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2006年7月13日 (木)

忘れ得ぬ人々(24)

正木よしおさん

幼時の想い出がほとんどだから日取りなどは定かではない。彼の名前も漢字がどれになるか、聞いた事がないのでわからない。
私が気づいたときは、彼の家族は私のうちの別棟の納屋に住んでいた。
従って、両方の屋根がくっついて居て,その下に大きな通路があり、井戸も風呂も共用していた。
もちろんこの通路の両側には扉があって夜分は閂で閉ざされる。国道に面した扉は開き戸で、庭に面した扉は格子の引き戸だった。
子供には境界はないので、勝手に行き来していた。時には食事も彼のうちでよばれたりした。
小学校入学より先か後かも分からない。がともかく私より5つ年上のよしお(私は”おっちゃん”と呼んでいた)さんは何かにつけて私の先生であった。
彼には私が”おばさん”と呼んでた彼の母親と姉と兄がいた。おばさん以外は私には遠い存在だった。
いつもおっちゃんのけつについてその真似事をして、育ったようなものであった。
彼は物凄い読書家だった。その小遣いはほとんど豆本(手帳程度の大きさの講談本)に費やされたのではないかと思われる。読み終わると、私にくれて新しいのを駅まで行って売店で買い、又読み始めるの繰り返しだった。
大きな声で読まされた、そして内容を教えてくれた。
友達はいなかったのではと思う。彼が誰かと遊ぶことなど気づいた事がない。
こうして私が4年になった頃彼は高等科を卒業して何処かに就職(確かおばさんの伝手で帝人岩国工場だったと思う)し、私の父が帰国して来たので、納屋を明け渡して貰い、彼ら一家とはお別れした。

おっちゃんもやさしかったが、おばさんはもっとやさしかった。私をミーちゃんと猫を呼ぶ様な声で呼んだ。
この事は後に昭和14年8月21日の日記に、随筆風の思い出記として長文を書き残している。
この中でおばさんのご主人は戦争で亡くなっておられ、人絹工場で働きながら3人の子を育てて居られたことが記されている。
うちに居られた当時が一番苦しかった時代ではなかろうか。

ともあれ彼と道はすっかり別れて、彼は職場に、私は中学,専門学校と進み、どちらかというと私は彼を殆ど顧みる事などなかった。それでも夏休みなど彼が水泳に誘ったり、うなぎをよそのダブ(養魚場)に取りに行ったり、したことが日記に出て来る。
私が学校が休みになるとひょっこり現れて、遊びに誘ったらしい。
昭和40年1月1日彼は例によって年賀に訪れて、私を近くの新天座という映画館に誘い出した。
その年の暮れ12月31日入営のため満洲から帰郷していた私を誘い出し、広島に連れて行った。
彼はどこでどうしたのか、勉強して広島市役所の建築設計の仕事に就いていた。
休みの役所の中の職場に案内し、やりかけの設計図のかかった設計机を示して得意げに説明したりした。
彼がこの職にたどり着いた道のりは知らないが、正規の学校も出ずにここまで来た彼に敬意は払わずにはいられなかった。
その帰路飲みに行き、夜になって小網町の遊郭に連れて行かれた。
宮島の弥山に登り初日の出を拝もうという段取りの、待ち時間としてであった。
二度と生きて今生で会う事はないと思ったかどうか、彼のにじみ出る好意を甘んじて受け従う私だった。
予定取り山に登り、日の出を待った。
暗闇の中を上り下りするので足をくじいたりして大変だった。
しかし、彼とはこれが永遠の別れとなった。
5年後私が中支戦場をうろついているころ、彼は昭和45年8月6日8時15分原爆で還らぬ人となった。
兵役は免れていたのだろうが、戦は戦場だけではなかった。
爆弾投下前、相生橋付近を歩いていたのを見た人がいたと、後日おばさんから聞いた。
私を可愛い弟として最後まで気にしていたに違いないと思うのだが、死に近かった私の方がこの歳,86年も生きている。

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