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2006年8月 1日 (火)

空から見る地図

今は衛星から四六時中地球の表面を眺めている人が沢山いて、珍しい事でなくなっているようだ。
私もひょんな事から、その仲間入りが出来そうになった。
きっかけは満州国新京の古地図の話をしたことからだった。大戦が済んだと同時に消滅した国の首都であった、その地図を観光旅行で現地で買って来た事を思い出し、ブログに載せたのを見つけた人がいたということからだった。
その地図の写真を提供した事から、衛星写真を眺める様になった。
物好きだから、今は行くにも行けない、初年兵として入隊した関東軍の自動車第3聯隊の駐留していたソ満国境の斐徳を何とか探し出す事が出来た。当時省都であった東安市はMishanと名前を替えて(というより元の名前に還った)、かなり大きな街になっているようだ。市街が格段に広がっている。
そこから10キロばかり東に斐徳がある。現在の名前は表示がないからわからない。
しかし道路や鉄道線路の関係で、4年も住んでたところだから見当がつく。
平原と湿地の中に忽然と出現した、日本軍の兵舎群のみが点在していた。
湿地の向こうに当時のソ連邦を遥かに睨んでいた。直距離で40キロあるか、なしかであろう。

昭和16年6月独ソ戦が開始されたときは、動員された兵力は百万といわれた。
火ぶたは切られなかったが、その気になっていた我々はじりじりして待機していた。
結局日本は日ソ不可侵条約を信じて、その年の末に英米と戦火を交える事になった。
結果論になるが、日本がドイツに加担して,条約を破棄して,ソ連と開戦していたら局面は大きく変わっていたことだろう。
ともあれこの斐徳も市街地化し、湿地を貫く道路もかなりの数出来、部落も散見される。
湿地は5、6月には凍土が融けて一面の湖水になるのだが、その対策はどうなっているのだろうか。
上空から見た地図ではそこらあたりまでは私にはわからない。Hitoku_1Mishan

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2006年8月 2日 (水)

東滿大湿地が農地へ?

昨日のブログ『空から見た地図」で大発見をした。
というのは琵琶湖(水面積670平方キロ)の何倍もの広さがある興凱湖(水面積4,000〜4,400平方キロ)が5、6月の湿地の凍結が融けるころになると、湖面がどんどん上昇して、我々のいた斐徳のすぐ500~1000米近くまで水が押し寄せ、気持ちが悪くなるくらいだった。
だからブログの末尾に、その対策はどうなってるのだろうかと書いた。
ところが地図をよくよく点検してみると、興凱湖の中国側の境界線の内側に湖に沿って百キロぐらいの大堤防が造られている。その内側には大きな遊水池が長々と造られ、ちゃんと融けた水の調節可能の段取りが出来ているようである。
上空から見ると湖水を遮断して、長い長い白い道路状に見えるものがカーブを描いて湖畔を走り、壮観そのものである。
又遊水池の更に内陸側を見ると、広大な耕作地が区画整然と造成されているらしく、その姿は圧巻である。
北海道が一呑みされるのではと思えるほどの広さである。
あれから65年、中国は偉かった。使い物にならなかった湿地をどんどん農地に替えつつあったことを知る事ができた。周辺は全くの湿地帯(地図で緑の部分)だったのが、今は半分も無くなっている。
だから密山始め単なる軍事基地だった斐徳、興凱、虎林など日本最精鋭機械化部隊の集結地も、今は平和な農村基地に生まれ変わっているわけである。
すっかり感心させられた空からの見物だった。Kogaiko
Mishan_1

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2006年8月 3日 (木)

google earth

私はこの数日 ”google earth”に没入していると云ってよい。
素晴らしい道具が出来たものと思う。
もう死ぬまで、見る事はないと思っていた、65年前4年間の兵役生活の場所”中国東安省斐徳”を思いも掛けず上空から訪れることが出来た。
変わり果てたといえば、悪く取られては困るのだが、まるで違う環境になっているらしいのである。
大湿地帯の一隅にぼつねんと陣地を敷いていた我が第7野戦自動車隊の故地は、湿地こそ大部分を残してはいるが、
西北8キロの所に25平方キロのダムが造られ、北方に広がっていた湿地や南方から東方にかけて、かなりの開拓地が散見されるまでになっていることだ。

琵琶湖の6,7倍もある興凱湖の大堤防による遮断,調節と相まって、この大湿地が変貌著しいことがわかってきた。
毎年5、6月に押し寄せて来ていた水も今は見られぬ状況になったと思われる。
自然保護者から見ると残念しごくと感じられるかもしいれないが、文化の香りがこの僻地にまで及んでいる事をまざまざと実証できることは、中国の政治力の凄さと言わざるを得ない。

私は中国を単に賞賛しているのではない。むしろ日本が開拓の先鞭をつけ、戦後無念の撤退の際、残して来た有限無限のノウハウを活用したその中国をやはりと賛嘆せざるを得ないわけである。

現在私が住んでいる廿日市市が東経132°19’、北緯34°20’、対して斐徳は東経131°53’、北緯45°38’、奇しくも殆ど真北にあると言ってよい。
距離は丁度1300キロメートルある。

夜半北極星を見ながらあの下あたりにある故地を感慨深く偲ぶこの頃である。Peide
Mp
Khanka

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2006年8月 4日 (金)

一日一日

昨日は両足がひどく腫れて、スリッパを履くのに窮屈だった。午後外出したが今度は靴べらを使わなくては入らない。今まで無かった事だったからちょっと驚き家内に言うと、心臓が弱ったのよとこともなげに言う。
暑いから弱るのだろうなとよく分かる。
ついでに止まってくれれば有り難いのにと思うが、そこまでは都合良くいかないらしい。
今朝目が覚めて気になる足先にそっと触ってみると,少し腫れが引いてるようだ。
皺さえ見える。
昨日のあれはなんだったんだといぶかる。
スリッパに足を入れる。昨日よりは心持ち楽だ。
まあ、年取るとあんなことも起きるんだなと合点する。
問題は痛まないですっきり死ぬる事だ。
献体の登録書も未だ来ないし、もうちょっと生きていないとうまくないなと自問自答。

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2006年8月 5日 (土)

おっちゃん嘆くな!

明日はもう原爆記念日である。もう少し早く出かけて戦没者名簿の閲覧に行こうと考えていたが、老人はやはり腰が重い。とうとう今年も閲覧日に間に合わない。
記念日の参拝ももう随分前になり、大抵お参りしても後先になり、当日という事は滅多に無い。
此の歳では足元がおぼつかなく、人波にもまれて、出かける体力気力ももうない。
残念だが仕方がない。テレビで参拝という事になりそうだ。

おっちゃんが何処かの空から呼びかけているような気がしてならない昨今である。
人の話ではいまだに遺族の住所が不明となっているというのだが、先般彼の甥を電話で確認して、早く届ける様にと(当局は遺族からの申し出でないと受理しない)話したのだが、未だに音沙汰ない。話は聞いた事はあるが、私が生まれる前の話ですからと、後はむにゃむにゃと濁った。返事を強制してまでお節介したわけでないから仕方がないが、凄く気にかかっているところだ。
あのやさしかった兄貴の様なおっちゃんも、このまま住居不定の風来坊で永久に葬り去られるのだろうか。
忘れ得ぬ思いでいるのは、やはり親兄弟までかもしれない。
自分を振り返っても、甥姪以下となると他人に近い。仕方の無い事かも。

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2006年8月 6日 (日)

1985年8月6日

1985年の8月6日の日記を読むとなつかしい事が書いてある。
大井駒二君からの手紙に同じく私の隊にいた小林美好、諏訪郁文、小林博、内山三郎、浅川孝と一泊旅行に出かけ、満洲、桂林時代の事を話し合った。今年もう3度目だが少しも飽きもせず楽しいから不思議ですとある。彼らはすっかり生活が安定して余生を存分に楽しんでいるのだろう。私も一度仲間に入れて欲しい気がすると私のコメントがついている。当時火の車だった私は当然蚊帳の外だったのに。

小林美好は第2分隊長をしていた、まことに温厚な指揮官だった。戦後は墨田区で食堂を経営し、いつも戦友仲間連絡役で、私も随分お世話になったが、1998年の1月に亡くなった。
諏訪郁文君は大井君と同じく隊の伝令を努め、私の身辺に尽ききりで、身軽に正確な命令伝達に尽くしてくれた。童顔のやや太ったこれ又温厚な青年だった。大井君は誠実に欠かさず手紙を呉れ、死ぬまで音信を断つ事はなかった。が残念にも1988年3月奥さんから亡くなったことを夏になって聞くことになった。
内山三郎君は捕虜収容所時代に、中国軍の募集に応じそちらに入隊した筈だが、国共紛争に巻き込まれることなく、素早く帰国したらしい。機を見るに敏な、行動的な男だったから安心の出来る兵隊の一人だった。
小林博は頭の良い仕事のできる兵隊だった。実直で他の兵隊の模範であった。
浅川孝は私の日記帳には何度も出て来る。日本橋のレストランにコックとして勤務し、私が上京するときはいつも立ち寄った。
連れを沢山伴って行ったときも、そつなく懇切なサービスをしてくれ、評判がよかった。
昭和19年の9月に栄養失調になり、兵站病院に連れて行っていやがる彼を無理矢理入院させたことがあった。
翌年帰国直前武昌の病院にいて、原隊復帰出来、一緒に揚子江を下って帰国の途に付いたことがあった。だから彼は桂林は知らない筈であるが、戦場での私には特別な感慨があった。
いつだったか交通事故に遭って入院したりした事があったが、元気になっていたのに、最後の4年は車いす生活だったそうで、残念ながら2年前の10月26日亡くなった。

訃報を聞かない者たちは元気で暮らしていると思うが、この他にも年賀状を欠かさず呉れてた数名の戦友も相次いでこの世を去った。ありし日の面影が名前が出る度に思い出されるこの頃である。

此の年のこの日は原爆記念40周年とあって、中曽根総理、坂田衆院議長、地元の増岡厚相や外国からの沢山の出席者があり、米国4大ネットワークの取材陣が放列を敷いたとの日記記載もある。

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2006年8月 7日 (月)

通信フォーラム

1997年の12月8日、誰に聞いても、新聞やテレビを見ても、今日が何の日か知らないし,書かないので、腹立ち紛れにniftyの日記フォーラムに投稿したのが最初で、人目をはばかって「老人のつぶやき」とした。
もちろんおっかなびっくりの出だしだった。手紙やビジネスもしくは日記以外に文書を書く経験の無い私には、ましてや文書を公開するなど恐れ多かった。
ただ反響がすぐさま飛び込んで来た。

「12月8日という日がどんな日であったのか、
思い出すことができました。
8月のいくつかの日と同様に、いや、もしかしたら
“始まった”日の方が人々の記憶に残されるべきものかも知れません。
語り継がれるべき日の貴重な情景を有り難うございます。」

「 遅くなりましたが、貴重なお話、ありがとうございました。
「そう言えば真珠湾攻撃のあった日だったんだね」と、夫とも話してました。
でも、何て言うか「こういう日だね」という以上の感慨は無くて、
こうやってだんだん戦争に対する恐れや実感が薄れて行くのかも知れないとか
そう思うと、年をおう毎に鈍感になって行くようで、そんな自分が悔しいです。

戦争は知らないけれど、子供の頃、広島で育ったので、戦争の愚かしさを
間近に見たり聞いたりする機会は比較的多かったのですが...。

全ての悪夢はこの日から始まったんですね。
どうして始まったのか何がいけなかったのか、もっと考えなければと思いました。

貴重なはたちの時を、そのように過ごされた方もいらっしゃる事、
忘れないようにしたいと思います。
私の大切な家族や友人に同じ経験をさせたくないですから...

どうぞ今後もお体大事に。
そして、また機会があれば、知らない世代の私達に色々お聞かせ下さい。 メリー」

「 こんにちは。

 読みながら涙が出ました。

 教えてほしい出来事。

 忘れてはいけない出来事。

 胸が痛くなりました。

 また、お話聞かせてくださいね。

    コイヌ。        」

文章は拙でも、事実は何より尊いことは万人の認めるところ、そうだこれだと思った。
爾来文言や言葉使いに苦労しながら、思い出し思い出し実体験を基に書き記して来た。
以後「老人のつぶやき−2」「老人のつぶやき−3」などと継続を意思表示して番号を打った。
2000年12月12日「大東亜戦争」が「老人のつぶやき−100」となった。
もうよかろうと筆を折るつもりになった。

この間、1998年12月8日には朝日新聞が、日記フォーラムの戦争関連の投稿記事を数点転載するなどという反響が起きたりした。私の拙文の一部も掲載され、当時在京の娘が新聞を送って来たりした。
が、時代の趨勢は早くとどまる事はなかった。
ほとんど思い出しては時々投稿したが、もうこの頃はホームページが忙しく、その方に皆関心を奪われて反響もなくなった。
niftyも次々フォーラムを閉鎖し、私の関係していた、『歴史フォーラム」「山陽山陰フォーラム」など次々に閉ざされた。日記フォーラムも2004年11月末にて閉じる旨予告があった。
そして2004年10月31日の投稿で私も終わった。

私の最後の辞を次に記すことにする。
「老人のつぶやき-111
日記フォーラムはちょくちょく拝読してはいるのだが、投稿は2001年4月30日を最後にご無沙汰している。
私が同じことを途中から始めた、ホームページに再搭載することになにか良心の呵責めいたものを感じて来たからである。
ホームページは極めて間遠い搭載であり、爾来続けてはいるが、あまり見ていただけるようでもない。
もちろん一般受けを狙っているものではないから、それで十分満足している。強いていうなら退屈の暇つぶしに過ぎないからである。

老人のつぶやきは結構コメントをいただき、時には返事に窮することもあったりした。だから張り合いがあったのかもしれない。
この11月末でフォーラムが閉鎖されると知らせが出された。
閉鎖となるとやはり名残惜しい。私はこのフォーラムをきっかけに戦前戦後フォーラム、歴史フォーラム、メローフォーラムなどに投稿させていただいた。

たまたま今度戦前戦後フォーラムの主催者たちが、投稿文のうちで後世に残したいと、拙文数点などを、「語り継ぐ戦争の記憶、昭和の声」というホームページに収集掲載された。
この中には「老人のつぶやき」に連載したものが数点多少編集し直してはいるが、改めて登載されている。
暇に任せて記憶を書き記したものが、いくらか世の中のお役に立つのかなと思うと満更でもない。

確かに戦後60年も経ち、数々の記録が残されているが、庶民の生の声も資料としては大切なものである。
「語り継ぐ戦争の記憶、昭和の声」は投稿希望者を歓迎している。フォーラムを足場に数々の足跡を残しておられる先輩諸兄の声も是非その資料に付け加えていただきたいと痛感しているものである。
長年日記フォーラムなどが記録を重ねて来た庶民の声は皆捨て去るのは惜しい。
その思いを「老人のつぶやき」の最後の言葉としたい。」

ナンバーを付したもの111編以外にも5編あるから116編が私の記録以外は忘れ去られることだろう。
いや読者のなかに、『老人のつぶやき」をxmlに書き直して、せっせと記録保存しているという、シンパも現れたことがあった。

私に取っては今書いているブログはこの亜流にしか過ぎない。

Img293

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2006年8月 8日 (火)

暑い午後

午后2時、私の寝室兼パソコンルームはとうとう35°Cを超えた。こうなると何か考えようと思っても,兆しが見えない。風呂場に行ってシャワーを浴びたが、ほてりが吹き返して却って汗が噴き出して来る。ままよと下着を脱いでふんどし一丁になる。
青年時代によくやったスタイルだ。三方開け拡げてだから、風はまま訪れる。
もうくしゃくしゃの老体だから覗く奴はいないだろう。
暑ぐるしく、FMがアリアを歌い上げる。
昼寝はさっきまでで済ましたところだ。
丁度いま「誰も眠ってはならぬ」をパヴァロッティが絶唱した。
元気よ出てこい。

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2006年8月 9日 (水)

女郎蜘蛛

夏休みといえば、10歳にならない時代には遊びの主体は山野を駆け巡って、女郎蜘蛛の採取に一生懸命だった。
葉の付いた木の枝に、捕まえた蜘蛛をとまらしてうちへ持ち帰り庭の木に巣を作らすわけである。
もちろんそれだけでは面白くない。捕まえに行った仲間同士で喧嘩をさすのである。20センチぐらいの木の棒に、互いの代表戦士を送り出し戦わすのだが、黒褐色に黄色の縞模様のこの蜘蛛はまことに喧嘩早い。
出会った瞬間に長い8本の手足で絡み合う。中には噛み付いて相手にダメージを与える。
絡みあいながら、尻からねばい糸を噴出する。互いに相手をくるまうつもりである。これはたまらんと逃げ出したり,下にぶらさがったりしたのは負けである。
それでも最後まで戦うとついにぐるぐる巻きにされてしまう。そうなったらもう最後で一方の餌になってしまう。
子供の事だからわいわい言いながらはやし立て、箸ぐらいの棒で尻をつついて、けしかけたりして熱狂して遊ぶ。

もちろん小学校低学年のときの夏の遊びであって、私の経験も僅か1、2年に過ぎなかった。
年上の連れがあれば、海に行き泳ぐこともあるが、海は毎年何人か命を奪われてたので、親が用心して一二年上にならないと許してくれなかった。
ずっと以前、鹿児島県で町の行事として、蜘蛛の喧嘩をさしてる所があるとテレビで見た事があるが、もう今はこんな風習はどこにもなくなったことだろうなあ。Img295

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2006年8月10日 (木)

三文の徳

いつも思う事だが、歳を取るという事は、老いたウミガメが海藻を尻に付けて引っ張っている様なもので、気づかないうちに、今も使えるゴミとなった、古道具などが、家のそちこちに散乱して邪魔をする。
でも愛着があってなかなか捨てられない。お負けに捨てるのに料金が要るご時世だから。
家内から普段掃除の邪魔になると苦情を言われつづけていたが、今日思い切って捨てる決意をし、料金票をそれぞれ貼付けて、玄関の石段をよちよち一個づつ提げて下りていると、折よく中古品収集の趣味でもある人だろうか、めざとくやって来て、捨てるのならいただけますかという。
料金票はいりませんからと剥がして持ち帰ってくれる。

ゴミ捨て場まで老人には苦痛な距離である。やれやれ助かったと思うと同時に、若ければ調整すればまだまだ使えるオーディオ機器ばかりなので、少し惜しかったなと欲が出る。

早起きは三文の徳というが、今日は縁起がいい。

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2006年8月11日 (金)

私の葬式

家内と私の献体と葬式のことで又又議論になる。
先日大学の白菊会から献体登録の書面をいただいた。親族3名の承諾印がいるようになっている。
盆の間に郷里にも行くので判を貰うお願いを今日しておく。
家内は献体はいいとして、葬式をしないのには釈然とは応じない。宗教色はなくてもいいから、親族だけでも集って告別式はしたいという。
とうとう私が負けて、家内からの提案の生きてる間にお別れ会をしたらということで折り合う。
ついては来年私が数えの米寿を迎える。そのお祝いと称して兄弟姉妹と子や孫だけ集ってもらい、その席を借りてお別れの謝辞を述べるということにする。

その段取りはすぐ始める事になるのだが、今度は今年中に死んでは何にもならない。献体も今年はいっぱいだから来年以降の登録になるというのだから、万事ご破算ということである。
せめて来年の秋頃までは生きなくてはならない。
こんな勝手な願いを運命の神様は許してくれるだろうか。

難問ではあるがとにかく準備は着々と進行さすことに決意をあらたにする。

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2006年8月12日 (土)

故地を捜す

「私の軍隊生活」などでweb上で何度も披露している私の想い出深い駐留地、「広東橋」をgoogleearthを利用して上空から捜すのだが、なかなかわからない。
4、5年前桂林に旅行したときも、飛行機が湘江上空を飛行したので、目をこらして捜したが皆目見つからなかった。
60年という月日は流石に長い。昔の公路(今の高速路か)もすたれて、路線変更されたらしく、その跡形が見えない。
現在は湘譚(Xiangtan)市街から真っすぐ南下して、衡山(Hengshan)の湘江対岸を経て橋を渡って市街に入っているようだ。地図でも大きな白い道路がはっきり見えるし,大きな橋も渡っている。

昔うねうねと続いた山中の道はもう無くなっている感じだ。
広東橋はその途中の山中のまっ只中だから、見捨てられてしまったのだろう。
江岸の当時から大きな市場のあった馬公堰らしき市街が見える。ここから4、5キロ内陸に入った所だったのだが。

有名な五岳の一つ南岳の麓町Nanyueは大きく見える。
作戦中は統集団司令部の所在地だったし、何度も訪れた景勝地である。

これら故地の住民たちも今は世代交代して、日本軍のことなど思い出しもしないだろうが、はるか空から眺めながら、魂魄となってさまよっている感覚である。Nanyue
New_road

Hengshannanyue

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2006年8月13日 (日)

我が家の盆

盆が始まった。我が家もみんな勤めを持ち、昔の様に容易く子や孫を集める事は難しくなった。
家内も自慢の腕を振るって、賄うことも、もう気の乗らぬ年齢になってしまった。
結論はお金を出して、皆の労力負担なしで、ささやかなうたげを催すことになった。
日曜日の初日はなんとか揃うことがわかり、家内は手早く予約を近所のレストランに取った。

おかげで近所に住む家族だけは一応元気な顔を揃えてくれた。
私の出番はもうこれが最後となるだろう。

献体のことも皆賛成してくれた。明日は郷里に行き本家の承諾も得ることになる。
死出の旅路は正に順風に乗りつつある。

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2006年8月14日 (月)

墓参

盆のまっただ中とあって、車の数は普段の10倍も多い。
30キロばかりの道のりを、私の先祖と家内の先祖の墓参を予定通りなんとか済ます。
弟のうちでは予めお願いしていた献体の申込承諾の書名捺印を貰う。
これで用件を充たしたので明日にでも投函するつもりだ。

老骨の運転に行く先々で、気をつける様にと声がかかる。
自分でも少し危なくなったかなと思い始めたくらいだから、真剣味が違う。
今日も無事だったと一息つく。

それにしても、墓の頽廃振りはどうだろう。お花の枯れたり、全然ないのやらが半分以上。
ひどいのになると、野草が丈高く茂って、墓は埋没してしまっている。
こんなのはいずれどうなるのだろう。

私の墓の回りも草ぼうぼうの、手入れの無い墓地が沢山あるが、市営墓地だからいずれ市がなんとかするだろうとは思っているが、田舎の墓地の様に個人所有だったら、手のつけようはあるまい。
人口減少、過疎化の影響はこんなところにも出ている。

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2006年8月15日 (火)

終戦記念日

今日は終戦記念日とお盆の中日である。
終戦の日は支那大陸の奥深く、湖南省と広西省の省境付近の山茶花林の中にいた。(全県と祁陽の中間)
住民の招待を受けて、豚料理に舌鼓を打っていた時かも知れない。
終戦を知らされたのは2日後の17日、隊長集合命令が下逹され、部隊長から伝達された。
停戦となったので、昼間行動で初期の目的地武昌に向かって早急に前進すべしだった。
従って終戦当日の記録も感慨も無い。
昨日今日敵機が飛ばないなと怪訝な感じがしてはいた。毎晩夜間の行動ばかりが続いていたので、昼間は草むらのしとねの上で、空を眺め暮らしていたのだから、すぐ気づくわけである。
停戦と聞いて喜び勇んだのは言うまでもない。
しかし間もなく敗戦を知らされ、武装解除されて小1年の捕虜生活が待っていた。
耐乏の生活は惨めだった。やっと帰国しても状況は変わらなかった。

61年後のこの豊かさは、私に取ってこの世の極楽といってよい。
間もなく死を迎える私にはあの世まで極楽であっては申し訳ない気持ちである。
戦後の悲惨なくらしがそうであったように、平和で豊かなご時世でも、必ずしも万人のためになっていない現実がある故に。

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2006年8月16日 (水)

サッカー日本

サッカーのアジア杯予選の対イエーメン戦のホームゲームに釘付けにされた。
9割はボールを支配したと思われた日本だが、守りを固めたイエーメンに悉く跳ね返され、とうとう後半の25分まで0−0で競り合い、この分では引分かと思った。味方のコーナーキックに群れの後方から飛び出し頭一つ抜け出した阿倍の絶妙のヘッドでやっとゴールを奪った。正にオシム監督のいう頭を使った勝ち点だった。
2点目の佐藤寿人は相変わらずの、得点の仕方はこうするんだとやってみせてくれた。反射神経をフルに使った彼ならではの得点だった。時間切れ寸前の起用で、点が奪える彼の特異能力はもう少し活用すべきではないのかと思う。
ストライカーのいない日本チームでは、やはり頭を使うしかないのかな。

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2006年8月17日 (木)

白昼夢

台風10号のせいで空は雲でいっぱい。気温は7時で29度。蒸し暑さ抜群だが、日射しがないだけ有り難い。
あれだけ日射しを恋しがっていたのに我ながらおかしい。
やけどをしそうな日射しは老人には痛烈過ぎるから。
ここのところ連日日記がそのままブログになる。
なにせこの暑さでは思考力ゼロで、日記を書くだけでも精一杯。
永年の習慣で指が動いているだけ。
家内はそれでも孫の心配をして電話を掛けたりしているようだが、こちらはとても人のことまで思いが及ばない。
なにしろ起きてても眠たくなるし、寝れば白昼夢に脅かされて汗びっしょり。
もう夢遊状態といっていい。
そのうち目覚めて見れば、帝京と智弁が最終回お互いに4点差を逆転、再逆転するなど、現実の世界も夢遊の状態の今日一日。

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2006年8月18日 (金)

検索ソフト

最近の検索ソフトのすばらしさは凄いと思わざるを得ない。
googleearthのようなソフトもそうだが、普通のテキストのソフトでもどうして分かるのだろうかと驚く。
昨日も私のブログの一月も前のテキストの中で、たまたま名前を挙げた先輩の苗字だけで検索されたらしく、その方のお孫さんからコメントを頂くということが起きた。
ーー今日は祖父の命日です。祖父のことを知りたいと思い、インターネットで祖父の名前を
入れて検索していたら偶然見つけました。少しでも祖父のことを知れてよかったですーー

先にやはりブログで書いた古い新京市の地図のことでその地図が康徳7年(昭和15年)製ということで、コメントを受け、googleearth の航空地図作成に寄与することになったりした。

簡単なことでも思いがけない出会いに驚かざるを得ない。
私としては永年経験したことで、少しでも誤りなく後世に伝わればいいとの想いで、ブログを書いてるのだが、今の所こうして一つ二つでも役立つことが起きて満足している次第である。

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2006年8月19日 (土)

宗教と音楽

ブログを始めてから足掛け9ヶ月になる。殆ど毎日書いているからこれが242回目ということになりそうだ。
毎日が日曜日の老人には、退屈しのぎにはもってこいなのだが、流石にこの暑さには頭の中まで煮えてしまって,新鮮さがなくなる。
もうぼつぼつお開きにしようかと思って,一応念のためアクセス数を調べてみると最近4ヶ月で1900件にも達している。一日平均20.1とプロバイダーがはじき出している。単純に当初からをはじくと5000件にもなる。
あまりの多さに目を疑った。
各項目の訪問数は平均70%とあるから、これは簡単には筆を折るわけに行かないかなと、怖じ気づいてきた。

念のためにgoogleでsinomanを検索してみると、のっけから何項目も抽出されている。
ほんとは大東亜戦争勃発の日即ち12月8日から始めたので、終戦の日8月15日に止めれば区切りがいいと思ってたのだ。もちろんいつの年のこの日でもいいのだが。
今更引き下がるわけにも行かないから、肚を据えて勉強し直すことにするかと、新しい手習いを始めることにした。

前置きが長くなったが、実は今朝から横になりながら、ベートーベンの「荘厳ミサ曲」のDVDを聞いた。
いつか準・メルクルがN響を指揮して、FMで放送したものをDVD録音していたものだ。
なにせ82分の大曲だからときどきうとうとしながら、それでも最後まで堂々として曲名通り荘厳な凄い曲だなと思いながら聞き通した。ショスタコビッチなどの様に素人耳には時にいやになる様な音の響きが全くないのがよい。

ベートーベンもキリスト教文化の担い手の一人であることは言うまでもない。音楽に関する限りキリスト教を抜きには考えられないことは、実は内心残念で仕方がない私である。
仏教、儒教、イスラム教、その他もろもろの宗教文化の中で、音楽に関する限りキリスト教が傑出していて、他の宗教は音楽をその布教の中に織り込む知恵がなかったと見える。
もちろん善い悪いをあげつらうつもりは毛頭ないが、なぜキリスト教のごとく音楽を取り入れることをしなかったのだろうか。どんな民族でも音楽と無縁で暮らす生活はありえないのに。
元来無宗教を自認している私だが、どれか一つは宗教を信じろと強制されれば、やはりキリスト教ということになるかもしれない。結局ご縁がまるでなかったが。

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2006年8月20日 (日)

中国の南岳

昭和19年秋、中国湖南省は雨季に入っていた。連日の雨に道路は泥濘化し、場所によっては回りの田圃以下の高さにえぐれていた。
幸い敵の空襲は悪天候に遮られてとみに減ってはいたが、我が自動車隊はこの道とは言えない悪路を難行苦行していた。
当時衡陽の死闘を終わり、第1線は広西省になだれ込んでいた。
易俗河(湘譚県)ー衡山間の輸送を受け持つ我が部隊も第11軍から統集団隷下に編成替えになっていたと思う。最後方の部隊となったので、比較的に余裕の出来た日々が続いていた。

私の隊の第2分隊が9月10日から衡山の黄花坪に修理場を開設していたので、私は再三この地に業務上赴いていた。
衡山の街は湘江に臨み、かなり大きな市街であり、十キロも離れていない所に南岳鎭の市街があった。当然の様にここを訪れた。(衡山は別名南岳といわれ中国五岳の一)
南岳大廟を中心に伽藍が櫛比し、戦争中とは思えぬほど人の往来も激しく門前町は賑わっていた。
街外れから南岳を仰げば,点々と由緒ありそうな仏閣などが山腹に遠望された。

私は勤務中なので、せいぜい食欲を満たす程度で引き下がる他は無かった。
当時ここに方面軍司令部が置かれていた。当然日本軍の兵士も数多く群れ歩いていた。

今度この地方の事が知りたくて、なにか良い本か地図がないか捜していたところ、中国国家文物事業管理局編「中国名勝旧跡事典・中南・華南編という本が手に入った。
内容を見ると、やはりこの南岳のことが詳細に説明されていた。
中国五岳の一で周囲数百里、72峰あり、遠く西暦2300年前舜が訪れ,禹が治水したというのだから、その由来は桁違いといえる。
主峰の祝融峰は1290mあり、仏寺、旧跡も多く、日本の仏教僧の往来もあったと記載されている。

かって訪れたとはいえ、こんなに凄い旧跡とは思いもよらなかった。
もう少し早く気づけばの悔いが残るが、知らなかったよりは良いと自分を慰める。
終戦後、帰還途中ここの警備隊が敵の包囲攻撃を受けていたのを救援したことも何かの縁であろう。Img297

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2006年8月21日 (月)

日曜日の植物園

昨日は曇り空で、外に出ても大して暑くないだろうと、何の気なしに植物園にいつもの運動目的で出かける。
日曜日のせいか、子供連れの来園者が多く、食堂では1時間近く待たされる。
その上子供の泣き声などで喧噪を極め、やはり老人は日曜日などに来るべきではなかったと改めて後悔した。
一般の人たちが楽しむ日には老人は邪魔にしかならない。
お負けに園内を歩く頃には真夏の太陽が照りつけ、汗が噴き出すやら、疲労と熱気でふらつくやら、危険信号まで体感する。
植物も暑さに参って勢いのあるものは見当たらない。
唯一オニバスのある睡蓮館は子供連れでいっぱい。ははーこれが目的だったかと頷く。
なんども水分を補給して、見るべきものの何も無い植物園をほうほうの態で退散した。

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2006年8月22日 (火)

夏の甲子園

戦前私の中学生時代には中京商業対明石中学の確か延長25回というのがあった。中京は吉田、明石は楠本、中田の好投が相譲らぬ一戦にした。確か4,5時間かかったのではるまいか。これは私の記憶では決勝ではなかった。結局中京が勝って、その年の優勝を決めたと思う。
何しろ70年も前の事だから定かではない。

決勝で再試合を演じたのは、報道にもあるように松山商業と三沢高校である。延長戦が18回に制限されたため、翌日再試合ということだった。これは結局27回戦って優勝を決めた。
これは井上、太田の二人の投手の投げ合いだった。予想もしなかった三沢高校が、太田の力投でとうとう決勝に進出、松山商業を最後まで苦しめたのは圧巻だった。太田はその後プロ野球でも活躍することになった。

そして今度の早稲田実業対駒大苫小牧高校で、合計24回の対戦だった。これも殆ど斉藤、田中の両投手の激闘といえたが、田中を温存した駒大の作戦ミスで1点先取されたことが、あとあと響いた。
エースの耐久力が最後にものをいった。

それにしてもホームランの大量生産に驚く。試合数が格段に増えた現今では、データを云々しても仕方がないが、問題はバットが金属になり、その品質も大いに影響しているのだろうから、これまたこれをもって全体を推し量るわけに行かない。ただ劇的効果ばかりふえて、緻密な戦いが少なくなった気がする。将来的に良いか悪いか十分検討すべき課題が生まれたというべきではあるまいか。

それにしてもこれらの偉大な実績を経験的に知っている私は凄く幸福である。一喜一憂した若き日の思いが、昨日の決勝戦でますます増幅した感じがして仕方がない。
(写真は明石ー中京戦のスコアボード〜NHK昭和の記録より)
Img298

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2006年8月23日 (水)

死を待つ日々

もう大分前の事になるが、といっても80歳になる直前だから,直ぐ前といってもかまわない。
反省の日々と題して、通信フォーラムに投書したことがある。
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何度も死んで当たり前の状況の中を今日現存していることは誰のお陰であろうか。

戦時中のことはさておいても、戦後まだ車もほとんど走っていなかった頃、ここ広島のマツダ(当時東洋工業)が始めてクーペという軽の四輪車を売り出し、友人が買ったその車で、北海道の登別から洞爺湖近辺を無免許で走り回ったことがあったが、今考えると対向車がなかったから大丈夫だったが、乱暴なものだった。

昭和40年代の後半から九州各地に小さな店を出し、その用件もあって、これ又マツダが世界に先駆けて発売したロータリー車サバンナを買って走り回った際など、その走りの良さから、何度もパトロールカーの御厄介になり、又危機一髪の危ない目にもしばしば遇うことになった。
万一死んだりした際の準備にと、当時出来たばかりの掛け捨ての生命保険にも加入して(保険料が大体10倍だったか)、まさに命がけの生活をしたものだった。

ここまで来ると生きるのも楽しみ、死ぬるのも又楽しい気がして、徳富盧花が「土の上に生まれ、土の生むものを食らうて生き、而して死んで土になる。我らは畢竟土の化け物である」と云ったが、素直に死に直面してゆく野生動物達同様、ばたばたしても始まらないと反省しきりの今日この頃である。
    ________________________________
こんなものを読むと格別反省している様には見えない。 
大体80歳まで生きて反省しても始まらない。黙って死んで行けば良い。
あれからもう6年も経つ。運命の神様任せだが、寝たり起きたりの生活では、神様も始末に困っておられるらしい。
しびれを切らしたわけでもないが、来年まで生きたら(鬼が笑うが)親族だけにお別れの会をやるからと宣言した。
うまく行くかどうか先のことだからわからない。 

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2006年8月24日 (木)

病院通い

月例の病院行き。
最近は一番に予約しているので、8時半になるとすぐ呼び込まれる。
先月の診察の後しばらく手指の変形痛みが続いて苦しんだが、月の後半になって変形が固まったと見え、変形したまま痛みがなくなった。
全体の症状も見事に治まったので、担当医師はチガソンと痛み止めの投与を中止すると発言。
なんだか不思議な気がしないでもないが、ともかく苦痛が減殺されることは歓迎だ。
治療費も半分近く減った。
9時前には帰宅出来たし、家内も音も無く早々帰ってきたのに驚く。
死期が近づいた気がしてたのに、自分の思い通りにはなかなか行かない。

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2006年8月25日 (金)

硫黄島の教訓

先日NHKが放送した硫黄島の戦いのその後を含めての実状を録画でじっくり見た。
戦場が違うとはいえ、同じく国のために戦ったものとして、その苦痛に震えがとまらなかった。
私には雨霰と降り注ぐ弾丸こそ浴びた経験は無いに等しいが、行き場の無い無力感には終始襲われ放しだった。
只神風だけをたよりに、いつまでも続く戦争、しかもだんだん敗戦濃厚と感ぜられる末期の絶望感は、硫黄島戦士と大差はなかった。
しかし彼らの飢餓との戦いは敵兵との戦闘以上に苦痛だっただろう。
21000の守備隊のうち1000人生き残ったと聞いて2度驚いた。ほとんどが錯乱か失神状態だったというがその通りだろう。それにしても人間の生命力の凄さに感嘆する。
米軍にも25000以上の損害を与えたというのだからこれまた不思議な気がする。夜だけを頼りの襲撃だったらしいが、それにしても戦果が多過ぎる。

米軍がこの教訓に鑑み、本土決戦を空からの攻撃に転換し、最終的には原子爆弾という手段をとったわけだろう。
広島に住み、未だに残る惨状を思いつつ、そこにまで踏み込ました日本の抵抗も度が過ぎたのかなと反省せざるを得ない。
敗勢をいかに収拾するか、最も難しい政局判断をやはり誤ったのが当時の日本政府だった。

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2006年8月26日 (土)

深夜放送で聞いた話

今朝早朝の深夜放送でラジオの優れた効用をある作家が言ってたが、なるほどと感心する。
文章や言葉のイメージを想像しながら聞く習慣が、後日大いに役立つという意味の事を語っていた。
どちらかというと私もラジオ党に近い。しかし彼が言う程イメージ創作能力が高まった気はしない。
ひとつには私は絵画表現能力が皆無に近いことも原因だろうと自覚している。

小さいとき漫画に親しんだと言ってたが,私には文字に親しんだ経験はうんざりする程あるが絵にはない。
ともあれテレビに親しむ現代子は与えられた画像で、文字や言葉の表現を画一的に与えられて、自分で創造する余地がない。したがって創作能力が阻害されているという彼の主張はあたっているかもしれない。
彼の様な児童文学作家という立場からなら、自己の体験に照らしてよくわかるのだろう。

その話の中で例題として、田舎に連れて行かれた子供が、牛を見てあんなに大きいとは思わなかった、猫ぐらいの大きさかと思ったとあったが、テレビを見ても大体大きさの想像はつくと思うが、まれにそんなこともあるかも知れない。

幼時からテレビにかじりついて、子供らしい遊びも、外界も知らない今日の弊害は、世間で言われている通りである。
といって覆水盆に還らずで、今更どうしようもない。政治はその解決法を指導し、個々が気をつけて対策をとる以外に無い。
警鐘はおおいにならしてほしい。メディアは有り余る程あるのだから。

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2006年8月27日 (日)

今度は蟻との戦い

いつだったかゴキブリ退治のことをこのブログに載せたのだが、あの後すぐホウ酸団子を売ってるスーパーがあったので、早速買って来て台所中まき散らした。
効果はてきめんで、一度よろよろと大きな奴が出て来たことがあっただけで、まるで姿を見せなくなった。

ところが今度は蟻の出番と来た。
遠慮会釈なく食卓から寝室、風呂洗面場、便所まで這い回す。おまけに最近は二階の私の書斎にまでちょろちょろと走り回る。
これはホウ酸団子はなめないらしい。
いちいち殺虫剤で退治する以外に無い。しかし食卓などは困り者である。
時々寝床に侵入した奴がキリッと皮膚の柔らかい所に噛み付く。驚いて目が覚める。

朝起きると時折思いも掛けない所に行列を作っている。先程も食器戸棚の後ろから戸の隙き間そして中へ行列、なにか食べ物を見つけたらしいのである。
殺虫剤で一網打尽と行くわけだが、ちょっと痛快ではあるが、夏いっぱい続くこの戦いはやはり面倒なものだ。

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2006年8月28日 (月)

運命の不思議

80年以上も生きてると、数多くの不思議な経験をする。
といっても、夏にはやりの怪談話をするわけではない。
身辺に降り掛かる運命としか言いようの無い経験である。
昭和20年8月14日、明日は終戦という日に米軍の爆撃で我が家は壊滅した。しかし母と末の妹は待避壕の中で生き埋めになりながら怪我一つなく助かった。
その前年の7月私は戦場の、逃げ場の無い田圃の真ん中で、敵の飛行機に2度3度と狙い撃ちされながら、弾丸はかすりもしなかった。
8月には長沙で米空軍の絨毯爆撃にあっても、どの爆弾も私を避けて落ちた。
ということで私の家族は生命運にはえらく恵まれている。
ところが金運はからきし駄目だ。
最大なものは、親の残した財産を人の口車に乗せられて、その債務弁済のため全部なくなった。
その親爺も私の小さい時沢山の国債をもってたが、これまた全部人に詐取された。
事業もやることなすこと成功したものは一つもない。
それでも家内はじめ親族の援助でなんとか幸福な余生を過ごしている。
人のものをかすめたりしたのでないから、追求を受けることは何も無い。
天命に任せた一生だから、まことに気楽である。
むしけら見たいな男のこと、天も構っておれるかというところだろう。

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2006年8月29日 (火)

私の祈り

やはり長かった8月が終わらんとしている。昼の時間の長さから言えば7月の方が長いのかも知れないが、雨の日の多かった7月よりは、実感として8月が断然長かった。
7月は雨にうんざりし、下旬に始めて青空を見て感激したりしたが、8月は連日ぎらぎらと天上天下隠れ家もなきほど日光に苛まれた。
眠れぬ夜、昼寝も汗かきかき、じーっとしてても、体力を消耗しつづける毎日だった。
この世をおさらばする日も間近いなと、指折り数えながらやっとの思いで今日まで来た。
秋風がそーっと窓から吹き込んで来ると、それでも蘇生した思いになる。
私には極楽も天界もない、むろん地獄も無い。無に帰るだけだ。誰も阻止出来ない。
早くその日をと祈るばかりだ。

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2006年8月30日 (水)

シャワー

持病の乾癬が急に快方に向かい始めた。
原因は分からないが、暑さ続きのせいかもしれない。
毎日裸に近い暮らしになるし、外出は極力止める。
それでも汗をかくから一日に2度はシャワーを浴びる。
外出したら帰宅してすぐシャワーを浴びる。
以上のことしか生活に変わりはないのだが、
果たしてどれが原因だろうか。

秋になって汗が出なくなり、
シャワーの回数が減ったとき、
さて、どうなるか。
楽しみと,心配と。

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2006年8月31日 (木)

懐かしい湖南省

戦争は悲惨である。
が、今そのことを云々する気持ちはない。

私の終戦直前昭和19年−20年に参加した戦場は中国湖南省、広西省だった。
作戦期間は19年5月から翌年8月まで、捕虜期間20年8月から翌年6月までの殆どを、前記の土地で過ごした。

だから私に取って肉体的にもっとも充実していた20歳代中期を過ごした場所だけに記憶に残り、記録しておきたいことも多い。
湘江の夜間の渡河は任務とはいえ身震いする程の怖さがあった。敵の空襲下無灯火で,滔々と渦巻く大河に、揺れ動いて浮かぶ車両一台やっとの艀に車を乗り込ませて、全車両を次々に渡すのである。もう手に汗を握るなどという表現は当たらない。艀に自動車を載せる操縦手は特に優秀な運転手に交代勤務させた。他の部隊のもので転落させたのを何両か見たものだから、自他ともに自信の持てるものでないと勤まらない。
飛行機が来る度に、渡河点から一時退避する。これが又大変だった。闇夜の鉄砲で滅多に当たりはしないが、威嚇は充分過ぎた。
積載貨物は一時降ろして、上陸と同時に積み戻すのだから、時間もかかる。大部隊だったら一晩では終わらない。
私も2日程待たされたと憶えている。待つ間に、近所に落花生の畑があったので、兵隊が掘って来てまだ熟れていない実を、殻ごと煮て毎日食った覚えがある。落花生を炒らないで食うなど、生まれて始めての経験だった。

湖南省の平野は、日本の農地とそっくりで行軍中絶えず故郷を思い出した。長く満洲で暮らしたので、異境にあることを忘れて、ただ懐かしかった。

帰路湘江沿いに下って汨羅について、日本の無条件降伏を知ったのだが、そこから岳陽まで大きな洞庭湖を横目に眺め過ぎた。普段は3000平方キロの面積だが、雨季になると20000平方キロにもなるという、大湖水である。海と見間違っておかしくない。湘江のような大きな河が4つも流れ込むというのだから大きかったわけだ。

湖南省のこうした風景はなんとも形容し難い雄大さであった。
「両湖熟すれば天下足る」と古来称されたといわれる、豊穣の土地であった。
住民も親しく接してくれ、忘れ難い思い出を数々残してくれた。
戦い終わった後、日本に帰らずにこちらで暮らせと勧めてくれたのもこの地の人々だった。
南岳の麓近く,生を終わるにふさわしい土地柄だったと記憶が生々しい。

湖南省は今テレビ業界の先進地として、中国をリードしているらしい。
毛沢東をはじめ古来から文学者、政治家の著名人が多い土地でもある。満ち足りたところだけに文化の発達も他に抜きん出ていたのかもしれない。
Konan_5

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