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2006年10月 1日 (日)

雨降り

今朝は早朝から雨が軒先を叩いている。目覚めて驚いて雨戸を閉める。
未だ外は真っ暗である。
永らく晴の日が続いたから、働き者だった母親なら、いいうるいだと口元を緩めたであろう。
床に戻って、思いがけなく母親の在りし日の姿を思い出す。

向かいのうちでは屋根の葺き替え工事が無事昨日中に殆ど終わっている。
良かったなあと人ごとながら嬉しい。
お負けに直ぐ雨になって検証まで出来てとそのつきの良さが羨ましい。

今日からは又出入りが不自由でなくなるなとそれも嬉しい。
7時過ぎゆっくり起き出て、下に下りると家内が雨が降ってるよと言う。
下は雨戸を開けないと雨音が聞こえないらしい。それとも少し耳が遠くなったかな。

昼を過ぎても降り続いている。
どこにも出かける予定はないからかまわないよと、庭の木立に語りかける。
遠くに住む子や孫たちは残念がってるかなとも思う。折角の日曜日なのに。Img_1347

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2006年10月 2日 (月)

孫たちの外国旅行

いつ出かけたのかは聞いていないが、最近長女の娘二人が示し合わせて、カンボジアとベトナムに旅行したらしい。
そして姉の方がカンボジアで,妹の方がベトナムで病気になって入院したらしい。

姉の方は40度も熱が出て、ぶるぶる震えたとのこと。
妹は看護師だから、普段から病人を見つけているので,一向にあわてなかったとのこと。

ベトナムに入って今度は妹の方が入院することになった。
若いという事はいいもんで、二人とも一日の入院で済んだようだ。

どちらの国の病院も、非常に親切に扱ってくれ、正にVIP待遇だったらしい。
妹の方は日本人医師だったので尚更安心だったよし。

日本に帰ってからの検疫が大変だったというお負けがついたそうだ。

旅行の成果はあったかどうか、家内からの又聞きだからその分は何も聞いていない。
思うに、行って来たということだけではないの。

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2006年10月 3日 (火)

格差

昨今格差の問題がジャーナリズムを賑わしている。
先日のNHKの特集番組によると、殆どの民主国家が悩んでいる問題らしい。
分け前の多からんことを望むのは人間の本能だから、自由主義の社会では才能や幸運に恵まれたものはいやでも分け前は多くなる。問題は出生時点から不利な環境にあるものや,逆境に陥ったもの、運に恵まれざる者などは分け前は当然少なくなる。努力しても再起出来なければ、必然的に貧富の格差は広がる。放置しておけば際限がなくなる。
ブラジルの例が挙がっていたが、国民の4分の一の貧困層に現金5千円(日本金)を配っているとか。
その実績をもって現大統領は今回の選挙に臨んでいるらしい。
韓国も中国も国内不安を造成しているように見える。
この報道をみると日本はまだましなのかもしれない。
しかし民主党などが追求すると言ってる様に、政府も与党も対策は練っているだろうが、野党の好攻撃材料ではある。

といって、もう本家本元のソ連がつぶれた共産主義では国際的に国の体裁を為さなくなるし、現に北朝鮮の鎖国に似た政策でなんとか国民を納得させるようなことになるばかりだ。
格差はすくないが、国民は果たして幸福かどうか、甚だ疑問である。
これとても少数の権力者と国民の格差がないとは言い切れまい。

民主主義、共産主義、独裁政治、いずれも難点が多い。格差をなくする事だけ見ても、政治とはほんとに難しいものだ。
誰がやっても格差をなくすることは難しい。野党も攻撃するだけでなく具体的な提案をしてほしい。そうでなければ信用出来ない。

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2006年10月 4日 (水)

経小屋山

好天気なので思い切って近郊のといっても今は市内の經小屋山に出かける。
頂上近くまで車で登れると聞いていたので、ムスビとお茶を用意さして家内と一緒に出かける。
標高6百米の頂上近く駐車場が整備されている。
展望台はほん30米も登れば良い。
すこしもやがかかってはいたが、眺望はすばらしい。
対岸の宮島はもちろん岩国・大竹の工場群が眼下に映える。
海峡に点在する牡蠣筏の幾何模様も美しい。

休日でないからか、登山者は他にリュックを背負って来た中老の夫婦が二人だけ。
もう蝉の声もない。地元からの音もほとんど聞こえない。閑寂そのもの。
腹ごしらえを済ますともう一方の峰に登る。一際高い羅漢山、三倉山、近くには大峰山など紅葉には未だ到らないが、山容を競っている。

暑からず寒からず老人には正に絶好の登山日和だった。Img_1348
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2006年10月 5日 (木)

私のパソコン歴

ふと思い出して私がパソコンを始めたのはいつだったかと、日記を繰ってみた。
最初は次女が会社のお払い箱になった富士通のFM8を貰って来たのを、娘に教わりながら説明書と首っ引きで始めたのが最初のようだ。1983年だから23年前という事か。

当時は機械語をまずマスターしなければ、器械は動かない。これが大変だった。もう60歳の坂を越していた私には新しく記憶するための脳細胞が残っていなかったらしい。覚える端から忘れて行った。
覚えたいという意欲も乏しかったので無理もない。
興味をかき立てるため五目並べのソフト(当時はカセットテープだった)を買って来て,一生懸命遊んだ。
勉強と思っているから真剣だった。
他にも目を向けたが、私の手に合うものはなかった。

そのうちだんだん遠ざかった。というより1985年に次女がワープロを買ってくれというので、当時表示窓が一行のリコーのマイリポートというのを20万円ばかり出して購入した。
娘が使わない時勝手にいじくったりした。これが結構役に立った。
そのうち高性能のワープロがどんどん出て来た。買い替え使っているうちパソコン通信というのが流行り始めた。
ワープロでは遅いし、容量が不足して(700KBのフロッピーだった)すぐいっぱいになってオートストップしたりした。
仕方なくパソコンを買って、そちらに転向した。この頃のパソコンはアイコンをクリックするだけで用事が足せる便利なものになってなっていた。1994年10月だから10年経っていた。

学校にも行かず、講習も受けず、独学だからえらく回り道を繰り返した。ただパソコン通信でのフォーラム仲間のアドバイスがどれほど役に立ったかわからない。
器械の進歩が激しいので、ついて行くのが大変で、未だに初心者に近い。

しかし便利になったものだ。基本ソフトを立ち上げるだけでネットに入って居り、昔の様にネットに入ったり、通信手段に手こずったりすることは全然ない。ずぶの素人の家内でも、自由にネットで情報をキャッチしている。
しかも今は容量もMB、GBを越えてTBになろうとしている。
光通信でいつもネットに入っているのだから、情報だけはお手の物だ。メールなどというものはケータイでも出来るのだから話にならない。

身体はよぼよぼでも、又口は利けなくても、知りたい事は何でも知る事が出来る。
物心ついた小学生の頃、電話もない時代から、今日のこの便利さはどういうことだろう。
一部始終この目、耳でかかずらって来た。これが俺の生きてるあかしだなあ。

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2006年10月 6日 (金)

天草五橋

家内が食事の時、天草五橋に行った時、食った生きたカレイの刺身がうまかった。忘れられない、もう一度食いに行かないかと言う。
私は最近食欲が完全に衰退して、何を食ってもそれほど旨味を感じなくなった。
今更遠くまで行って、カレイの刺身を食いたい欲望は起こらない。
見飽きた場所と言ってもよい。他に行ってみたい所はいくらもある。
すげなく断る。妹らを誘って行けと答える。

考えて見るとツァーで行けば、あんな料理を食わすわけがない。
この年齢ではもう絶望だなと心のうちでつぶやく。
1970年5月だったから、もう36年も前の話だ。
私がまだ50歳の働き盛りだった。カレイが美味しかったのではなく、食欲が異常に旺盛だったからだ。

長崎、熊本に店を持っていたから、この方面には毎月出かけていた。その都度付近を巡り歩いた。
車も当時最新鋭のロータリーエンジンのサバンナだった。

二度と還らぬ若き日の話だ。
顧みると家内はこの時が最初で最後である。ちょっと思いやりを欠いたかな。
でも、もう一度雲仙の湯に浸かってみたいなとも、ついでに普賢岳の跡を見てもいいし、と欲望がうずく。
Amakusa

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2006年10月 7日 (土)

忘れ得ぬ人々(26)

小林六郎さん
戦時中ふとした縁で、同じ家に二人で当番付きで生活することになった。
昭和17年の暮れ、私は陸軍少尉に任官し、本部付きを命じられた。
将校になると営外居住をしなければならない規則なので、当時同じ独立自動車第31大隊の部隊副官だった小林六郎中尉の官舎に同居することになった。俗にいう転がり込んだ訳である。

掃除洗濯食事は部隊から派遣された当番兵がやってくれるのだが、一人に一人だから二人ついてくれる事になる。兵隊も忙しくはなかったろうが、こちらも据え膳だから突然殿様になった気分である。
職務は何もかも新米のことだから、滅法忙しかった。確か先任者が病気で欠員だったと思う。
この小林さんは見かけも本性も極めて温厚で、親切に教えてくれた。招集の将校で5歳年上だった。
勿論私も幹部候補生上がりだから予備役だったが、所謂現役満期即日招集の口だった。
彼の方は何年かの民間生活を経験済みだった。

丸1年経過して、昭和19年1月彼は満期除隊し、後任に私と同年兵の久田幸少尉がなって同居することになったが、
その4月には部隊が支那に転戦することになった。
従って小林中尉とは1年強の付き合いで終わる所だった。

ところが私は戦後幸運にも生還を果たしたのだが、満洲の会社に復帰すべき所その会社は既に無くなって居り、改めて職を求めて上京することになった。
帰還した年昭和21年6月の4ヶ月後には再就職は果たしたが遅配欠配の毎日がつづき、食に窮した。
そこで小林さんのことを思い出した。

住所は覚えていたので、連絡を取り食料の調達をお願いした訳である。
幸いな事に彼は大きな農家の長男で、その点は何等問題がなく、歓迎するから是非おいでと返事が届いた。
出かけてみると、千葉県の大穀倉地帯のど真ん中といってよい場所である。
家族皆の大歓迎を受け、動けなくなる程食べて一泊を余儀なくされてしまった。
帰りは軍隊帰りのリュック一つだから、いっぱいに詰めて貰っても何日分もなかったが、それでもおおいに助かったと喜び勇んで帰京した。

しかし間もなく支那から帰還途中栄養失調で結核にやられて居たのが再発し、郷里へ還らざるを得なくなり、翌昭和22年1月に無念の撤退をすることになった。在京期間はわずか4ヶ月と、実にばたばたと慌ただしい年だった。
従って彼にはその一度だけ世話になり放しで、挨拶もしないままになって、数十年経ってしまった。

平成8年即ち1996年4月ふと彼の事を思い出し、詫び状を書きたいと思って住所書きを捜したが見当たらない。
実に50年経っていたし、私自身住所も職場も転々としていたのだから無理はない。やっと旧村名が椿海村だった事を思い出し、いろいろ検索して現在の八日市場市であることがわかり、電話帳で調べ出して、手紙を出した。

ところが半月ぐらい経って、彼の奥さんから返事をいただき、既に10年前に胃がんのため亡くなって居られる事が分かった。電話帳が故人の名前になったまま放置されていたために、幸運にも連絡を果たす事になったのだが、結果はなんとも残念な幕切れであった。

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2006年10月 8日 (日)

通信メディアの問題

メディアの世界は急速に進化し止まる所をしらない。
我が家でも一昨年光電話に加入し、IP電話にも間もなく加入した。
国内だけの利用だから格別その便利さを感ずる事はない。

考えて見ると、早い様でもまだまだアメリカには及ばないなと今つくづく感じている所である。
1996年の9月に婿が2度目の渡米をして、私に下記の様なメールをくれている。
どうやら宿舎からでなくインターネット・カフェという所かららしい。
   ___________________________
1 INET GATE 09/21 Hello from Wachington Inter-net Cafe 17
>1

1 INET GATE INE00104 96/09/21 06:43
題名:Hello from Wachington Inter-net Cafe

Date: Fri, 20 Sep 1996 17:41:11 -0400
From: Public E-Mail
To: xxxxxxxx@niftyserve.or.jp

Hello again Dad! This is Kei.
21hi gogo niha Inter-net no kissatenn ni kiteimasu.
Kochira deha Internet-phone ga jituyouni natteite jikannsei de charge
saremasu.Minna ga maiku ni mukatte nanika hanasiteimasu.syaberiowaruto
computer wo reseive ni kaete chakusinn wo matimasu.Mukasino ham no
youdesuka.
chotto kaiwa ga osokunarimasuga dokohedemo kakerarerunode dennwa yorimo
yasuagari desune.
Kousite miruto Internet ha nanika communication wo kakujitu ni
kaeteitteiru youni omoimasu. choudo TV ga color ni kawattatokino youni
Dennwa ga sinnpo siteirunokamo siremasen.
deha mata
Thank you so long!
   ______________________________
内容を読むと、相客は皆マイク片手に会話を楽しんでいるようだ。
日本では2、3年前からだと思うから、数年遅れていることになる。
技術者である婿でみると、1度目の渡米で受けた文化的ショックにいたたまれなくなって、2年後2度目の渡米を計画実行した気持ちがわからないでもない。

携帯電話では国内の報道では世界のトップを走っているらしいが、後進国といっても巨大な人口を誇る中国やインドには間もなく遅れをとることになるだろう。
日本人は私を含め、ひとりよがりの気風がつよい。孤立した島国に育った本性からそうなるのだろう。
日本が学ぶべき事は極めて多いことを依然として自覚すべきである。

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2006年10月 9日 (月)

日中首脳会談

安倍首相が首相に選任されてすぐ中国を訪問した。
電光石火の早業と言えよう。彼の尊敬する高杉晋作流だ。
停滞がオハコの現代政治の世界で、破格の演出である。
野党も開会中の休日をうまく利用した首相の素早い行動に唖然とした事だろう。
これで俄然日本政治が面白くなって来た。

中国もいの一番に訪ねるというのを断る訳には行かなかったのであろう。
安倍は靖国には詣るとも詣らぬとも結局言わない。あいまいなまま押し通した。
高杉晋作が馬関砲撃の後の連合国側との交渉で彦島租借の要求をのらりくらりと訳の分からぬことを言ってあきらめさせたのとよく似ている。もしイエスとでも言ってたなら、香港と同じく百年の汚点を残したことだろう。

朝日新聞が伝える通り
「靖国神社参拝については私の考えを説明し、外交的、政治的に問題化している以上、参拝するかしないかについて申し上げないと言及した。理解は得られたと思う。」だろうし、
読売新聞の伝える、
『靖国問題について、胡主席は「日本の一部の指導者がA級戦犯の祀(まつ)られた靖国神社参拝を続け、中日関係が困難な局面に直面した。(首相の参拝は)中日双方が見たくないものだ」として、首相に参拝の自粛を求めた。また、温首相は「政治的障害を除去して欲しい」とも語った。
 首相は小泉前首相や自らの靖国参拝に関して「恒久平和を祈るためで、A級戦犯を賛美するものではない。(自らが参拝に)行くか行かないか言及しない。政治的困難を克服し、両国の健全な発展を促進させる観点から適切に対処したい」とした。会談後の内外記者会見で首相は「先方の理解は得られたものと思う」と述べた』との話に間違いないと思われる。

「適切に対処したい」を双方自分の都合に合わせた事になる。

日経新聞が伝えている
【北京=宮沢徹】中国外務省の劉建超報道局長は8日夜、日中首脳会談について記者会見を開き、安倍晋三首相が「日中間の歴史問題を適切に処理する」と確約したことなどを高く評価した。同時に、今回の会談をきっかけに、停滞してきた日中関係が「雨のち晴れになってほしい」との期待を示した。

 劉局長は「会談で両国の政治的障害を克服する重要な合意を達成した」と成果を強調。「安倍首相の積極的な態度は称賛すべき」と述べた。国民感情が反日に振れすぎないよう「中日関係の重要性を含む対日政策を国民に示す」方針も示した。日本との友好関係を演出することで、靖国神社参拝について明言を避ける安倍首相をけん制する狙いもあるとみられる。

政治特に外交の要諦をここに見た思いがする。
若いのになかなかやるなと感服した。

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2006年10月10日 (火)

核戦争

北朝鮮が核実験を行った。ということは核爆弾を保有しているということだ。
もう明日からは、いつ広島、長崎の二の舞にされる事になるか分からないという事である。
いくら戦争反対を叫んだ所で、人間社会には狂人がいるのだから、抑えることは不可能である。

すでに核爆弾を所有している国は随分増えている。
この拡散を防ぐ事も先ず不可能である。
超大国がまず核保有を止めることが肝心だが、これは既得権を主張する大国が手放す筈がない。
結局全部の国が核を持つ事が一番核抑止に繋がるのではと思ったりする。

もちろん地球破滅に繋がることだから、これこそ国連の役割が大きくなる。
そして制御不能になったときは人類の世紀は終わることになるのだろう。
恐竜の時代が終わったのが、流星の衝突爆発が原因といわれているが、奢る人類の時代は結局原爆での自殺行為で結末を告げるのか。

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2006年10月11日 (水)

北朝鮮

(昨日の私の日記から)
安倍首相の韓国訪問の直前に北朝鮮が核実験をしたと発表した。
日韓会談はほとんどこの対策に終始した感じである。
差し向き核攻撃の対象になるのは日本と韓国である。いずれも核を所有してないので仕返しされる心配はない。
しかもミサイルも長距離のテポドン2は失敗しているので、今直ぐは使えない。アメリカを攻めるつもりはないのだからそれでよい。もしアメリカに手を出したら何十倍の攻撃を受けてひとたまりもないことは承知の筈だ。
ただ日本、韓国はいずれもアメリカの同盟国で駐留軍がいる。うかつには手出しが出来ない。
当分は外交上の切り札として使うだけだという事はみえみえである。
日本は先頭に立って騒ぎ立てるのは得策でない。先方の策に乗せられる可能性が大きい。
とにかくあらゆる国交を絶って相手にしないのが一番有効である。言論もあまり過ぎると、激情して手が出るのは古今東西の常識だから。
安倍さんは中韓交渉は手早く済ませて、腕前を見せてくれたが、北の金さんは一筋縄では行かない。
元気がよすぎて、やりすぎない様祈るばかりである。押したり引いたりを心得たい。

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2006年10月12日 (木)

大森銀山

今朝の深夜放送で大森銀山跡の世界遺産入りについて、宮川アナの解説があった。
鉱山跡の世界遺産というのは始めてのケースだそうだ。
無数に掘られた間歩の説明は面白かった。小さい間歩(坑道)は人がやっと入れるくらいで、中には尻を押してもらって入るというのだから命がけのようだ。
凄い苦しい労働で、殆ど短命で終り、30歳になったら長寿祝をやったそうだ。
4百年間に亘って生産し、日本、アジアは勿論世界各国にも輸出し、大森銀山の名前は欧州の地図にも載っているとか。

14年前家内と二人で訪れたことがあるが、当時私は足の関節が痛んで歩けないときだったので、車からほとんど下りないで、家内だけが街道沿いに並ぶ羅漢寺や五百羅漢を見て回った。
当時は鉱山跡に近づく事は制限されていたと思う。
代官所跡や資料館も簡単に見ただけだったのであまり印象はなかったのだが、最近鉱山跡が整備されて世界遺産に登録されることが間近くなったらしい。

日本海の海上からも、銀色に輝く山容が見えたというのだから、当時は凄い景観だったのだろう。
遠ざかる自動車で後ろを振り返りながら、山を眺めたのだが、現在はその姿を偲ぶよすがはなかった。
宮川アナの宣伝に載せられて再度訪問しようかなと、体調が良くなった今思い返している所である。Omori

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2006年10月13日 (金)

高台院の末路

先日豊臣秀吉の妻おねのことを「北政所」として書いた。
物の本によると、北政所は関白の妻の呼称だそうだから、人を特定する言葉ではない。
やはり高台院というか、おねというべきであろう。
おねには異説があって、ねねというのが正しいとも云われはっきりしない。
だから今回は高台院にしておく。
「北政所」という冊子を読むと、関ヶ原の役の後24年間、豊国社や高台寺に居て、相当せわしない月日を過ごしたのだなあと思われる。
しばらくは豊臣恩顧の浅野、福島、加藤などの武将の挨拶が相次ぎ、家康もなんどか訪れている。秀頼をめぐる駆け引きと言おうか、彼女の影響力の大きさに繋がっている。
しかし前田利家の死去が関ヶ原の役を誘発し、今度は浅野長政、加藤清正が相次いで死去し、相対的に家康の影響力が増大する。
高台院の出る幕は徐々に薄れる。そして大阪の陣となる。
歴史の流れはまことに面白い。
豊臣氏の滅亡、最大の庇護者となった家康の死とつづいて、高台院の環境も次第に苦しくなる。
只彼女が精一杯努めて残した、兄木下家定の息子たちのうち足守藩主利房、日出藩主延俊は小藩ながら、幕末まで存続した。
寛永元年9月6日77歳でその生涯を閉じたときも、この甥たちは枕辺に侍っていたと記録されている。
高台院の終始相談役だった梵舜の日記に
「高台院様、申の刻に御死去也、長々の御煩い也、天下の者悲しみ申すの義也」
とある。
すでに将軍職を家光に譲って大御所になっていた秀忠はこの死を聞いて、利房に悔やみ状を送っている。
秀忠も生前高台院から可愛がられた一人だったらしい。

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2006年10月14日 (土)

蒲刈島

長女から朝電話がかかり、天気が良いので今から婿の運転で蒲刈島を案内するという。急な話で驚いたが、閑を持て余している毎日だからいいだろうと誘いに乗る。
婿が変わった経路を行くので、始めはどこへ行くのかいなと、いらぬ気を廻したりしたが、行き着くところはやはり蒲刈島。迷う程行く道が沢山出来たということだった。
丁度明日からの朝鮮通信使節のイベントが始まるとあって、各種の記念展示物を会場の松濤園に飾り付けして、賑々しい。
田舎の事だからと、少し軽く見ていたが、それは大間違いだった。
先ず陶磁器展から始まったが、こんな所で伊万里焼とか古九谷とか見せられるとはとちょっと意外だったが、次の朝鮮通信使節展はこれはと驚かされざるを得なかった。
通信使節に関係した衣装風俗資料は申すに及ばず、使節を模した人形類、行列の絵や人形、就中大きな江戸時代の屏風絵と羽川藤永筆の日本橋付近を通る使節団行列図などは正に圧巻といえる。
使節を遇したこの島での接待振りの豪華さなどは正に驚嘆に値する。
朝鮮使節250名と、接待する日本側の関係者360名、合わせて600名を超える大行列は流石に沿道の市民を驚かしたに違いない。
まざまざとこの展示会で表現されている。
明日からのイベントでは衣装などを整えて、実演して見せてくれるのだそうだが、老人には人混みは無理だし、見なくてももうこれで十分である。
島の文化は宮島だけではなかった。
昼食は上蒲刈島まで渡って、生きた魚をたっぷりご馳走になり、眺望絶佳な公園施設や島々を眺めながら島を一周して帰路に付き、楽しい行楽をせいいっぱい過ごす事ができた。Tuusinsi
Syoutoen
Akari
Sisetusen
Hama

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2006年10月15日 (日)

再び映画「新雪」のこと

今朝5時半頃、灰田勝彦の歌う『新雪」で目が覚める。
2、3日前の夜半にも、「新雪」の歌声で目覚めた事がある。
夜は毎晩ラジオをつけ放しているので、聞くとも聞かないとも習慣的になにげなしに過ごしているのだが、不思議に続けて『新雪」の歌声に気づかされたので、今更の如く印象の強さに驚く。

9月3日のこのブログで書いた如く、昭和19年支那での湘桂作戦の最中、長沙の軍司令部地下壕の慰安映画上映の際、見物させてもらったのだが、今朝のアナウンサーの説明で昭和17年五所平之助監督作品で主演は水島道太郎、月丘夢路とわかった。
もう筋は覚えていないが、何とも爽やかな懐かしい映画だったとその印象だけ記憶している。
戦後何かの映画雑誌で、上映年のベストテン上位にランクされたと記憶している。

名古屋在住の方からのリクエストによるものだが、私と同じく当時青春さなかの、忘れきれない思い出の一つらしい。
全国にはまだまだこんな人が数多くいるのでは思ったりする。
古い映画も今はどこからか発掘されて、ビデオになったり、テレビで上映されたりしているのだが、この「新雪」だけは所在不明らしく、消息を聞くことはない。
ないものねだりで、是非一度見たいものだと、思いはますます強くなるこの頃である。

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2006年10月16日 (月)

又もお茶会

家内は今朝またお茶会に出かける。昨日のはお茶会ではなくて、”縁側サロン”だという。何百人も集ったとの事。
老人が多いのでこんなのが盛んならしい。
格差などというのは若い人のことらしく、老人どもは何処吹く風である。
景気が上向きのまま57ヶ月続いて、バブル景気に肩を並べたというが、老人世に蔓延っては世も末になりはしないかと心配だ。
私がパソコンを一日中いじくっているのと同じく、世のリタイヤ族は何かしていなくては身が持たないわけだ。
最近帰農の呼びかけが耳新しい。自然を友とし、晴耕雨読もいいな。

この様を横目で見ている北朝鮮があせるのも無理からぬ事だと同情する。海一つ隔てただけで違いすぎる。原爆なんか作っても使う事なんか出来る訳がない。そんな金は飢えてる人々に廻してやればいいのにと思ったりする。金さんがやってる間はどうにもならないか。

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2006年10月17日 (火)

旅行支度

明日大阪で第32回の同窓会が開かれる。忘れっぽい老人のこと、昨日も今日も朝一番に広島から一緒に出向く友人から確認の電話がかかり、家内を慌てさす。
新幹線口の待合所がはっきりしない。駅がだんだん大きくなって待合所もいろいろある。滅多に行く事のない老人にはどうも記憶が定かでない。
友人もそうだが、こちらも確信がない。従って電話も長くなる。
普通車から乗り換えて20分あるから何とかなるだろうということで決着。

昨年は熱海で8名、今回は大阪で9名の参加予定。去年のから2名脱落して3名増加。老人にも結構都合がある。病気という事も起きるし。
切符を買い、お金の準備をする。服はどれを着るか、シャツはどれ、ネクタイは要るかどうか、下着は何枚、靴下は?と今日一日、もの凄く忙しい。家内もついでに騒がしい。
それでもなにか忘れている気がする。

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2006年10月19日 (木)

同窓会

第32回の同窓会。今年は大阪の番、坂口君が忘れていてばたばたしたために、会場が1週間前に神戸から大阪に変更になり、切符を早く手配していた連中は困ったらしい。

最近は旅に出る度に、今生のお別れのつもりで家を出る。
しっかり後片付けをして、家内に所在がよく分かる様に気を使う。言い忘れた事はないかと反芻する。
駅までの18分間が結構永くて悩みの種。
しかし最近は足の状態が凄くよくなってその点は安心だ。格別運動などはしてないのだが。
60年前兵隊の時歩かされたのがよかったのかな。
人生なんでも良い方に取らないといけない。不愉快な事は忘れることだ。

久しぶりの大阪、一々尋ね歩いてやっと大阪駅前の大丸の上部19階から上にあるホテルグランビアに入る。
大阪と新大阪は違うのだとつくづく思い知る。尋ねる度に見当違いになって理解に窮する。
階段が多いので、足の悪い横山君を気遣って、更に疲れる。
部屋は23階坂口君と相部屋、会食場所は19階のフルーヴ。5時半集合。9名の会員と横山の奥さんの計10名。

往年の気合いはなくなり、静かな会合に終始する。料理はおいしくて、老人にピッタリの量。
皆耳が遠くなり、私の声が一際高くなった気がする。
比較的よく話が通るのは水戸君と横山の奥さんだけ。

来年は受け持ちの横山君は病気上がりで不賛成だったが、私がもう最後になるからと手を上げる。
本間君は奥さんの介護が大変なので出席出来ないと返事が来て居り、再来年の会合はもう無理なようだ。
8時散会。部屋に帰るとすぐ入浴。坂口君にお先失礼して就寝。もう語る事はなにもない。

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2006年10月20日 (金)

金子みすゞのこと

今早朝の深夜放送で童謡詩人金子みすゞのことを、その遺児ふさえさんとアナウンサーの対談を交えて、詩の朗読など回顧談が放送された。有名な『大漁」や「鳥と鈴とわたし」などの詩の他に、始めて聞く様な良い詩も数多かった。
中でも3冊の詩集に残された5百の詩以外に、最近発見された、この遺児ふさえさんが形見として所持していたものの中に書き残された、3歳で別れた赤子を抱えながら詠んだ数々の詩の朗読には、胸を打ち涙腺の緩むを覚えずにはおれなかった。とうとうこの放送を終わっても興奮覚めやらず2時間以上眠ることが出来なかった。

死の道連れにしないで、離縁した父親にこの子を渡さずに、実母に育児を託した遺書を残して自殺したみすずの思いは、遺児ふさえさんにはこの祖母と別れた女学校卒業後までよく分からなかったとのこと、むしろ恨みにすら思っていたらしい。

叔父から3冊の詩集の残されていたことを知らされ、それを公表されて以後のみすずの評価の高まりにつれ、この母の真意やあらゆる生物をいとおしむ心が理解されて来たと言う告白に心を打たれた。
今や老境にあり、一女、二孫に恵まれて、母みすずを誇りに思い、その愛情の深さをこころから受け止めているようだった。

私は格別詩が好きという訳ではないが、NHKのFMで1985.5.5放送された特集番組「童謡詩人金子みすずの世界」をテープに録音して始めてその存在と詩のすばらしさを知った。また先年長門市にある『金子みすゞ記念館」を訪問してその生き様をたしかめた。絶えずこの薄幸の詩人に関心は持ってはいたのである。
明治36年(1903)に生まれ、昭和5年(1930)に自ら死を選んだ。まだまだ長く生きていて欲しかった。
又彼女の他にも種田山頭火や中原中也など、この風土に育まれた詩人たちの生き様には、縁なき私でも心を惹かれて久しい。Kanekokan
Misuzu

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2006年10月21日 (土)

季節の変わり目

天気が良いので、家内の決断で応接間の絨毯の季節替えを実施する。
老夫婦だけでの作業だから半日は掛かる。
二人合わせて一人前はもう無い。
セットの一つ一つが二人掛かりでも扱い難い。時々悲鳴が上がったりする。手の握力が特にない。
情けないことになったものだ。

途中の拭き掃きは家内の独壇場。私は傍観者。
子供の居ないうちだからゴミはあまりないのだが、一通り掃除機だけは掛けないと持ち越しは出来ない。
目に見えない昆虫などが巣を作っているかもしれないから。
もちろん予め日乾はしておいたのだが、納める側も日乾をすぐしなければならない。
孫たちが来た時にすぐアレルギーを起こしたりするから油断は出来ない。

つい数日前には、私の部屋の一部模様替えを一人で行った。机の向きを替えるだけの仕事だが、袖についてるもの、上に載せてあるものなど、簡単な様でも移動するには配線なども処理しなければならないから結構一仕事ある。
机の中や袖にもいっぱい詰まっているから、机一つでも重くて移動梃子のお世話になる。
この時も3時間ぐらいかかって一汗かいたのだが、今日も後ほどシャワーぐらいは浴びなくてはならないだろう。

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2006年10月22日 (日)

スポーツ放送

昨夜は久しぶりに野球の日本シリーズ第1戦を始めから見始めた。
残念ながら、接戦で試合そのものは面白い筈だったが、切迫感が無くて興味が削減された。
何せ合間のCMが長過ぎて、いらいらする間に興味が無くなってしまった。
始まって3回までは、手に汗を握って一喜一憂していたが、合間が永くてまどろしくなり、も一つ興味のあるサッカーの方に切り替えてしばらくそちらを見ることにした。
サッカーの方はCMの無い放送なのでゆっくり見られる。がこちらはなかなかスリリングな場面が起きない。
また元に戻して野球、CMになるとサッカーと忙しく切り替えながら、とうとう最後まで両方を見終わった。
野球は一応ひいきの中日が勝ったからよしとしたが、サッカーは名古屋がどうしても追いつけなくて負けてしまった。
なんともしっくりしない気分で終わった。

今朝はアメリカのワールドシリーズ第1戦を始めから終りまでみた。
こちらは合間のサービスが誠に適切で、解説の長谷川、斉藤の両投手の話が随分参考になり、吸い込まれる様に見終わった。やはり本場だけあって球場の迫力も違えば、演出も一段上の感じ。
CMは全然入らないから落ちついて見ることができた。
見る側の醍醐味とはこのことだろう。

なんでもショーは連続性に、興趣の本質がある。音楽、演劇皆そうである。それを異質のもので断裂されてはたまらない。
永年商業放送はことさら大事な場面で、この断裂をあえてして、CMを流し宣伝と称してこれを繰り返して来た。
しかしインターネットというものが現れて今後の宣伝方法は大分変化が予想される。
商業放送も考えを改める時代になってきているのではと思わざるを得ない。このままでは恐らく大衆に飽きられ、宣伝の意味をなさなくなるのではと思うものである。

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2006年10月23日 (月)

辻久子のバイオリン

今朝少し寒くて、床を離れ難くなっている折りも折り、FM放送からハチャトリアンのバイオリン協奏曲の鳥を追い立てる様なメロディが流れ出る。
やれやれ、こちらも寝床から追い出される。

どうしたわけかこの音楽には忘れられない思い出がある。
終戦後しばらくして、音楽を聞く運動が盛んになったことがある。確か「音文」と言ったと思う。
その行事の一つで町の小学校において、辻久子のバイオリン・リサイタルが開かれたことがあった。
この時ピアノ伴奏でこの協奏曲が演奏された。

辻久子が家財産を売ってストラディバリウスのバイオリンを買ったということが、当時の新聞でデカデカ報じられた直後のことだったので、固唾を呑んで聞いた。
小学校の講堂だから、木製の長椅子を並べただけの座席である。音響効果など全く考えられている訳はない。
私は一番前の方に座って、演奏が始まる前、記念にと思ってカメラを向けた途端、辻さんが激しく手を横に振って撮影を拒否された。

当然幾分忸怩たる思いの中での視聴となった。
始めて聞く不思議な音楽であった。のっけから不協和な追い立てる様なメロディから始まる。
キイキイとバイオリンの弦のこすれと混じれあった、なんとも不思議な音だった。
始めはいやな音だなと思ったが、なれると結構面白い曲だなととけ込んでしまった。

今管弦楽と一緒に聞くとやはりすばらしい。滅多に聞くことがないがやはり名曲だなと思っている。

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2006年10月24日 (火)

日中戦争  中国も同罪だ

文芸春秋11月号に「日中戦争 中国も同罪だ」という中国人趙無眠の論文が載っている。
膨大な論点を持った論文だから、一口では説明も批評も私には出来ないし、それだけの見識も持ち合せていない。
しかしこの論文の中で、自分が体験した部分については、はっきり肯定出来るものがある。
少し引用してみよう。
『李宗仁は回顧録の中で、抗日戦の期間、彼は河南で地元の人々が『敵軍に焼き殺されようとも、湯軍が駐留するよりはまし』と歌っているのを聞いていると書いている。湯軍とは、蒋介石直系の湯恩伯が率いる部隊の事である。
 抗日戦争に勝利した後、被占領区のなかには、中央を思い、中央を待っていたが、中央が来たらもっと災難だったと農民たちが歌った地区もあった。これを見る限り、彼らは侵略者に苦しめられるのと同時かその後に同じ様に同国人からも苦しめられたのである。そんな彼らに、高説などもはや通用しなかったのだ。』

私も湖南省湘潭県花蕚郷に約5ヶ月駐留していたとき、軍から区域の宣撫を命じられ、花蕚郷のほとんど全域に亘って、兵を派遣したり、施薬などの行為をして、住民の懐柔に努めた。
友軍通過部隊の集団的略奪を阻止したり、個人の略奪を返還せしめたりしたことが何度もあった。時には鉄拳制裁を加えて物品を返還させたことすらある。
このことは彼らには驚きであったのか、予想外の協力を得るのに役立ったと思われる。
池本兵長などは単身区域を巡回して、住民と親しくなっただけでなく、市場のボスと義兄弟といわれたりしたこともあった。従って被害を加えられるような気配は皆無であった。
又最後には隣県の花石県の知事からの使者が訪れて、こちらも宣撫して欲しいと依頼を受けたりしたこともある。
どうやら私の隊を1個の軍閥かのごとく感じたらしい。
彼らで見れば、自国民であっても苛斂誅求をする軍閥にははっきり抵抗していたわけである。

終戦後この地を通過する際、夜かなり遅かったにもかかわらず、住民の歓待を受け、地元の顔役たちから、日本はもう負けて、国は無くなっている。何とでもするからこちらに残れと本気になって口説かれた。
日本軍隊の組織を知らないものの言だからもちろん取り上げはしなかった。
ところが後日、軍隊として国民党軍に加入したり、共産軍に加入したりする事態が起きたことは周知の通りである。

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2006年10月25日 (水)

蒲刈島の石灰

先日婿の案内で蒲刈島を訪れた。もうこのブログでも書いたことだが、この島には何となく懐かしい思いが残っていて忘れられない。
安芸灘大橋が出来たとき、新聞報道を見て家内と二人で出かけたのが最初と思っていた。
がふと思い返してみると、どうもそうでは無いらしいことに気づいた。
私がまだ30歳にならないころだから、もう60年近い以前、船で石灰を買いに訪れたことがあることを思い出した。
蒲刈などという変わった名前がその時以来私の記憶の中に留まっていたわけである。
がんぎに横付けした船に巾1尺そこそこの板を渡し、ゆらゆら揺れ動くその上を、約10キログラムもあっただろうか、石灰の入ったカマスを担いでひょいひょい調子を取りながら運び込む訳である。
私は一旦は手伝うつもりで、その渡し板を歩んだ。途端に足がすくんで渡るだけでも無理なことを悟った。
ところが、私よりも年下の娘さんがもんぺ姿で、石灰を担ぎ上げひょいひょいと渡って来るではないか。
この時の恥ずかしさは未だに忘れることが出来ない。
もちろん慣れもあっただろうが、年若い農業会の職員さんが、気軽に処理してくれたことには流石に驚いた。
軍隊帰りのいい若者が、女の子の出来ることが出来ないのだから無性に情けなく恥ずかしかった。

その2、3年前長沙で武装解除されて、リュック一つ背負って徒歩で帰国の途についた。長沙からすぐ大きな湘江を渡らねばならない。巾4、5百メーターもある大河である。今は使われていない鉄橋を渡ることになった。滔々たる河の流れに流石の鉄橋も揺れ動いていた。15、6米も歩いたろうか、下の濁流を見た途端足が竦んで歩けなくなった。
側を渡って行く兵隊たちも同じである。立ちすくんで前進出来ない。とうとう誰ともなしに這いはじめる。
ぞろぞろとカブト虫の行進である。戦い敗れて、外聞の悪さも無く、折角助かった命だからと惜しくもなっていた。

あの時の恥ずかしさが蘇った。が汚辱の深さは今度の方が格段に大きかった。

婿はこの島に石灰が出るなど聞いたことが無いという。それでは牡蠣殻でも焼いて作っていたのかなあと思ったりした。ところがいよいよ島を離れる段になって、娘が貰っていた案内図に石灰採掘跡と記入があるよと見つけてくれた。やはり昔あったのだ。うそではなかった。ほっとすると同時に島の娘から与えられた汚辱の深さが、記憶を確かなものにして呉れたことを思った。

追記:長沙の鉄橋の巾は現在の地図で計って見ると1600米あった。当時でも余り変わらないと思うから、やはり1キロ近くあったのだろう。永かった記憶は未だに残っている。Img_1363

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2006年10月26日 (木)

老騒

ここ数日身体全体が異常に痒い。
昼も夜も時を嫌わず痒い。何が原因か分からない。もちろん根元には乾癬がかかずらっていることは分かっているのだが、乾癬だけなら十数年も世話になってるのだから程度がわかる。
何か他の要因はというと思い当たる節は無い。格別違った食事をしたことも無いし、生活様式が変わったこともない。
不思議である。
3日前など顔も身体も膨れ上がった感じになり、夜寝ている間に掻いたとみえ、昨日朝起きてみると布団の上下、寝間着、下着全部転々と血痕だらけである。
家内が全部はぎ取って洗濯してくれたが、一度では済まなかったのでは。
いくら痒いぐらいでと言われても、役にも立たないこんな老人早く命を取れと叫びたくなる。

先月末注文していたブログ集の製本が送られて来る。早速予約を受けてた所から配布を始める。取りあえず見本のつもりで作らしたので、5冊注文したのだが、あっという間になくなる。
やはり本式の製本だから立派なものだ。
来年の生前葬にはその時点までのブログ集を製本して配布する予定だが、これなら中身はいざ知らず見かけだけは、お土産になるだろうと一安心。

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2006年10月27日 (金)

老騒2

今朝起きると家内が右肩が痛いという。昨夜はうずいて眠れなかったらしい。
何が原因かというと、部落の集会所や自宅の草取りをやったのがこたえたのだろうとのこと。
70肩というのは聞かないから、それではなさそうだが、それにしても疼いて眠れないのでは困る。
私も老境に入ってからは絶えず身体のあちこちが痛んで苦しんだ。老化に伴うものだからどうしようもない。
痛み止めのお世話には随分なった。
家内にそれを言うと胃が悪くなるから駄目だという。
外科に行って注射してもらうしかないだろう。
明日はお茶の会で和装したり、お手伝いしたりで忙しいのだそうだ。
人ごとながらこちらまで苦しくなる。
いやだいやだ。年取ったら人並みの顔をするなということか。

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2006年10月29日 (日)

同窓会の余韻

先日の大阪での同窓会で私のデジカメで写した会員の総合写真を帰宅して翌日印刷して皆に郵送した。
私の性分で間を空けることが嫌なのでそうした訳。まあデジカメだから出来る芸当でもあった。
写真は決していい出来ではないが、顔が分かれば良いとの私の思いだ。
どうせ80歳後半の老人たちの顔、美醜を競うようのものではない。
ただ、ぶれない様に担当の女性に注意しながら2枚は撮ってもらった。
早いのは2日目に、つぎつぎと連日礼手紙が送られて来た。
きっちり全員から几帳面に、喜びの表情を滲ませて書き込んでいる。
又異口同音に来年の広島大会にもよろしくと、もう出席を決めた口ぶりである。
歌が出るでもなく、酔っぱらってぐだをまくでもなく、若き日を懐かしみ、現在を楽しむだけの静かな語らいに終始した会合に過ぎなかったが、それでも充分満足している老爺たちだった。

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2006年10月30日 (月)

下宿のおばさん

永く生きていると思いがけないことで、知ってる人の消息を聞くことがあるもんだ。
どこかで縁がつながっているのだろう。不思議なことだ。
つい2、3日前、ネットを捜しているとき、突然私の知った人の名前を見つけた。よく見ると少し違うのだ。名前に太郎の二字が抜けている。では別人かと思ったら、その経歴が私が聞いてたその通りなのだ。永年白浜で臨海実験をしておられたとある。

私が学生のとき、2年間下宿させていただき、時に母以上の世話を掛けたりした、おばさんのことがこの文章の中で出て来るのである。ただ彼の話の中でその二字欠けてる人が私の母が亡くなった年だからなどと、おっしゃっているのでそれでは年賀状が来なくなったあの時かと、日記を繰って見ることになった。

ややずれがあるが、ほぼ同時期である。
おばさんはやはりこの人即ちよく話をして居られたこの息子さんのところで亡くなられたのかと合点した。
おばさんの連れ合いのおじさんの名前の太郎を取った人が息子さんだったのだ。

最後に受けたった手紙ではこの夏に一度郷里に帰るからその時逢いたいとあった。それきり消息がなくなり、翌年の年賀状も来なかった。もちろん息子さんには一度もあったことがないが、和歌山県の白浜の臨海実験所に居られると言うことだけは何度か聞き知っていたし、年賀状はいつも白浜から来ていた。
偶然の一致だけで、間違った話なのだろうか。今から42年前のことなのだが。

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2006年10月31日 (火)

菊作り名人のお隣さん

お隣さんが丹精込められた菊を改めて見に植物園に出かける。外に出ると出会い頭に今から速谷神社に供えるからと別の菊を軽トラックいっぱいに積み込んで居られるのにぶっつかる。
熱心なことである。
例年あちこちでその展示物にお目にかかったり、又時には何株か分けていただいたりして余録に預かっている。
早い時期から庭は勿論家の中まで、毎日丹精されている沢山の菊たちを、塀越しに私どもは目を楽しませてもらっているのだが、今日はその出陣式というわけである。

植物園も今日は入場料なしとあって、朝一番から園内は沢山の人で賑わっている。
何かイベントもあるらしく、賑々しく設備が広場いっぱいに飾られている。

何といっても今は菊である。重慶からの出展らしい菊の飾り付けは流石に豪華絢爛、一見の価値は充分。
園内各所に菊の出展ははでやかである。
残念ながら菊以外には見るべきものは今はない。
昼過ぎにはいつもの様に園内を一周して帰路につく。Panda
Kengai

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