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2006年10月13日 (金)

高台院の末路

先日豊臣秀吉の妻おねのことを「北政所」として書いた。
物の本によると、北政所は関白の妻の呼称だそうだから、人を特定する言葉ではない。
やはり高台院というか、おねというべきであろう。
おねには異説があって、ねねというのが正しいとも云われはっきりしない。
だから今回は高台院にしておく。
「北政所」という冊子を読むと、関ヶ原の役の後24年間、豊国社や高台寺に居て、相当せわしない月日を過ごしたのだなあと思われる。
しばらくは豊臣恩顧の浅野、福島、加藤などの武将の挨拶が相次ぎ、家康もなんどか訪れている。秀頼をめぐる駆け引きと言おうか、彼女の影響力の大きさに繋がっている。
しかし前田利家の死去が関ヶ原の役を誘発し、今度は浅野長政、加藤清正が相次いで死去し、相対的に家康の影響力が増大する。
高台院の出る幕は徐々に薄れる。そして大阪の陣となる。
歴史の流れはまことに面白い。
豊臣氏の滅亡、最大の庇護者となった家康の死とつづいて、高台院の環境も次第に苦しくなる。
只彼女が精一杯努めて残した、兄木下家定の息子たちのうち足守藩主利房、日出藩主延俊は小藩ながら、幕末まで存続した。
寛永元年9月6日77歳でその生涯を閉じたときも、この甥たちは枕辺に侍っていたと記録されている。
高台院の終始相談役だった梵舜の日記に
「高台院様、申の刻に御死去也、長々の御煩い也、天下の者悲しみ申すの義也」
とある。
すでに将軍職を家光に譲って大御所になっていた秀忠はこの死を聞いて、利房に悔やみ状を送っている。
秀忠も生前高台院から可愛がられた一人だったらしい。

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