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2006年7月14日 (金)

忘れ得ぬ人々(25)

富永正義君

彼は中学校四年生になったとき、病気で一年休学していて、私のクラスに入って来た。
青白い顔をして、やせ形で長身のいかにも病気上がりだとわかる体形をしていた。
実にやさしいどちらかというと女性に近い性格に見えた。ぼぞぼぞとしゃべり、決して大きな声は出した事がないと記憶している。私もどちらかというと軟弱な性格だったから、付合いやすかったのかいつの間にか親しくなり、彼の家が学校から割と近かったりしてので、帰路誘われて寄り道を良くする様になった。
彼は英語が得意で、コンサイスの辞書を片手でぺらぺらめくりながら、必要な単語を素早く引き出すことが上手だった。単語憶えるのでも、常時この辞書の始めから憶えて行くという芸当をやってみせたりした。もちろん辞書には当時からよく常用される字句の印が始めからつけてあるので、それを全部憶えるという事である。
彼の語彙の凄さは驚くほどだった。
私も彼のまねをして努力したが駄目だった。
只私は数学や国語、漢文などが彼に勝っていたので、英語は彼に譲って満足していた。

五年生になって、同じ上級学校を二校受験する事を話し合って、受験地が同じく京都であることに目を付け、一緒に出かける事になった。
どちらから言い出したかは憶えていないが、祇園に宿を取る事にして、受験生宿を捜した。
今考えると、よくあんなところで泊めてもらったなと思うが、2月ごろの端境期だから結構受験生歓迎の看板が立てかけてあったものだ。
試験場は一つは京都大学だったから、それほど遠くはなかったが、一つはずっと西のはずれの名前は忘れたが商業学校だった。ちんちん電車で1時間もかかったのではなかったか。3日づつ都合1週間通うのだから、やはり少し遠過ぎた。でもなにもかも珍しい旅空だから、電車から見る風景が楽しかった。

結果は私は二校ともパスしたが、彼は二校とも落ちた。
一つでも彼が受かってくれればと嘆いた。彼の心情を思って掛ける言葉に窮した。
人生の悲哀をこのとき痛切に思い知った。
救うべき手段はなかった。
しかし彼は頑張って翌年もう一つの学校にパスして喜びの手紙をくれた。その後もこの学校が気に入ったと見え何度も便りを寄越した。
休暇に私を訪ねてくれて、近くの天神の山を徘徊したりしたことがある。
友情はずっと保持され続けた。
彼は兵役は免れたと聞いてるが、戦後はよく会って旧交を温めたりした。こどもの就職の相談など受けたりしたことがある。
1968年同窓会のことで話し合ったが、彼は仕事がいそがしくて出る事が出来なかった。
1970年代の後半だったと思うが、ある日突然訪ねて来て、銀行に勤めている娘さんの縁談で相談に来た事があったが、私は役に立つことが出来なかった。
それ以後会う事がないまま数年後彼の訃報をいただいた。
彼との思い出は何となく人生の儚さを感じされるものである。

Tominagai

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