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2006年10月25日 (水)

蒲刈島の石灰

先日婿の案内で蒲刈島を訪れた。もうこのブログでも書いたことだが、この島には何となく懐かしい思いが残っていて忘れられない。
安芸灘大橋が出来たとき、新聞報道を見て家内と二人で出かけたのが最初と思っていた。
がふと思い返してみると、どうもそうでは無いらしいことに気づいた。
私がまだ30歳にならないころだから、もう60年近い以前、船で石灰を買いに訪れたことがあることを思い出した。
蒲刈などという変わった名前がその時以来私の記憶の中に留まっていたわけである。
がんぎに横付けした船に巾1尺そこそこの板を渡し、ゆらゆら揺れ動くその上を、約10キログラムもあっただろうか、石灰の入ったカマスを担いでひょいひょい調子を取りながら運び込む訳である。
私は一旦は手伝うつもりで、その渡し板を歩んだ。途端に足がすくんで渡るだけでも無理なことを悟った。
ところが、私よりも年下の娘さんがもんぺ姿で、石灰を担ぎ上げひょいひょいと渡って来るではないか。
この時の恥ずかしさは未だに忘れることが出来ない。
もちろん慣れもあっただろうが、年若い農業会の職員さんが、気軽に処理してくれたことには流石に驚いた。
軍隊帰りのいい若者が、女の子の出来ることが出来ないのだから無性に情けなく恥ずかしかった。

その2、3年前長沙で武装解除されて、リュック一つ背負って徒歩で帰国の途についた。長沙からすぐ大きな湘江を渡らねばならない。巾4、5百メーターもある大河である。今は使われていない鉄橋を渡ることになった。滔々たる河の流れに流石の鉄橋も揺れ動いていた。15、6米も歩いたろうか、下の濁流を見た途端足が竦んで歩けなくなった。
側を渡って行く兵隊たちも同じである。立ちすくんで前進出来ない。とうとう誰ともなしに這いはじめる。
ぞろぞろとカブト虫の行進である。戦い敗れて、外聞の悪さも無く、折角助かった命だからと惜しくもなっていた。

あの時の恥ずかしさが蘇った。が汚辱の深さは今度の方が格段に大きかった。

婿はこの島に石灰が出るなど聞いたことが無いという。それでは牡蠣殻でも焼いて作っていたのかなあと思ったりした。ところがいよいよ島を離れる段になって、娘が貰っていた案内図に石灰採掘跡と記入があるよと見つけてくれた。やはり昔あったのだ。うそではなかった。ほっとすると同時に島の娘から与えられた汚辱の深さが、記憶を確かなものにして呉れたことを思った。

追記:長沙の鉄橋の巾は現在の地図で計って見ると1600米あった。当時でも余り変わらないと思うから、やはり1キロ近くあったのだろう。永かった記憶は未だに残っている。Img_1363

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コメント

蒲刈島の石灰についての記事拝読しました。私の祖父(明治7年生まれ)の時代まで代々瀬戸内海を中心に廻船業を営んでいました。遠くは挑戦まで出向いておりましたが、蒲刈島には池田屋さんと言う石灰を扱う店があって、頻繁に池田屋さんの石灰を買い付けていた文書が私の手元に残存しています。
 明治37年8月の文書などでは、石灰を二千四百票余りを船に積み込んでいます。一度蒲刈島を訪ねてみたいものです。

投稿: 芳田 泰朗 | 2015年2月28日 (土) 23時01分

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