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2006年7月 4日 (火)

忘れ得ぬ人々(20)

北谷嘉雄君

初対面は入学式前日、寮の部屋割りを頂いて所定の東北44号室に入った時だった。
付き添いの私の父に、北谷君親子が来合わせ、挨拶しあったときだった。
彼の父は50歳そこそこと思われる立派な風采の紳士で、私の父は60近い百姓親爺、引け目を感じないわけにいかなかった。当時戦前だったから分立時代の関西の一電力会社の課長の肩書きのついた名刺をいただいた。
北谷君は都会っ子のぼんぼんそのものだった。はしかいそうな、世間常識豊富な話しっぷりの、群鶏の中の鶴といった感じだった。
一室4人部屋で、隣が一人用ベッドの4台並列の寝室になっていて、丈夫な板の引き戸で勉強室と仕切られていた。
勉強室は二人づつ双方に分かれ、相対した机の真ん中にしきりの本立てがあるといった環境だった。
寮生は一年生の大半が収容されていたから、約200名強といった所か。舎監には怖そうな軍人退役者が軍装のまま勤めていた。5つある寮棟に各々2、3年生の監督者がついていた。明治時代から男子学生の社会は漱石の「坊ちゃん」じゃあないが、統御の難しいという定評があった。とかく問題を起こして当局を困らせた。その因襲を受け継いでの態勢だったのだろう。
前置きが長くなったが、私達はいやでも仲良くなった。他に横山、太田両君がいた。それぞれ広島、香川出身だった。
北谷君は兵庫県出身で大阪の大倉商業出とのことであった。
同室の3人はいずれも商業出身でそろばんはうまかった。私はいつも彼らから練習指導を受けた.よってたかってという言葉通りである。結局それほど上手にはならなかったが。

まもなく卓球部の誘いを受け、北谷君と私は入部することになった。両人ともしろうとに等しかったので一からの練習になった。毎日放課後熱心に通った。当然面白くはなった。が経験時間の浅い私達は3年経っても大した成果をあげることは出来なかった。3年生の時には、2年生に代表選手の地位を奪われた。
対校試合やインターハイ選手権などでは、勝ち残ることは絶えてなかった。
3年生では北谷君がキャプテンを勤めたが、関西弁の主将では矢張り気合いが入らず締まりが悪かった。

卒業後彼は神戸の大学に進んだ。
戦後十年以上経って彼が大阪の船場にある繊維問屋に勤めている事を聞き、私がデパート建設に関係していたので、訪ねてアドバイスを受けた事がある。そして卒業以来21年目の同窓会で再び対面した。彼の如才なさは船場で磨かれただけあって、流石に光っていた。
対話の中心に彼がいつも座っていた。やはり違うなと私のこころが頷いた。
それから十数年後、会う度に昇進し昭和58、59年には社長になっていた。
彼の事業に対する業績など私の知る所ではないが、如才なさが商才に繋がったのであろう。

しかし、好事魔多しのたとえ通り、社長退任を余儀なくされ、一度私の居た会社に引き取るかと社長から相談を受けた事があったが、本人のふんぎりがつかぬまま立ち消えになった。
それから間もない昭和61年12月の初め奥さんから訃報を頂いた。
最後は石田三成のごとく、才に溺れ、大株主からスカンをくらっての退陣だったとの話を聞いたことがある。Img098
Kitatani

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