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2006年8月 6日 (日)

1985年8月6日

1985年の8月6日の日記を読むとなつかしい事が書いてある。
大井駒二君からの手紙に同じく私の隊にいた小林美好、諏訪郁文、小林博、内山三郎、浅川孝と一泊旅行に出かけ、満洲、桂林時代の事を話し合った。今年もう3度目だが少しも飽きもせず楽しいから不思議ですとある。彼らはすっかり生活が安定して余生を存分に楽しんでいるのだろう。私も一度仲間に入れて欲しい気がすると私のコメントがついている。当時火の車だった私は当然蚊帳の外だったのに。

小林美好は第2分隊長をしていた、まことに温厚な指揮官だった。戦後は墨田区で食堂を経営し、いつも戦友仲間連絡役で、私も随分お世話になったが、1998年の1月に亡くなった。
諏訪郁文君は大井君と同じく隊の伝令を努め、私の身辺に尽ききりで、身軽に正確な命令伝達に尽くしてくれた。童顔のやや太ったこれ又温厚な青年だった。大井君は誠実に欠かさず手紙を呉れ、死ぬまで音信を断つ事はなかった。が残念にも1988年3月奥さんから亡くなったことを夏になって聞くことになった。
内山三郎君は捕虜収容所時代に、中国軍の募集に応じそちらに入隊した筈だが、国共紛争に巻き込まれることなく、素早く帰国したらしい。機を見るに敏な、行動的な男だったから安心の出来る兵隊の一人だった。
小林博は頭の良い仕事のできる兵隊だった。実直で他の兵隊の模範であった。
浅川孝は私の日記帳には何度も出て来る。日本橋のレストランにコックとして勤務し、私が上京するときはいつも立ち寄った。
連れを沢山伴って行ったときも、そつなく懇切なサービスをしてくれ、評判がよかった。
昭和19年の9月に栄養失調になり、兵站病院に連れて行っていやがる彼を無理矢理入院させたことがあった。
翌年帰国直前武昌の病院にいて、原隊復帰出来、一緒に揚子江を下って帰国の途に付いたことがあった。だから彼は桂林は知らない筈であるが、戦場での私には特別な感慨があった。
いつだったか交通事故に遭って入院したりした事があったが、元気になっていたのに、最後の4年は車いす生活だったそうで、残念ながら2年前の10月26日亡くなった。

訃報を聞かない者たちは元気で暮らしていると思うが、この他にも年賀状を欠かさず呉れてた数名の戦友も相次いでこの世を去った。ありし日の面影が名前が出る度に思い出されるこの頃である。

此の年のこの日は原爆記念40周年とあって、中曽根総理、坂田衆院議長、地元の増岡厚相や外国からの沢山の出席者があり、米国4大ネットワークの取材陣が放列を敷いたとの日記記載もある。

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