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2006年7月 9日 (日)

忘れ得ぬ人々(23)

田島淳さん

昭和15年3月、同時に新京の満洲鉱山調度課に入った同僚だった。
彼は法政大学を卒業していたが、年齢は私より5つも年上だった。
二十歳代で5つも違えば、経験以上にやることなすこと何枚も上の感じで教えられることばかりであった。

入社して3ヶ月もしてだったろう、放送に出てみないかと彼に誘われた。
よく聞くと、放送局のドラマ放送に役者以外に、その他大勢役の人間がいるという。それをやってみんかというのである。東京出身の彼には何でもない事だろうが、田舎者の私には恐ろしい事の様な気がした。
ラジオを聞くことはちょいちょいあったが、それに出てしゃべったりするとは想いもよらん事なので、教えてもらえば出ても良いという事で承諾してしまった。
ドラマといっても当時の新語みたいなもので、つまりはお芝居である。
もともと芝居は見るもので、聞かすだけの世界では、どうしようもないと思われていた。
ところが昭和11年ベルリン・オリンピックで日本選手が大活躍をして、その放送の実況に音響で雰囲気を作り、実感放送などということが試みられたりした。これが結構面白かった。
それが契機かどうかは知らないが、ここ満洲放送局でもドラマがときどき制作され放送されることになった。
そのスタッフの方たちの名前はもちろん憶えていなし、もともと馴染みは全然ない。
田島君はいくらかの人とは懇意でないまでも知人はいたかもしれない。
ただこの中にひときわ目立って行動する男がいた。これが森繁久彌さんであった。
公園から枯れ葉を集めて来て、床近くに置いたマイクの回りにまき散らして、それを2、3人の我々その他役が歩き回る。マイクではこれを兵隊の行進として放送する。大ざるに大豆を沢山入れて、左右にゆすってざあざあと音を立て、マイクで拾って波の音と放送する。こうしたお膳立てをこまめにしつらえ指導するのが森繁さんであった。
新米の私には何もかも新鮮であった。
早く口早言葉も森繁さんが熱心に教えてくれた。
たまに配役を貰って、兵隊甲、乙をやらされる。一言二言だがそれでもなんども練習させられる。ところが肝心の本放送になって、方言が出てしまって恥をかく。まあ余り嬉しい思い出は残っていない。
途中から新京放送劇団という名称になって、秋に滿鉄社員クラブ劇場で児童劇の公演もしたことが一度あった。離れ小島の土人の役で私も出演した。何事も生まれてはじめての経験だけに、まあ無我夢中だったとしかいいようがない。
何時の場合も田島さんに引きずられて、登場しただけで、まあいわば子役みたいなものだったろう。
その年の暮れに私は徴兵のため、止めて郷里に帰り、翌16年1月に関東軍に入隊した。

戦後彼は建設会社に勤め、1974年に私を捜して電話をくれ、75年と81年の2度訪ねて来てくれ、昔を思い出しながら一緒に食事をしたことがある。戦後没収されて無くなった会社の同じ課の連中の会合が何度か開かれたが、とうとう一度も出席しなかったので、彼と再会することは出来なかった。数年後彼の死を聞かされた。
最初の印象が可愛い弟のようだったので、私を忘れかねていたのであろう。在社期間は僅か8ヶ月に過ぎなかったのに。
(左の写真のマイクの側の立ってるのが森繁さん、田島さんも私も両方にいるのですが)
Sinkyogekidan
Jidogeki

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