« 医者通い | トップページ | 靖国の戦犯合祀 »

2006年7月22日 (土)

昭和48年

1973年、私の年齢が53歳だった。
この年は昭和48年で、オイルショックの年と言われた。現在もオイルショックに見舞われているが、後世第1回のと但し書きがつくかもしれない。甚大な影響があった。ガソリン代が倍近くになり、支払い給料も倍になり、いっぺんに私の会社も赤字に追いやられた。便所の巻き取り紙がなくなるなどと買い付け騒ぎが起きたりして、世相不安まで巻き起こした。
私の当時の日記帳を覗いて見ても、あったこと、やったことの羅列でほとんどコメントは何もついていない。丹念に毎日つけてはいるが、ゆっくり考える暇もなかったのだろう。

此の年は私の会社の規模が最大に達していたときで、営業所が10カ所あった。殆どが各地の百貨店のキーコーナーであった。最小限10名の従業員がいた。
売り上げの伸びる余地のない仕事だから、一方的に人件費が倍増することは、なんといっても痛かった。
前年度の売り上げは3千1百万だった。

1月早々から私個人の自宅の建築に掛かった。契約はショック寸前の8月だったから、その分では助かった。請け負った積水ハウスは反対に損した事だろう。その証拠に内部の羽目板類など品切れなどと云って、こちらの指定したものを変更させられたりした。工事の仕上がり具合などほとんど見に行く暇がなかった。勝手に工事屋がやってしまった。
終わりましたよと云われて、5月には転宅など自分の事も忙しかった。
会社の方は取りあえず前年度は利益を計上した分、法人税や付帯の税金の工面に追われる事になった。

2月には福岡の担当者が病気で休み、対応に出向かなくてはならなかった。
又同じ月妻の叔母の次男の結婚媒介を頼まれ、福岡の相手の家に出かけて貰い受け,結婚の日取りを決めるなど慣れない私には結構大役だった。

同じ頃長崎の従業員が物価の高騰で食って行けないと苦情が出たりして、もう一人の役員に出向いてもらったりしてこれも決着まで一騒動あった。
3月には北九州の店の店員が不満からサボるなど事態発生。急遽店を閉鎖し施設の撤去をしなければならなかった。
3月には長崎にいつも自動車で出かけるのを、JRに切り替えて出張したところ、その順法闘争に引っ掛かって遅れるなど起きたりして、この時店員との話し合い決裂、これまた一時的に店舗閉鎖に追い込まれた。

3月は中旬福岡の店員病気のため代替勤務を余儀なくされる。
当時広島ー福岡間は航空便もあったので、往復は楽だったが。

下旬に徳山店の店員が病気で休み、代勤が続いた。
又この月先輩長谷川さんを案内して呉方面を巡回、満洲時代の大恩人なのでサービスこれ努めることもあった。

3月31日には建築工事が終わってもいないのに、札幌の山崎君の尊父から10万円の祝儀を送って来たりしてお礼をいうのに忙しい。

4月1日より長崎店を再開する。後任者決定まで約1ヶ月勤務する。
5月4日結納の行事。
5月の後半は新居へ転入で兄弟の力を借りたり大変。28日やっと移転終わる。

6月1日に福岡岩田屋百貨店内の別の階に同業者出現、あわてて交渉するも経営系列が違うために交渉不能とされ為に売り上げが急降下したりした。なにしろ先方が下の階に設置したのだからたまらない。
問題は企業の大きさにあった。先方は全国規模こちらは一地方企業。勝てる相手でなかった。
大分後の事になるが、長崎の岩田屋、熊本の鶴屋、廣島の福屋百貨店でも同様の事が起きた。泣き寝入りするしか手がなかった。

6月下旬久留米店、業務不振のため店員を二度三度と交代さす。

7月中に自宅の境界線のブロック塀や取り付け階段、門扉など工事を全部終わる。
8月28日材料代の値上げ通知問屋より来る。
各店舗の2割値上げ実施する。

9月福岡店店員交代、2週間教育のため滞在する。
9月旧住居だったビルの一室をを返還し、借入契約を終わる。11月に整理復旧を終わり完全返還する。
9月29日熊本にもう1店出店計画を模索したが、状況悪化し断念する。
10月16日役員柏村を水戸まで出向いて、無報酬とすることを協議了承さす。
10月17日材料価格に付き東京の材料卸元の社長と協議をしてやや条件を有利に戻す。
10月27日叔母の次男の結婚式媒介遺漏なく終了。
11月22日倉敷店店員退職。
その他年末に至るまで、授業員や百貨店など出店先との騒動は続いた。
小企業は最終的に苦痛を背負わされる運命にあった。

10年後の1983年福屋百貨店の営業権を店員に無償譲渡したのを最後に全営業所閉鎖、本店のみで営業を継続し、1996年5月25日、全資産を宮本計装に只同然で売却、会社を終了した。1969年3月設立の会社だったから,27年間の短命な会社だった。儲かる事は何もなかった。ただ食って行けただけだった。
今にして思えば、オイルショックが致命傷だったと云わざるを得ない。
(写真は完成直前の我が家)My_house_1

|

« 医者通い | トップページ | 靖国の戦犯合祀 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/11053383

この記事へのトラックバック一覧です: 昭和48年:

« 医者通い | トップページ | 靖国の戦犯合祀 »