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2006年11月 1日 (水)

スチーブンソンと吉田寅次郎

深夜放送を聞いていると、今朝の午前零時に終わったのだから,正確に言えば昨夜遅く作家吉田みどりの「スチーブンソンと吉田寅次郎」という話があった。
ちょっと場違いな話だなと思ったので、聞き耳を立てた。
ロバート・ルイス・スチーブンソンとは宝島やジーキル博士とハイドなどを書いたイギリスの作家である。
この作家が吉田松陰について書き、その書物によって広く海外に喧伝されることになったと聞き驚いた。

旧萩藩士の一人正木退蔵という人が、依頼を受けて東京帝大の教師を捜して、エジンバラ大学に行ったとき、スチーブンソンを紹介され、吉田松陰の事蹟に付き熱っぽく話したらしいというのである。
彼正木は13歳で松下村塾に学んでいた。後日大村益次郎の薫陶を受け、英国留学を果たしたりした学者らしい。

私は30年ぐらい前、「異人のみた吉田松陰」という書籍を買って未だに所持している。
ペリーの日本遠征記に出て来る吉田松陰の事が知りたくて購入した覚えがある。
密航を失敗した松蔭の日本側の話は数多く残されている。相手である米国側ではどのように受け取っていたか興味があった。
うかつにもこの本の最初のページにスチーブンソンの翻訳が載せてあることに気づかなかったというか、軽く読み流したらしい。
この本の訳者は島幸子となっている。
今その本を出して読むと、スチーブンソンが異常な程松陰の行為を激賞している。

ここに記されたスチーブンソンの言葉自体も熱烈口角泡を飛ばすものと言えよう。正木退蔵の話に余程感激したものであろう。
松陰の行動は外国人のこの文豪すらも奮い立たさずには置かなかった。Img_1395

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2006年11月 2日 (木)

奇想天外

先般も書いたが、文芸春秋11月号の「日中戦争 中国も同罪だ」の中で「もしも日本が勝利していたらどうなっていたのか」の筆者の結論が面白い。
「歴史の結論から判断すると、結果的には侵略した日本がやがて中国の一部となり、ここに古くから中国と関係の深い朝鮮、そして完全には主権を有していない属国が加わるという具合になったのではないだろうか」とある。
即ち中国の歴史を象っている秦朝、元朝、清朝と連なった一外来民族朝となり、実態は中国人の一国家として包含されるというのである。
「そして出来上がった国は欧米人から見て、日本の様に発展した中国、または中国の様に広大な国土を有する日本であれば、もはや西洋人に蔑まれることはない」とある。

面白い見方だなあ!

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2006年11月 3日 (金)

地方過疎化、都市集中化

最近この地方では熊やイノシシの出没が激しい。被害もその都度伝えられる。
無闇に殺したりは出来ないので、やられ放題にもなる。
人間の過疎化が進み、田畑が荒廃して薮になるので、動物たちの行動が楽になり広がるのだそうだ。
ずばり言って都市集中化現象が原因だ。
皆一生懸命対策を練っているのだろうが、現状ではもうどうしようもなさそうだ。
その上山林は放置しておけば,崩壊は必至だ。営々と先祖が残して来た美しい自然も消えてしまうかもしれない。
都市,山村に住むを問わず一律にその責任を負わなければならない時に来たと思わざるを得ない。
これこそ消費税の対象ではないのか。そして一律労働奉仕義務化を遂行すべきではないのか。

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2006年11月 4日 (土)

私の戦死した部下たち

私は後悔で時々良心を苛まれることがある。
それも只一つなどというものではない。穿ればいくらでも出てきそうで殊更に蓋をしている思いだ。

終戦の翌年、何とかよれよれになりながらも故国の土を踏んだ。
その時、以下の5名は私の隊の隊員なのに、一緒に帰国することが出来なかった。
作戦中戦病死したからである。
勿論部隊の担当の将校下士官たちが、帰還途中に福岡にて残務処理をしてくれたので、適切な処置は終わっているとは思っているが、それ以来確認もしないで今日に至っている。
   ________________________________
昭和19.10.9 斉藤栄一等兵ー東京都荏原区豊町5-119/花蕚郷板塘にて脚気衝心にて死去
昭和20.7.20 鴨志田武雄二等兵(20才)ー神奈川県高座郡有馬村本郷891/長沙第184兵站病院にて赤痢にて死去
昭和20.8.9 西谷益男二等兵(19才)ー東京都芝区海岸通4-7/広西省全県永和郷沙子湾にてマラリアのため死去
昭和20.8.10 江端時雄二等兵(20才)ー東京都葛飾区本田渋江町246/広西省全県永和郷沙子湾にてマラリアで死去
昭和20.8.31 伊藤武一二等兵(19才)ー東京都目黒区中目黒4-1472/長沙兵站病院にて栄養失調症のため死去
   _______________________________
隊長として、遺族の方にその病死の状況を生の声で何故届けることをしなかったのだろうかとの後悔である。
勿論手許で死を見届けることが出来たのは斉藤栄一等兵だけではあるが、病状だけでも見たことのある西谷、江端の両人についてはそのことを告げなければならなかった。
鴨志田、伊藤の両人は隊に到着前で顔も知らないのだからこれは致し方ない。

戦後私自身が戦火にまみれて、数年は余裕がなかったこともあるが、少しは遅くなっても、その責任は果たすべきだった。
一片の戦死通知だけではやはりむごすぎたと思わざるをえない。
もし万が一にも、前記の住所氏名で遺族の方に、届くことがあればとの思いで、ここに載せる次第である。
61年も経っているので、無理だとは思うが。
未だに無責任だったことを深く恥じている。

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2006年11月 5日 (日)

忘れ得ぬ人々(27)

三村英次郎

私の小学校の同級生の婿さんである。
三村さんと関係が生じたいきさつははっきりしない。ただ奥さんが同級生だから、親しく話し合いしているうちについでに、ごく自然に親しくなった様に思う。
昭和30年の日記帳をみると、税務署がきびしくなったので、帳面をちゃんとこしらえてくれと頼まれ、ある日夜遅くまで掛かって整理して上げたと書いている。
この頃がきっかけで青色申告を手伝ったりし始めたようだ。
それ以来毎年の如くしばらく手伝っている。
昭和32年私が知人や先輩と百貨店を作るから加入しないかと働きかけたところ、奥さんが勧めたりして発起人として加わることになった。
翌年10月1日開店時から営業部長として、会社の中心となって仕事をしてもらうことになってしまった。
もちろん他の重役たちとの交流も最初からうまく行った。彼の識見、人間性が皆に受け入れられ信用されたことに他ならない。
私自身も個人的に付合っているうちに彼の人間性に魅せられてしまった。
問屋など取引上の関係でも実にスムースに行き、人に信頼される素質があったのではあるまいか。

百貨店は当時中小企業連盟などが発足したりして、猛反対を受け、世論を無視しての出発だったので、通産省の不許可処分を受け、銀行などが手を引いてしまって、3年足らずで倒産してしまった。

彼も私も後始末にさんざん苦しんだが、いつも手を取り合って善後策に力を尽くした。仲間が鬩ぎあうなどということは一切無かったのは、やはりそれぞれの人間性の良さに帰結する所が多かった。
最終的には10年ぐらいかかったが、皆いい人生勉強をしたと悔いを残すことは無かった。

30年後の平成2年に、旧重役従業員が集って懇親会をつくり、往時を懐かしんだりしたこともある。
彼からは絶えず声を掛けてもらい、私が他の企業に勤めることになっていても、いろいろと援助を惜しむことなく、また相談を持ちかけてくれたりした。
残念ながらその2,3年後体調をくずして入院などをくりかえし、平成6年8月31日脳出血で急逝してしまった。
私から見れば少し先輩の正に格好の相談相手であったが、惜しい友を失った悔いは未だに残っている。Mimura
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2006年11月 6日 (月)

里帰り

次女がその舅さんの25回忌の法要のために婿と郷土帰りを済ませて、昨夕遅く一人我が家に帰って来る。
丁度一年振りの顔合わせでやはり懐かしい。声だけは一応電話でやりとりしているので、心配など必要ないが、実物を目の前にすると安心の度合いが違う。
子供らを東京に置いたままなので、今日はもう夜行バスで帰京する。
顔を見せてくれただけの慌ただしい里帰りである。
婿は昨夜のうちに徳島からやはり夜行バスで今朝早く帰宅したらしい。
これも子供の事は気がかりで落ちついては居られなかったのだろう。
夕食を外で食べて別れたが、別れはやはりつらく淋しい。

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2006年11月 7日 (火)

黒田投手

黒田投手がカープに残ることを決めた。
1950年カープ創設以来のカープファンの私には死に土産が出来たくらい嬉しい。
出来たら彼を中心に奮い立って、来年は是非優勝を勝ち取って欲しい。
金本を手放したのはほんとに残念だった。彼は阪神を優勝もさせたし、その累年に亘る貢献振りは申すに及ばない。又同じ撤を踏むのではないかと、随分心配したが、ファンの熱意と球団の誠意が通じて、彼も最後は男の決断をしてくれた。
しかしこのままではいけない。今年の日本ハムの如く、市民県民の猛チャージが必要である。
黒田を動かした如く、来年は挙って球場を盛り上がらせてもらいたい。

私も若き日、カープ存亡を憂いて、微力をそそいだことを思い出さずにはおられない。
県営球場は申すに及ばず、大竹、岩国、徳山など仕事の時間を割いてまで応援に駆けつけた日々があった。
50年前と較べたら応援になんらの支障もないではないか。
(写真は広島東洋カープ球団史より昭和50年の優勝パレード)Carp

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2006年11月 8日 (水)

佐久間艇長


最近の中国新聞の読書欄で「佐久間艇長の遺書と現代」(千田武志著)という書物が発売されたことを知った。
佐久間艇長は幼年時代から尊敬していた人物であるし、すぐ読んでみたいと思ったので、Amazonを通じて注文した。
どうしたわけか1ヶ月近くたってやっと最近手許に届いた。

明治43年(1910)4月15日彼の指揮する第6号潜水艇は沈降し過ぎに依る浸水事故のため浮上出来ず、佐久間艇長以下14名を乗せたまま、周防国新港沖に沈んだ。
もちろん私が生まれる10年も前のことである。
日本で始めて作られた所謂国産第1号潜水艇ということだった。

私は小学校にも行ってない小さい頃母に手を引かれて、花吹雪の中を毎年新港の突端の岩盤の上に聳えている記念碑を見上げて、訳も分からず感心したものだ。
この記念碑の直ぐ近くに、世人の信仰を集めていたお大師様と呼ばれていたお寺があったので、お参りに連れられたのが主目的だった。信心深かった母は毎年春秋のお祭りには欠かさずお参りしていた。そしてその潜水艇のことも懇切に由来を聞かしてくれたと思うが、心そこにない幼年の私は何を教えられたかまでは流石に覚えていない。それよりもお参りの徒次店先で飼われている猿をからかって、向こう脛をしたたか食いちぎられて大騒ぎしたことの方を余程よく覚えている。

十歳を過ぎた頃から、土地で歌われていた岩国音頭で佐久間艇長の美談が語られたりして、なるほどそういうことかと段々分かって来た。
そのうち高学年になって教科書にも載っていて、それを教わったりして沈着なえらい軍人だったのだなとわかった。

昭和47年(1972)10月学校の先輩の長谷川さんが叔父長谷川中尉の殉職した第6号潜水艇の遺跡を見たいとのことで、わざわざ宮崎から来られ、案内することになった。長谷川中尉は第6号潜水艇の副長職にあった兵学校卒業成績第2位だったという俊秀であったという。
奇縁に驚いたが喜んであちこち案内して廻ることになった。
長谷川さんはこのブログの6月7日『忘れ得ぬ人々(3)」に記載している、社会1年生の時の恩人である。

戦前の中学生時代吉浦の海軍潜水学校を見学したとき、その構内に展示してある全長22米ぐらいの第6号潜水艇の中を通り抜け窮屈な通路を見て回った経験があったので、まずそこを目指した。
もちろん米軍に占領されたのでそのままある訳は無いとは思っていたが、それでも消息ぐらいは分かるだろうと,現在その位置にある造船所を訪れた。
守衛さんにその旨を伝えたが、そんな話は聞いたことが無いと、案内どころか門前払いをくわされた。
それではと元鎮守府の海上自衛隊総監部を訪れ、いろいろ調べて貰うことになった。結局江田島の第1術科学校の構内にあることは分かったが、見学時間制限があってその日のことにならないことが分かった。そこで呉市内の公園にある記念碑の場所を教わってそこにお詣りしてお別れしたことがあった。

佐久間艇長の事蹟について云々する知識はないし、詳細は前記の書籍に譲りたいが、この事故の報道は世界を驚かし,特にイギリスはその5年前の自国の潜水艇事故の惨事と比較して、日本軍人の行為を誉め讃え、今に伝えているとか。
明治時代の軍人にしろ人間にしろ、庶民に到るまで根性の偉大さにはうたれることが多い。
戦争には敗れたとはいえ、大和魂まで失われたとは思わない。先人の遺訓を偲んで、この危うい日本を矯め直すことは出来ないのだろうか。Sensuitei_1

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2006年11月 9日 (木)

極楽寺山

昨日は私が家内を誘って極楽寺山に登る。といっても車で登るのだから別に大したことではない。
曲がり道が多い坂道だから、多少の危険はつきもの。
家内は後ろに乗せて,ぶっつかっても大丈夫な様には心得てはいるのだが、果たして本人の気持ちはどうだか。
今日は比較的対向車が多く、ヒヤヒヤする場面が多い。
五百米手前の駐車場に車を置いて歩くことにする。運動が目的の参詣だから当然そういうことになる。
市がこの付近の整備に力を入れてるらしく盛んに工事の音がする。
駐車場に車が多かったが、参詣客はまばらだったから、殆どが工事関係の車だったらしい。
境内は閑散たるもので、展望台で休みながら、手持ちの果物などを広げて食う。
空気はいいし、寿命の更に伸びる心地がする。やはりまだ死にたくないなと反省する。
帰路速谷さんにも敬意を表し、隣のご主人の丹精なさった大輪の菊など展示物を拝見して帰る。
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2006年11月10日 (金)

若者よ頑張れ

NHKのテレビ番組で「クローズアップ現代」というのがある。
非常に参考になることが多いので、テレビ嫌いの私でも、これだけは何とか努力して見る様にしている。
先日も今の若者は日本語力の低下が著しいことがテーマに取り上げられていた。その原因はパソコンや携帯電話だということだった。
ほんとにそうなのかしらと自分を顧みた。

私は携帯電話は持ってはいるが万一の時に備えて、身辺に置いているだけで、殆ど外出しない現在では使用する機会はなく、毎月の如く基本料のみの請求書が届けられている。
逆にパソコンは毎日何度も何時間も、その前に座って思いついた用事を果たしている。

18歳のときからつけ始めた日記は現在では一日もつけない日は無い。ただ日記帳は十数年前から使っていない。ワープロやパソコンで作成し、年ごとに纏めてパソコンから印刷している。
十数年前から始めたホームページも、昨年暮れから始めたブログに置き換えて、うちに居なかった日などを除いて、毎日なにか書き送っている。
これまた先般9ヶ月分254編を312ページに製本してもらった。
二十年くらい前から始めた各種記録類は、パソコンの御陰で保存整理が出来て、これは私の一番素敵な目的であり、生きてる証しとさえ思っている。

ところが『クローズアップ現代」では『差異」や『懐柔」と云った言葉の意味が分からないという若者が何十%もいるというのである。どんな教育をされてるのだろうかと耳を疑った。
教育方法が変わったと云っても、日本語の教育が基本的にそれほど変わったとは私にはどうしても思われない。
使用漢字が規制されたりはしたが、必要なものは殆ど網羅している。
最小限これだけは教育されてる筈である。もしそうでなければ新聞も雑誌も読めないことになる。
もちろん意味の分からない事や文字は誰にでもある。分からなければ聞けば良い。
折角パソコンやケータイをやってるのなら、インターネットの検索で聞けば直ぐ分かる。

最近問題になっている必修科目を教えない学校が沢山あることが分かって来た。原因はこれだなと感づいた。
こんなことをするぐらいだから、日本語の必修なども蔭では大いに省略が行われているのだろう。
若者に取っては全く迷惑千万な話である。教育実務者の手抜きということになるのではないか。
義務教育とは教わる側にも教える側にも義務と責任があるということである。
若者は多いに怒るべきである。

パソコンやケータイも使い方次第で、日本語力の低下につながるとは思わない。
私などは忘れる方が早くなった頭でも、パソコンの御陰ですらすらと古くから使い慣れた日本語を思い出し使っている。パソコンでいくらでも字を覚え,思い出すことが出来る。要は心がけの問題だと思う。

覆水はもう盆には返らない。今存在するこれらの利器は使いこなすことが重要であって,漫然と振り回されているだけでは仕方がない。若者よ頑張れ。

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2006年11月11日 (土)

ふるさと(1)

ふるさとは遠くにありて思うものと諺の如く云われるが、この私もその点人後に落ちない。
本来ふるさととは生まれ育った土地を云うのだが、私の場合いささか趣を異にする。
法的には本籍地が通常ふるさとになるのだが、考えて見ると私はメキシコで生まれ,3歳までその地にあった。18歳から遊学,20歳から満洲に就職,引き続き軍隊に入り、復員後直ぐ上京、27歳やっと本籍地に帰った。
44歳のとき仕事の関係で広島市に移住、爾来同市内を転々として居る間に縁あって,現在地に土地を購入し53歳の時自宅を建築して移り住む事になった。
従って本籍地に居たのは前半15年,後半14年の29年間である。現在86歳だから57年間は本籍地を離れていたことになる。それでも意識としてはこの本籍地が私の場合ふるさとである。
現在地が33年間住んでいて一番永いのだが、ふるさとであるとの意識はまるでない。なにか仮住まいのような気持ちで、尻が落ちつかない。当然この土地の人々との交流も未だに他人行儀である。
もちろん原因は私だけのせいではない。この部落一帯は戦後かなり経ってから造成され、戦前からの住人は数えるぐらいしかいないし、殆どが他所からの移住者である。
言葉こそ同じでも生活習慣生業が皆違って、なかなか融け合い難い。
それに現代風の核家族の集まりで,お互いの干渉を許さない時代であるから尚更である。
懐かしいなど言うのは昔の事をいうことばで、当然私の場合も本籍地を離れる以前の事が殆どになる。
就中物心がやっとついた幼年、少年時代が一番ふるさとに近い。記憶は薄れたが、忘れ難い思いが絶えず脳裏を去来する。
「十二灯」「おこもり」等という言葉は,今はもう完全に無くなったと云っていいし、何の事か分かる人はほとんどいないだろう。郷里に帰って聞いてもほとんど知らないだろう。
郷土の先輩に山崎武夫さんという教育者が居られたが、その労作に「ふるさとの歴史」というのがある。
それを読むと、私と同時代の懐かしいこれらの行事が詳細に記述されている。
昔は学校教育とは別にこれらの幼少年独自の地域的切磋琢磨が行われていたことがよくわかる。読み書きは別としても社会生活への歩み出しの知恵はその多くはこうして教えられ育って行ったといえる。
親は無学に近く、読み書きすら教える事はなかった。それでも子供は結構学校へ行く前から,字を覚え本を読んだ。そして小さいながらの生活の知恵を学んだ。
兎こそ追わなかったが、小鮒は手に余る程取れたし、ほとんど鶏の餌になった。兎や鶏を飼うのは子供の仕事でもあった。
これこそが私のふるさとだった。

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2006年11月12日 (日)

ふるさと(2)


万葉の昔、ここ私のふるさとは静かな入り江をなした白砂青松の浜であったらしく、瀬戸内海を航行する舟人が船を岸辺に寄せて、その景観の美しさに見とれて幾多の歌を詠み感慨に耽ったとされる。
 いもが家路 近くありせば 見れど飽かぬ
 麻里布の浦を 見せましものを
は阿部継麻呂の歌とされ、ほか2首が万葉集に記録されている。

徳川時代、吉川藩がこの地に移封され、爾来農地を拡大するため、慶長十七年以来屡次開拓をつづけ、岩国市史によると二百町歩に達したとある。
明治以後は農地より、工場用地として更に干拓拡張が続けられ今日に至っている。

私の3代前(曾祖父)の清兵衛までは、この地で生活し、私が小、中学生時までは磯崎、水の浦などまりふの地名とともに、万葉集の風景を表した名称が継承されていた。
ただ戸籍などの公式地名では、小字に類するこれらの名称は、もう使われなくなっていた。
戦後の再三に亘る地域合併などにより、現在では完全に古い名称は廃れてしまい、古い境界線など捜す事も不可能だろう。
そうした意味では真のふるさとを尋ねるよすがもなく、その姿を想像する事すら困難であって、もはや夢想する以外にない。
僅かに古い写真や絵画など、想像を助ける資料がいくらか保存されていることは誠にありがたい。
先輩の山崎武夫氏の残した「ふるさとの歴史」なる一小冊子は、私には何にも変え難い貴重なる宝物とも云える。
その付表として添付されている1500年時代のこの部落の地図は、ふるさとを偲ぶ格好の資料である。
(写真は山崎武夫著「ふるさとの歴史」所載の地図のコピー)Iwakuni
Kantakuzu3

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2006年11月13日 (月)

ふるさと(3)

大正15年の4月に小学校に入学し、12月に昭和元年になった。
昭和4年春、父がメキシコから帰国した。
大きなオートバイが一緒に我が家にどっしり置かれた。見た事がない代物に仰天した。
広いアメリカ大陸ならいくらでも乗りこなせるだろうが、狭くて小さいまだ舗装もしてない日本でこんなもの乗ることは困難だった。ハワイ帰りの近所の村本の若い衆と、いじくったり試乗したりしていたが、そのうち消えてなくなった。私の知らぬ間にどこかに売ったのだろう。
3歳のとき母など置いて再渡航したのだから、全然覚えていない人だったが、親爺がいるということは頼もしく嬉しかった。
野球道具を買ってもらって、因循で本の虫だった私が俄然元気になり,積極的に運動をやり始めた。
権現様の祭礼準備など、次第にリーダー格になって、部落の悪道どもを引き連れて行動する様になった。
前回述べた『十二灯」や「おこもり」「山登り」など部落行事には先頭に立って働いたことをよく覚えている。

父が帰国して間もなく朝日新聞を取る様になった。本好きな私は熱心に読み,字を覚えた。当時の新聞はよみがながついていたので、大抵の文字は読むだけなら問題なかった。
間もなく昭和恐慌が押し寄せて来て、昭和6年浜口首相が暗殺されたのを皮切りに、翌年井上蔵相、団琢磨が相次いで暗殺され、5月には犬養首相までが海軍軍人の手で殺害された。
同じ頃満洲に火がついた。ぼつぼつ近所の若者に赤紙が来たりした。
小学校から中学校への過程では、子供だからといって、関心を持たざるを得ない事柄が続出した。
いやでも時局に目を向けさせられた。
小学校卒業時には先生は軍人になれと私に勧めたりした。体力も精神力も卑弱だった私は尻込みするばかりで、とても先生の期待に応ずる訳にはいかなかった。がいずれは国家に殉ずる道を歩む事になるなとの決意は新たなるものがあった。

中学生になったころは、1里の道を朝晩通学するのに疲れて、家の事,部落の事など次第に手を抜き、構わなくなって行った。国家のこと、世界の事がいやでも耳目を騒がせた。ふるさとに対する意識も次第に希薄になって行った気がする。
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2006年11月14日 (火)

腎臓移植問題

私など素人から見ると、先般来大問題化して正に袋だたきの感のある万波医師の腎臓移植事件である。
癌などのため摘出された腎臓を移植するというのだから、素人考えでは変だなと思うのが当然だし、新聞記者など医学体験のないものには不自然とうつっても仕方がない。しかし袋だたき的発表のしかたはどうだろうか。

今朝の中国新聞を見ると,同じページに愛媛大学は万波医師の退任要求とデカデカ活字が踊り、その隣の欄では広島大学難波名誉教授の『苦痛解放する新しい道」として癌は伝染病ではない。移植されても癌の再発はないはずだとある。
だからごみになる摘出されたものを、必要とする別の患者がもらって使ってどこがわるいかという。
世の中にはこんなことはよくある。よく研究したり,詳細を理解する前に、独断で人のすることをやみくもに非難する。こんなことはやはり止めるべきだ。
実際には移植を受けた人々のうちで、不都合を訴えたり、発病して更に悪くなったなどという人がいないという。
それならそれでいいのではないか。

難波教授の意見に耳を傾けて,勉強の足りない医師たちはもう少し努力したらどうだろう。
素人の私達には新聞やテレビという公器で、あまり激しく非難、報道などしないで欲しいと思う。
最近のいじめや自殺の連鎖も、新聞テレビの派手な宣伝に浮かされたものが多いことを見ても、少し自重して報道してほしいと思う。(写真は中国新聞061114より)
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2006年11月15日 (水)

北朝鮮流言論統制

人間というものは、どうしてこんなに宣伝に乗せられやすいのだろう。
情報の発達した現代では、もう止めることは不可能である。そこをうまく利用したものが時局を制する。
私は今でも若かりしとき、軍部の圧倒的な情報支配のもと,戦争へ戦争へと駆り立てられた。
日本は神の国だ。悪いのは相手の国だと信じて疑わなかった。
自分の生命などどうでもよかった。只国のため命を捨てることを最上の名誉とした。

現在では、学校でいじめられるからといって、次から次へと自殺して行く。テレビで騒がれるから格好がよいとでも思っているのだろうか。
マスコミの宣伝に乗り遅れないようにと、先を急いでいる感じである。

目的、方法は違っていても、どこか私の若い時によく似ている。
根源はマスコミである事に気づく。
教育基本法が今政治話題の中心だが、すべからくマスコミの影響,被害についての批判精神を指導教育すべきだと思わずには居られない。
だが人間の本性を云々する訳だから、限りなく不可能に近い。やはり駄目だろうか。
そこへ行くとやはり北朝鮮流が一番良いのかもしれない。

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2006年11月16日 (木)

60年前の自動車

ふと思いついたから書くのだが、現代の自動車の性能の素晴らしさはなんとも誉める言葉に窮する。
それでもどこかの部品に欠陥があったから無償で取り替えるなどとメーカーから届けられる。

私は軍隊で自動車に乗ることを覚えた。自動車部隊に入隊させられたからである。
冬は零下30度になる満洲だから、当時の自動車は大変だった。肝心なオイルが凍結しそうなほど冷える。もちろん固体にはならないが、水の様な液体が飴のようになる。従ってクランクがその抵抗で簡単には廻らない。
無理に廻そうとするとすぐバッテリーが上がってしまう。だからエンジン始動には予めクランクを手動で廻して,飴状のオイルを緩解しなければならない。大体百回以上廻したものだ。

そして金属がやはり寒さによって脆くなり、車体バネがよく折れた。もちろん戦場では舗装道路などはないので、悪路を無茶苦茶に走り回る事が多い。ゆっくり車の事を思って走るわけにはゆかないのだから仕方がない。一作戦行動あると何十、何百も折れて修理に廻って来る。修理屋の私の隊は大忙しだった。
普通は部品をそっくり交換するのだが、数多くなると折れた部分だけ交換することになる。

こんなこともあった。ある時列を作って行進しているとき、前の車の後輪の片方が段々外側へ抜け出しているではないか。驚いて警笛をならし、停止させてみると、あわや車輪が外れて車は傾いてしまう所だった。車輪と車軸をつないでいるベアリングが壊れていたのであった。

ガソリンがつまってエンジンが停止する、パンクする、ライトがつかない、ブレーキが利かない、クラッチが滑るなど通り一遍の故障は車には付きものであった。だから終戦後車に乗る際はおっかなびっくりで乗っていたものだ。現在の様に修理の仕方も、パンクの取り替え方も知らないで済む様な車は想像もできないことだった。
パンクがしょっちゅう起きたなら、現状の様な女性ドライバーの普及はなかったであろう。

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2006年11月17日 (金)

ふるさと(4)

Gantyuiri_1 我がふるさとへの思いの最も強い時期は何といっても十歳代、それも前半の時期だろう。
十二歳から十六歳までの中学時代の5年間、まだ舗装もされてない4キロの砂利道を、降っても照ってもひたすらに歩いて通学した。尤も最後の2年間は毎日ではなかったが自転車で通う事が多くなった。上級生としての特権で自転車置き場が許可されたからである。
小学校の同じクラスから7名,他のクラスから2名の合計9名が隣町の中学校に入学したのだが、近隣には同級生がいなかったので、通学は何時も一人だった。もちろん上級生は二人三人と同じ道を歩んでいたが、なかなか打ち解けるまでは行かなかった。
自転車通学は今度は遥か下流の橋を通らねばならないので、更に2キロ近く遠回りしなければならなかった。
本好きの私は徒歩通学は止むに止まれぬものだが、歩きながら読書が出来るという長所があった。時に電柱にぶっつかることはあっても、自動車の少ない時代だから危険はなかった。ただ砂埃を立てられて読書の中断を余儀なくされはしたが。
1、2年生のとき、学校の図書館入館数、読書量が極めて多かったといって、学校から表彰を受けた。
特に好きな本は歴史書で、小説もその一つだが、どちらかといえば歴史小説が多かった。丁度この頃机竜之介の活躍する中里介山の「大菩薩峠」がすでに十数冊発行されていて、全部読んでやろうと張り切った覚えがある。途中挫折してとうとう完遂は出来なかったが。

長男の私は一応農家の作業担い手に組み込まれてはいたのだろうが、なにしろ寝ても覚めても本を放さぬ息子に手を焼いたか、余程必要としない限り私を呼び出す事は無くなった。両親とも、義務教育だけの学力では、世の中で何も出来ないという事を身にしみて感じていて、息子の勉強にはむしろ手は貸しても阻害する気は全くなかった。
通い慣れた道路沿いの山野も次第に開発などで様子が変化し、日本で2番目に出来たという電車線も中学2年を終わった頃廃止され取りのけられた。もっとも路線が町中を通り、通学路に遠かったので私は利用した事はなかった。

昭和7年ロサンゼルス・オリンピックがあった。日本が水泳の四百自由型を除く全競泳種目で優勝し、ラジオ放送に熱狂したものである。全校生徒がグランドに並び放送をスピーカーで聞かされた。同じ中学生の宮崎,北村の金メダルは正に圧巻だった。
政府高官の暗殺が続き、大陸で戦争が始まったり、世の中は混乱を極めた時代だったが、我々少年に取っては意気軒昂の一時ではあった。
しかし軍国主義への傾斜が激しかった当時だから、やたら私的制裁が激しかった。上級生は下級生に気合いを入れると云って、休憩時間に呼びつけたり、通学途中待ち構えたりして、鉄拳制裁がしょっちゅう行われた。
この制裁は、反面教師で後日軍隊に入ったときは、くそ度胸がついていて、結構役に立ったなと思ってはいるが。
中学5年間で完全に国は戦時体制に入った。
新聞小説まで吉川英治の『宮本武蔵」が人気で、その苦難の戦いが大いにもてはやされた。
やたら兵隊を送る姿が目に付き、白木の箱もどんどん目立ち始めた。親戚のよく私をいじめた兄貴も無言の凱旋をした。
もうこの頃は、ふるさとなどという小さい田舎のことなど徐々に眼中から遠ざかり、国家という大きなものへと私の意識は大変換していた。
体格のいい生徒は挙って陸海軍の学校を目指した。私は目が極端に近視だったので諦めざるを得なかった。
小学校の恩師が卒業時しきりに勧めてくれたこともあったが、やはり自分は無理だと諦めていた。しかし何時かは国家の役に立つ人間になろうと覚悟していた。

 

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2006年11月18日 (土)

天草、雲仙旅行第1日

先日といっても少し前になるが、家内が天草五橋と雲仙にもう一度いってみたいと云った事がきっかけで、丁度そのツァーが催される事を知り、参加しようということになった。もう少し早くと思っていたのだが、申し込んだ日が満員締め切りということで、10日ばかり遅い日になってしまった。その代わり私の妹が行きたいと言い出したので、遅ればせに申し込んだところ同じ部屋に泊まるならOKということで17、18日の一泊旅行が確定した。
家内の妹と旅行する事は度々あるが、私の妹とは10年以上前に四国を5日掛けて旅行した1回だけである。
もちろん妹は重度の介護を要する亭主が行ってこいよと快く勧めてくれたこともあって、大喜びで指折り数えてその日を待った。

第1日の昨11月17日は好天にも恵まれて、久しぶりの天草五橋や美しい島々をたっぷりと観光した。
流石に往時と違って、随分環境が整備され、見違える程美しくなっていた。
中年の人たちの多かった総勢43名の客も皆この幸運を喜び堪能の声を挙げていた。
又半数の人がオプションのイルカウオッチングを楽しんだが、イルカが20数匹も付きまとってくれて最上のお土産が出来たと大変な喜ん喜び様であった。

本渡なども結構活気に満ち、豊穣な海の恩恵を満喫しているかに見えた。
昔来たときとは違って、口之津からは海岸を通らずに、山中を最短距離で雲仙温泉に入ったので、こんなに道路がよくなったのかと流石に感心し合った。Amakusails_1
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2006年11月19日 (日)

天草、雲仙旅行第2日

今度の旅行で一番感心したのは、バス運転手の技倆の確かさだった。
スピードの配分がよい、安全運転の確かさ、従って毎日570キロ以上走らせながら、さほど疲れがなかったというより、身体の苦痛が少なかったという方が当たっている。仁田峠などの霧の中の運転などうまいものである。感心した。
二階バスの良さも痛感した。何より眺望がよい。防音壁も何のそのである。クッションも横揺れがかなり強いので,身体に与えるマッサージ効果があったのかもしれない。
何度もいろいろな車で出かけているコースなので、予感が厳しかっただけ快適さが増した感じでもあった。

二日目は温泉地獄の見学から始まった。短時間なので気が急いで感興はすくなかったし、別府などに較べて遥かに規模が小さいので、驚くことはなにもなかった。
朝から雨がかなり降り続き前途多難を感じさせる出発で、宿屋の女中さんの話では霧が深くて、普賢岳の眺望は駄目ではないかしらとのことだったが、仁田峠に達した頃には雨が更に激しく、霧の去来の隙き間を待ってちらちらっと、不満足な見物に終わってしまった。資料館にある写真類を眺めるだけで満足することにした。

みずなし本陣やトロッコ列車で、平成2年の噴火の凄さを改めて想起した。復興の跡がすばらしく、先ずは安心の旅に終わってよかった。
最初は良くて後が悪かった今度の旅だったが、先般の余部といいおみくじの当たり外れといっしょで、こればかりは仕方がない。Img_0078_1
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2006年11月20日 (月)

又カンセン

又あの事かと自分でも気が引けるぐらい思い出しては書く。
私の健康手帳の始めの方に1991.9.20タケダ皮膚科カンセンとある。
もう20年も患ってると思っていたが、この記録からすると丁度15年経った事になる。
もっとも正式な診断が下されたのがこの日なので、病状を感じ始めたのは熊本に出店した頃だから、1970年の3月ということになる。ということで20年どころか36年も前という事になる。
もっともこの時は左足のふくらはぎに円形の湿疹が突然発症して、友達の外科医に見てもらったところ、注射を打ってくれそれで一発で治った。その後何年かして同じ所に湿疹ができる様になった。そして頭や耳の付け根に同じ様な湿疹が出来始めて、痒くていじくると痛い。この段階で始めて医者にかかる決断をしたのだから、それまでに20年経っている。

タケダから市民病院と変わった頃、関節症に進行し、とうとう歩けなくなった。2年ばかりビッコを引き、松葉杖のお世話になったりした。もうまともになる事は出来ないと諦めたりした。
チガソンの御陰で2年で一応症状は治まった。もちろん関節の変形はそのままで固まったというわけである。
その後皮膚の症状は一進一退軽くなったり重くなったり、完全治癒とはいかない。
しかし関節の症状は今の所治まっていて、いくらでもまともに歩く事が出来る。

2、3日前雲仙などちょこちょこ歩き回り、妙見岳の頂上まで登ったりした。ぜんぜん問題はなかった。帰って来て却って調子が良いくらい。
自分でも何がどうなのかわからない。
私だけの特異症状なのだろうか、運動も何もしないで、こんなに元気でいてよいのだろうか。
ともかく誰かに感謝したくてたまらないこの頃である。

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2006年11月21日 (火)

赤子のいない部落

午後遅くなってからスーパーに買い物に出かける。
遅いからか、平日だからか客足がいやに少ない。
家内がレジを通りすぎるのを待っていると、今レジを終わったばかりの若い奥さんが、台の上で買い物を袋に移している。側に手押し車に乗せられた1歳ばかりの坊やが、盛んに手を伸ばしてその荷物をつかまえようとしている。身体を右左に捻らせて半ば後方にひっくりかえりそうになる。その姿があまりに元気で面白いのでしばらく見とれている。その母親が気づいて坊やを抱き上げ元通りちゃんと座席に座らせる。
坊やは又動き始める。ひょいと気がつくと、私だけでなく何人もの視線が注がれている。
何十人の客の中でただ一人の赤ちゃんだった。
泣き声も出さず、むづかりもせず、まるまるとした元気な坊や。
そうだ、風景の中で今足りないのはこれだと思った。

帰り道、家への角を廻ったところで、老人の群れにでくわす。何かの会合の流れらしい。
ああ、いやだ、老人ばかりのこの部落。最近は赤子の泣き声一つ聞こえる事のない、静まり返った立て込んだこの部落。何か間違っている気がしてならない。

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2006年11月22日 (水)

紅葉狩り

もみじを見るだけのために宮島に家内と朝早く出かける。
9時過ぎに出たのに、宮島口の駐車場は早くもいっぱいで驚く。
団体特に修学旅行生の多さが目を引く。
連絡船も神社参拝道路もいっぱいで、身体能力の劣る老人には普通の道では歩き難いことが分かっていたので、町屋通りを抜けて直接紅葉谷に向う。
テレビや新聞が報道している通り、紅葉が流石に美しい。谷を囲んで映える風景は何といっても最高である。
散策道路を平松台から、大聖院へ、そしてその門前から多宝塔への山道を登り、更に迂回して大元公園に下りる。
この方面はやはり人がまばらで鑑賞が容易で楽しい。
大元からトンネルの手前を海岸道路に出る。
波の打ち寄せる音を聞きながら、水族館の外側を通って、大願寺の前に出る。
ここにはこの4月に建立された不動明王のお堂が白木も香しい。大仏にも似たこの不動さんは大きくて威厳に満ちている。いつかテレビで報道された、京都の有名な仏師の制作にかかるものである。
海は満潮を外れてはいるが、社殿の前を歩く訳には行かない。後方を迂回する。
少し腹が空いて来たが我慢して、人混みの中を歩いて桟橋に向う。丁度お昼時でどこの食堂もいっぱいで、客を受け入れる余地はなさそうだから。
結局宮島口まで戻って食事を済ますことになった。Img_0122
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2006年11月23日 (木)

親爺の命日

今日は親爺の命日だ。不思議に何日も前から気づいて気になっていた。
もう何十年もほとんど気づく事なく過ごして来たのに、今年はどうしたことだろう。
私は随分親不孝な男である。はっきり認めざるを得ない。
昭和14年の今日、急性肺炎で急逝した。学校卒業を後数ヶ月に控えての死去だから、一応無事卒業は出来たけど、もう少し早かったりしたら学業を続ける事は無理だっただろう。
就職は満洲鉱山に決定して2ヶ月も経っていなかった。親爺にはそのことをすぐ告げに帰って喜んでくれたのだから、私の事は心配しなかっただろうが、他は心配でいっぱいだっただろう。
5年後敗戦とともに、先ず家屋は爆撃で壊滅したし、私は職を失っていた。
更に十年後には私の到らなさから、ほとんどの遺産を他人に渡さざるを得なかった。
あの世を信じない私だから、親爺にあって怒られる事はないだろうが、良心の呵責は終世付きまとって来た。
命が永いという事は罪悪感も永いということで、気が休まる事はなかった。
無期懲役になったと一緒だ。
曲がりなりにも今日に至った。冥福を祈るとともに罪の許しを乞いたい。

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2006年11月24日 (金)

ふるさと(5)

十二灯
いつか書いた十二灯のこと、一応どんなことか、うろ覚えだが、説明しておく。
小学生になると子供の役割として、大人の干渉の一切ない、地元の権現神社のお祭りの献灯の管理という仕事をしなければならない。世話焼きといって、一応高等科の生徒がこれになって指導に当たった。
十二灯とはローソク灯籠のことで、木枠の大きさは高さが約24センチ、底の部分が約12平方センチ、上の部分が約16平方センチといったところで、十二というのは元来十二個を竹竿に掛けて参道に建てたので、それが命名の起源らしい。
私の子供の頃は大凡部落の端近くまで延々と建てたので、50個以上もあったと記憶している。それでも十二灯と言っていた。

夏休みに入るとすぐ、十数人は居たと思うが集められてお祭りの寄付と称して、戸別訪問をさせられる。この灯籠に貼る紙を毎年のごとく買って来て、絵とか文字を書き入れるのが、先ず最初の子供の仕事だった。
毎日午後になると、引っ張り出されて、権現様のお堂の隅で、雑誌などを持ち寄って、ほとんど丸写しするわけである。
暑いときだけに、ヤブ蚊やブトに刺されながら、悪戦苦闘した覚えが深刻に残っている。
そして奇麗に貼り替えて、旧暦8月14、15日の祭礼に供えるわけである。

祭の夜は竹や筵で番小屋をつくり、よその部落からの襲撃に備えなければならない。もちろんイタヅラ半分ではあるが、壊されたり、焼かれたり、ひったくられたりするのを防がなくてはならない。
私が大きくなったころは、お互いに止めようやと話し合ってなくなったが、小さい間は結構悩まされ、怖い思いをしたものだ。

この権現祭が済んだ後も、町の鎮守の八幡宮の秋祭りの夜も献灯した。
この2度の祭だけの子供の仕事だったが、学校以外で子供同士のしきたりみたいな教育指導が行われて、徐々に社会とは何かを教えられた様な気がする。

寄付集めから始まって、買い物、資料集め、灯籠制作作業、修理補充、管理と単純な様でも、子供に取ってはひどく大変な仕事だった。

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2006年11月25日 (土)

ふるさと(6)

平家山
ふるさとの一番著名な山と言えば平家山だろう。
もう少し区域を広げれば岩国山や城山の方が有名なのだが、十歳前後の幼かった時の視点に合わせれば、あちらはふるさとではなかった。
うちの庭の如く駆け回った山野に限定すれば、やはり平家山だった。標高は百米ちょっとだろう。
小さいながらも峰の立ち上がりが美しく、一際目立っていたからだ。
すぐ背後の凹地を隔てて、私のうちの山が連なっていた。松茸がよく取れたので秋には大きな養蚕用の籠を提げて山に入ったものだ。又そのために松の下苅りは欠かせなかったので、山に登る回数は極めて多かった。
冬には下苅りしたシダや枝を燃料にするため持ち帰った。いはば我が家の年中行事の一つとも言えた。

直ぐ前の峰が平家山だから時に眺望の良いその峰まで登る事があった。
ある時母が「のろい釘」があるから行かない方がいいと私をたしなめたことがあった。
幼い頃だから暫くは何のことかわからなかった。
あるとき悪童仲間と平家山に登った時、年かさの少年が頂上の大きな松の太い枝の根っこを指差して、あるある、あそこに「のろい釘」がと言った。見上げると昔の鍛冶屋で作る大きな五寸釘が二本打ち込んであった。
なんだあれはと聞くと、女が他の女を恨んで、夜中の丑三つ時にこっそり山に登って、その女の絵に釘を打ち込んで呪い殺すのだという。こんな高い所に夜中にかと問うとそうだという。

ちょっと想像がつかなかったが、現実に釘が打ち込んであるので仕方がない。
薄気味悪い思いをして、それ以来は努めて登る事をさけることになった。
単なる昔話に過ぎないのだろうが、その後山火事があったりして、あの大きな松もなくなったし、実証出来るものはなにもない。
今は両親などの眠る墓地から、直ぐ前に聳える美しい山を眺める度にふと思い出す幼き日の記憶である。Heikeyama2
Heikeyama

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2006年11月26日 (日)

母親

最近は幼児の殺害がちょいちょい報道される。少子化対策などと声高く報道されるのにも拘らず、一方ではそれを無視する如く、親が実の子を飢餓状態に放置したり、打擲を加えて死に至らしめるなど、凡そ人倫を外れた所行も多い。
どうしてこのような状態になったのか理解に苦しむ。
こんなことで平和などと言えるのだろうか。

私は8歳の時、4つ下の弟を肺炎で亡くした。
従順な丸まると太ったよく気のつく元気な弟だった。母の気に入りで妬ましいくらいだった。
ふとした風邪で寝込み、急性肺炎と診断され、医薬の進歩していない時代だから、とうとう命取りとなってしまった。

この時の母の狂乱振りは忘れられない(当時父はメキシコに居て留守だった)。
医者が頼りないと思ったか、他人から鯉の生き血を呑ますとよいと聞かされ、近所の薬師院の池の鯉を所望し、そんな殺生は許されないと断られると、部落中をあちこち捜し歩き、漸くあるうちで分けて貰い、急いで帰宅して生きてて暴れる奴を包丁で刺して血を抜き、呑む事も出来ない弟の口を引き開けてそそぎこんだ。血に咽んでこぼれて真っ赤になった枕元は流石に無惨だった。
こうした母の必死の願いも結局空しかった。もちろん私も母と一緒に号泣した。
しかし母の子を思う姿の恐ろしいまでの、何者にも代え難いとの思いが、小さかった私の胸にもひしひしと強くつたわった。
そこへゆくと現代の風潮や、同じ親としての情愛の薄弱さはどうしても信ずる事ができない。
どこが原因でこうなったのであろうか。

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2006年11月27日 (月)

バイオ燃料

最近の原油の高騰で、バイオ燃料が世論を騒がしている。
私はいつか書いた様に、大東亜戦争末期自動車が燃料不足のため動かせなくなり、高純度アルコールを製造し、キャブレーターを改造したりして、自動車を動かした経験がある。
実用に供したのは終戦の直前の数ヶ月だから、大勢に役立つ様なものではなかったが、この経験は今国家的なプロジェクトとして実現を見ようとしている。
日本の様な資源の乏しい経済大国は、もう少し早くからこうした取り組みをしなければならなかった。
国民性とでもいうか、政治に携わる者たちは、今日明日を論ずる事に急で、いつも泥縄式で、遠い将来を見据えての対策がとられていない。国会の論議を聞いても、過去の事は些細な事でも、熱心にあげつらうくせに、遠い先の施策に思いが及ばないことがあまりにも多い。

マッカーサーの憲法は曲がりなりにも60年以上続き、平和が維持された。
遠い先の事になると外圧でも食らわないと、日本人同士では大改革は無理なのかもしれない。
燃料を湯水の如く使う、この経済大国はあっという間に小国に転落する危険性が大きい。
幸いに山野にバイオ資源は多い。今こそ国力を大投入して活用の道を講ずべきではないのか。

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2006年11月28日 (火)

事実のみを伝える

今朝の中国新聞に藤久ミネさんの署名入りのコラムが載っていた。
「事実のみ伝えたNHK」とのタイトルがついている。何のことかと関心がつのって読んでみた。
教育基本法の衆院通過の放送を、民法とNHKの違いをながながと書いて居られた。
もちろん批判は自由で、こんな言い方もあるのかと少し驚いた。
NHKが批判的な解説を加えずにありのままを報道したというのだが、問題は末尾に「これを中立、客観とみなしていいのか。こうした扱いや表現の中にむしろある意図が見えはしないだろうか。」とある。

私は普段から、民放にしろ、新聞にしろ、時にはNHKでも、事実誤認はまだしも嘘を言ってるのではと、よく疑う事がある。長生きしていると、時には私のことが新聞種になったりした事もずっと昔にあった。しかも嘘を書かれた。別に損害を蒙った訳ではなかったので、問題にはしなかったが、不愉快な思いはした。
爾来こうした報道も生の人間のすることだから、間違いがあっても仕方がないと、自分の身に引き較べて理解している。

しかし報道がもたらす影響の大きさは、充分自戒してもらう必要があるものだとは恒々思っている。
私は今回の民放2社の15分(私は見てない)の特集並みの報道と、NHKのさらりと簡単に流した報道は、それぞれ許された範囲内の事だろうから別に文句はない。
ただ批判を加えた報道というのが、私には眉唾なのである。しかも時には嘘が混じる事もある。
NHKはあくまでも中立、客観的に努めて欲しい。その報道から真の意味を感じ取りたい。
他の自由報道を許される新聞放送機関は事実を曲げないで欲しい。努めて事実に基づく報道をして欲しい。すくなくとも間違いはして欲しくない。嘘や作り事などをまことしやかに報道するなどもってのほかである。

私は藤久さんの評論の完全な反対評論をコラムにしたい。Img381chugoku

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2006年11月29日 (水)

雪舟展

テレビで山口県立美術館で雪舟展があることを知り、ネットで調べると明日11月30日までとなっており、急遽今日家内を誘って見学に出かけた。
雪舟はかねてから好きな画僧であり、その生誕の地を何度も訪れた事があり、例の涙で鼠を描いたという宝福寺にもその都度訪ねた。
また山口にある常栄寺の雪舟の庭は幾度訪ねたか数えきれない。
雄渾なタッチの墨画は素人の私でもずんと心に響く最も好きな絵の一つである。
本物の絵を是非この目で見ておきたいと、朝5時に起きて支度をし、7時過ぎに家を出る。
高速道路を吹っ飛ばして、9時過ぎには到着。中に入ると凄い人の行列。頭越しになんとか見て回る。
伝説にもある様に少年の時から、画才があってこの道を志したが、なかなか恵まれなかったようだ。
頭角をあらわしたのは明国から帰った50歳のとき描いた「唐土勝景図巻」からのようだから、随分遅まきだったらしい。応仁の乱の直後の戦国時代のことだから、一禅僧では生活も容易ではなかった。
大内政弘に救われて山口を拠点に作品を数々齎したということのようだ。
1506年即ち5百年前86歳で備中国重玄寺もしくは周防国雲谷庵にて没したとある。誕生年が1420年とあるから、私と丁度500年違い、現在の私の年齢で亡くなったことになる。
不思議な因縁を感じた次第である。
見学を終わると、裏の亀山に登り、呼吸を整えて、市役所から「たぬきの店」の前を通り抜け、来た道を帰宅する。
未だ午後3時にもならない明るいうちだからよかった。Daruma
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2006年11月30日 (木)

市町村合併

長生きしてみると、人生いろいろ思いがけない事にぶっつかるものである。
先般は今住んでいる市が近隣の町を合併して随分大きくなった。同じ市のことでも、見た事も行った事もない所が、又増えたし、広すぎて市民の誰もが自分の住所域を、すべて見たり行ったりする可能性はほとんど無くなったと言ってよい。
その上、私の本籍地の市も大合併して、私の市の倍もありそうな程大きくなった。しかも完全に隣り合わせとなり、境界線は20キロ以上もありそうだ。
県も違うし、もともと何十キロも離れているので、流れ流れて私も他郷につびのすみかを持つ事になったかと感慨をおぼえたこともあった。が現在つい隣が故郷になったということで、今度は何か異様な身近さを感じざるを得なくなった。
今話題になっている道州制が実現して、更なる合併が行われたりすると、元の郷里の市ににいながらにして戻ってしまうことにもなりかねないなと、ますますもって妙な感じである。

大きな国では隣の家が何十キロも離れているといったことは珍しくないと聞いているが、今時こんなことを話題にするのが可笑しいのかもしれない。
親戚なども全国にいや全世界に散らばって住んでいて、死ぬまで逢う事もないといったことがザラに起こる時代だから。

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