年時代から尊敬していた人物であるし、すぐ読んでみたいと思ったので、Amazonを通じて注文した。
どうしたわけか1ヶ月近くたってやっと最近手許に届いた。

明治43年(1910)4月15日彼の指揮する第6号潜水艇は沈降し過ぎに依る浸水事故のため浮上出来ず、佐久間艇長以下14名を乗せたまま、周防国新港沖に沈んだ。
もちろん私が生まれる10年も前のことである。
日本で始めて作られた所謂国産第1号潜水艇ということだった。

私は小学校にも行ってない小さい頃母に手を引かれて、花吹雪の中を毎年新港の突端の岩盤の上に聳えている記念碑を見上げて、訳も分からず感心したものだ。
この記念碑の直ぐ近くに、世人の信仰を集めていたお大師様と呼ばれていたお寺があったので、お参りに連れられたのが主目的だった。信心深かった母は毎年春秋のお祭りには欠かさずお参りしていた。そしてその潜水艇のことも懇切に由来を聞かしてくれたと思うが、心そこにない幼年の私は何を教えられたかまでは流石に覚えていない。それよりもお参りの徒次店先で飼われている猿をからかって、向こう脛をしたたか食いちぎられて大騒ぎしたことの方を余程よく覚えている。

十歳を過ぎた頃から、土地で歌われていた岩国音頭で佐久間艇長の美談が語られたりして、なるほどそういうことかと段々分かって来た。
そのうち高学年になって教科書にも載っていて、それを教わったりして沈着なえらい軍人だったのだなとわかった。

昭和47年(1972)10月学校の先輩の長谷川さんが叔父長谷川中尉の殉職した第6号潜水艇の遺跡を見たいとのことで、わざわざ宮崎から来られ、案内することになった。長谷川中尉は第6号潜水艇の副長職にあった兵学校卒業成績第2位だったという俊秀であったという。
奇縁に驚いたが喜んであちこち案内して廻ることになった。
長谷川さんはこのブログの6月7日『忘れ得ぬ人々(3)」に記載している、社会1年生の時の恩人である。

戦前の中学生時代吉浦の海軍潜水学校を見学したとき、その構内に展示してある全長22米ぐらいの第6号潜水艇の中を通り抜け窮屈な通路を見て回った経験があったので、まずそこを目指した。
もちろん米軍に占領されたのでそのままある訳は無いとは思っていたが、それでも消息ぐらいは分かるだろうと,現在その位置にある造船所を訪れた。
守衛さんにその旨を伝えたが、そんな話は聞いたことが無いと、案内どころか門前払いをくわされた。
それではと元鎮守府の海上自衛隊総監部を訪れ、いろいろ調べて貰うことになった。結局江田島の第1術科学校の構内にあることは分かったが、見学時間制限があってその日のことにならないことが分かった。そこで呉市内の公園にある記念碑の場所を教わってそこにお詣りしてお別れしたことがあった。

佐久間艇長の事蹟について云々する知識はないし、詳細は前記の書籍に譲りたいが、この事故の報道は世界を驚かし,特にイギリスはその5年前の自国の潜水艇事故の惨事と比較して、日本軍人の行為を誉め讃え、今に伝えているとか。
明治時代の軍人にしろ人間にしろ、庶民に到るまで根性の偉大さにはうたれることが多い。
戦争には敗れたとはいえ、大和魂まで失われたとは思わない。先人の遺訓を偲んで、この危うい日本を矯め直すことは出来ないのだろうか。Sensuitei_1

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