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2006年9月 1日 (金)

藤田嗣治の画展

午前中広島県立美術館に藤田嗣治の画展を見に行く。
審美眼の皆無な私などが見ても何にもならないのだが、家内が先般より盛んに見に行きたがるので、運搬役で仕方がない。
評判の裸婦などは、老いぼれには興味が殆どない。
「三人の女」はど迫力があって、今にも爆発しそうな女體に驚く。
私にはやはり戦争画が一番似合う。
「アッツ島玉砕」や「シンガポール最後の日」が印象的だった。「山下、パーシバル会見の場」が展示してなかったのが残念だった。
私達には有名過ぎる画家だけど、現代人には馴染みが薄いか、いや普通の日だったからか、観客は少なく、楽に観覧できたのはよかった。
パリで有名だった彼の個性の強さは何となく分かる様な気がした。Fujita

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2006年9月 2日 (土)

忘却

「拝啓天皇陛下様」という渥美清の映画を見た。
なんと終戦の年渥美清一等兵が元中隊長の墓碑の前で涙する場面がある。
その場所の説明字幕が「易俗河」とある。
あまりの偶然に一瞬息を呑む。
一昨日ブログに書いた湖南省の中で、渡河点にいついてのエピソードがあるが、この渡河点が「易俗河」だった。
この映画は1963年の松竹映画だが、どうして唐突にこの場面が出て来るのだろう。
この映画の製作関係者にこの戦線で戦った人がいたのだろうか。
もう今では「易俗河」は地図にもないし、別の地点に大きな橋も出来てるようだから、主要道路から外れてしまっているだろう。
懐かしい地名だが、我々の年代と共に忘却の彼方に間もなく消え去ることだろう。

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2006年9月 3日 (日)

新雪という映画

戦争中に作られた映画で『新雪」というのがあった。
私が見たのは、昭和19年8月、中国湖南省長沙の当時の地区軍司令部の地下であった。
何度目かの米空軍B24の大編隊の絨毯爆撃のあった日だったか翌日だったか、損害報告のため司令部に出向いた。
私の部隊は既に前方約百キロの地点に前進していたが、私の隊の一部だけが、私の病気看病のため居残っていて、たまたまこの爆撃に遭遇したわけだった。
幸い殆ど被害がなかったので、その状況と付近の被害状況の報告だった。
確か長沙に入った時も駐留のための差配を受けた覚えがあり、地区司令部の指揮下に入っての駐留であることを承知していたからであった。
司令部の係官はその報告を喜び、今夜日本映画を上映するから見に来ないかと誘われた。
その映画が『新雪」であった。私に取ってはもう4年ばかりほとんど日本映画を見ていなかったので、俳優の名はよく知らなかったが、凄く新鮮で感激に咽んだ。
対中国輸出映画と見え支那語の字幕がついていた。
もう筋は思い出せない。
帰国してから今日まで、いつか見たいものだと待っていたが、未だに再上映の噂を聞かないし、見る機会を得ない。
ビデオか何かないものかと捜したが見当たらない。主題歌は灰田勝彦の歌で有名なのに。
どうやら今生で再びお目にかかることはなさそうだ。

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2006年9月 4日 (月)

水死

夏休みも終わり、海水浴場も閉まるところが増えて行くことだろうが、相変わらず水死事故は絶えない。
一瞬の隙に襲われる事故だけにどうしようもない。誰しも死にたくて泳ぎに来たのではない。

私達の幼少年時代には、海水浴場なんてなかった。河や海至る所が夏になると子供の泳ぎ場であった。1米足らずの小川でさえ水深があれば、ばちゃばちゃやっていた。
だからひと夏には何人もの水死事故が起きた。昨日居た仲間が今日はいなくなったなど、ごく自然に起きた。
カッパに尻を抜かれるなどと大人に脅かされたりした。
それでも親が昼寝している間に抜け出して泳ぎに出かけた。

中学生になると、2,3キロもある海岸まで出かけた。水泳着なんてまだなかった。金つりという黒い三角の布が唯一の水着だった。これも小学生時代には無かったと思う、フリーチンだった。
海岸は護岸工事が延々と続いて、何段にもなった石垣の海岸だった。勿論そのまま飛び込み台になった。
たまたま干潮のときは、藻の中を魚を捜した。そして沖まで出て泳ぐという寸法だった。

プールは学生時代、学校のプールがあったが、部員専用で一般のものが勝手に泳ぐなどということはなかった。
禁則があったかどうかは知らないが、誰も近づかなかった。
人口のプールで泳ぐということは、子供が4、5歳の時、ある電鉄会社が開いたプールに金を払って入場し、子供を遊ばすために泳いだのが一二度あるだけだ。

四方海の日本だから、泳ぐのに不自由しない筈だが、今の環境はひどすぎる。
いつか海の水が恋しくなって、近所の海岸まで行って、裸になって水に浸かる段になって、岸辺によっている塵芥の凄さに流石にひるんだ。ちょっと足をつけただけで止めて帰って来た。
自動車で近所の海岸を走り歩いて、適当なところはないかと捜したがなかった。

ある新興住宅地の海べりの道に車を置いて、裸になり石垣を超えて海辺に下り、ぱちゃぱちゃやってると、すぐ数人の住民が怪訝な顔をして石垣の上から覗き込んでいる。これにはこちらが驚いてあわてる始末。

10キロも行けば、砂地の海岸がないことはないが、老人一人では気がさして入り込めない。直ぐ側の海が使えないとは誠に残念だ。
老いていつ死んでも構わないものには、せめてこの夏の様な暑い日には海にでも浸かりたいのだが、思うに任せぬこの頃ではある。

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2006年9月 5日 (火)

天候異変

昨夜はいつもの通り深夜放送の「蝉しぐれ」の朗読を聞くために0時半過ぎまで起きていた。
0時前後にぱたぱたとベランダで音がする。
変だなと窓を開けて見ると、盛んに雨足が叩いている。
ありゃりゃと慌てて、開け拡げて寝ている二階の窓を全部閉めて廻る。
確か予報では,明日は晴天で降雨率10%だったのにと、放送局を恨む。
間もなく大雨になる。
やれやれ天気予報も過信は禁物だなと反省。起きていたからよかったが、白河夜船だったらかなり濡らしただろう。

今朝はどん曇り。
さっきちょっと朝日が射したが、もうすっかり曇り空。
変な台風12号が西洋からやってきたせいかなと思ったりする。

今年は記念すべき天候異変が多い。

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2006年9月 6日 (水)

生前葬

来年の生前葬会場探しに忙しい。
昨日は中国新聞制作センター見学を兼ねて、安芸グランドホテルに行ってみる。
このホテルは18年前に母校の同窓会をやったことがあるが、それ以来である。
その時とまったく変わったところはない。家内もその時一緒に宿泊した経験があるので、新しい印象はない。
先日見学したプリンスホテルの方が、会場としては風景が断然良い。しかし交通事情がやや複雑で、人を呼ぶのにふさわしいか少し疑問が残る。
日時は来年の9月23日(日)に一応内定したのだが。

ついでに見学した近くの中国新聞制作センターはガラス張りの工場内部がよく見える作りになっている。
最近出来たのだから、最新式の新聞印刷工場といってよい。
各販売所へ配送車が出るまで,オートメーション化されている。
1本のロール紙に40ページ7000部の新聞が色刷り印刷出来るという。
丁度三次から見学に来られた団体に紛れ込んで最後まで見学させてもらった。
ありがとうございました。Rolepaper

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2006年9月 7日 (木)

親王誕生

(私の昨日の日記から一部転用)
秋篠宮に男子誕生。全国湧く。
各テレビ局が同時放送という近来に無い過熱振り。
帝王切開でこの世に現れたというのが良い、鸛の巣立ち行事に立ち会われたからというのも更に良い。
凡そ宮中のことは雲の上の事だから。
私は私の生涯で日本も天皇も滅亡する危機を経験した。幸いにそれを免れた上に、今又万世一系を称えられる状況になった。
やはり神風が吹いたのかも知れない。
数百年後昔話の一つになるだろう。

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2006年9月 8日 (金)

余部鉄橋

毎月寄越して来る旅行案内を見ていた家内が、余部鉄橋ツァーというのがあるよと言う。
いつだったか随分前列車が風に煽られて転落したことのある高い鉄橋である。
それは面白いなと応ずる。

お別れとあるから無くなるのかも知れないという。
それなら尚更見ておきたいと参加申込することにする。
汽車に乗り込んで橋の上を走るのだそうな。
まさか又落ちることもあるまいが、もう命は惜しくないので心配することでもない。

先日旅行社に支払いに行って、何人申し込んだかと聞くと43名という。
1バスいっぱいだから、窮屈なことだなとあきれる。
物好きなのが多いことだ。

朝4時頃から起きて、電車の始発は遅いので2キロ歩いて近くのバス停まで出かけなくてはならない。
日帰りでかえるのは10時頃になるという。
老人には少し酷かなと心配になってきた。

国内だから途中下車して、どこかの宿に転がり込む手もあるし、まあやって見るかと覚悟を決める。Amarube

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2006年9月 9日 (土)

災害自衛隊

私の今住んでいる広島県で最近水道陥没事故というのが起き、呉市などで3万2千所帯の断水につながり大騒動となった。
水は一日も欠かせぬ生命維持要素だけに、大地震や台風などと同じく緊急処理を要する。
直ちに自衛隊の行動が要請され発動した。

こうしたことが起こる度に気がつくのだが、国は災害などに普段から備えて,国民の全部に集団的行動が出来る様訓練する必要があるのではと考えたりする。

世界の半数以上の国が徴兵制度を敷き、戦時に備えると同時に災害などに対処する訓練を普段から怠らない。
日本は憲法の関係もあってか、災害に備えての訓練並びに実施のための国民徴集制度はない。
その時その時の場当たり的措置しかできない。
国民の意識も出来ていないから,手遅れ、無駄、無意味な対策など、損害をいたずらに醸成することも多い。

やはり、国民の義務化する必要があるのではないか。1年でも半年でもよい。直ちに行動出来る様な集団を準備し、一律に訓練を受けさせ,必要に応じ訓練済みの人員を徴集することにすればと思ったりする。
過疎化した山林も多く、災害対策を迫られている地域も多いと聞く。
普段から治山治水すれば、大災害を免れる効用もあるだろう。

平和が単なるかけ声だけだと、どこの国も思っている。
平和憲法があるからといって、戦わなくてよいという保証はない。
戦争はしない、戦をしかけられて負けても良い、だが身の回りの災害だけは防ぎたい。
この最少限の防衛策は国民全部が義務として負わなくてはならないのではないか。
自衛隊や消防隊だけに任していいのだろうか。

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2006年9月10日 (日)

厳島神社の回廊

足元から大変なことが持ち上がったなと老いぼれの心配が又一つ増えた。
今朝の新聞で宮島の回廊から海水が吹き上げてる写真が一面にどっかり掲載されている。
もう何年も前から温暖化現象のせいだと、なんどもなんども報道されているから、今更私ごときが取り上げても何らの反応も期待出来ないが、このままだと数年後にはこっぽり流されてしまうのではと気が気ではない。
もう何度かの台風で痛めつけられてもいる。
果たしてどうしようもないことだろうか。
音頭の瀬戸を切り開いた平の清盛ならどうするだろうと思ったりする。
心意気は先人に学ぶとして、現代科学の粋を集めて根本的な対策をたてて欲しいなと思う。
(写真は今朝の中国新聞記事より)Kairo

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2006年9月11日 (月)

気温急降下

夜半に目覚めて、ちょっと寒いなと壁掛けの扇風機を消し,タオルケットを夏掛けに替えて寝たのだが、朝起きるとブルブルっと来る。
窓が開いたままだった。
それにしても寝る前には29度だったのにと、部屋の温度計を確かめると24度半になっている。
外の寒暖計を見ると19度5分。
家内も風邪を引くといけないからと毛のチョッキを出して来て掛けてくれる。
それでも手足が冷たい。
いそいで長袖シャツに着替え、長ズボンを履く。
やっと人心地つく。
いつもの秋になったか、やれやれ。

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2006年9月12日 (火)

旧友

横山君とリーガロイヤルホテルで会い6階のなにわで食事をする。
遠方よりでなくても又たのしからずやである。
あらかじめ打ち合わせての会合だから、用意した話題をぶっつける。
最近は家に居て、もっぱら家内の話を聞くだけの生活だから、声帯が固化したのか、かすれてまともには声が出ない。
えーっ、えーっ、と耳を差し出して来る彼に、自然に大きな声になる。
時々隣客に気を使ってこうべを回しながら。

十人近く居た同級生も、可部の福永君と我々3人だけになった。
福永君はガンで腸の一部を除去して以来、なかなか会うこともできない。時間のかかる外出は困難なのだから仕方がない。
生前葬や献体のことを話すとそんな話ははじめてだと驚く。
おれが死んだら、何にも知らさないだろうから、怒らないでほしいと懇願する。
十年先にまだ長生きしてたらどうするんだというから、生ける屍になってじっとしとるよと答える。
情けないなと応じて来る。

葬式を済まして、いつまでもぴんぴんしていたんでは、なるほど困るなと考え込む。
ある愚かな男の「笑い話」になるかもしれない。

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2006年9月13日 (水)

現か夢か

昨日旧友と会って、老人にはやはり過去しかないことをしっかり悟らされる。
彼も最近よく軍隊時代の事を夢見るという。
私も夢はよく見るが、たわいないまるで関係のないことばかりで、なんでと目覚めた時思い返すことが多いこのごろだが、軍隊時代のことというと半ばうつつと夢と思い違いしながら見るのではなかろうか。
先日書いた易俗河のことなど、僅か1、2日の間に経験したことがらで、記憶出来なかっても仕方がないほどのものである。通りすがりの他人の一事とも言える。夢の様に思い浮かぶのである。
しかし記憶というものは、必要性に軽重の差があるわけではない。
恥ずかしい事,情けない事、悪い事、思い出したくないものは多い。
心奥を吐露することなど出来ないと思う。
経験した事象も畢竟主観に左右されたもので、事実とは違うかも知れない。
とすれば記憶はやはり夢というべきだろうか。

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2006年9月14日 (木)

蘇峰の日記

先日の新聞の書評欄に「徳富蘇峰の終戦後日記」というのが載った。
徳富蘇峰と言えば戦前私たち青少年に檄を飛ばし続けたジャーナリストだ。恐らく知らぬものは一人も居ないくらいの人物だ。日本国の美意識の昂揚にどれほど役立ったかわからない。
結果は敗戦に追い込まれて、あれは何だったんだと信じさせられた愚かさを痛感する事になった。
国論の最強な先導者だっただけに、忘れきれない思いが、混乱の中にも脳裏に残され続けた。

その彼の終戦後日記というのだから、戦後も生きて何か書き残していたのかと驚くと同時に関心が起きた。
早速本屋に出かけ探したが分からないので、店員さんに捜してもらう事になった。
コンピューターでしばらく捜し、1冊あるということで書棚をあちこち一緒に捜す。
しばらくたって、書棚とは違うところからありましたと持って来てくれる。
五百ページにものぼる大冊である。

彼自身が戦争犯罪人だと言ってるぐらいだから、世間から抹殺され、いつ寿命を終わったか誰も知らないと思ったが,昭和32年95歳で無くなったようだ。
彼だけではない戦時中どれほど多くの戦争扇動者がいたか、反対者はまず皆無と言ってよかった。
言論は戦争謳歌一色だった。
無知蒙昧な国民はもちろん、かなりの有識者でもその煽動には載せられずには居られなかった。
特攻隊となっていさぎよく死に突入したものだけでなく、殆どの国民がその後に続いた。

まだ序文を読んだだけだから、書評は差し控えるが、彼自身は責任を感じて屢々死を考え,或は占領軍に自ら戦争犯罪の申し立ての書面を提出したりしたらしい。結局言論の自由を重んずる米国は言論の故を持って弾ずる事をせず、無罪釈放となったらしい。

今からよく熟読したいが、彼の意志に同調して多くの命が失われた事実は消し様がない。
幕末の吉田松陰はじめ尊王の大義を唱えこれに同調して死んだ志士も全く同じだ。
蘇峰はやはり結果は拙く出たが、やはり偉大な存在だったんだなと思わずにはいられない。Img308_1

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2006年9月15日 (金)

蘇峰の日記について

昨日のブログで徳富蘇峰について煽動者の筆頭の如く書いたが、「終戦後日記」を拾い読みしてみると、彼が徹頭徹尾の主戦論者で、国の総力を挙げて戦わなかっのだから、勝つわけがないという。
今からという時に無条件降伏したとある。
輔翼する米内、小磯、鈴木の各内閣に戦う意志がなく、敗戦処理に終始したのだから勝てるわけがないというのだ。

総力を挙げて戦うとは本土決戦をいうのは明白だ。
本土を焦土と化し、国民の大半の血を流して戦えばの話である。
もちろん阿南陸相をはじめ、その主張をするものは多数あったが、及ばなかった。野に在って終始これを唱え続けた筆頭がこの蘇峰翁であった。
頑蘇と自らを号するくらいだから、その主張を覆す事は生涯なかった。

果たして、後年間もなくヴェトナムがこの言通り、国を焦土と化して戦いを完遂してのけた。
全力を挙げて来た米国の大軍を遂に退けたのである。
ただこの時は米ソ対立と、中国も共産化して、協力を惜しまないという幸運に恵まれたという経緯があった。
更に原子爆弾を使うのは、もう国際世論が許さなかった。

日本の場合は、その望みもなく、米、英,ソ、中の腑分けにあったことだろう。
天佑神助を期待するには、タイミングが悪過ぎた。
結果論で物を言う事は避けねばならないが、現実に起きた事が最善だったと自分を納得さす以外にない。

ただ、戦争の遠因は文中で縷々述べられているごとく、17、18世紀の西洋各国のアジア侵略にあるという論議は異を唱えるものは居ないだろう。
又米国のABCD包囲網が日本の死活を制するものだっただけに、戦いに追い込まれざるを得なかったという論も頷ける。

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2006年9月16日 (土)

教祖の死刑

オームの教祖の死刑が確定した。
いずれ執行される事になるんだろうが、教祖がいなくなってもオーム教は残るおそれが充分在る。
教祖を崇拝して止まない信者が千人もいると伝えられている。
死刑にすれば、十字架に乗せられたキリストの面影がオーバーラップする。
キリスト教は12人の使徒により後世に伝えられたと聞く。
あれだけの非難の中を信仰をくずさない信者千人はあまりにも多い。
信仰の自由が保証された現在だから、キリストの昔とは違うがそれにしても仮に10人でも凄い。
私は宗教的な信仰が嫌いだ。無宗教を自負し、家族にも絶えず吹聴している。
信者というのは特攻隊と同じく命を捨てて掛かって来るから、いかなる権威も通用しない。
現在のイラクの実状が証明している。
教祖をいくら処刑しても、教義を否定出来る何ものかがない限り、第2、第3の麻原が出て来る可能性はのこされるのではなかろうか。

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2006年9月17日 (日)

行ってきまーす

とうとうこの日が来た。雨が相変わらずしょぼしょぼ降っている。
数週間も前から予定されてた阪急交通社のツァーである。
余部鉄橋を渡るため今から(午前5時)歩いて家を出る。ツァーのバスを待ち、最寄りのバス停で拾って貰うことになる。
台風13号が時々刻々と後ろに迫っている。
バスの速度の方が速いので、もしぶっつかっても帰路になるのだろう。
決死のというほど大袈裟なものではないだろうが、浦富海岸での海上からの見学や,余部鉄橋の列車で強風に襲われて鉄橋の見納めがこの世の見納めになったりシタラと、ちょっぴり嫌な気持ちではある。
もしタイミングが悪ければ目前にして中止されるだろうが。
運が良ければ結果よしで、まあ天に任すとするか。Uradome_1

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2006年9月18日 (月)

余部まで

「行きはよいよい、帰りは怖い」そのままの仕儀と相成った昨日の日帰りツァー。

朝5時バス停までは、傘は持って出かけたがささずに済む。
広島駅で集合して、山陽高速道路に入っても,小雨程度で大した事はない。
一緒に行く予定だった妹2人のうち一人が天候を懸念して取りやめたという。用心深いたちなので、いつかの富士登山のときの様に、雨にひどいめにあったことを思い出したのかも知れない。
岡山県に入る頃には日が射し始めて、車のカーテンを引くものが多い。
津山で高速道を下りて、国道を鳥取に向かう。

お昼前に鳥取砂丘に到着して,食事の後砂丘を散歩する。4度目の訪問だが,その都度設備がよくなったが、砂丘の環境には明らかに悪い変化が見て取れる。
末の娘が4、5歳の頃小さいポニーの背中に乗せて歩かせたことがあったが、今は数頭のラクダで二人づつ乗せての徘徊である。僅か数平方キロの砂地を、ゴビの砂漠に見立てての業者の商魂だが、正にナンセンスとしか言いようがない。
これだけ人工が加わっては、この自然がそんなに長く保たれるわけがないと思わずにはいられない。踏み荒らされた目の細かい砂地を見ながら、私はせめて足を踏み入れずに遠くから眺めるだけにする。

ここから車で10分ぐらい行ったところの、網代港から観光船に乗って浦富海岸を見学する。
裏日本各地に見られる寝食海岸の一つである。規模はいくらか小さいが、海が穏やかだったので楽しく鑑賞出来た。
一昨年の隠岐島の回游の怖さはない。

今回の一番の目的余部鉄橋は流石にその高さに驚いた。そして鉄橋とはいえ鉄骨を組んだだけのいかにもひ弱な景観、これでは無くなるのは当たり前だなと実感する。
が地元の人に聞くと建て変わるのは四年先の平成22年だという。「見納め」などと銘打った旅行社の宣伝に乗せられた自分に気づく。駅まで普通の山道をのぼるのに老人は息を切らす。山道の途中で写真など立ち売りしている、20年前の転落事故の写真があるかと聞いたら、そんなものはないと手をはげしく横に振って娘さんが答える。
やっと登り切っても、随分待たされて、あっというまに満員になった、列車に乗り込み香住まで行く。
橋を渡るとき覗き込む乗客の悲鳴とため息がいつまでも耳に残る。

香住駅に降りた時、小雨がちらちらと降り始める。もう終わったからいいよといった気分。

が今回の旅行はこれで終わらなかった。この時丁度午後3時半だったが、帰宅した11時半までの8時間はやはり一つの長いドラマに満ちた道程だった。
知らぬ間に13号台風がどんどん迫って来ていたのだった。
岡山を過ぎる頃から、道路の掲示板が刻々道路の警報や通行停止区間の表示を映し出す。
そのうち妹のうちから広島以西の状況を経帯電話で知らせて来る。交通機関が6時過ぎからどんどん動かなくなっているという。岩国まで帰らなければならない妹のことを心配しての事だ。

こちらの車の行く手には雨もかからないし、風の音もほとんど聞こえない。
私達の計算では夕方やっと九州に上陸するかどうかだったから、台風の来方が大分早くなったとしか思えない。
それにしてもと走りながら何等変化の見えない車窓を見ながら、不思議な感じにかられて闇の先を見すかした。

広島に近づくにつれ、速度が明らかに鈍って来た。風圧抵抗があったか、運転手の機転からか。
気づけば、車窓をよぎる車の数もまばらになった。
10時50分やっと広島駅に到着、大部分は下車、少数のものが宮島口までの間にばらまかれる。
広島駅から電車で帰宅するつもりだった私たち夫婦は、電車が動かなくなっているのでしかたなく、最寄りの佐方サービスエリアで降ろしてもらい3キロの夜道を歩く。
下りてみて始めて風の強さに驚く。雨は降らないが、吹き飛ばされてくる物体に気をつけながら深夜を歩く。

妹は宮島口でバスから降ろされて、自宅からの迎えの車を待ち、しかもその先の国道が波しぶきの関係で通行止めにあったりして、やむなく高速道に迂回して、1時頃やっと帰宅する事が出来たらしい。

私らも風呂で汗を流したりして、寝床に入ったのは午前2時頃だったか。
やれやれ、ひどい目に遭ったなとの思いと、もう一人の妹の予感が正しかったかなとの思いが錯綜したりした。
計画そのものは順調に、文句がつけようもなく終わったが、締めくくりが悪かった。
参加人員43名の予定だったが、予感で止めたものが6名居た。果たして軍配はどちらに。

Rakuda
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Tekkyo
Tekkyo2

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2006年9月19日 (火)

鳥取砂丘

自然を残すことの難しさを改めてこの鳥取砂丘を訪れて痛感した。
ラクダまで連れて来られて、競って乗る観光客を相手につぎつぎと砂丘を踏み荒らして廻る。
人間どもの興趣に強いられて、明日の事は考えずに破壊されて行く。
こんなところに来るのではなかったと後悔の念ばかり残る。

人間は果たしてこの世界で良い事をしているのだろうか。Img_1284
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2006年9月20日 (水)

源氏物語絵巻復元

家内がかねてから見たがっていた、源氏物語絵巻の復元版の展覧会を福山の広島県立歴史博物館まで出かけて観覧する。丁度お午に着いたが、宣伝がよく行き届いていて、次々と来館者が切れない。駐車場も順番を待って入る。
家内はかなり時間をかけて見たようだが、私は源氏物語そのものも原典は無論の事、現代語訳も読んだ事がないし、そもそもが嫌いな筋立ての小説だし、今回の絵巻の展示もほとんど興味がわかない。
何年もかけて、よくも克明に復元されたものだという労苦だけはよくわかった。
私ごときが見ても仕方がないなと感じたので、邪魔をしないようにさっさと出口を出て、売店で「よみがえる源氏物語絵巻」という冊子を買い求める。仔細に記述してあるので私にはこの方がよい。

この展覧会だけで帰宅するのでは、遠くまで来た甲斐がないので、家内が出るのを待って、すぐ『明王院」に廻る。草戸千軒遺跡の発掘はもう終わっていて跡形も見えない。

お参りをすますと鞆の浦に向かう。
架橋問題で揺れているようだが、通過するだけなら、道は広くなってるし問題はなかった。
そのまま松永を抜けて、福山西ICに出ようとおもったが、どこでどう道を間違ったか、とうとう尾道、三原を通り過ぎて、やっと本郷から高速道路に入る事が出来た。
いつもながら尾道付近の道路の複雑さには泣かされる。快晴とあって、西日を真っ向に受け道路標示が全然見えなかったせいもあるにはあるが。
帰宅したのはもう5時を過ぎていた。
老人の運転に家内も私以上に疲れたらしい。
Genji_6

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2006年9月21日 (木)

今日の日記から

昨日終日の運転疲れからか、今日は朝から眠くてどうしようもない。とうとう午前中いっぱい寝て過ごす。
寝るにつけ起きるにつけ絶好のシーズンではある。
聞く所によると、職場ではうつになる若者が増え、職場長はその補完業務もあって忙しいらしい。
うつになるなどという言葉は昔はなかったので、意味も分からなければ、その状態の察しようもない。
戦争もない平和な国で、なんで、そんなうっとうしいことがあるんだと反論すると、平和過ぎるからだと答えが還る。
ひ弱な若者たちが充満しては、日本ももう永くないなと心配である。
老人も寝てばかりいては居れないのかなと緊張する。
しかし顧みると抜け殻になったおいぼれに出る幕などない。
そしてこれも皆私達先輩の蒔いた種だとさとる。

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2006年9月22日 (金)

北政所

先日NHKで放送された「その時歴史が動いた」で北政所おねさんのことをやっていた。
なかなか面白かった。私は昔からねねさんというのだと思っているのだが、いつのころからかオネが定説になったようだ。
まあともあれ大分以前から、豊臣時代を築くのに貢献した加藤、福島、浅野、黒田などが、石田三成と仲が悪かったとはいえ、なぜ徳川と結んで、遂に豊臣政権を倒す事になったか、関心を持っていたし、「北政所」(津田三郎著)なる冊子を求めて読んだ記憶もある。ねねさんの一代記の様な本であるが、現にどこかの片隅にその本がまだ残っているはずだ。

その冊子の中でも、秀吉亡き後ねねさんが大阪城西の丸を徳川家康に譲って京都に引っ込んだ後、機嫌伺いに、ちょくちょく訪ねて来るこれらの武将たちの日誌風な記録が出て来る。家康も何度か訪ねて来たとある。
特に関ヶ原の直前などは挙って訪ね、ねねの存念を確かめたであろう。
赤ちゃんの時からねねに育てられた秀秋(ねねの甥)の裏切りの原因はねねの使嗾によることはもう間違いない所のようである。
わっぱの時からねねの手元で可愛がられた福島や浅野、黒田などが徳川のために働いたというより石田憎しで先頭にたったのも、その底辺にはねねの提言が色濃く残っていたと思える。

北政所と淀君の表面には見えぬ確執が遂に豊臣政権をつぶしたとも言える。
げに恐ろしきは女の執念である。

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2006年9月23日 (土)

国旗と国歌

東京の裁判所で国旗国歌を強制するのは憲法違反だと判決があったそうだ。
理由に戦争の時に利用されたからというのがあった。
この裁判官はちょっと勉強が足りないのではと思うので言わして貰う。

今の国歌、国旗は日本が国際社会に認められるために、明治の初年に国旗、国歌のない国は国とは言えないと、外国人からの慫慂もあって、作ったもので、何も今度の大東亜戦争のために、作られたものではない。だからそれ以後一貫して国民は強制される意識なく唱い繋いできた。今の憲法が出来たのと同じだ。
従って、私の生まれた大正時代は、国歌は小学校1年生になると、早速習って意味は分からずに一生懸命歌い覚えたものだ。又祝祭日には日の丸を、どの家も白黒の竹ざおの先に付けて、軒先きに飾ったものだ。

自由主義全盛の大正末期は、正に元禄時代の再来と思われる程文化の爛熟期で、巷にはモボ、モガが横行し、都会は歓楽の不夜城と化して居た。
そうした時期にも、国歌も国旗も別に文句を云われたことはない。

昭和になって、戦争に使ったという話におびれがついて違う歌、違う旗にしろというものがあるが、戦争のためにこの国旗や国歌が出来た訳ではないことは、勿論だが、戦争中に国中で歌ったり、国旗を立てて戦ったというのは、どこの国でもやることで、他に戦争用の国旗も国歌もないのだから、致し方がないことだ。強いて言えば海軍には軍艦旗というのがあったが、これは日の丸ではない。

戦争用の歌では、「露営の歌」とか、「海ゆかば」などが、一番よく歌われたが、この方が余程元気があって、戦う気持ちになれたものだ。「君が代」は悠長過ぎて、全然戦意昂揚の役には立たず、戦場では歌ったことがない。

国旗にしても、敵の目印になるものを掲げて、普段に行動するものはいない。特に目標の陣地などを占領したときには有り合わせの、白布に血で中に丸を染めれば出来ることだから、どこでもやっただろう。
こんな場合には日本ならずとも、どこの国でもすることである。米軍が硫黄島占領で押し立てた有名な写真もある。

国歌、国旗を戦争に結び付けて議論するのは、どう考えても可笑しい。
戦争に負けたのに、国歌、国旗が居残っているのが、可笑しいということだろうか。
しかし国民の大多数は現在の国旗、国歌を認めているではないか。
私はむしろ部落の人、親戚のものたちに、日の丸を掲げて戦場に送りだされた、故郷の駅頭での思い出が一番印象に残っている。このことが戦争犯罪に繋がると云うのなら何をかいわんやである。

私のように召集を受けて、本意でなく戦ったものも、今は数少なくなった。
一応戦争の災厄から免れて半世紀以上を経た。しかし戦争を知るものが、完全にいなくなった百年後、果たしてこの平和が続くであろうか。

私はノーと断言する。目立ちがりやの多いこの頃の風潮は、戦国の世と等しい。
又群集心理に動かされやすい日本人の特性は、危険の萌芽をいつも孕んでいる。
その時には是非別の戦意昂揚に役立つ国歌、国旗を作って戦って貰いたいものだ。
その時勝てば、フランスの国歌のごとく、そのまま国歌、国旗と居残ることだろうし、
負ければドイツのごとく、変更することになるのだろう。

今の国旗、、国歌は国際的に平和な日本国民のアイデンテティを表示する方法として永く定着している。他に方法があるというのだろうか。

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2006年9月24日 (日)

岩国関戸越え

昨日珍しく岩国市の関戸にある菓子屋さんに立ち寄って休憩した。
最近はよく通る道筋だが、立ち止まる事がなかっただけに、そこの風景の変わり様に驚いた。
ここは昔から錦川の洪水を調節する自然の遊水池であった。
吉川氏のお城のある城山を迂回して、河が大きく90度折れ、すぐ下流にかかる錦帯橋の下を真っすぐに流れる役割を担っていた。
いつの頃からか、河幅が半分近く狭められ、埋め立てられて広い開作地が築かれた。
大きな道路が2本もこの中を走っている。普段は頗る便利が良い。
すなわち山陽自動車道のICや新幹線の新岩国駅に最短距離で近づけるからである。
昨年だったか、万葉の昔から岩国山を越える難所だった関戸越えの道も、大きな高速道路になって大竹市に素早く通ずるようになった。
いずれも錦川の犠牲の上に出来上がった。

人によったら天罰と言うかも知れないが、つい先般の大雨でこの付近一帯は何十年振りかの浸水事故にあった。
私の妹の家も床上浸水にあい、家財を喪失した。
自然によってえぐり取られたカーブは、それ自体すでに危険地帯である。
それを狭める以上はしかるべく、土手を高くするとか川を深くするとか、対策がなくてはならなかったのではと思う。
吉川氏が対岸に竹林を育て、長い距離に亘って寝食を防ぐ処置をしている。数百年間の対策が実って、浸水は免れだったかも知れないが、浸食の跡は見えない。

錦帯橋ばかりに目が行き過ぎて、他をおろそかにしてはならないことを暗示している。Sekido

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2006年9月25日 (月)

敬老と死

戦争という大量死生産の手段が遠のいた以上、人口増加の勢いは止めようがない。私は戦争は人類の必要悪とさえ思っている。ただ戦争も戦う力の乏しい老人には高みの見物の役割しかないだろうが。といって平和が人類すべてを幸福に出来るのだろうか、私の脳裏にはいつも疑問符が点滅し続けている。

一方痛みさえ伴わなければ、自分の意志で自分の始末をつけたいと、思っている人は相当いるのではないかとも思う。
合法的に自由に死を選択出来る様、制度化出来ないものかとさえ思われる。

一旦死を決意した場合、失敗は許されない。ただ物笑いの種になるだけではない。後遺症など残ったりして、意識能力でもなくなったら後が大変である。
確実に死に至ることが大切である。

生命も一つの物として、科学的に処理する時代に向かうのではないかとも思う。

明治、大正の時代ならいざ知らず、核家族時代のしかも間もなく老人が人口の四割を占めんとしている現今、敬老の日などという実態の乏しい、言葉のみの空しさが感じられるのは私の僻みだろうか。
安楽死の手段とか、死に前向きな議論をもう少し積極的に報道メディアで取り上げて欲しい。

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2006年9月26日 (火)

安倍内閣成立


小泉内閣の手法を完全に真似た新内閣が成立した。
手法は同じでも、内容は外務大臣を除いて違っている事は勿論である。
総理を始めとして、新鮮さには否定すべき点はないが、その裏腹に今後の政治のあり方はまるきり予測がたたない。
うまく行けばよいが、ばくちをうつ様なもので、国民の不安は拭いきれない。
下手をすると、来年には民主党内閣に取って変わられるかもしれない。
民主党のいう格差問題はやはり大変だ。
消費税ばかり言ってたのでは格差は広がるばかりだ。
少々の海外逃避は仕方がないとして、所得格差の是正が何より重要な課題ではなかろうか。

それにしても入閣した人々の喜び方は噴飯ものだ。
ただ喜ぶのでなく重責を成し遂げる決意の表情を見せてもらいたいものだ。

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2006年9月27日 (水)

秋の植物園

歩行訓練のため植物園に出かける。
天候はいいのだが、目立つお花はない時期なので、お客はまことに少ない。
御陰で広い園内をのびのび廻らせていただく。
それでも通路脇にまんじゅさげの一群が派手に奇怪な花を誇示している。
工事車も入って盛んに何事かやっている。人の入が少なければそれなりの用事があるらしい。

宮島に育つ植物の展示会が開かれている。
熱帯植物などでこの島が北限だとするものが、数多くあるので驚いた。
島の中には全然手の入らない原生林があることはかねてから聞き知っていたが、奇麗な花の咲く植物も沢山ある事を知らされた。
2時間ばかりさまよった後軽く食事を取って帰宅。Higannbana
Hana

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2006年9月28日 (木)

又又乾癬

今日は又乾癬の検診日なので病院に出かける。
目覚めが早いので、予約順も一番だが、診察開始の40分前に受付に通した。
もっとも私より未だ早いのが一人いたが。
2週間ぐらい前から左足の皮膚の表皮が取れて薄くなり、患部が拡張し始めた。風呂に入ると気が遠のく程しみる。
先生にそれを告げると、又例のチガソンを呑む事にするという。
生殖能力のない老人だから副作用の心配はない。
先生もその点も考慮して至極あっさり決めてしまう。
他には利く薬がないのだからとも言われる。
痛みは一月前からすっかり取れてるのだから、今更の気もするが、仰せごもっともと承り,薬を貰って帰る。
十数年前大学病院の名医が死ぬまで治らない病気だから、上手に付合って行く意外にないとおっしゃった言葉が、いつも脳裏をちょろちょろする。

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2006年9月29日 (金)

屋根瓦の葺き替え

ここ数日晴天が続き、道路向かいの家では屋根の葺き替えをやっている。
傾斜地の一段下の家だから、先方の屋根が丁度私の部屋の真ん前になる。
いやでも窓越しに職人さんたちと向かい合う。
終日かなり大きな音を立てられるので落ちつかない。
もちろん事前に先方から挨拶されてる事だし、お互い様だから文句を言うつもりは全くない。
一つの自然現象だと観念している。

吹き替えするには勿体ないくらいの屋根だったのに、何度かの地震で瓦がずったらしい。
瓦が動かない様な工夫が足りなかったのだろう。今度は一枚一枚釘付けしているようだ。
その意味では気の毒である。
建築時地震のことまで予想しなければならなかった。
その上世情を騒がしている不法建築ということまであるし、庶民も間抜けではとても暮らして行けないご時世なのである。

安倍内閣では、学問に力を入れて、教師にまで勉強の仕直しさせることを考えているとか。
ついでに老人にも勉強の機会を与えて欲しいなどと欲張った考えを持ったりする。
ともかく今の世の中は、万事理解出来ない事が多すぎるのだから仕方がない。Img_1346

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2006年9月30日 (土)

ブログの製本

この度、このブログの出版を思い立ち、当初から今年の8月末までの記事254編を314ページに製本してくれることになったので、今日取りあえず5冊注文を出して置いた。合計金額が1万7千円ばかりになるという。
自分史の抄本みたいな感じになりそうだ。
出来上がってみなければ何とも言えないが、いつできるのかは未だ分からない、いずれ知らせがくるだろう。
ひとまず楽しみに待つとしよう。

自分史については考えない事もないが、何しろ長生きし過ぎたので,無駄な部分が多過ぎて歴史的価値が少ない。
既存の日記はすでにパソコンでディスク化しているし、プリントも逐次出来上がっている。
読み返しても、くだらない部分がほとんどだ。
やはり要約しなければ自分史の価値は出て来ない。
しかし、独りよがりの自分史などどうみても無駄な努力としか思えない。
ゴミをふやすだけだ、まあ止めとく事にする。

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