« おいぼれの苦情 | トップページ | 忘れ得ぬ人々(22) »

2006年7月 6日 (木)

忘れ得ぬ人々(21)

太田久孝君

北谷嘉雄君を書いて太田君を書かないと片手落ちになる。
彼も入学時、同じ寮の44号室に入って来た。後年同じ部屋の横山君の会社で私と一緒(即ち4にんのうち3人)に働く運命になるとは正に神のみぞ知ることだった。
鬚の濃い体格の良い男で、ラグビー部で活躍した。自身に満ちた行動マンだった。
自習時間にそろばんや簿記を熱心に教えてくれたことをよく憶えている。
1学期で部屋が変わったので、クラスは違うし、その後の事は殆ど知らない。

昭和39年突然岡山のラグビー仲間だった山田君から横山社長に電話で、太田君の会社が倒れて、清算のため残って会社で残務整理をしてるが、君の所で使ってやってくれないかということだがと横山君から私に相談があった。
私も知らない相手でないし、積極性のあるファイトマンだからもってこいじゃないかと進言する。
善は急げで1月20日には下関から単身赴任して来た。
会社の2階に寝泊まりして、昼も夜も区別無く仕事をする。少しやり過ぎだと苦言を呈する程。
ときどき一緒に得意先に販売活動回りなどをするときなど、喉が渇くとコインスタンドから缶ビールを買ってぐいと飲んでからさあ行こうである。酒は強いのでケロッとしている。
業界の夜の集会などには好んで出かけて宣伝まくる。私も時々手伝いさせられてうんざりする。
豪放快活を地で行く活動振りで、マンネリに陥りかけていた営業活動に拍車をいれた感じだった。

そのうち社内の古手から文句が出始めた。
社長の耳に入ったりして、私にも相談が来たりする。
仕方がないので、社内の1事業部門を単独でやらすことにして、摩擦を避けたりした。
昭和40年7月に私は会社を辞め、独立してクリーニング店を経営し始めたのだが、ちょいちょい店に立寄り、社内事情を話してくれたりした。あんたが居らんとどうもならんでえと時々愚痴っていた。

単身赴任の生活に体調が自然に狂ったか、昭和43年の11月3日突然倒れたと夜遅く友人の深山君から電話が入った。当人でも会社からでもなく、関係のない友人からの電話に驚いた。
聞けば社長は東京に出張中で、他の若い社員が彼の病気に気づいて、直ぐ救急車の手配はしたが、後をどうしたらよいか途方に暮れて、たまたま社長の友人である深山君の名前を知ってたということで、彼に知らせたらしい。

私ももう夜半12時にならんとして、よく眠っていたのだが飛び起きて、病院に馳せ参じた。病院ではすでに危篤状態で面会不能。直ぐ自宅のある下関に電話する。夜中のことだから家族が広島に出て来たのは昼近い。
奥さんも子供さんもついに言葉を交わす事無く夕方息を引き取った。
正に壮烈な討ち死にといった感じだった、戦場でもないのに。
原因は心筋梗塞というのだが何が原因か誰にもわからない。

社長は何も知らずその夜半に広島に帰って来て駅で張り込んでいた社員に掴まった。
勤務中の死亡だから、社葬にしろと意見具申し、急遽社葬の手配をして、関係先に通報したり大わらわである。
まだ50歳に手の届かぬ、ばりばりの働き盛りだったのに。
もっとも悔しい思い出の友人である。Ota

|

« おいぼれの苦情 | トップページ | 忘れ得ぬ人々(22) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/10807968

この記事へのトラックバック一覧です: 忘れ得ぬ人々(21):

« おいぼれの苦情 | トップページ | 忘れ得ぬ人々(22) »