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2006年10月 7日 (土)

忘れ得ぬ人々(26)

小林六郎さん
戦時中ふとした縁で、同じ家に二人で当番付きで生活することになった。
昭和17年の暮れ、私は陸軍少尉に任官し、本部付きを命じられた。
将校になると営外居住をしなければならない規則なので、当時同じ独立自動車第31大隊の部隊副官だった小林六郎中尉の官舎に同居することになった。俗にいう転がり込んだ訳である。

掃除洗濯食事は部隊から派遣された当番兵がやってくれるのだが、一人に一人だから二人ついてくれる事になる。兵隊も忙しくはなかったろうが、こちらも据え膳だから突然殿様になった気分である。
職務は何もかも新米のことだから、滅法忙しかった。確か先任者が病気で欠員だったと思う。
この小林さんは見かけも本性も極めて温厚で、親切に教えてくれた。招集の将校で5歳年上だった。
勿論私も幹部候補生上がりだから予備役だったが、所謂現役満期即日招集の口だった。
彼の方は何年かの民間生活を経験済みだった。

丸1年経過して、昭和19年1月彼は満期除隊し、後任に私と同年兵の久田幸少尉がなって同居することになったが、
その4月には部隊が支那に転戦することになった。
従って小林中尉とは1年強の付き合いで終わる所だった。

ところが私は戦後幸運にも生還を果たしたのだが、満洲の会社に復帰すべき所その会社は既に無くなって居り、改めて職を求めて上京することになった。
帰還した年昭和21年6月の4ヶ月後には再就職は果たしたが遅配欠配の毎日がつづき、食に窮した。
そこで小林さんのことを思い出した。

住所は覚えていたので、連絡を取り食料の調達をお願いした訳である。
幸いな事に彼は大きな農家の長男で、その点は何等問題がなく、歓迎するから是非おいでと返事が届いた。
出かけてみると、千葉県の大穀倉地帯のど真ん中といってよい場所である。
家族皆の大歓迎を受け、動けなくなる程食べて一泊を余儀なくされてしまった。
帰りは軍隊帰りのリュック一つだから、いっぱいに詰めて貰っても何日分もなかったが、それでもおおいに助かったと喜び勇んで帰京した。

しかし間もなく支那から帰還途中栄養失調で結核にやられて居たのが再発し、郷里へ還らざるを得なくなり、翌昭和22年1月に無念の撤退をすることになった。在京期間はわずか4ヶ月と、実にばたばたと慌ただしい年だった。
従って彼にはその一度だけ世話になり放しで、挨拶もしないままになって、数十年経ってしまった。

平成8年即ち1996年4月ふと彼の事を思い出し、詫び状を書きたいと思って住所書きを捜したが見当たらない。
実に50年経っていたし、私自身住所も職場も転々としていたのだから無理はない。やっと旧村名が椿海村だった事を思い出し、いろいろ検索して現在の八日市場市であることがわかり、電話帳で調べ出して、手紙を出した。

ところが半月ぐらい経って、彼の奥さんから返事をいただき、既に10年前に胃がんのため亡くなって居られる事が分かった。電話帳が故人の名前になったまま放置されていたために、幸運にも連絡を果たす事になったのだが、結果はなんとも残念な幕切れであった。

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